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平穏最優先の財閥御曹司、未来知識で投資起業  作者: 伊達ジン


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第32話 カリフォルニアの青い空

 日付変更線を越える約十時間の長いフライトを経て、飛行機の窓の外には見渡す限りの茶色い大地が広がっていた。碁盤の目のように整然と区画整理された街並みと、その先に広がる眩しいほどの青い海が、ここが異国の地であることを実感させる。


「……着いたか」


 機内アナウンスがロサンゼルス国際空港への着陸態勢に入ったことを告げると、俺は窓のシェードを上げ、カリフォルニアの強い陽射しに思わず目を細めた。一九九九年七月二十五日。現地時間は同日の午前中であり、時差のおかげで日本から引き延ばされた長い一日が再び始まろうとしている。


 重力に押し付けられるような感覚と共に、機体が滑走路にタッチダウンした。逆噴射の轟音が響き、機体が徐々に速度を落としていく。ファーストクラスの特権で真っ先に降機し、ボーディングブリッジへと一歩踏み出した瞬間、むっとするような独特の匂いが鼻をついた。乾燥した空気、ジェット燃料の匂い、そして微かに混じる海の香り。日本の湿気を多分に含んだ空気とは決定的に違う、まぎれもない異国の匂いだった。


 ファーストクラス専用レーンのおかげで、入国審査は驚くほどスムーズに進んだ。


「Sightseeing? Or Business?」


 恰幅の良い審査官に事務的な声で聞かれ、俺は淀みなく「Sightseeing and Studying」と答えた。審査官は特に気にする素振りもなく、パスポートにスタンプを押し付けて返してきた。バゲッジクレームで荷物を受け取り、俺は到着ロビーへと向かう自動ドアをくぐった。


 その瞬間だった。


「――LEO!!」


 空港の喧騒を切り裂くような、よく通る声がロビーに響き渡った。声の主を探すまでもなく、到着ロビーの最前列には、周囲の空間だけを切り取ったかのように華やかなオーラを放つ集団が陣取っていた。


 中心にいるのは、大きなサングラスに女優帽を被り、ボディラインを強調した真紅のサマードレスを纏った女性――西園寺ソフィア。俺の母親だ。彼女の周りには数人の屈強なSPが控え、さらにはカメラを持ったパパラッチらしき連中までが遠巻きに様子をうかがっている。


「Oh, my sweet angel!!」


 母は俺の姿を認めるなり、かけていたサングラスを乱暴に外し、ピンヒールとは思えない速度で駆け寄ってきた。


「母さ……ぐふっ!」


 俺がまともに挨拶をする間もなく、圧倒的な勢いで豊満な胸の中に抱きすくめられた。甘い香水の香りと共に、息が詰まるほどの強い抱擁力が俺を襲う。


「会いたかったわ! レオ! 私の可愛いレオ!」


「……く、苦しいよ、マミー」


「もう! 半年ぶりじゃない! また背が伸びたんじゃない!? 顔つきも男前になってるわ!」


 彼女は俺の顔を両手で挟み込み、頬に嵐のようなキスを浴びせた。右頬、左頬、そして額。欧米式のチークキスの範疇を軽く超える情熱的なスキンシップに、周囲の旅行客たちが「あれは誰だ?」「映画の撮影か?」「ソフィア・サイオンジじゃないか?」とざわめき始めるのが分かった。


「……母さん、目立ってる。みんな見てるよ」


 俺は周囲の視線に耐えかねて小声で注意したが、母は全く意に介さず、俺の腕を強引に引き寄せた。


「見せておけばいいのよ! 私の自慢の息子なんだから! さあ、行きましょう! 車を回してあるわ!」


 空港の外に出ると、そこにはカリフォルニアの突き抜けるような青空が広がっていた。そして、その青空を反射して輝く、呆れるほど長い純白のストレッチリムジンがロータリーに横付けされていた。


「……これに乗るの?」


「当たり前でしょ? レオの凱旋パレードよ!」


 運転手が恭しくドアを開け、俺は諦めてその非日常的な乗り物へと足を踏み入れた。


 車内はまるで走るラウンジだった。高級感のある革張りのシート、クリスタルのグラスが並ぶミニバー、そして備え付けのモニターには、なぜか俺の幼少期の写真がスライドショーで延々と流されている。


「乾杯しましょう! レオのLA到着を祝って!」


 母は手慣れた手つきでシャンパンのコルクを抜き、グラスに注いだ。俺の前に置かれたのは、当然ながらノンアルコールのスパークリンググレープジュースだ。


「Cheers!」


 グラスを合わせ、母は嬉しそうにシャンパンを口に含んだ。


「……ありがとう、母さん。元気そうで何よりだよ」


「元気だけが取り柄よ。……でも、レオがいなくて本当に寂しかったのよ?」


 彼女はグラスを傾けながら、少しだけ潤んだ瞳で俺を見つめた。その表情には、ハリウッド女優としての顔ではなく、純粋な母親としての愛情が滲み出ている。


「日本での生活はどう? パパはいじめてない? 摩耶ちゃんは生意気言ってない?」


「みんな元気だよ。父さんは相変わらず仕事人間でほとんど家にいないし、姉さんは大学と芸能活動で忙しくしてる」


「そう……。摩耶ちゃん、CMに出たんですってね。ビデオ送ってもらったけど、まだまだね。表情が硬くて、カメラの前でどう見られているか全然分かってないわ」


 その瞬間の母の目は、厳しいプロフェッショナルのそれだった。だが、すぐにまた口元を嬉しそうに緩め、俺へと向き直る。


「レオはどうなの? 日本で可愛い彼女はできた?」


「……いないよ。勉強とか色々と忙しいからね」


「そう? まあいいわ。そんなことより、せっかくの夏休みなのよ! 青春をエンジョイしなさい! LAには可愛い子が山ほどいるわよ? マミーの知り合いのモデルのエージェントに頼んで、とびきりの子を紹介してあげるわ!」


