第7話 白い天使
4月10日、土曜日。
昨夜のカレーの余韻がまだ微かに残るペントハウスで、俺はいつもより早く目を覚ました。ベッドのマットレスやシーツはすでに最高級のものを運び込ませてある。南向きの巨大な窓からは、突き抜けるような青空が広がっていた。絶好のお迎え日和だ。
キッチンに立ち、ミネラルウォーターで濃いめのコーヒーを淹れる。芳醇な香りを深く吸い込みながら、窓辺に立って朝の街を見下ろした。今日から、この静かすぎる広大な空間に新しい命が加わるのだと思うと、自然と口角が上がってしまう。
手早く身支度を整え、この日のためにあらかじめ用意しておいた特別なアイテムを手に取った。最高級ブランドのドッグキャリーバッグ。耐久性と通気性に優れ、内側にはパピー用の柔らかなクッションが敷き詰められている。これから迎えに行く新しい家族のための、最初の移動式住居だ。
俺はキャリーバッグを肩にかけ、ペントハウスを後にした。エレベーターで地下駐車場へと降りると、そこにはいつもの黒塗りのセダンではなく、少しカジュアルなSUVが待機していた。実家の車庫から、犬を乗せるのに適した車種を運転手ごと回してもらったのだ。
「おはようございます、玲央様。本日はどちらへ?」
「おはよう。千葉のブリーダーさんのところまで頼む」
俺は詳細な住所を記したメモを運転手に手渡した。今日向かうのは、日本でも有数のポメラニアン専門ブリーダーの犬舎だ。前世、終わりの見えない仕事の合間にネットで何度も検索し、画面越しに眺めては溜息をついていた憧れの場所。昨夜、空っぽのリビングで家具の配置を考えながら水を飲んでいた時、ふと思い立って今朝一番で連絡を入れ、見学のアポイントメントを強引に取り付けたのだ。
車は都心を抜け、高速道路を東へと走っていく。流れる湾岸の景色、太陽の光を反射してきらきらと輝く海面を眺めながら、俺の胸はかつてないほど高鳴っていた。前世で初めて自分の事業を軌道に乗せ、大きな利益を手にした時よりも、遥かに純粋なときめきかもしれない。ただ一匹の小さな犬を迎えに行くだけだというのに、遠足の日の朝を迎えた小学生のように心が弾んでいる。
一時間半ほどのドライブを経て、車は緑豊かな郊外の住宅街へと入っていった。広大な敷地を持つ一軒家の前で車が滑らかに止まる。立派な門扉には可愛らしい犬のシルエットを描いた看板が掲げられていた。
「着いたか。少し時間がかかるかもしれないから、ここで待っていてくれ」
俺は運転手にそう告げて車を降り、インターホンを押した。すぐに人の良さそうな中年女性が出てきて、満面の笑みで迎えてくれた。
「ようこそ! 西園寺様ですね。お待ちしておりました」
「初めまして。本日は朝早くからの急なお願いにも関わらず、ご対応いただきありがとうございます」
俺は丁寧に頭を下げた。相手が誰であろうと、礼節を欠くことはしない。それが円滑な人間関係の基本であり、ひいては自分自身の品格を守ることになる。
「いえいえ! あんなに熱心なお電話をいただいたのは久しぶりでしたから。それに、とてもしっかりしたお声だったので、てっきりもっとご年配の方かと……高校生でいらっしゃったのですね。どうぞ、中へ」
案内されて犬舎の中へ入ると、そこはまさに天国だった。徹底的に清掃が行き届き、犬特有の温かい匂いが広がる清潔なスペースで、色とりどりの毛玉たちがコロコロと走り回っている。オレンジ、クリーム、ブラック。おもちゃを追いかける子、兄弟でじゃれ合って転げ回る子など、元気なポメラニアンの子犬たちだ。
「みんな元気ですね。毛並みも素晴らしい」
「ええ、うちは健康第一で育てていますから。それで、西園寺様はホワイトの子をお探しでしたよね?」
「はい。白いポメラニアンを希望しています」
俺の答えを聞いて、ブリーダーの女性は奥の静かな部屋へと案内してくれた。そこには少し大きめのサークルがあり、その中で数匹の子犬がじゃれ合っていた。どの子も雪のように真っ白で、まるで綿菓子のようだ。
