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平穏最優先の財閥御曹司、未来知識で投資起業  作者: 伊達ジン


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第29話 ソフィアからの国際電話

 6月28日、月曜日。

 東京の空は、梅雨明けを待ちわびるように、朝からどんよりとした分厚い雲に覆われていた。時折パラつく小雨が、窓ガラスに水滴の模様を描いては滑り落ちていく。


 期末テストまであと一週間という時期を迎え、桜花学園の放課後はいつもの賑やかさがすっかり鳴りを潜めていた。部活動は原則休止となり、廊下を歩く生徒たちの足取りは図書室や自習室、あるいは足早に帰路へと向かうものばかりだ。

 そんな湿っぽい静寂の中、俺は1年A組の教室に残り、窓際の自分の席でぼんやりと頬杖をついていた。


「……でね、さっき顧問の小野寺先生のところにお願いに行ったら、『まあ、名前だけならいいわよ』ってハンコ押してくれたの! あの人、いつもは怖い顔してるけど、意外とチョロいよね」


 隣の席では、桜木マナが興奮気味に身振り手振りを交えながら熱弁を振るっていた。彼女の机の上には、色とりどりの付箋が貼られたノートや資料が散乱している。


「チョロいんじゃない。テスト前で小野寺先生も忙しいから、面倒くさい話を適当にあしらって追い払っただけだよ」


 俺は窓の外から視線を戻し、冷静に事実を指摘した。


「むぅ。言い方! でもまあ、経緯はどうあれこれで正式に部として認められたわけだし! 使われてなかった旧理科準備室を、部室として確保できたしね!」


 マナは全く気にした様子もなく満面の笑みを浮かべると、机の上に大きく広げていた模造紙サイズの紙をバンと叩いた。それは彼女が徹夜で作成したらしい、『桜花ジャーナル』の創刊準備号の手書きラフだった。見出しのフォントデザインから記事の割り付けまで、恐ろしいほどの熱量が込められている。


「記念すべき創刊号のトップ記事は……これ!」


 彼女が自信満々に指差した先には、極太の油性ペンで書かれた見出しが躍っていた。


『緊急アンケート! 学食の人気メニューランキング! 不動の1位は定番カレーか、それともコスパ最強の日替わり定食か!?』


「……平和だな」


 俺は心底からの安堵の息を長く吐き出した。

 彼女の持つ恐るべき探求心と行動力が、今はこうして学内の無害で平和なネタに全振りされている。手書きのグラフや生徒へのインタビュー記事風のレイアウトを眺めながら、俺は肩の力を抜いた。


「本当は『西園寺くんの謎に包まれた私生活に迫る!』みたいな一面トップ記事を書きたいんだけどねー。約束だし、今は我慢してあげる」


「感謝するよ。そのまま一生我慢し続けてくれ」


「あはは! ま、私生活の方は気が向いたらね。あ、そうだ」


 マナは悪戯っぽく笑ってラフを丁寧に丸めて筒状にすると、鞄にしまい込みながらこちらを向いた。


「西園寺くんはどうするの? 期末テスト、今回もまた満点狙うわけ?」


「まさか。今回は目立たないように、適度に手を抜くよ」


「……あんたのその『適度』って、絶望的に信用できないんだよねぇ。前の中間テストの時も『全然勉強してない』とか言いながら、蓋を開けたら全教科満点で学年トップだったし」


「あれは事実だ。だが、今回はちゃんと調整する」


 俺は小さく肩をすくめた。中間テストでのあのお祭り騒ぎはもう懲り懲りだ。

 今回は全教科を通じて80点台後半から90点台前半に着地するよう、意図的に間違える解答箇所まで細かくシミュレーションを重ねている。クラス順位で言えば5位から10位の間、学年全体でも上位にはいるがトップ層には食い込まない、最も安全で目立たないポジションを狙い撃ちする計画だった。


「ふーん。まあ、西園寺くんが手加減してくれてる間に、私は順位上げさせてもらうけどね。じゃあ私、今日はこれから部室の掃除して帰るから! また明日ね!」


 マナは元気に手を振ると、鞄を抱えて足早に教室を飛び出していった。

 嵐のような彼女の背中を見送り、俺もゆっくりと立ち上がって鞄を手に取った。


「……さてと」


 完璧だ。期末テストの点数調整の準備は万全であり、渡米に向けた手配も全て順調に進んでいる。Goggleの創業者たちとの西海岸でのアポイントメントは確定し、現地での移動手段や航空券の手配も滞りなく完了した。

 あとは、出発の日を静かに待つだけだ。

 そう、確信していた。この時までは。


★★★★★★★★★★★


 都内の一等地にそびえるタワーマンション。その最上階にあるペントハウスに帰宅すると、静寂とは程遠い声がリビングから響いてきた。


「うぇーい! ボン、おかえりー! 外、結構降ってきたか?」


 早坂涼さんが、ベルを膝の上で仰向けにしてお腹を撫でながら、もう片方の手で冷えたビールのロング缶を高く掲げていた。足元ではルナが、彼女のジーンズの裾にじゃれついて遊んでいる。


