第27話 資金5億ドル到達
6月8日、火曜日。
関東地方が梅雨入りを発表してから数日が経過していた。
東京の街は鉛色の厚い雲にすっぽりと覆われ、途切れることのない冷たい雨が降り続いている。アスファルトを打ち据える雨音は街の喧騒を重く沈ませ、湿度90パーセントを超すねっとりとした不快な空気が、容赦なく人々の体力を奪っていく。
そのじめじめとした空気は、桜花学園の教室の片隅にまで忍び込んでいた。
「……あーもう、ほんと最悪。せっかく朝セットしたのに、髪の毛うねりまくりだよ」
隣の席で、桜木マナがコンパクトミラーを睨みつけながら深い溜息をついていた。彼女の自慢である綺麗なショートボブが、湿気のせいでふわりと広がり、まとまりを欠いているのがよほど気に入らないらしい。前髪を指先で何度も梳いては、不満げに唇を尖らせている。
「西園寺くんはいいよねー。その無駄に真っ直ぐなサラサラヘア、湿気とか全然関係ないんでしょ? いったい毎日何使ってるの? 美容室専売の高いトリートメントとか?」
「いや、市販のシャンプーしか使ってないよ。強いて言えば遺伝子かな。母の髪質を受け継いだことに感謝している」
「……むっかつくー! そういう嫌味のない余裕が一番ムカつくんだからね!」
マナは理不尽に頬を膨らませ、八つ当たりのように開いていた世界史の教科書をパタンと大きな音を立てて閉じた。
俺は彼女の反応に苦笑いを浮かべつつ、窓の外へと視線を移す。
無数の雨粒がガラスを絶え間なく叩きつけ、グラウンドの景色を水彩画のように歪ませていた。
世間はジメジメとした憂鬱な季節の真っ只中にあり、クラスメイトたちも皆一様に気怠げな表情を見せている。
だが、俺の視界には、この重苦しい雨雲を突き抜けた先にある、眩いばかりの光景がはっきりと見えていた。
空から降り注ぐのは冷たい水滴などではない。今の俺にとっては、まるで黄金の雨のように感じられていた。
放課後のチャイムが鳴り終わるや否や、俺は足早に教室を後にした。
マナから「ねえ、雨も酷いし、駅前のゲーセンで少し雨宿りしてかない?」と声をかけられたが、「家で湿気対策のメンテナンスをしないといけないんだ」と丁重に断った。嘘ではない。愛犬であるベルの念入りなブラッシングと、湿気でベタつく肉球のケアが待っているのだから。
まっすぐペントハウスへと帰還し、空調の効いた快適なリビングに足を踏み入れる。
俺は制服から着替える時間すらもどかしく感じ、そのままの格好でメインデスクの重厚なチェアに腰を下ろした。電源ボタンを押し、4枚の大型モニターを一斉に起動させる。
青白い光が、薄暗い部屋の空気を瞬時に切り裂いた。
そこに次々と映し出されていくのは、狂喜乱舞する市場の熱狂を伝えるニュースヘッドラインと、右肩上がりに跳ねていく数字の羅列だった。
『ナスダック総合指数、連日の最高値更新。終わらない上昇相場』
『Yahho! JAPAN、株式分割を発表。個人投資家からの買い注文が殺到しストップ高』
『ビットバレーの熱狂、渋谷に集う若き起業家たちに集まる巨額のマネー』
1999年6月。
ITバブルは、いよいよその熱量を臨界点へと向けて急激に高めていた。
俺が4月の時点で周到に仕込んでおいた銘柄たちは、まるで地球の重力から完全に解き放たれたかのように、恐ろしいほどのペースで上昇を続けている。
特に顕著なのが、米国の新興テック企業群の株価だ。
具体的な事業モデルを持たない、実態の伴わないドットコム企業であっても、ただ社名に「.com」がついているというだけで、翌日には株価が倍になるという異常事態が日常茶飯事となっていた。
控えめに言っても、狂気の沙汰である。
かつての俺であれば、この根拠のない過熱感に肌が粟立つような恐怖を覚え、利益が乗っているうちに早々にすべてを売却して逃げ出していただろう。市場の熱狂に巻き込まれることの恐ろしさを、身をもって知っていたからだ。
だが、今の俺はこれから訪れる「未来のチャート」を、その結末に至るまで完全に把握している。
この狂乱の宴は、まだ終わらない。
来年、2000年の春先まで、この実態のない神輿は狂ったように担ぎ上げられ続けるのだ。
俺は無意識のうちに微かに震えそうになる指を抑え込み、資産管理ツールの更新ボタンを静かにクリックした。
通信ラグにより、画面がリロードされる一瞬の静寂。
