第5話 最初の注文
「起立、礼」
号令と共に椅子を引く音が重なり、1年A組のホームルームが終了した。
教師が教室を出て行った瞬間、堰を切ったように放課後の喧騒が満ちる。
部活動の仮入部へ急ぐ者、できたばかりの友人とファーストフード店への寄り道を相談する者。あるいは、まだ誰に声をかけていいか分からず、所在なげに鞄を弄る者。
彼ら高校生たちにとって、一日の本番はここから始まるのだろう。
俺は、そんな周囲の浮き立った空気に染まることなく、手際よく鞄に教科書やノートを収めた。
今日の予定は明確に決まっている。
寄り道も、部活動の見学もしない。
真っ直ぐに、手に入れたばかりの自分だけの「城」へ向かうのだ。
「ねえ、西園寺くん!」
予想通りというべきか、右隣から声がかかった。
桜木マナだ。
彼女は自分の机から身を乗り出し、興味津々といった大きな瞳でこちらを見上げている。
「この後、暇? もし時間あるなら、校内案内してあげよっか? 私、中学からこの学園の系列だから、先生の目が届かない裏道とか、購買で人気のパンが買える裏技とか、結構詳しいよ」
親切心半分、未知の生き物に対する好奇心半分といったところだろうか。
入学式でのスピーチ以来、彼女の俺に対する探究心は留まるところを知らないようだ。
年頃の男子生徒なら、こういう明るく可愛らしいクラスメイトからの誘いには、二つ返事で乗るところかもしれない。
だが、俺には放課後の学校探検よりも優先すべき重要事項がある。
「ありがとう、桜木さん。とても魅力的な提案だけど、今日は少し外せない用事があるんだ」
俺は申し訳なさそうに眉を少しだけ下げ、柔らかく、しかし明確に拒絶した。
相手の好意を無下にせず、付け入る隙も与えない断り方だ。
「えー、用事? もしかして、お家で帝王学の厳しいレッスンとか?」
マナは露骨に口を尖らせた。
先ほど、スピーチの上手さを「立場上、人前で話す訓練を受けていた」と説明したことを踏まえているらしい。彼女の頭の中で、俺は「分刻みのスケジュールでガチガチに管理された、籠の鳥のような御曹司」というキャラクターとして定着しつつあるようだ。
それは俺の二重生活を隠す上で、非常に都合が良い解釈だった。
「まあ、そんなところだと思ってくれればいいよ。学園の案内は、また別の機会にぜひ頼むよ」
「むぅ……。ガード堅いなぁ。ま、いっか! 用事なら仕方ないね。じゃあね、西園寺くん! また明日!」
彼女は切り替えが驚くほど早い。
ニカッと屈託なく笑って手を振ると、自分の鞄を乱暴に掴んで、あっという間に教室を飛び出していった。
嵐のようにやってきて、嵐のように去っていく少女だ。
だが、彼女のその裏表のない明るさと行動力は、計算と駆け引きばかりの世界に長く身を置いていた俺の目には、少しだけ眩しく、新鮮に映った。
俺も静かに席を立ち、数人の視線を背中に感じながら教室を後にした。
昇降口で指定の革靴に履き替え、校舎の外へ出る。
少しだけ湿り気を帯びた春の風が頬を撫でる。
重厚な門扉の先には、既に迎えの黒塗りの車がエンジンをかけて待機していた。
「お待たせいたしました、玲央様」
初老の運転手が恭しくドアを開ける。
俺は滑らかな動作で後部座席に身を沈め、短く行き先を告げた。
「港区のマンションへ頼む」
実家の屋敷には真っ直ぐには帰らない。
父には今朝の食卓で、「静かな環境で高校の勉強に集中するために、あのペントハウスの部屋を使いたい」と許可を得てある。教育熱心な父は、少し驚きながらも二つ返事で了承してくれた。
もちろん、それは表向きの口実だ。
俺の真の目的は、あの部屋で英語や数学の参考書を開くことではない。
★★★★★★★★★★★
