第28話 マナのスクープ
6月15日、火曜日。
朝から降り続いていた雨が上がり、梅雨の晴れ間から強烈な日差しが差し込んでいた。開け放たれた窓からは湿気を含んだ重い風が吹き込み、教室のカーテンを気怠げに揺らしている。
5限目のホームルームが終わり、担任の教師が連絡事項を告げて教室を出て行くと、いつものように放課後特有のざわめきが広がっていった。部活に向かう者、遊びの相談をする者、早々に帰宅の準備を始める者。
だが、今日の1年A組には、いつもとは違う妙な「熱」が帯びていた。
その熱源は、俺の隣の席にいる少女――桜木マナだった。
「みんな聞いて! 私、ついに決めたの!」
彼女は椅子の上に立ち上がり、さらにそこから机の上へと軽快に飛び乗った。プリーツスカートがふわりと揺れるのも気にせず、腰に手を当てて教室中を見渡す。完全にマナー違反だが、今の彼女にそれを指摘したところで聞く耳を持たないだろう。
「私、桜木マナは! 本日ここに『桜花学園新聞部』を設立します!」
高らかな宣言に、教室の空気が一瞬だけ止まり、直後にどっとざわめきが起きた。
「新聞部? うちの学校になかったっけ?」
「放送部と文芸部はあるけど、新聞はないんじゃないか?」
「ていうか、マナが新聞? どうせゴシップ誌みたいなことやるんだろ?」
男子生徒からの容赦ないツッコミに、マナはふふんと得意げに鼻を鳴らした。
「甘いわね! ただの新聞部じゃないわよ。隠蔽された学園の『真実』を暴き、生徒の知る権利を守る、正義のメディアよ! 名付けて『桜花ジャーナル』!」
「……名前の割に、胡散臭さが隠しきれていないな」
俺は鞄に教科書をしまいながら、誰に聞こえるでもない声で冷静にツッコミを入れた。
学園の真実などという大仰なものを、このお調子者がまともに追いかけるとは思えない。十中八九、他人の色恋沙汰や教師の失言などを面白おかしく書き立てるタブロイド紙になるのがオチだろう。
「あ、西園寺くん! ちょうどよかった!」
背筋に悪寒が走った。
マナが机の上から、獲物を見つけた猛禽類のような鋭い目で俺を見下ろしている。
「部員が足りないの! 設立には最低5人の名前が必要なんだけど、今集まってるのは私と、あと……私だけなの!」
「それは集まっているとは言わない。ただの思いつきの一人芝居だ」
「だから、西園寺くんも入って! 幽霊部員でいいから! 名前貸して!」
「断る」
俺は鞄の持ち手を握り、即答した。
「えーっ! ケチ! 減るもんじゃないし!」
「減るよ。俺の平穏な時間が」
新聞部などという、トラブルの火種が常時くすぶっていそうな場所に身を置くわけにはいかない。俺の目標はあくまで、波風を立てずに高校生活をやり過ごす「目立たない隠遁ライフ」だ。彼女の思いつきに付き合って、余計なヘイトを稼ぐ趣味はない。
「それに、君の言う『真実』というのがどうにも信用できない。どうせあることないこと書き立てて、周囲を巻き込んで騒ぎを大きくするつもりだろう」
「失礼な! 私は真実しか書かないよ! ……まあ、読者の興味を惹くために、ちょっとだけ面白おかしく脚色するかもしれないけど」
「その脚色が一番危険なんだよ。勝手にやってくれ」
呆れ果てた俺は、席を立って教室を出ようとした。
だが、マナは素早い動きで机から飛び降りると、俺の進路を塞ぐように両手を広げて通せんぼをした。
そして、口角を吊り上げてニヤリと笑う。
「……ねえ、西園寺くん。入部してくれないなら、私、書いちゃうよ?」
「何をだ?」
「『創刊号』のトップ記事。もう特大のネタは掴んでるんだから」
彼女は制服のポケットをごそごそと探り、小さなリングメモを取り出した。
