第30話 1学期終了
7月20日、火曜日。気象庁から梅雨明け宣言が出されたこの日、東京は容赦のない日差しとうだるような暑さに包まれていた。校庭の桜の木からは耳鳴りがするほどの蝉時雨が降り注ぎ、体育館に集められた生徒たちの熱気をさらに煽っていた。私立桜花学園の1学期終業式は、校長の長いスピーチと生徒指導の注意喚起を経て、ようやく終わりを迎えた。
蒸し風呂のような体育館から解放され、冷房が効いて涼しい教室に戻ってきた生徒たちは、皆一様にそわそわとした空気を漂わせている。担任の教師が教卓の上にドサリと分厚いファイル束を置き、出席番号順に名前を呼び始めた。これから手渡されるのは、1学期の学校生活に対する評価書き――通知表だ。
「西園寺」
名前を呼ばれ、俺は静かに席を立った。クラスメイトたちの視線をわずかに感じながら教卓へと向かう。担任は手元のファイルから一枚の厚紙を抜き出し、少しだけ悔しそうな、けれどどこか満足げな表情を浮かべて俺に差し出した。
「……文句なしだ。よくやった」
「ありがとうございます」
短い言葉を交わし、一礼して席に戻る。手渡された通知表を机の上で静かに開いた。
国語:5、数学:5、英語:5、理科:5、社会:5、美術:5、音楽:5、保体:5、技家:5。
評定平均、5.0。
印字された数字の羅列を眺めながら、俺は小さく息を吐いた。中間テストで全教科満点を取ってしまった後、期末テストでは少しばかり点数を調整した。90点台前半をキープし、トップ層には入りつつも単独で目立ちすぎることは避ける。その調整が上手く機能し、結果として内申点は申し分のない形に収まった。完璧ではあるが、教師から過剰な期待を寄せられたり、生徒から異端扱いされたりするほどの異常な結果ではない。平穏な学校生活を送るためには、こうした適度な立ち回りが不可欠だった。
「……ねえ、西園寺くん」
横から、怨念でもこもっていそうな低い声が聞こえた。視線を向けると、桜木マナが自分の通知表を胸元に固く抱きしめながら、こちらをジト目で見つめている。
「見せて」
「プライバシーの侵害だよ。それに、見ても面白いものじゃない」
「いいじゃん、減るもんじゃないし! どうせ良いんでしょ! ……って、うわっ! オール5!? 体育まで5ってどういうこと!?」
拒否する間もなく、彼女は身を乗り出して俺の机の上の通知表を覗き込み、大きな声を上げた。周囲の生徒が数人こちらを振り向いたため、俺は慌てて通知表を閉じて鞄にしまった。
「信じらんない……。あんた、いったいいつ勉強してんの? 放課後は新聞部の部室でずっとお茶飲んでダラダラしてるだけじゃん」
「授業中に真面目に話を聞いていれば、このくらいは取れるようにカリキュラムが組まれているはずだよ」
「嘘つき! 授業中、ずっと窓の外の雲の形とか見てたの知ってるんだから!」
マナは不満げに頬を膨らませると、自分の通知表を机の上にバタンと裏返しに突っ伏した。
「はぁ……。私は数学が3だった……。夏休み、補習こそないけど、絶対にお母さんにネチネチ怒られる……。なんで数学ってあんなに意味不明な数式ばっかりなの……」
肩を落として嘆く彼女の姿に、俺は少しだけ苦笑した。
「元気出しなよ。学業の成績だけが全てじゃない。新聞部での精力的な活動は、先生たちにも評価されているはずだ」
「それはそうだけどさぁ……。あーあ、私もアメリカ行きたいなぁ。西園寺くんの『語学留学』について行って、現地で密着取材してみたい。きっと面白いスクープがいっぱい転がってる気がする」
「断る。君にはこの日本の夏と、桜花学園の平和を守る義務があるだろう」
「何それ、私が正義のヒロインみたいじゃん」
マナは呆れたように笑い、そして少しだけ真面目な顔つきになった。
「……出発は、今週末だっけ?」
「ああ。25日の日曜日、明後日だ」