車は夕暮れ時の都心の幹線道路を滑るように走り、やがて閑静な高級住宅街へと入っていった。
目指すのは、西園寺家が資産として所有する超高層マンションの最上階。
そのフロアを丸ごと占有するペントハウスだ。
「到着いたしました。お迎えのお時間は」
「いや、後で自分でタクシーを拾って帰る。今日はもう上がってくれて構わない」
「承知いたしました」
車を降り、居住者用とは分けられた専用のシースルーエレベーターで最上階へ向かう。
重厚なマホガニーの扉の前に立ち、父から預かった鍵を開ける。
広がるのは、完全な静寂と、贅沢なほどに何もない空間。
海外からの賓客を招くゲストハウスとして維持されているため、生活感のある家具の一つも置かれていない、がらんとした広大なリビングダイニング。
だが、南向きに一面ガラス張りとなった巨大な窓からは、夕闇に沈みゆく東京の街並みが一望できた。
遠くには、ライトアップされ始めた東京タワーが真っ赤に聳え立っている。
「……悪くないな」
俺は靴音を響かせて、部屋の中央へと歩みを進めた。
ここが、俺の隠れ家だ。
誰の目も気にせず、誰の顔色も伺うことなく、ただ自分のためだけの時間を過ごせる絶対的な不可侵領域。
俺は真っ直ぐに、リビングの奥にあるスペースへと向かった。
キッチンだ。
部屋の主役と言っても過言ではない、広々とした大理石張りのアイランドキッチン。
最新のシステムが導入されているはずだが、一度も本格的に使われた形跡がない。海外製の大型食洗機も、巨大な冷蔵庫も、ステンレスのシンクも、曇りひとつなく輝いているが、どこかモデルルームのように寒々しい。
俺は冷たいカウンターを指でなぞった。
前世の俺にとって、料理は単なる栄養補給の手段ではなく、精神のバランスを保つための重要な儀式だった。
市場で旬の食材を吟味し、包丁を研ぎ、緻密な火加減で味を整えていく。そのプロセスに没頭している時間だけが、俺を日常の喧騒から切り離し、一人の人間に戻してくれた。
そして転生した今、実家では専属の料理人や使用人たちが厨房を完全に管理している。
彼らの忠誠心とプロ意識は疑いようもないが、俺が少しでも手伝おうとすれば「坊ちゃんの手を煩わせるわけにはいきません」と全力で阻止されるのは目に見えている。俺にとっては、大好きな料理という楽しみを根本から奪う強固な障害でしかなかった。
「……ここなら、誰にも邪魔されない」
俺はシンクの蛇口を捻った。
小気味よい音と共に、勢いよく水が出る。ガスも電気も問題なく通っているようだ。
まだ調理器具ひとつ、スパイス一瓶すらなく、食材の匂いも全くしない空っぽのキッチン。だが、俺の目には、ここに並ぶ色とりどりのル・クルーゼの鍋や、綺麗に整頓されたプロ仕様の包丁セット、そしてじっくりと煮込んだ牛肉の赤ワイン煮込みの香りが漂う未来の光景がありありと浮かんでいた。
ここでなら、最高の食材を世界中から取り寄せ、自分が食べたいものを、自分のためだけに作ることができる。
完成した極上の料理を、窓際のテーブルで、夜景と、いつか迎え入れるであろう愛犬や愛猫と共にゆっくりと味わう。
それこそが、俺が莫大な資産を築き上げてでも必ず手に入れたいと願う、至高の贅沢の形だ。
「そのためにも……資金管理の確認をしておくとしよう」
俺はキッチンを背にし、持参した革の鞄からノートパソコンを取り出して、床に直接座り込んだ。
『Fruits社』製の、ボンダイブルーの半透明なボディが特徴的なラップトップだ。
まだWi-Fiなどという便利なものが普及していない時代。壁のモジュラージャックにモデムのケーブルを繋ぎ、ダイヤルアップ接続を開始する。
