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平穏最優先の財閥御曹司、未来知識で投資起業  作者: 伊達ジン


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第6話 図書室の静寂

 4月9日。

 入学式の翌日。


 桜花学園の昼休みは、生徒たちの活気で満ち溢れていた。

 新しいクラス、新しい友人、そしてカフェテリアの争奪戦。窓の外からはグラウンドで遊ぶ生徒たちの歓声も聞こえてくる。

 同年代の若者たちのエネルギーが飽和する教室の喧騒は、すでに人生の酸いも甘いも経験してきた擦れた内面の俺には、少々刺激が強すぎる。


「西園寺くん、一緒にお昼どう?」

「購買行くけど、なんかいる?」


 クラスメイトたちが気さくに声をかけてくれる。

 ありがたいことだ。無用な孤立は避けたかったが、今のところ「近寄りがたい財閥の御曹司」として遠巻きにされるのではなく、「頼れるリーダー枠」に近い形で受け入れられているらしい。彼らの目には、俺が少し大人びた同級生として映っているのだろう。

 俺は彼らに愛想よく応対しつつ、やんわりと誘いを断った。


「ごめん、今日は少し調べ物をしたいんだ。先に行っててくれ」


 嘘ではない。

 俺は鞄から読みかけの文庫本を取り出し、早々に教室を後にした。

 目指すのは北校舎の最上階。

 全校生徒数に対して明らかに座席数が多く、そして最も落ち着いた環境が約束されている場所――図書室だ。


 廊下に響く喧騒が、階段を上がるごとに徐々に遠のいていく。

 重厚な木製の扉を開けると、そこには古書のインクと紙の匂いが漂う、ひんやりとした静謐な空間が広がっていた。床は絨毯張りで足音を吸収し、外の音は厚い窓ガラスに遮られている。


 利用者はまばらだ。

 窓際の席では数名の生徒がノートを広げて勉強しているが、高い書架の奥には人の気配がない。

 俺は迷うことなく、海外文学のコーナーへと足を進めた。

 前世、激務の合間に読んでいた古典的名作を、もう一度腰を据えて読み返したいと思っていたのだ。

 電子データではなく、紙の重みと手触りを感じながら活字を追う贅沢。インクの匂いを嗅ぎながらページをめくるあの感覚。

 今の俺には、それを心ゆくまで味わう時間と余裕がある。


『失われた時を求めて』


 マルセル・プルーストの長編小説だ。

 その背表紙を探して、指先を古い書架の背に滑らせていく。


「……あった」


 目当ての巻を見つけ、手を伸ばそうとした、その時だった。

 書架の反対側から、白く細い指先が、同じ本へと真っ直ぐに伸びてきた。

 指と指が、触れそうになるギリギリの距離で止まる。


 俺は驚いて顔を上げた。

 相手もまた、わずかに目を見開いて書架の隙間からこちらを見ていた。


 肩まで届く長い黒髪。

 陶器のように滑らかで白い肌。

 そして、すべてを見透かすような、深く澄んだ黒曜石のような瞳。

 その胸元には、2年生を示す青いリボンがきちんと結ばれている。


(……あ)


 記憶にある顔だ。

 昨日の入学式、中庭のベンチで一人読書をしていた少女。

 近くで見ると、その際立った美しさがよりはっきりと分かる。

 華やかで人を惹きつける母・ソフィアや、愛嬌があって親しみやすい姉・摩耶とは全く違う、冷たく研ぎ澄まされたような美貌。

 図書室に漂う静謐な空気そのものが人の形をとったかのような、不思議な存在感を放っている。彼女がそこにいるだけで、周囲の温度が少し下がったかのような錯覚さえ覚える。


「……どうぞ」


 俺は一歩下がり、道を譲った。

 年功序列であり、レディーファーストだ。

 彼女は俺の顔をじっと見つめた後、小さく会釈をして本を手に取った。


「……ありがとう」


 鈴が鳴るような、涼やかな声だった。

 彼女は本を胸に抱いたが、すぐに立ち去ろうとはしなかった。

 その視線が、俺の胸元の学年章と、顔を交互に行き来する。


「新入生代表の、西園寺君ね」


 名前を知られていた。

 昨日の今日だ。全校生徒の前であれだけ目立つ振る舞いをすれば、他学年にまで顔が知れ渡るのも当然かもしれない。それに、西園寺という名字自体がこの学園ではそれなりの意味を持つ。