そして、モニターの中央に、冷徹なフォントで弾き出された数字が表示される。
『Total Assets: $502,480,000』
「……行ったか」
誰もいないリビングに、俺の低い呟きだけが落ちた。
5億ドル。
現在の為替レートで円換算すれば、およそ600億円という途方もない金額になる。
転生してきた時点で確保していた巨額の資産が、わずか2ヶ月余りという短期間で約2倍にまで膨れ上がったことになる。
普通の人間であれば、この莫大な数字を目の当たりにした瞬間に歓喜の声を上げて我を忘れるか、あるいは全能感に溺れて高級スポーツカーのカタログでも取り寄せるところだろう。
だが、モニターの光に照らされる俺の心は、自分でも驚くほどに冷え切っていた。
なぜなら、これは俺自身の純粋な投資スキルで勝ち取った結果ではないからだ。
未来の知識という、相場の世界において絶対的なチートを用いた、単なる答え合わせの作業に過ぎない。
増えて当然であり、勝って当たり前のゲーム。そこに達成感や高揚感を見出すことはできない。
何より、俺が最終的に目指しているのは、口座の数字をどこまでも増やしていくことではない。こんなものは、目的を達成するための単なる通過点でしかないのだ。
「……さて、ここからが本番だ」
俺は氷が溶けかけているグラスのアイスコーヒーを一口飲み、頭を完全に切り替えた。
相場全体が上昇している現在のような局面で、資産を増やすことは決して難しくない。極端な話、目隠しをして適当に選んだ銘柄を買って寝ていても勝てる相場なのだ。
だが、莫大な資産を守り抜き、そこからさらに爆発的なリターンを得るためのフェーズは、根本的に意味合いが違う。
これから確実に来るべき「崩壊」。
2000年3月から始まる、ドットコム・バブルの凄惨な崩壊劇。
その時、世界中の浮かれた投資家たちが絶望の悲鳴を上げ、築き上げた資産を瞬く間に溶かしていく中で、俺が確実な利益をもぎ取るための周到な準備。
ショートポジションの構築だ。
俺はサブモニターに、複数の海外証券口座の管理画面を並べて表示させた。
信用取引およびオプション取引の専用口座群である。
相場が下落局面に転じた際に利益を生み出すこの手法は、バブル崩壊という未曾有の暴落相場において、俺の最大の武器となる。
しかし、これには現物取引とは比較にならないほどの強烈なリスクが伴う。読みを外して株価が上がり続ければ、理論上の損失は無限大に膨れ上がり、一瞬にして破滅へと追いやられる危険性を孕んでいるからだ。
だからこそ、市場が熱狂の頂点に向かっている今のうちから、細心の注意を払って「弾」を分散させ、仕込んでおく必要がある。
俺は今回確定させた利益のうち、約1億ドルという資金を、複数の証券会社に分散して送金する手配を整えた。
名目はリスクヘッジのための準備金だが、その実態は、強気なショートを仕掛けるための強固な証拠金だ。
「……随分と性格が悪くなったな、俺も」
キーボードを叩く音が響く中、ふと自嘲気味な笑いが漏れた。
世界中の人々が「インターネットこそが新時代の未来だ」「株価は永遠に上がり続ける」と無邪気な夢を見ているその裏側で、俺一人が氷のように冷徹な思考で、「その甘い夢が残酷に覚める瞬間」に巨額の資金を賭けようとしているのだから。
だが、市場で夢見る者たちへの同情はない。
金融市場は、常に誰かの損失が誰かの利益となる容赦のない戦場だ。
そして、俺には絶対に守り抜かなければならないものがある。
ふと視線を足元に落とす。
いつの間にか俺の足元にやってきていたベルが、俺が脱ぎ捨てたままの靴下を器用に枕代わりにして、腹を出して気持ちよさそうに寝息を立てていた。
その少し離れた場所では、キャットタワーの最上段に陣取ったルナが、ふさふさの尻尾を揺らしながら、王者の風格で下界の様子をじっと見下ろしている。
微かな寝息と、柔らかな毛並み。この平和で、暖かく、そして完全に無防備な小さな命たち。
それに加えて、自分の道を模索しながら不器用にも必死に生きている姉の摩耶や、インターハイに向けて全力を注いでいる健気な結衣先輩、生意気な口を叩きながらも憎めないマナ、そして、適度な距離感で日常を支えてくれる頼れる相棒の涼さん。
彼女たちが当たり前のように笑って過ごせる穏やかな日常を守るためならば、俺は市場でどのような立ち回りを演じることになっても構わない。