ピー、ヒョロロロ、ガガガ……という独特の接続音が、無人の広い部屋に響き渡った。
回線が繋がると同時に、俺の顔つきと意識が切り替わる。
ブラウザを立ち上げ、ブックマークから証券口座のログイン画面を表示させる。
4月1日に自宅の自室から注文した、手持ち資金の3割にあたる約100億円分のポジション。その状況を確認する。
画面に表示された数字は、既に俺の目論見通りの含み益を出し始めていた。
予想通りだ。世界を席巻するITバブルの巨大な波は、1999年の春の時点で確実に大きくなりつつある。
だが、口座にはまだ残りの資金――約200億円強がキャッシュのまま眠っている。
この現金の使い道は、既に明確に決まっている。
夏休みに渡米し、まだガレージで検索エンジンを開発しているはずの『G社』の若き創業者たちに直接コンタクトを取り、未公開株のエンジェル投資家として名乗りを上げるための重要な資金だ。
未来の覇権企業を青田買いするためには、彼らが喉から手が出るほど欲している開発資金を、一切の条件なしで即座にキャッシュで用意できるという「現金力」が最大の武器になる。
だからこそ、目の前の市場がどれほど魅力的で、簡単に利益を出せそうに見えても、この200億円には絶対に手をつけない。市場の変動リスクに晒すわけにはいかないのだ。
「今日のところは、現状維持だ」
俺は日本市場と米国市場の主要なインデックスと、監視対象にしているいくつかの新興ネット関連銘柄のチャートを順番にチェックしていく。
『Y社』も『S社』も、順調に株価を切り上げている。
米国市場の『Fruits社』と『Amazing』も、長期的な成長曲線の入り口にしっかりと乗っている。
今は新たな注文を入れる必要はない。
市場にインパクトを与えすぎないよう、すでに構築したポジションの推移を静かに見守る時期だ。
画面上の点滅する数字やローソク足のチャートを眺めていると、今の俺が、自分の判断ひとつで国家予算並みの金を動かせる立場にあるという事実を改めて実感する。
一通りの市場チェックと今後のシミュレーションを終えると、俺は深く息を吐き、冷たいフローリングの床に大の字に寝転がった。
まだソファもラグもないため、背中が痛い。
だが、気分は悪くなかった。
これで、最初の種まきの確認は完了した。
あとは時間が、この種を歴史的な巨木へと育ててくれる。
俺がやるべきことは、来年の春に訪れるITバブル崩壊のタイミングを見誤らず、確実に売り抜けること。そして、夏休みの渡米計画を綿密に練ることだ。
「さて……」
俺は身を起こし、パソコンをシャットダウンした。
窓の外は、すっかり夜の闇に包まれている。
眼下に広がる東京の街には、無数の光の海が広がっていた。
投資家としての今日の仕事は終わりだ。
次はこの殺風景なペントハウスを、人間が快適に暮らせる至高の空間へと変えなければならない。
心地よいソファをどこに配置するか、ネット回線をどうやって安定させるか。
そして何より、このアイランドキッチンをどうカスタマイズするか。
業務用の大火力オーブンに、細かな温度調整が可能なプロ仕様のコンロ。
想像するだけで、高級車のカタログを眺めるよりも遥かに胸が躍る。
俺はパソコンを鞄にしまい、ゆっくりと立ち上がって出口へと向かった。
今日は実家に帰って、取り寄せた海外のインテリア雑誌でも眺めよう。
どんな冷蔵庫を置くか、どんなデザインの鍋を揃えるか。
そんな平和な悩みに頭を抱える夜が、今の俺には何よりも愛おしかった。
俺はリビングのメイン照明を消し、静かに重厚な扉を閉めた。
鍵をかける音が、カチャリと冷たく響く。
俺は一度だけ扉を振り返り、足早にエレベーターホールへと向かった。




