第31話 フライト・トゥ・USA
7月25日、日曜日。成田空港へ向かうハイヤーが到着するまで、あと2時間。
窓の外には、夏休み初日に相応しい突き抜けるような青空が広がっていた。遥か眼下の地上から微かに響いてくるセミの鳴き声が、分厚い防音ガラスを通して遠いBGMのように聞こえてくる。空調の効きすぎたペントハウスの静寂の中で、キッチンにはバターが焦げる寸前の芳醇な香りと、温かなミルクの匂いがゆったりと漂っていた。今日からしばらく日本を離れることになる。最後の食事を何にするか少し迷ったが、これから向かう先が欧米である以上、胃袋をあちらの仕様に慣らしておくのが理にかなっている。とはいえ、ありきたりなパンケーキやベーコンエッグで済ませるつもりはなかった。長時間のフライトを前に、腹持ちが良く、かつ満足感の得られるものを作りたい。
選んだのは、アイルランドの伝統的な家庭料理であるチャンプだ。いわゆるネギ入りのマッシュポテトだが、シンプル極まりない料理ゆえに、ごまかしが効かず素材の質と技術がそのまま皿の上に現れる。北海道産の熟成された男爵イモを用意し、ホクホクとした粉質系のそれを丁寧に皮を剥いて適当な大きさに切り分け、塩茹でにしていく。竹串が抵抗なくスッと通る柔らかさになったのを確認して湯を捨て、鍋を火にかけたまま揺すって、粉吹き芋の要領で余分な水分をしっかりと飛ばした。
ここからが手際の良さが求められるところだ。マッシャーを手に取り、ダマが一切残らないように徹底的に潰していく。絹のような滑らかさになるまで、手首のスナップを効かせて根気よくマッシュし続ける。額にうっすらと汗が滲んでくるが、この単調な作業こそが、これからの長旅に向けた思考をクリアにしてくれる。別の小鍋で、牛乳と細かく刻んだ万能ネギを温め、沸騰直前で火を止めてネギの鮮烈な青い香りを牛乳にしっかりと移した。これを先ほどのマッシュポテトに少しずつ加えながら、木べらで丁寧に練り上げていく。
ネギのシャープな香りと牛乳の優しい甘みが立ち上る中、フランス産のエシレバターをたっぷりと投入する。白くなめらかなポテトの中に鮮やかなグリーンのネギが混ざり合い、粘り気が出すぎないよう、さっくりと、しかし確かな一体感を持たせて混ぜ合わせた。温めておいた皿にこんもりと盛り付け、中央にスプーンで小さな窪みを作る。そこへさらにバターをひとかけら落とすと、マッシュポテトの熱で急速に溶け出し、金色の小さな泉を作っていった。
この濃厚なポテトに合わせるため、戸棚の奥から異国情緒あふれる青いボトルを取り出す。『ラク』と呼ばれる、アニスで香り付けされた蒸留酒だ。以前、姉の慰労で作ったドーナツにパスティスを使ったが、これもまた似たような清涼感のある香りが特徴だった。未成年である以上、当然飲むことはできない。グラスに氷と水を入れ、そこへラクを数滴だけ垂らす。透明だった液体がふわりと白濁していくのを眺めながら、グラスを軽く揺らして立ち昇る香りだけを鼻腔いっぱいに吸い込んだ。
薬草のような、甘くスパイシーな香りが脳を心地よく刺激する。そのまま熱々のチャンプを一口すくって口に運んだ。口の中でバターの泉が弾け、ネギのシャキシャキとした食感が良いアクセントになっている。そこへラクの香りが鼻から抜け、濃厚な後味をスッと切ってくれた。アイルランドの土着的な大地の味に、エキゾチックな香りが加わることで、味に確かな立体感が生まれている。
「ベル、ルナ。パパは行ってくるよ」
足元に寄ってきた二匹の愛犬に、茹でた味付けなしのササミを取り分けてやる。二匹は尻尾を振りながら夢中で皿に顔を突っ込んでいた。涼の言うことをよく聞いていい子にしていれば、帰る時に最高のお土産を買ってくるからな、と声をかけると、ベルが顔を上げて短く吠えた。ルナに至ってはササミを食べ終わるとすぐに毛づくろいを始め、こちらを見向きもしない。マイペースな二匹の様子に苦笑しつつ、残りのチャンプを綺麗に胃に収め、俺はキッチンを片付けて出発の準備を整えた。
★★★★★★★★★★★
ハイヤーに揺られて到着した午前11時の成田国際空港は、すっかり夏の装いだった。夏休み初日を迎えたターミナルは、海外旅行に向かう家族連れや学生たちでごった返している。色とりどりのスーツケースが行き交い、あちこちから飛び交う搭乗案内のアナウンスの声と、期待や不安が入り混じった独特の熱気がフロア全体を包み込んでいた。だが、俺が向かうのはそうした喧騒とは完全に切り離された場所だった。