5億ドルという途方もない数字も、最終的に彼女たちの幸福な未来を担保し、俺自身が平穏な日々を送るための、ほんのわずかな土台に過ぎないのだから。
俺はエンターキーを静かに、だが確かな力で押し込み、送金処理を最終確定させた。
『Transaction Completed』
無機質なシステムメッセージが表示された瞬間、俺の奥底でピンと張り詰めていた緊張の糸が、ふっと緩んでいくのを感じた。
それと同時に、身体の芯からどっと重い疲労感が押し寄せてくる。
いくら前世の経験があるとはいえ、ワンクリックで数百億円という規模の資金を動かすという行為は、想像以上に脳の処理能力と精神力を削り取るものらしい。
「……ふぅ。とりあえず、今日の作業はここまでにするか」
俺は重たい息を吐きながら高級チェアから立ち上がり、バキバキに凝り固まった肩や首をゆっくりと回して解した。
そのタイミングを見計らったかのように、玄関のチャイムが軽快な音を立てた。
わざわざインターホンのモニターを確認するまでもない。
この夕暮れ時の時間帯、そしてこの完璧なタイミングでふらりとやって来る人物は、俺の知る限り一人しかいないからだ。
「おーい、ボン! 生きてるかー? 雨すげえな!」
玄関のドアを開けると、そこには畳んだビニール傘から雫を滴らせている早坂涼さんが、いつもの快活な笑顔で立っていた。
彼女の片手には、見慣れたコンビニのビニール袋が下げられている。中身は十中八九、彼女の燃料である発泡酒と、ベルやルナのための新しいおやつだろう。
「おかえりなさい、涼さん。今日は随分と早いんですね」
「おう。この雨のせいでサークルの外での活動が中止になっちまってよ。……って、お前、なんか顔色悪くないか? またモニターの前に齧り付いて根詰めてたんだろ?」
彼女は玄関を上がるなり、俺の顔をジッと覗き込んで眉をひそめた。
相変わらず、人の変化に聡い鋭い観察眼を持っている。
「少しばかり、複雑な数字の羅列と格闘していただけですよ。……さあ、どうぞ上がってください。ベルも先ほどから起きて待ってますから」
「おっ、マジで? ベルー! ルナー! 涼姉ちゃんが来たぞー!」
彼女が靴を脱いでリビングに入った瞬間、部屋の空気が一変した。
それまでモニターの駆動音しか聞こえなかった静まり返った空間に、パッと明るい日差しが差し込んだような、温かな賑やかさが満ちていく。
「わんっ! わんわんっ!」
先ほどまで俺の靴下を枕に爆睡していたはずのベルが勢いよく飛び起き、フローリングを滑るように走ってくると、ちぎれんばかりに尻尾を振って涼さんに飛びついた。
キャットタワーの最上段で澄ましていたルナも、軽やかな身のこなしで降りてきて、彼女の足元にスリスリと身体を擦り付けて甘えた声を出している。
「よしよしよし! 相変わらずいい子だなぁお前らは! ん? ルナ、お前また少し重くなったか? 毛並みもツヤツヤじゃねえか」
「成長期でよく食べますからね。……涼さん、バスタオルです。髪も服も濡れているでしょう、風邪を引きますよ」
俺は洗面所から乾いたタオルを持ってきて彼女に手渡した。
「お、サンキュ。気が利くなぁ。……で、ボンのビジネスの方はどうなんだ? ガッツリ儲かったのか?」
彼女は濡れたショートヘアをタオルでガシガシと雑に拭きながら、ニカっと人懐っこい笑みを浮かべた。
俺は彼女に対して、自分の行っている投資の詳細や運用額について具体的なことは一切話していない。それでも彼女は、俺が何か桁外れに大きなことをやっているのだろうと薄々勘付いているはずだ。だが、決してそれ以上深くは踏み込んでこない。
ただこうして、ごく普通の学生としての日常を俺と繋ぎ止めてくれる。この絶妙で心地よい距離感は、今の俺にとって何よりも得難いものだった。
「ええ、まあ。おかげさまで。……ベルとルナが、これから一生最高級のキャットフードとドッグフードを食べて、遊んで暮らせるくらいには余裕ができました」
「ぶっ! 相変わらずスケールがよくわかんねぇな! ……ま、アタシにゃ一生縁のない雲の上の話だけどよ。ほら、これお土産。お前みたいな人間用だ」
彼女は持参したコンビニ袋をゴソゴソと探り、新発売のシールが貼られたプリンを取り出して俺に差し出した。