「ただいま、涼さん。……随分とくつろいでますね」


「おうよ。今日はバイトのシフトが休みだからな。明るいうちからベルとルナの相手してやってたんだぜ」


「ありがとうございます。でも、あまり飲み過ぎないでくださいよ」


 俺は苦笑しながら濡れたジャケットを脱ぎ、ハンガーにかけてからキッチンへと向かった。

 冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出してグラスに注ぎながら、リビングの光景を眺める。涼さんはすっかりこの部屋の空気に馴染んでおり、警戒心の強いベルとルナも彼女に対しては完全に腹を見せてリラックスしている。

 これなら、俺が留守の間も何の問題もないだろう。


「で、具体的な日程は決まったのか?」


 涼さんがローテーブルの上の枝豆をつまみながら、テレビから視線を外して聞いてくる。


「はい。7月25日に成田を出発して、8月5日に帰国する予定です。約2週間ですね」


「了解。ちょうど大学の前期試験も終わってる時期だし、スケジュール的には完璧だな。……しっかし、ボンも大変だな。親戚の勧めとはいえ、夏休みにわざわざ海外で語学研修なんてよ」


 涼さんはビールの缶を傾けながら、俺が面接の際に伝えた理由を口にする。


「ええ、まあ。色々と付き合いもありまして」


「へぇ。金持ちの家ってのも、俺たち庶民には分からねぇ苦労があるんだな。ま、アタシは涼しい部屋で可愛い猫たちと留守番させてもらうから、精々向こうでしごかれてこいよ。土産話、楽しみにしてるからな」


 彼女はニカっと豪快に笑い、足元のルナを抱き上げて頬擦りをした。


「ルナ、パパがしばらくいなくて寂しいだろうけど、アタシが毎日ちゅーる開けてやるからなー」


「みゃう!」


 ルナが嬉しそうに同意するような鳴き声を上げる。

 この平穏な光景を見ていると、本当に心が安らぐ。涼さんという最適な人材を確保できたことで、俺は西海岸での大仕事に一切の憂いなく集中できる。

 全ては計画通りだ。

 そう心の中で静かに頷き、俺は夕食の準備に取り掛かった。今日は涼さんからのリクエストで、豚キムチ炒めだ。ごま油をフライパンに引き、豚肉を炒め始めたその時だった。


 プルルルルルル……!


 リビングの片隅に置かれた固定電話が、けたたましい電子音を立てた。

 俺の手がピタリと止まる。このペントハウスの固定電話番号を知っている人間は、極めて限られている。父や摩耶姉さんなど、身内の人間だけだ。

 嫌な予感が背筋を駆け抜け、フライパンの中で弾ける油の音がひどく遠くに感じられた。

 俺はコンロの火を止め、エプロンで手を拭いながら受話器へと手を伸ばした。


「……はい、西園寺です」


『レオォォォォォ! マミーよぉぉぉぉ!』


 受話器を耳に当てた瞬間、鼓膜が破れるかと思うほどの甲高い絶叫が響き渡った。

 思わず受話器を耳から数センチ離す。電話の向こうから聞こえてきたのは、テンションが成層圏を容易く突破した女性の声。

 母、西園寺ソフィアだった。


「……母さん。お願いだからもう少し声のトーンを落としてくれ」


『あら、ごめんなさい! でも嬉しくてたまらないの! 聞いたわよ、パパから! 夏休みにこっちに来るんですって!?』


「……ああ、うん。そうだけど」


『もう! どうしてすぐに連絡してくれないの! 水臭いじゃない!』


 息継ぎの隙間も与えずに、彼女は機関銃のように言葉を連射してくる。背後からは微かに波の音と、陽気なラテン系の音楽が聞こえていた。


『マミーね、パパから聞いた瞬間からもう準備万端よ! レオのためにマリブの別荘を丸々空けておいたわ! 庭のプールも業者を呼んでピカピカに掃除させたし、もちろん期間中の専属シェフも手配したわ。あとね、歓迎パーティーの招待状も、とりあえず急ぎで200枚くらい出しといたの!』


「……は?」


 俺の思考が完全に停止した。

 マリブの別荘? プールの清掃? 200人のパーティー?