「はい。昨日はお騒がせしました」


「いいえ」


 彼女は短く答えると、少し探るような、俺の内面を値踏みするような視線を向けてきた。


「『古い地図は役に立たない』。……随分と大きく出たわね。あれ、本気で言っていたの?」


 唐突に、俺のスピーチの一節を口にした。

 俺は少しだけ思案し、無難な答えを選択する。


「さて。新入生向けの、ちょっとしたハッタリですよ。大人たちが用意した退屈なスピーチを読むよりは、マシかと思いまして」


 俺が当たり障りなく微笑んでみせると、彼女は微かに口元を緩めた。

 張り詰めていた氷がわずかに溶けたような、ほんの僅かな変化だった。


「そう。でも、敷かれたレールの上を歩くだけの言葉よりは、よほど面白かったわ」


 彼女はそれだけ言うと、踵を返した。

 長い黒髪がふわりと舞う。

 その背中を見送りながら、俺は彼女の胸元の名札を確認した。


『霧島』


 下の名前までは見えなかったが、名字は分かった。

 霧島先輩。

 この図書室の主のような彼女とは、またここで会うことになる気がする。

 俺は彼女が残していった残り香――古い紙と微かな石鹸の香りを感じながら、別の本を手に取った。プルーストの代わりに選んだのは、サマセット・モームの短編集だ。人間の機微を描き出した彼の作品は、今の俺の心境に不思議とマッチするような気がした。


★★★★★★★★★★★


 放課後。

 俺は誰とも約束をせず、速やかに下校した。

 校門で待機していた車に乗り込み、運転手に行き先を告げる。


「都内の輸入食品スーパーへ。そのあと、ペントハウスへ頼む」


 今日の俺には、極めて重要なミッションがある。

 昨日の株の仕込みに続く、第二のステップ。

 すなわち、「最高の夕食」を自分のために作ることだ。


 向かったのは、世界中の高級食材を扱うスーパーマーケット『紀ノ国屋』。

 まだインターネットでの高品質な食材調達が当たり前ではないこの時代、自分の足で探して回るのもまた料理の楽しみの一つだ。カートを押し、スパイスのコーナーへ直行する。

 カルダモン、シナモン、クローブ、スターアニス。

 ホールのままの新鮮なスパイスを、香りを確かめながら次々とカゴに入れていく。スパイス選びは料理の基礎であり、ここで手を抜けば後ですべてが台無しになる。


 今夜のメニューは『マッサマン・カレー』。

 タイ南部発祥の、濃厚で芳醇なカレーだ。前世の俺が最も愛した料理の一つだった。


 ココナッツミルクの甘み、タマリンドの酸味、そして複雑なスパイスの刺激。

 それらを完璧なバランスで融合させるには、市販のルーでは到底不可能だ。一からスパイスを調合し、ペーストを作らなければならない。


「ココナッツミルクは、やはりチャオコー缶に限るな」

「肉は……この鹿児島県産の黒毛和牛スネ肉にしよう。煮込みには脂の乗りよりも肉自体の旨味が重要だ」


 妥協は一切しない。

 莫大な資金を動かす俺にとって、数千円の肉や高級スパイスなど誤差にもならない。

 だが、その価値は金額の多寡ではない。


「自分が心から食べたいものを、最高の状態で食べる」という行為そのものに、何物にも代えがたい価値があるのだ。純粋に自分の欲求を満たすためだけに時間と手間をかけることは、極上のエンターテインメントである。


