第26話 沙耶のアンニュイな午後
5月29日、土曜日。五月晴れという言葉が相応しい、心地よい初夏の陽気が街を包んでいた。中間テストでの満点騒動や、姉のCMデビューに伴う周囲の喧騒も、週末を迎えてようやく落ち着きを見せ始めている。俺はペントハウスでベルとルナと戯れながら穏やかな朝の時間を過ごした後、昼下がりの街へと繰り出していた。
向かった先は高円寺。古着屋や小さなライブハウス、個性的な雑貨店がひしめき合う、サブカルチャーの熱気に満ちた街だ。駅前のロータリーから続く商店街は、休日の午後ということもあって多くの若者たちでごった返している。行き交う人々の服装は、オーバーサイズのバンドTシャツや派手な柄のシャツ、ダメージの入ったジーンズなど、それぞれの個性を主張するものばかりだ。その中にあって、仕立ての良いシンプルなシャツにセンタープレスの効いたスラックス、足元には磨き上げられた革靴という俺の格好は、控えめに言ってもかなり浮いていた。すれ違う何人かの若者が物珍しそうな視線を向けてくるが、俺は特に気にする様子も見せず、雑多な路地を奥へと進んでいく。
目指すのは、商店街から一本路地に入った場所にある、とある古い雑居ビルだ。コンクリート打ちっ放しの外壁には無数のステッカーが貼られ、階段の入り口には色褪せた看板が立て掛けられている。2階にある古着屋『Garage』。以前、隣人の涼さんから「沙耶先輩がそこでバイトしてるんスよ。暇すぎて死にそうって言ってたから、適当に冷やかしに行ってやってください」と聞いていた店だった。
急で薄暗い階段を上り、重い鉄の扉に手を掛ける。ゆっくりと押し開けると、ドアの上部に取り付けられたカウベルがカラン、とくぐもった乾いた音を立てた。
店内は外の喧騒が嘘のように静かで、少し落とした照明が独特の雰囲気を醸し出している。空気には、古い布地特有の匂いと、微かな防虫剤の香りが混ざり合って漂っていた。ラックにぎっしりと詰め込まれた衣服、壁にディスプレイされた年代物のスニーカーやアクセサリー。雑然としているようで、どこか計算されたような空間だ。
「……いらっしゃい」
カウンターの奥から、やる気のない間延びした声が響いた。
レジ横に置かれた丸椅子に深々と腰掛け、長い足を組んで海外のファッション誌をパラパラと捲っていたのは、柚木沙耶さんだった。今日の彼女は、色褪せた黒のバンドTシャツに太めのダメージデニム、足元は履き潰して味の出たエンジニアブーツという出で立ちだ。艶やかな黒髪のロングヘアを無造作に後ろで一つに束ね、口には棒付きキャンディを咥えている。キャンディの棒が、彼女の唇の端で小さく上下に揺れていた。
彼女の持つ独特の気怠い空気が、この薄暗い古着屋の雰囲気とひどくマッチしている。
「……あら?」
雑誌からゆっくりと顔を上げた沙耶さんは、入り口に立つ俺の姿を視界に捉えると、意外そうに目を瞬かせた。
「誰かと思えば。お坊ちゃんがこんな埃っぽい店に何の用よ? 迷子?」
「涼さんに勧められましてね。もしかしたら掘り出し物があるかもしれないから、と」
「涼のやつ……余計なことを」
沙耶さんは呆れたように短く溜息をつき、咥えていたキャンディをコロリと口の中で転がした。甘い匂いがふわりと漂う。
「見ての通り、あんたの趣味に合いそうなものは何もないわよ。埃と、誰がいつ着たかも分からないボロ布ばっかりなんだから」
「それが古着屋の醍醐味じゃないですか。少し見させてもらっても?」
「好きにすれば? どうせ暇だし」
沙耶さんは再び視線を雑誌へと落とした。俺は苦笑しながら、所狭しと並べられたラックの列へと足を踏み入れる。
1999年の現在、世間はちょっとした古着ブームの只中にある。街を歩けば、どこもかしこも流行りに乗っただけの安価なレプリカや、状態の悪いだけの古着が溢れている。だが、この店に並んでいるラインナップを一つ一つ確認していくと、それらとは明確に一線を画していることが分かった。丁寧にメンテナンスされた70年代のヒッピーシャツ、独特の光沢を放つ50年代のギャバジンジャケット、年代物のミリタリーウェア。店主の並々ならぬこだわりが感じられるセレクトだ。
ラックの服を指先で滑らせながら店の奥へと進んだ俺の足が、壁際の高い位置にディスプレイされた一本のデニムの前で止まった。