「昨日さ、放課後に図書室行ったでしょ? 私、偶然後ろの席に座ってたんだよね。西園寺くん、タブレットで何かの画面を食い入るように見てたじゃない?」
俺の動きが止まった。
昨日の放課後。確かに俺は図書室の窓際の席で、夏休みの渡米に向けた航空券の手配と、現地の滞在スケジュールの最終確認を行っていた。周囲に人がいないことは確認したつもりだったが。
「西園寺くん、私が後ろを通った瞬間にサッと画面隠したでしょ。あれで逆に怪しいって思って、一瞬だけ見えちゃった単語をメモしておいたの」
マナはメモ帳のページをめくり、これ見よがしに読み上げた。
「『SFO』『Hotel Reservation』『July 25th』……あと、一番気になったのがこれ。『Investment』」
俺は表情筋を微塵も動かさず、内心で舌打ちをした。
SFOはサンフランシスコ国際空港の3レターコード。日付は夏休み突入直後。そして投資。
マナが後ろを通る気配に気づいて画面を切り替えたつもりだったが、彼女の動体視力と野次馬根性を見誤っていた。背後への警戒が完全に甘かった。
「SFOってサンフランシスコのことだよね? シリコンバレーのすぐ近く。で、7月25日からのホテル予約。さらにインベストメント……投資」
マナが一歩、俺に詰め寄る。その瞳が探偵気取りでらんらんと輝いている。
「西園寺くん、あんた夏休みにアメリカ行くでしょ。しかもただの旅行じゃない」
「……」
「私、ピンときちゃった。西園寺くん、実は……裏社会のマネーロンダリングに巻き込まれてるんじゃないの!?」
「は?」
「だって、高校生がサンフランシスコで投資とかおかしいじゃん! ネットの怪しい闇バイトに応募して、海外の投資詐欺の受け子とかやらされてるんでしょ! マフィアと取引とか!? これって犯罪の匂いがする大スクープじゃない!?」
彼女の声が一段と大きくなる。
周囲で帰り支度をしていた数人の生徒たちが、「え? 何?」「闇バイト?」「マフィア?」と怪訝な顔でこちらを見始めた。
非常にまずい。
彼女の推理自体は明後日の方向にぶっ飛んでいるが、ここで「アメリカに行く」という事実を騒がれ、周囲の興味を引いてしまうのは致命的だ。これまでの「ただの金持ちのボンボン」という擬態に余計なノイズが混じる。
力技で否定して彼女の追及を長引かせるのも悪手だ。彼女は一瞬とはいえ画面の文字を見ており、何よりその無駄な行動力は侮れない。
俺は小さく息を吐き、周囲の視線を遮るようにマナの肩に手を置いた。
「……静かにしてくれ。変な誤解をされる。少し場所を変えよう」
「え、ちょっと! 図星!? やっぱりマフィアに追われてるの!?」
「いいから来い」
俺はマナの腕を軽く引き、足早に教室を出た。
誰もいない東階段の踊り場まで移動し、上下の階に人の気配がないことを確認してから、俺はマナに向き直った。
「桜木さん。君の豊かな想像力には感心するが、マフィアだの闇バイトだのは完全に外れだ」
「えー? じゃあ、あの怪しい単語の羅列は何なのよ」
「アメリカに行くのは事実だ。だが、怪しい取引をしに行くわけじゃない」
俺は頭の中で瞬時にいくつかの言い訳を天秤にかけ、最も彼女が興味を失いそうな無難な設定を口にした。
「……実は、短期の語学留学なんだ」
「語学留学?」
「ああ。うちは親が教育に無駄に厳しくてね。夏休みを利用して、サンフランシスコの語学学校に放り込まれることになっているんだ。ホテル予約というのは、最初の数日間滞在する場所のことだよ」
「えー……なーんだ。めっちゃ普通じゃん」
マナは露骨にがっかりした顔で肩を落とした。