「この子たちが、今お譲りできるホワイトの子たちです。どの子も血統書付きの、自慢の子たちですよ」
俺はサークルの前にしゃがみ込み、じっと観察した。どの子も愛らしいのは間違いない。だが、俺が求めているのはただ可愛い犬ではない。これからの隠遁ライフを共にする、唯一無二のパートナーだ。直感でピンとくる何かを探していた。
子犬たちは見慣れない俺に興味津々といった様子で寄ってくる。指を差し出すと、小さな舌でペロペロと舐めてくる子、元気に甲高い声で鳴く子、兄弟の後ろに隠れて様子を伺う子。小さな身体でも性格は様々だ。
その時、一匹の子犬と目が合った。
他の子たちが我先にと前に出てくる中、その子だけは一歩引いた場所で、ちょこんと座っていた。真っ白でふわふわの被毛。色素の濃いアイラインに縁取られた、くりっとした大きな瞳。マズルが短く詰まった、愛らしい顔立ち。何より俺を惹きつけたのは、その瞳に宿る落ち着きのようなものだった。騒ぐことなく、じっと俺を見つめている。
「……あの子は」
俺が指差すと、ブリーダーさんが目を細めて微笑んだ。
「お目が高いですね。あの子は兄弟の中でも一番おっとりしていて、賢い子ですよ。無駄吠えもしませんし、状況をよく見ているんです。少し臆病なところもありますが、愛情深く育つと思いますよ」
俺はゆっくりと手を差し出した。すると、その子はトコトコと警戒することなく歩み寄り、俺の掌に小さな顎をちょこんと乗せた。小さく、確かな温もり。そして、驚くほど柔らかい被毛の感触。指先から伝わる小さな心臓の鼓動。その瞬間、俺の中でパズルの最後のピースがピタリと嵌まる音がした。
「この子にします」
迷いは一切なかった。前世でのどんな決断よりも素早く、そして確信に満ちた即決だった。
「はい、ありがとうございます。……お名前は、もう決めていらっしゃいますか?」
「ええ。もうずっと前から決めていました」
俺は子犬をそっと抱き上げた。腕の中にすっぽりと収まる、命のささやかな重み。真っ白なその姿は、春の陽射しを浴びて輝いているようだった。
「『ベル』。フランス語で『美しい』という意味です」
その名前を呼ぶと、子犬は「キュウ」と小さく鳴いて、俺の胸元に顔をすり寄せた。
その後、俺は契約の手続きを済ませ、飼育に関する細かな説明を受ける。食事の回数、フードの種類、ワクチンの予定、パピー特有の注意点。俺は持参したノートを取り出し、ブリーダーの言葉を一言一句漏らさずメモを取っていった。その真剣すぎる態度に、ブリーダーの女性が思わず苦笑するほどだった。
「それじゃあ、ベルちゃん。新しいご家族と行くのよ。幸せにね」
ブリーダーさんに優しく送り出され、俺はベルを連れて待機していた車に戻った。用意していたキャリーバッグの扉を開ける。事前の予習通り、中には俺の匂いがついたタオルを入れてある。ベルはクンクンと匂いを嗅いだ後、特に抵抗することもなく自分からバッグの中へと入っていった。そして、ふかふかのクッションの上で丸くなり、安心しきったように目を閉じた。
「……いい子だ」
俺は愛おしさを噛み締めながら、キャリーバッグを膝に乗せた。エンジンがかかり、車が静かに走り出す。振動で目が覚めないよう、俺はバッグ越しに優しく撫で続けた。
帰りの車中、俺はずっとベルの静かな寝息を聞きながら、その愛らしい寝顔を眺めていた。窓の外を流れる景色など全く目に入らない。膝の上にあるのは、確かな命であり、新しい家族であり、俺のペントハウスでの生活に本当の潤いを与えてくれる唯一の存在だった。
ペントハウスに到着すると、俺は慎重にベルを運び入れた。リビングの一角には、すでにベルのためのサークルが設置してある。トイレトレーと寝心地の良さそうなベッド、そして給水器が完備された、ベルの専用スペースだ。
キャリーバッグの扉を開けると、ベルは初めて見る場所に戸惑うこともなく、小さな尻尾をパタパタと振って探索を始めた。フローリングの上で足を滑らせて関節を痛めないよう、あらかじめリビング全体にコルクマットを敷き詰めておいたのは正解だった。ポテポテと歩き回る姿は、まるで動く綿菓子のようだ。