「結構です」


 俺は即答した。この調子だと、滞在中は彼女のペースに完全に巻き込まれっぱなしになりそうだ。しかし、不思議と嫌な気はしなかった。


 前世では、こんな風に親から過剰なほど構われることなどなかった。仕事に追われ、すれ違いの連続で、親の死に目にすら会えなかったという深い後悔。それが今、この暑苦しいほどの母親の愛情によって、少しずつ溶かされていくのを感じていた。


 リムジンはフリーウェイを軽快に走り抜け、やがて海岸線へと出た。パシフィック・コースト・ハイウェイと呼ばれるその道は、左手に太陽の光を反射して眩しく輝く太平洋、右手には高級住宅地が連なるなだらかな丘陵地帯が広がっている。


「着いたわよ」


 車が徐々に速度を落とし、巨大なアイアンゲートの前で静かに止まった。重厚な鉄扉がゆっくりと開き、長い私道をさらに進んでいく。やがて視界に飛び込んできたのは、崖の上に建つ広大な白亜の豪邸だった。


『Villa Sofia』。


 マリブの絶好のロケーションに建つ、スパニッシュ・コロニアル様式を取り入れた豪邸。広大な敷地内には手入れの行き届いた芝生、きらめくプール、フルサイズのテニスコート、そして崖下のプライベートビーチへと直接続く専用の階段まで備わっている。


「……すごいな」


 何度か写真では見せてもらっていたが、やはり実物はスケールが違った。これが、ハリウッドという世界最高峰のエンターテインメント業界で成功を収めた人間の、一つの到達点なのだろう。


「気に入った?」


「ああ。最高だよ」


「良かった! 今日からここがレオの家よ!」


 リムジンを降りると、心地よい潮風が全身を吹き抜けた。エントランスには数人の使用人たちが一列に並び、恭しく頭を下げて出迎えてくれる。


「おかえりなさいませ、マダム。ようこそ、レオ様」


「ただいま。……さあ、レオ。部屋に行きましょう。荷解きなんて後で彼らにやらせればいいわ」


 母に手を引かれるまま、俺は豪邸の中へと足を踏み入れた。高い吹き抜けのある広々としたエントランスホールに、優雅な曲線を描く螺旋階段。壁には母が過去に受賞したオスカー像が誇らしげに飾られ、その横には美術品に詳しくない俺でも価値が分かりそうな有名画家の絵画が掛けられていた。


 案内されたのは、二階の最も見晴らしの良い角部屋だった。


「ここがレオの部屋よ」


 母がドアを開けると、そこには壁一面がガラス張りになった開放的な空間が広がっていた。窓の向こうには、マリブの青い海がどこまでも続いている。部屋の中央にはキングサイズのベッドが鎮座し、壁際には最新のオーディオシステム、そして窓際を見下ろす位置には、大人が執務に使うような重厚な造りのアンティークデスクが置かれていた。


「……完璧だね」


「でしょ? 家具も全部、イタリアから一流の職人に作らせて取り寄せたのよ」


 母は上機嫌でテラスへと出ると、大きく手を広げて海風を胸いっぱいに吸い込んだ。


「ここなら、誰にも邪魔されずに勉強でも何でも、レオの好きなことができるわ」


 彼女は振り返り、悪戯っぽく笑いかけてきた。


「でも、明日の夜のウェルカムパーティーが終わるまでは難しいことは禁止よ? 今日はゆっくり休んで、まずは時差ボケを治しなさい」


「……分かってるよ」


 俺はテラスの手すりに寄りかかり、眼下に広がる雄大な海を見下ろした。この水平線のずっと彼方に、日本がある。ベルとルナ、涼さん、摩耶姉さん、結衣先輩、そしてマナ。彼女たちは今頃、静かな夜を迎え、ぐっすり眠っているだろうか。遠く離れた異国の地に来てしまったという実感と、それでも海を隔てて確かに繋がっているという不思議な安心感が胸に広がった。


「ありがとう、母さん。……最高の夏休みになりそうだよ」


 俺は素直な気持ちで礼を言った。


「ふふ、当たり前じゃない。マミーの愛は世界一なんだから!」


 彼女は嬉しそうに微笑むと、再び俺を力強く抱きしめ、今度は控えめに頬にキスをした。


「愛してるわ、レオ」


「俺もだよ」


 心地よい潮風と、母の香水の甘い香り。カリフォルニアの突き抜けるような青空の下、俺のアメリカでの生活は、これ以上ないほど派手に、そして温かく幕を開けたのだった。

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