一見すると、激しく色落ちし、あちこちに擦り切れが見られるただの汚れたジーンズだ。だが、生地の表面に浮かび上がる特有の縦落ちや、太腿部分に入った芸術的なヒゲ、そして縫製に使われている糸の褪色具合など、その一本が纏っている只者ではない空気に、自然と視線が吸い寄せられた。
「……ほう」
思わず感嘆の声が漏れる。ポケットから持参した白手袋を取り出して手にはめ、ディスプレイに手を伸ばして慎重に生地の質感を確認する。ザラリとした厚みのある感触、そして重厚感。間違いない。
「……これ、素晴らしいですね」
「ん?」
俺の呟きに反応し、沙耶さんが気だるげにカウンターから出てきた。エンジニアブーツが床を鳴らす。
「ああ、それ? やけに高い位置に飾ってあるでしょ。高すぎて誰も買わないのよ。店長の趣味で置いてるだけの、いわゆる看板商品ってやつ」
「看板商品ですか。なるほど、それも納得の存在感だ」
「見る目あるのね。それ、50年代のオリジナルよ。レプリカじゃない本物。まぁ、状態は見ての通りボロボロだけど」
「いや、この状態だからこそ価値があるんですよ。生地のヤレ具合といい、この色落ちのコントラストといい……前の持ち主がどれだけ穿き込んだかが伝わってくる。これだけの雰囲気を持った個体には、そうそうお目にかかれませんよ」
俺は手袋越しの感触を確かめるように、そっとデニムを撫でた。理屈ではない。ただ純粋に、長い年月を経て完成された「モノ」としての圧倒的な魅力に惹きつけられていた。
「……ちょっと、あんた」
沙耶さんが、まじまじと俺の顔を覗き込んできた。その瞳には、少しばかりの驚きと呆れが混じっている。
「今の話し方、なんだか古着マニアのおっさんみたいよ? そんな綺麗な格好してるくせに、変なの」
俺は小さく肩を竦めた。
「古いものが好きなだけですよ。こういう歴史を感じるアイテムには、新しいものにはない魅力がありますから」
「ふーん……」
彼女は目を細め、品定めするように俺の全身を舐め回すように見た後、ふっと口角を上げた。
「ま、いいわ。あんたみたいな物好きが来てくれて、退屈しのぎにはなったし」
「それは光栄です。……これ、いただきます」
「へっ?」
沙耶さんの動きがピタリと止まり、間の抜けた声を出した。
「本気? 冗談でしょ。それ、15万するわよ?」
「ええ。その価値は十分にあると思います。現金で構いませんか?」
俺はジャケットの内ポケットから財布を取り出し、手早く紙幣を数えてカウンターに置いた。
沙耶さんはカウンターの上の札束と俺の顔を交互に見比べ、はぁ、と特大の溜息をついた。
「……あんた、本当に何者なのよ。高校生がポンと出せる額じゃないでしょ」
呆れたように言いながらも、彼女は手際よくデニムを丁寧に折りたたみ、丈夫な紙袋へと収めていく。
「ただの、古いものが好きな高校生ですよ。たまたま持ち合わせがあっただけで」
「嘘ばっかり。……でも、まぁ」
彼女は紙袋を俺に手渡す際、一瞬だけその冷たい指先が俺の手に触れた。
「あんたのその趣味、嫌いじゃないわ。また来なさいよ。涼抜きでね」
「……ええ、機会があれば」
店を出ると、夕暮れの涼しい風が心地よく吹き抜けた。手にはずっしりとした紙袋の重み。そして、すれ違った際に微かに香った甘いキャンディの匂いが、鼻腔の奥にほんのりと残っていた。
休日の喧騒が遠ざかっていく街を歩きながら、俺は駅へと向かった。
★★★★★★★★★★★
一度ペントハウスに戻り、購入したデニムをクローゼットに慎重に収める。ベルとルナに夕食を与え、少しだけブラッシングをしてやった後、俺は再び外出の準備を整えた。今度は、夜のレストランに合わせたラフなジャケットスタイルだ。
19時ちょうど。
マンションのエントランスで待っていると、街灯の光を反射しながら一台の車が滑り込んできた。真っ赤なイタリア製のスポーツカー。低いエンジン音を響かせながら目の前に停車すると、運転席の窓がスッと下がり、大振りのサングラスをかけた美女が顔を出した。
「お待たせ、玲央。乗りなさい」
天童くるみさんだった。
「こんばんは、くるみさん。……相変わらず、目立ちすぎですよ。その車」
「いいのよ。私は目立ってナンボの職業なんだから。さ、早く早く」
彼女は悪戯っぽく笑い、助手席のドアのロックを解除した。
シートに滑り込むと、高級なレザーの匂いと彼女の香水の香りが車内を満たしている。今日は、以前のドラマ撮影で俺がエキストラとして協力したことへの、お礼としての食事だった。