「ここが今日から、ベルの家だよ」
俺は床に座り込み、ベルに静かに語りかけた。ベルは俺の声に反応して駆け寄ってくると、膝の上によじ登ろうとしてくる。その無邪気で一生懸命な姿に、俺の胸の奥で何かが温かく解けていくのを感じた。
「よしよし。賢い子だ」
俺はベルをそっと抱き上げ、その小さな温もりを確かめるように優しく撫でた。ミルクのような甘い匂いと、驚くほど柔らかい被毛の感触。そのすべてが、ビジネスと数字に追われて荒みきっていた俺の心を、確実に浄化していくのがわかった。
「お腹、空いたか?」
俺はキッチンへ行き、ブリーダーさんから指定されたものと同じフードを用意した。適量をお湯で柔らかくふやかしたパピー用の食事だ。栄養価が高く、消化に良い特別な配合になっている。サークル内の定位置に皿を置くと、ベルは勢いよく食べ始めた。あの小さな身体のどこにそんな食欲があるのかと思うほど、小さな口を一生懸命に動かしてガツガツと食べる。その背中からは、生きるための本能的な力強さを感じた。
食後、満腹になったベルは、すぐにウトウトし始めた。子犬は寝るのが仕事だ。俺はベルをベッドまで運んでやり、肌触りの良いタオルケットを掛けてやった。ベルは「フゥ」と小さくため息をつくと、すぐに規則正しい寝息を立て始めた。
その無防備な寝顔を見ながら、俺は改めて心に誓った。この小さな命を、何があっても守り抜く。そのためには、裏で進めている投資計画を成功させ、絶対的な資産と自由な時間を確保しなければならない。ベルが何不自由なく、安全で幸せに暮らせる世界を作るために、俺は持てる知識と力のすべてを尽くそう。
俺はそっとリビングのメイン照明を落とし、ソファに深く腰を下ろした。広い部屋の中に、ベルの微かな寝息だけが聞こえる。それは、どんな高級なオーディオシステムが奏でる音楽よりも、心安らぐ音だった。
ふと、ローテーブルに置いてあった携帯電話が短く震えた。
画面を見ると、メールの着信を知らせるアイコンが点滅している。差出人は、姉の摩耶だった。
『件名:聞いたわよ!
本文:
玲央、犬飼ったって本当!?
パパから聞いたわよ!
なんで私に相談してくれないのー!
明日、絶対に見に行くからね!
名前は? 写真は? 送って!
早く!』
相変わらずの、文字だけでも伝わってくる異常なハイテンションだ。
ブリーダーへの支払いは俺の個人口座から行ったが、移動のために実家のSUVと運転手を手配したことで、その行き先から父へ情報が伝わったのだろう。父と姉の仲の良さを考えれば、すぐに漏れるのは自明の理だった。
俺は小さく苦笑しながら、先ほど撮っておいたベルの寝顔の写真を添付して返信を打った。
『件名:Re: 聞いたわよ!
本文:
名前はベル。
ポメラニアンの女の子です。
まだ小さいから、明日は驚かせないでね。』
送信ボタンを押して携帯電話をテーブルに置いた数秒後、再び激しくバイブレーションが鳴った。
『きゃああああああああ!
可愛い! 天使!
玲央に似て美人さんね!
明日、朝一番で行くから!
覚悟してなさい!』
せっかくの静かな週末は、今日で終わりかもしれない。だが、不思議と嫌な気分ではなかった。ベルという新しい家族が増えたことで、俺が意図して作り出そうとしていた孤独な隠遁生活は、少しずつ、だが確実に賑やかなものへと変化し始めている。
俺はソファから立ち上がり、キッチンに向かって冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。昨日の残りの『シャテルドン』だ。グラスに注ぎ、月明かりの差し込む窓辺に立つ。
「……乾杯」
誰にともなく小さく呟き、静かに喉を潤した。
明日は日曜日だ。騒々しい姉の襲来に備えて、何か手軽な茶菓子でも用意しておく必要があるだろう。
俺はもう一度サークルの中のベルの寝顔を確認し、静かにグラスをテーブルに置いた。