「そっか。気をつけてね、アメリカ。向こうは日本と違って銃社会だし、治安が悪いところも多いんでしょ?」
「危険な場所には近づかないように気をつけるよ」
心の中で、本当に警戒すべきは治安よりも母親の存在だが、と付け加える。彼女の追求を躱すための建前とはいえ、マナなりに心配してくれているのは伝わってきた。
「お土産、楽しみにしてるから! 空港で売ってるような変なキーホルダーとかマグネットじゃなくて、ちゃんと美味しいお菓子にしてね!」
「善処するよ」
ホームルーム終了のチャイムが鳴り響くと、教室内の空気は一気に解放された。
「カラオケ行こうぜ!」「明日から海行こう!」と夏休みの計画を叫び合うクラスメイトたちの喧騒を背に、俺は鞄を手に取り、静かに教室を後にした。
★★★★★★★★★★★
数日が過ぎ、7月24日、土曜日。いよいよ渡米前夜となった。
荷造りはすでに終えており、リビングの隅には黒いスーツケースが静かに佇んでいる。外の茹だるような熱帯夜とは対照的に、エアコンが効いたペントハウスのリビングは静寂と適度な涼しさに包まれていた。
「ただいま、ベル、ルナ」
キッチンで軽く手を洗ってから戻ると、パタパタという軽快な足音と共に二匹が出迎えてくれた。
「ワンッ!」
「みゃう」
ベルが尻尾をちぎれんばかりに振って足元にじゃれつき、ルナが俺のズボンに頭を擦り付けてくる。毎日のように繰り返される、見慣れた光景だ。だが、明日からしばらくはこの温もりに触れることができない。そう思うと、ほんの少しだけ胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。
俺はしゃがみ込み、二匹を両腕に抱き寄せてリビングのソファへと沈み込んだ。明日からアメリカでの滞在が始まる。多忙な日々になることは目に見えていた。その間、この静かな部屋と、留守番をするこの子たちを守ってくれる存在が必要だった。
ピンポーン。
時計の針が夜の8時を回った頃、タイミングよくインターホンが鳴った。モニターを確認すると、ショートカットの髪を汗で濡らした、活発そうな女性が映っていた。早坂涼さんだ。
「どうぞ、開いてますよ」
オートロックを解除し、玄関のドアを開ける。
「お邪魔しまーす! ……うっ、涼しっ! 天国かここは!」
涼さんが額の汗をタオルで拭いながら入ってきた。タンクトップにハーフパンツという身軽な格好で、首にはタオルが巻かれている。
「お疲れ様です。大学のサークルの帰りですか?」
「おう。シェルターの掃除と、大型犬の散歩を三頭ハシゴしてきたところ。……それにしても、夜になっても暑すぎて死ぬかと思ったぞ。日本の夏、湿気ありすぎだろ」
彼女は靴を脱ぐなりリビングへと上がり込み、慣れた様子で冷蔵庫へ直行した。中から冷えたスポーツドリンクのボトルを取り出し、キャップを開けて豪快に喉を鳴らす。
「プハーッ! 生き返る……! やっぱ汗かいた後はこれに限るな!」
「準備は万端ですか?」
「おう。ボンが明日行くんだもんな。任せとけって。……で、荷造りはもう終わったのか?」
彼女は空になったボトルをテーブルに置き、ソファの対面にドカッと腰を下ろした。ベルが尻尾を振りながら、すぐに彼女の膝の上へと移動していく。涼さんは手慣れた様子でベルの耳の後ろを掻いてやった。
「ええ、必要なものはすべてスーツケースに詰めました。明日の朝一番のフライトです」
「そっか。いよいよだな。アメリカなんて、私からしたら映画の中の世界だわ」
「涼さん、少し待っていてください。冷たいものでも出しますよ」
「おっ、マジ? サンキュ!」
俺はキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。出発前に使い切ってしまいたい牛乳、生クリーム、卵が残っている。これらを無駄にせず、かつ汗をかいた涼さんに喜んでもらえるものといえば、アイスクリームが最適だろう。