 そして、忘れてはならないのが「水」だ。

 スパイスの香りを引き立て、食後の余韻を清らかにするための水。

 俺は飲料水コーナーで、ガラス瓶に入った硬度高めのミネラルウォーター『シャテルドン』を選んだ。

 ルイ14世が愛したという「太陽王の水」。

 濃厚なカレーとのペアリングには、このくらい気品のある水が相応しい。


 買い出しを終え、再び車へ。

 トランクに食材を積み込み、ペントハウスへと向かう。


「お待ちしておりました、玲央様」


 マンションのエントランスでは、西園寺家の使用人が待機していた。

 彼らには今朝、登校前に無理を言って急ぎの手配を頼んでおいたのだ。昨晩、自室でカタログを睨みながら深夜までかけてリストアップした、指定の型番通りに。


 エレベーターで最上階へ。

 扉を開けると、昨日はがらんどうだった部屋に、劇的な変化が起きていた。

 リビングの中央には、イタリア『カッシーナ』の重厚なダイニングテーブルとチェアが鎮座している。

 そしてキッチンには、ドイツ製の最高級調理器具たちが整然と並べられていた。

 大型冷蔵庫、業務用オーブン、フードプロセッサー。

 すべて俺が指定した通りのものだ。

 さすがは西園寺家の調達力。わずか半日でここまで完璧に揃えるとは。


「ご苦労。後は一人でやるから、下がっていいよ」

「かしこまりました。ごゆっくりお過ごしください」


 使用人たちが一礼して退出し、広い部屋に俺一人が残された。

 俺はジャケットを脱ぎ、リネンシャツの袖を捲り上げて真新しいエプロンを締める。

 手洗いを入念に行い、キッチンに立った。広々とした調理スペースは、まるで俺のために用意されたアトリエのようだ。


 まずはスパイスの焙煎から始める。

 フライパンにカルダモンやクローブを入れ、焦がさないように弱火でじっくりと熱を入れると、立ち昇る芳しい香りが脳内のスイッチを投資家としての仕事モードから完全に切り替えてくれた。


 石臼でスパイスを粉砕し、赤唐辛子やニンニク、エシャロット、レモングラスと共にペースト状になるまで叩き続ける。

 フードプロセッサーを使えば一瞬で終わる作業だが、今日は手作業の重みと感触を味わいたい気分だった。トントンというリズミカルな音が、静かなペントハウスに心地よく響く。スパイスが潰れるたびにそれぞれの香りが混ざり合い、一つの複雑なアロマへと変化していく過程がたまらない。


 鍋でココナッツミルクを煮詰め、手作りのカレーペーストを投入すると、鮮烈な香りが一気に弾ける。スネ肉の表面を焼き付け、パームシュガーやタマリンドペースト、ナンプラーで味を調えながら、ジャガイモとピーナッツを加えてじっくりと煮込んでいく。火加減には細心の注意を払い、焦げ付かないように時折木べらで底からかき混ぜる。


 窓の外はすっかり夜の帳が下り、眼下には東京の夜景が広がっている。

 だが、今の俺にとって最も価値があるのは、目の前の鍋の中で艶やかな照りを放ちながら煮込まれているカレーだ。かき混ぜるたびに、スネ肉がほろりと崩れそうになるのがわかる。


 皿にジャスミンライスを盛り、たっぷりとカレーをかける。

 仕上げにパクチーを添えてダイニングテーブルに運び、向かいの席に誰もいないことを確認してから一人で座った。グラスにミネラルウォーターを注ぎ、スプーンを手に取る。


 ライスと共にすくい上げ、口へ運ぶ。

 ジャスミンライスの華やかな香りと共に、甘み、酸味、辛味、塩味といった複雑な要素のすべてが舌の上で絡み合い、芳醇なスパイスの香りが鼻腔を抜けていった。スネ肉は舌で押し潰せるほど柔らかく煮込まれ、ココナッツミルクのコクが全体を優しく包み込んでいる。


「……美味い」


 思わず声が漏れた。

 前世で通ったどの高級店よりも美味く感じるのは、間違いなく自分の手で、自分のためだけに作ったからだろう。誰に気兼ねすることもなく、自分の好みに合わせて完璧に調整された味だ。

 合間に硬水を飲むと、特有の重みと繊細な炭酸が口の中の脂っこさをさっぱりと洗い流してくれる。


 一人きりの広い部屋に、カチャリカチャリと食器の当たる音だけが響く。

 この充実感は、どれほど莫大な資産を持っていようと簡単に手に入るものではない。だが、その資金力と自由な時間があったからこそ、妥協のない食材とこの誰にも邪魔されない空間を確保できたのも事実だ。


 完食し、満足感に浸りながら空になった皿を見つめる。

 明日は土曜日で学校は休みだ。

 このペントハウスで、本格的に家具の配置を考えたり、週明けの市場動向を予測したりして過ごそう。

 ふと、昼休みに図書室で会った霧島先輩の、どこか冷たげな横顔が脳裏をよぎった。


 俺はそんなとりとめのないことを考えながら、グラスに残っていた水を静かに飲み干した。

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