「糖分補給して頭休めろよ。そんな難しい顔ばっかしてると、若いうちから眉間のシワが取れなくなるぞ」
「……ありがとうございます。頂きます」
俺は差し出されたプリンを受け取った。
指先に伝わる、冷蔵庫から出されたばかりの冷たさと、ずっしりとしたプラスチック容器の重み。
モニターの画面越しに5億ドルという現実味のない数字を見た時よりも、この手の中にある1個120円のコンビニプリンの方が、今の俺には遥かに確かな価値と質量を持っているように感じられた。
翌日。6月9日、水曜日。
分厚い雲は依然として東京の空を覆い尽くし、雨はしとしとと降り続いていた。
昼休み。
俺は借りていた本を返却するために図書室へと向かう途中、薄暗い渡り廊下で花村結衣先輩に呼び止められた。
「あ、西園寺くん!」
「こんにちは、先輩。……どうしました? なんだか、いつにも増して元気がないようですが」
いつもなら太陽のように周囲を明るく照らす彼女だが、今日はどこか湿っぽく、思い詰めたような顔をしている。
部活指定のジャージ姿だが、足取りも重く、いつものような溌剌とした覇気が感じられない。
「ううん、元気だよ! ……ただ、ちょっとね」
彼女は努めて明るい声を出そうとしたが、すぐに言葉を濁し、渡り廊下の窓ガラスを打つ雨粒をぼんやりと見つめた。
「雨、全然止まないね」
「梅雨ですからね。週間天気予報でも、しばらくはこの調子みたいですよ」
「そっか……。雨だとさ、外のコートが全く使えないじゃん? 体育館の割り当ても他の部活と交代で半分になっちゃうし。……インターハイ前の大事な時期なのに、練習時間が全然足りないなぁって思ってさ」
彼女は窓枠に手をつき、小さく溜息をついた。
インターハイの厳しい予選が目前に迫っている。
三年生が引退し、新キャプテンとしてチームを牽引しなければならないという重圧。そして、天候のせいで思うようにメニューを消化できないことへの強い焦り。
生真面目で責任感の強い彼女のことだ。誰にも弱音を吐けず、すべてを一人で抱え込んでしまっているのだろう。
俺は制服のポケットに手を入れた。そこには、昼休みに購買部で買っておいた、個包装のチョコレートが入っていた。
「先輩、少し手を出してください」
「え? うん、こう?」
不思議そうな顔をして差し出された彼女の両掌に、そのチョコレートをぽんと乗せる。
「糖分補給です。そんな難しい顔をしていると、せっかくの可愛い顔が台無しになってしまいますよ。キャプテンが暗い顔をしていては、チームにも伝染します」
「……っ!?」
言葉の意味を理解した瞬間、彼女は耳まで真っ赤にして狼狽えた。
「な、ななな何言ってんの急にバカ! 可愛いとか、そういうのサラッと言うの禁止! ……もう!」
「元気が出ましたか?」
「……うん。ありがと。なんか、ちょっと肩の力抜けたかも」
彼女はもらったチョコレートを両手で大切そうに握りしめ、恥ずかしそうに、けれど少しだけ晴れやかな笑顔を見せた。
「西園寺くんってさ、同い年なのに、たまに凄く大人っぽいっていうか、落ち着いてるよね。……なんだろう、お父さんみたい」
「お父さん扱いされるのは心外です。せめて兄と言ってください」
「あはは! ごめんごめん! ……よーし、チョコ食べて午後からの練習も気合入れて頑張るか!」
彼女は両腕を上げて大きく背伸びをすると、ジャージの裾を翻し、パタパタと軽い足取りで体育館の方向へ走り去っていった。
その小さくなっていく背中を見送りながら、俺はふと思う。
口座に5億ドルの資産があろうとも、この梅雨の雨を止ませることは決してできない。
キャプテンとしての彼女のプレッシャーや不安を、俺が代わって背負うこともできない。
だが、ポケットに入っていた数百円のチョコレート一つで、彼女の張り詰めた心を少しだけほぐし、笑顔を取り戻させることはできる。
資産を増やすことは重要だ。それは理不尽な世界から身を守り、選択の自由を得るための最強の盾となる。
だが、その盾の向こう側で守るべき日常と、誰かを想う心を見失ってしまえば、俺はただの数字に支配された奴隷に成り下がってしまう。
俺は渡り廊下から視線を外し、再び目的地へ向かってゆっくりと歩き出した。
向かう先は図書室。
そこにはきっと、雨の日の静寂を好みながらも、また別の密やかな悩みを抱えているであろう「月の姫」が静かに本を読んでいるはずだ。