車は夕闇に包まれた都心を軽快に走り抜け、麻布十番の入り組んだ路地裏へと入っていく。たどり着いたのは、通りに面した看板すらない、知る人ぞ知る隠れ家的なイタリアンレストランだった。
案内された奥の個室に通され、ドアが閉まったところで、ようやく彼女はサングラスを外した。
「ふぅ……やっと落ち着ける。変装も疲れるのよね」
今日の彼女は、大きく背中の開いた黒のサマーニットにタイトなスカートという、大人の色気が漂う装いだった。テレビのバラエティ番組で見せる「計算された小悪魔キャラ」とは違う、どこか気の抜けた素の表情が見え隠れしている。
「お疲れ様です。最近、また一段と忙しそうですね」
俺が席に座りながら声をかけると、彼女は少し嬉しそうに微笑んだ。
「おかげさまでね。こないだあんたに手伝ってもらったドラマ、現場での評判がすごく良くてさ。まだオンエア前なのに、業界内で噂になってるみたいで、次のオファーの話も舞い込んできてるのよ。……本当に、あんたのおかげよ」
運ばれてきた乾杯のシャンパンを軽く合わせながら、彼女は目を細めた。
「感謝してるわ。あの時、あんたが現場にいてくれなかったら、私の面目丸潰れだったんだから」
「大袈裟ですよ。俺はただ、言われた通りに立っていただけです」
「それが一番重要だったのよ。監督も『あの子の佇まいは完璧だった』ってベタ褒めだったんだから。……ねえ、玲央」
彼女はシャンパングラスをテーブルに置き、真剣な眼差しで俺を見つめてきた。
「摩耶から聞いたわ。あんた、夏休みにアメリカ行くんでしょ?」
「……姉さんは相変わらず耳が早いですね」
「当たり前でしょ、親友なんだから。何でも筒抜けよ。……向こうに何しに行くの?」
「少し、個人的な用事で。シリコンバレーの空気を吸ってこようかと」
「ふーん……」
彼女は少しだけ寂しそうに目を伏せたが、すぐにいつもの明るい笑顔に戻った。
「ま、いいわ。向こうでしっかりいろんなもの見て、大きくなって帰ってきなさい。そしたら、またこうして美味しいご飯、奢ってあげるから」
「その時は、俺が奢りますよ。出世払いということで」
「生意気! ……でも、楽しみにしてるわ」
冷前菜のカルパッチョや色鮮やかな手打ちパスタなど、美しく盛り付けられた料理が運ばれてくると、自然と会話も弾んでいった。
芸能界のちょっとした裏話や、姉の摩耶が現場で起こした信じられないような天然エピソードの数々。くるみさんは身振り手振りを交えて楽しそうに話し、俺は適度に相槌を打ちながら料理を味わう。
話題が俺の飼っているペットのことに移ると、彼女はさらに身を乗り出してきた。
「へぇ、ベルちゃんってそんなに賢いの? 摩耶から写真は見せてもらってたけど、今度絶対に会いに行かなきゃ」
「ルナも可愛いですよ。最近はボールを投げると『取ってこい』ができるようになりました」
「猫が!? すごいじゃない! うちの実家で飼ってた犬でもできなかったのに」
驚いたように目を見開く彼女の反応が面白くて、俺は思わず小さく吹き出した。
美味しい料理と、他愛のない楽しい会話。テレビでは決して見せない彼女の素顔に触れながら過ごす時間は、とても穏やかで心地よいものだった。年上の女性特有の色香と包容力がありながら、時折見せる少女のような無邪気さが、彼女の魅力をより一層引き立てている。
「ごちそうさまでした。美味しかったです」
食後のエスプレッソを飲み終え、店を出ると、夜の空気はほんのりと肌寒かった。
「送るわよ。車、すぐそこに停めてあるし」
「いえ、ここからならタクシーで帰ります。くるみさんも明日、朝が早いんでしょう? ゆっくり休んでください」
「……つれないわね、相変わらず」
彼女は少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、それ以上無理強いはしなかった。
「じゃあ、またね。気をつけて行くのよ、アメリカ」
「はい。お土産、期待していてください」
手を振って真っ赤なスポーツカーが夜の街へと走り去っていくのを見送り、俺は大通りに出てタクシーを拾った。
滑り出すように走り始めた車の後部座席で、シートに深く身を沈める。窓ガラスの向こう側を、色鮮やかな東京の夜景が次々と流れていく。
古着屋での沙耶さんとのやり取り。レストランでのくるみさんとの会話。どちらも、穏やかで満ち足りた時間だった。
俺は目を閉じ、今日一日の出来事を静かに思い返しながら、ベルとルナが待つペントハウスへと向かうタクシーに揺られていた。