真紅の絨毯が敷かれたJNLのファーストクラス・チェックインカウンター。入り口に立つスタッフは、俺の姿を認めるなり深々と頭を下げた。手荷物を預け、専用の保安検査場を待ち時間ゼロで抜け、そのままファーストクラスラウンジへと足を踏み入れる。そこは外の騒がしさが嘘のような静寂に包まれており、洗練された調度品と、ほのかなコーヒーの香りが漂っていた。朝の喧騒を逃れたビジネスマンたちが、まばらに座って新聞を広げている。俺は革張りのゆったりとしたソファに腰を下ろし、エスプレッソを啜りながら窓の外に目を向けた。そこには、これから俺を乗せて太平洋を越える巨大な鉄の塊、ボーイング747-400が翼を休めていた。
搭乗時刻を迎え、優先搭乗で機内へと進む。機首部分に位置するファーストクラスの座席数はわずか12席。俺にあてがわれたのは『1A』、最前列の左側だ。前方に向かって絞り込まれていく独特の空間はコックピットのすぐ後ろにあり、限られた人間だけが入ることを許される静かなエリアだった。
着席するなり和服姿のCAが挨拶に訪れ、ウェルカムドリンクを勧めてきたが、シャンパンは丁重に断って冷たい緑茶をもらうことにした。やがて重たい機体がプッシュバックされ、滑走路へとゆっくり移動を始める。ジェットエンジンの高周波音が響き渡り、背中に押し付けられるようなGと共に機体がふわりと浮き上がった。窓の外では、雨上がりの日本の景色が急速に遠ざかり、東京湾から房総半島、そして広大な太平洋へと視界が開けていく。
シートベルト着用のサインが消えると同時に、リクライニングを倒してバッグからノートパソコンを取り出した。これから約10時間のフライトが始まる。最新の映画を見て時間を潰すのも悪くないが、まずは機内で整理しておきたいことがあった。画面に表示させたのは、一通の英文メールだ。送り主は『Goggle』の創業者であるロリーとセルゲイブ。彼らのオフィス、といっても友人の家のガレージに過ぎないが、そこで開発中の新しい検索エンジンのデモを見せてもらう約束を取り付けていた。
彼らが開発したアルゴリズムの優秀さは、事前に得ている情報だけでも十分に理解できている。重要なのは、彼ら自身がまだ、自分たちの生み出したものが単なる便利な検索ツールに留まらないという事実に、完全には気付いていないことだ。世界中の情報を整理して人類の知へのアクセスを根本から変える強大なインフラになる可能性。そして、そこから生み出される検索連動型の広告ビジネスが、将来的にどれほどの莫大な富を生み出すかについて。
俺の目的は、単に資金を出して金銭的なリターンを得ることではない。彼らの思想に直接触れ、その成長を内側から見守り、いざという時に軌道修正を提案できる株主としての発言権を手に入れることにある。今回の渡米のために用意した資金、5億ドル。その一部を彼らに投じることは、今後の事業展開における重要な布石となる。
キーボードを叩き、彼らに見せるプレゼン資料の最終調整を進めていく。単なる資金提供の申し出だけでは、いずれ他の強力な投資家が現れた時に埋もれてしまうかもしれない。俺が提示するのは、具体的な収益化のロードマップと、彼らが将来確実に欲しがるであろう日本のモバイルインターネット市場への足がかりだ。もうすぐ始まるiモードをはじめとする日本の独自のモバイルエコシステムは、彼らにとって魅力的な実験場として映るはずだ。
作業を続けていると、機内食のコース料理が運ばれてきた。キャビアにフォアグラ、トリュフと、今の身体にはいささか重すぎるラインナップだが、提供されたものはありがたく頂くことにする。メインの和牛ステーキを切り分けながら、俺はモニターの向こう側に広がるアメリカ大陸に思いを馳せた。
シリコンバレーで熱気あふれる若者たちと交渉した後は、ロサンゼルスで待ち構えているであろう母・ソフィアとの対面が控えている。これまでの行動からして、彼女がすんなりと俺の要求を呑むとは到底思えない。おそらく、あの手この手で俺を自分のコントロール下に置こうと画策してくるだろう。思い描く平穏な隠遁ライフを守るためには、彼女の思惑を全て見透かした上で、それ以上のカードを突きつけて黙らせる必要がある。
食後の緑茶を啜り、小さく息を吐き出す。機内は快適そのもので、エンジンの低い駆動音だけが一定のリズムで響いていた。パソコンを閉じ、深くシートに身を沈める。窓のブラインドを下ろすと、周囲の照明が一段階落とされ、休息のための静かな空間が作られた。ロサンゼルス国際空港に到着するまで、まだ時間はたっぷりある。まずはこの空の旅で十分に英気を養い、万全の状態で西海岸の土を踏むとしよう。