ボウルに卵黄とグラニュー糖を入れ、白っぽくなるまで丁寧にかき混ぜる。そこへ、バニラビーンズを加えて温めた牛乳を少しずつ注ぎ入れながら、再び火にかけてとろみをつける。焦げ付かないようにゴムベラで絶えず鍋底を掻き混ぜ、適度なとろみがついたところで火から下ろして氷水で急冷する。そこへ泡立てた生クリームを合わせ、数時間前から冷凍庫で冷やし固めておいたベースと混ぜ合わせた。
もう一種類、溶かしたビターチョコレートを混ぜ込んだ濃厚なチョコレートアイスも器に盛り付ける。最後にミントの葉を添えて完成だ。
「お待たせしました」
冷やしておいたガラスの器をテーブルに置くと、涼さんの目がパッと輝いた。
「うおっ! なんだこれ、どっかの店で買ってきたのか!? めちゃくちゃ美味そうじゃん!」
「冷蔵庫の余り物で作っただけですよ。溶けないうちにどうぞ」
「いただきまーす!」
彼女はスプーンでバニラアイスをたっぷりと掬い、大きな口を開けて頬張った。
「……んん〜っ! 濃い! でも後味すっきりしてる! なんだこれ、そこらの牧場で食べるやつより美味いぞ!」
「材料をケチらずに使いましたからね。チョコの方もどうぞ」
「うわ、こっちはほろ苦くて大人な味。これ、無限に食えるわ。さっきスポーツドリンク飲んで塩分補給したから、今度は糖分が体に染み渡るぜ」
彼女は夢中でスプーンを動かし、あっという間に器を空にした。
「……ふぅ、食った食った。大満足だ。サンキュな、ボン」
完食した涼さんが、満足げにお腹をさすりながら息をついた。
「お粗末様でした」
食器を片付け終えてリビングに戻ると、涼さんは少しだけ表情を引き締めてこちらを見ていた。
「で、明日からだな」
「はい。明日の朝、成田へ向かいます」
俺はズボンのポケットから、用意しておいたスペアキーを取り出し、テーブルの上を滑らせた。
「お願いします。……この子たちのこと」
涼さんはその鍵をガシッと手で受け止め、力強く頷いた。
「任せとけ。動物の世話ならプロ級だって知ってんだろ? ボンが帰ってくるまで、毎日ちゃんと通って面倒見るから安心しろ。マナちゃんとかが怪しんで押しかけてきても、適当に追い返しといてやるよ」
「助かります。彼女、妙なところで勘が鋭いので」
「知ってる。……ま、とにかく、お前は向こうで気をつけてな。家のことは一切気にしなくていいから」
彼女の裏表のない真っ直ぐな言葉に、張り詰めていた肩の力が少しだけ抜けるのを感じた。本当に頼りになる人だ。
俺はベルとルナに向き直った。二匹とも、俺たちの会話の空気を察しているのか、普段のようにはしゃぐことなく静かにこちらを見上げている。俺は膝をつき、二匹の頭を交互に撫でた。
「ベル、ルナ。……少しの間、留守にするよ」
「……クゥン」
「みゃ……」
寂しげな鳴き声を上げるが、二匹とも暴れたり、俺を引き止めようとしたりはしなかった。涼さんがいるから安心しているというのもあるだろう。
「いい子にしてるんだぞ。涼さんの言うことをよく聞くんだ」
俺は二匹を順番に抱きしめ、その柔らかな毛並みの感触を確かめた。
「じゃあな、ボン。気をつけて行ってこいよ」
涼さんが立ち上がり、俺の肩をバンと軽く叩いた。
「お土産、期待してるからな!」
「ええ。何か美味しいものでも探してきますよ」
「おう! 待ってるぜ!」
快活に笑いながら、涼さんは帰っていった。
玄関の扉が閉まり、再びペントハウスに静寂が戻る。ベルとルナはそれぞれの寝床へと向かい、丸くなって目を閉じ始めた。
俺はリビングの窓辺に立ち、眼下に広がる東京の夜景を見下ろした。無数の光が瞬く街並みの向こう、遠く東の空には、明日から向かう場所がある。
トランクの確認をもう一度だけ済ませると、俺は部屋の明かりを消し、静かに眠りについた。