「『桜花学園の生徒、国際的投資詐欺シンジケートの闇に散る!』みたいなセンセーショナルな記事を期待してたのに」
「そんなハリウッド映画みたいな展開があるわけないだろ。……メモにあった『Investment』というのは、向こうで読むように親から渡された経済ニュースの課題のタイトルだ」
マナはまだ少し疑わしげに俺の顔を下から覗き込んできた。
「でもさ、西園寺くんって英語の成績トップじゃん。今更留学なんて必要ある?」
「親からすれば、座学の成績よりもネイティブの空気感を知ることの方が重要らしい。……それに、親の命令には逆らえないからね」
俺はわざとらしくため息をつき、少し肩をすくめてみせた。親の言いなりになるしかない不自由な高校生、という枠に収まることで、彼女の突飛な妄想を抑え込む。
「……そっか。まあ、お金持ちにはお金持ちの面倒くさい事情があるってことね」
案の定、親への不満という等身大の理由に、彼女の表情から毒気が抜けた。
「で? この記事、どうするの? 『西園寺くん、夏休みのシリコンバレーで自分探しの語学留学!』みたいな見出しにする?」
「やめてくれ。ただでさえ気が進まないのに、学内中に知れ渡るのは恥ずかしい。プライベートなことだ」
「えー、でも私、せっかくの創刊号のネタが……」
「その代わり」
俺は渋る彼女に対して、用意しておいた手札を切った。
「新聞部の設立、少しだけ手伝ってやるよ」
「本当!?」
マナの目が再び輝きを取り戻す。
「俺が名前を貸すわけじゃない。ただ、設立に必要な『顧問』の先生の心当たりを教えてやる」
「顧問!? 誰!?」
「図書室の司書をやっている、小野寺先生だ」
俺は普段、図書室で過ごす時間が多い。その中で小野寺先生の勤務態度も自然と観察していた。
「彼女はいつもカウンターの奥で文庫本を読んでいて、生徒の活動にまったく干渉してこない。放任主義の手本のような人だ。うまく交渉すれば、名前を貸してくれるだけでなく、図書室の隅のスペースを部室代わりに使わせてくれるかもしれない」
「うわっ、それ最高じゃん! エアコン完備の部室ゲット!? 西園寺くん、マジで有能!」
「だから、俺のアメリカ行きの件は誰にも言わないこと。それが条件だ」
マナは腕を組んで数秒だけ考え込む素振りを見せたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「分かった! 交渉成立! その代わり、サンフランシスコのお土産期待してるからね! マカダミアナッツチョコ以外で!」
「……ああ、善処する」
マナはスキップでもしそうな足取りで階段を駆け上がり、教室へと戻っていった。
その後ろ姿が見えなくなったことを確認し、俺は小さく息を吐き出した。
とりあえず、彼女の暴走は語学留学という着地点でどうにか抑え込むことができた。
だが、油断は禁物だ。
今回は彼女の推理がマフィアや闇バイトといった見当違いな方向へ飛んでくれたから助かったものの、あの情報からもう少し現実的な推論を立てられていたら、誤魔化しきれなかったかもしれない。
何より、背後から画面を見られるという初歩的なミスを犯した自分自身への戒めが必要だった。
「……学内だからといって、気を抜きすぎたな」
俺は階段の窓から、夕日に染まり始めたグラウンドを見下ろした。
安全圏だと思い込んでいた学校という空間にも、桜木マナのようなイレギュラーな観察眼を持つ人間は存在する。
今後のスケジュール管理や情報へのアクセスは、ペントハウスの自室か、背後を完全に壁で守れる場所でのみ行うよう徹底しなければならない。
俺は誰にも聞こえないほどの小さな声で独り言ちると、静かに階段を降り、帰路についた。