 次々と繰り出される規格外の単語の羅列に、眩暈すら覚える。


「ちょっと待ってくれ、母さん。俺は遊びに行くわけじゃなくて……」


『分かってるわよ! 語学研修なんでしょ? ちゃんとパパから聞いてるわ』


 父さん、余計なことを。

 親戚に対する体裁として用意した「語学研修」という名目が、まさか西海岸のハリウッド女優の耳にまで届き、しかも最悪の形で曲解されているとは思わなかった。


『でもね、勉強ばっかりじゃ息が詰まるに決まってるでしょ? せっかくのカリフォルニアの夏なんだから、思いっきりエンジョイしなきゃ! マミーの友達の有名な映画プロデューサーとか、今をときめくスーパーモデルの子とかもパーティーに来るから! あ、もちろんレオのガールフレンド候補になりそうな可愛い子たちも、たくさん探しておいたわよ!』


「いらないよそんなの!」


 俺はリビングの真ん中で思わず叫んでいた。ベルとルナが驚いて一瞬こちらを振り返った。


「母さん、頼むから俺の話を聞いてくれ。今回の渡米は、本当に静かに過ごしたいんだ。俺なりに勉強に集中したいし、一人でゆっくり考えたいこともあるんだよ」


 俺は必死の思いで抵抗を試みた。

 今回のアメリカ行きは、Goggleの若き創業者たちとの交渉という、今後の俺の計画を左右する極めて重要なミッションだ。極秘裏に動き、慎重に事を進める必要がある。

 ハリウッドスターである母が主催する、セレブやメディア関係者が集う200人規模のド派手なパーティーになど顔を出せば、目立ちすぎて全く身動きが取れなくなるのは火を見るより明らかだ。


『……あら、そうなの?』


 突然、電話口の母の声がトーンダウンし、ひどく沈んだものになった。


『マミー、久しぶりにレオに会えるのが嬉しくて……ちょっと張り切りすぎちゃったかしら……。ごめんなさいね、レオの気持ちも考えずに……』


 しょぼん、という効果音がそのまま聞こえてきそうな、痛々しいほどの声色。

 俺は小さく天を仰いだ。これは彼女が昔から得意とする、「悲劇のヒロイン」モードだ。ハリウッドの第一線で活躍する女優の演技力は伊達ではない。

 分かっている。完全に分かっているのだが、それでも抗いがたい引力がある。前世で満足に親孝行できなかった分、今世の母を悲しませたくないという感情が、強烈にブレーキをかけてしまうのだ。


「……いや、張り切って歓迎してくれるのは素直に嬉しいよ。ただ、ちょっと規模が大きすぎるというか、俺の手に余るんだ」


『本当!? じゃあ、パーティーの人数は100人に減らすわ!』


「いや、人数の問題じゃなくて……」


『じゃあ50人! これ以上は絶対に譲れないわ! マミーの大切な天使を、みんなにお披露目しなきゃいけないんだから!』


 お披露目。その底抜けに明るい響きが、何よりも恐ろしかった。

 これ以上抵抗しても、彼女の勢いは止まらないだろう。俺は深く、重い溜め息を吐いた。


「……はぁ。分かったよ。パーティーは一日だけにしてくれ。それ以外の日は、俺の自由にさせてほしい」


『本当!? やったぁ! 愛してるわレオ! チュッ!』


 受話器越しに、鼓膜を震わせる特大の投げキッスが飛んできた。


『詳しいスケジュールは今からそっちのFAXに送るわね! 空港にはもちろんリムジンで迎えに行くから! 楽しみにしててね! じゃあね、マイ・エンジェル!』


 ガチャリ。

 一方的に通話が切れ、ツー、ツーという無機質な電子音だけが残された。

 俺は受話器を握りしめたまま、糸が切れた操り人形のようにその場に力なく崩れ落ちた。


「おいおい、大丈夫かボン? 顔面蒼白だぞ?」


 一部始終を傍で聞いていた涼さんが、ビール缶を持ったまま心配そうに覗き込んでくる。


「……涼さん。アメリカに行ったら、俺、生きて帰れないかもしれない」


「お、おう。なんか、通話の漏れ聞こえてくる声だけでも凄そうだな、お前の母ちゃん」


「最強ですよ。……台風みたいな人だ」


 俺は床に座り込んだまま天井を仰ぎ見た。

 リビングの隅に置かれたFAX機能付きの電話機が、突如としてジジジ……と機械音を立てて起動し、ロール紙を吐き出し始めた。

 這うようにして近づき、出力されたばかりの温かい紙を手に取る。そこには、流麗な英語でびっしりと書き込まれた『レオ歓迎・サマースケジュール』が印字されていた。


『Day 1: Welcome Party at Malibu with 50 VIPs』

『Day 2: Private Shopping at Rodeo Drive』

『Day 3: Disneyland Exclusive VIP Tour』


 紙の端から端まで、息つく暇もないほどのイベントが羅列されている。


「……俺なりに勉強する時間なんて、1秒もないじゃないか」


 俺は印字された紙をくしゃりと握りしめ、力なく乾いた笑いを漏らした。

 太平洋の向こう側で待ち受けるのは、静かで平穏な隠遁ライフとは対極にある、愛と狂乱のセレブ生活だ。

 だが、もう後戻りはできない。

 俺は覚悟を決め、重い足取りで再びキッチンへと向かった。

 せめて今夜だけは、慣れ親しんだ豚キムチの匂いに包まれながら、静かな日本の夜を噛み締めよう。アメリカに行けば、嫌でもステーキとロブスターが乱舞する日々が待っているのだから。

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