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平穏最優先の財閥御曹司、未来知識で投資起業  作者: 伊達ジン


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第25話 摩耶の初ブレイク

 5月25日、火曜日。


 初夏を思わせる強い日差しが照りつける午後。俺はペントハウスのリビングで、冷たい麦茶を傾けながら大きく息を吐き出した。

 先週、中間テストの結果が張り出されて以来、俺の「全教科満点」という結果は瞬く間に学園中の話題をさらってしまった。教師陣からは期待と戸惑いの入り混じった視線を向けられ、すれ違う生徒たちには遠巻きにヒソヒソと指を差される始末。そんな浮かれた喧騒から距離を置くため、ほとぼりが冷めるのを待つように、俺はこの一週間極力目立たない生活を心がけてきた。授業中はノートの陰で寝たふりを貫き、休み時間になれば図書室の奥にある書架の裏へと素早く避難する。

 誰にも干渉されない、静かで平穏な時間。それが今の俺にとって何よりも得難いものだった。


 そんな隠遁生活を送る俺の安息を破るように、ソファの上に放り出していた携帯電話がけたたましく鳴り響いた。

 モノクロの小さな液晶画面に表示された『姉さん』の文字を見て、嫌な予感が脳裏をよぎる。通話ボタンを押して耳に当てた瞬間、鼓膜を劈くような悲鳴が飛び込んできた。


『玲央ー! 助けてー! もう無理、限界ーっ!』


「……落ち着いて、姉さん。とりあえず深呼吸して。何があったの? 誘拐でもされた?」

『違う! 大学! キャンパスが大変なことになってるの! もう、どこを歩いてもジロジロ見られて、食堂なんて人だかりで近寄れもしないのよ!』


 電話の向こうから聞こえてくる姉・摩耶の声は、半泣きを通り越してパニック状態に陥っていた。背後からは「あ、あそこにいるのって……」「マジだ、すげぇ美人……」といった無数のざわめきが漏れ聞こえてくる。


「大学が大変って……ああ、そうか」


 俺は壁のカレンダーに目をやり、今日の日付を確認して納得した。

 発端は、連休明けに姉が参加した小さな撮影の仕事だ。所属事務所の木村社長からは「女優や上品なモデル路線でじっくりと育てていく」という方針を聞かされていた通り、それは全国放送の華々しいデビューなどではなかった。地方局の深夜枠でのみ流れる予定の、清涼飲料水のささやかなCM。社長も「まずは現場の空気を知り、カメラの前で動く練習だと思って気楽にやっておいで」と言っていたお試しの仕事だった。


 ところが、数日前にそのCMが一部の地域で放送されるや否や、深夜番組のチェックを生きがいとする層がネットの匿名掲示板にテレビ画面のキャプチャ画像を貼り付けたことで、状況は一変した。まだダイヤルアップ接続が主流で画像の表示にも時間がかかる時代だというのに、『この透明感あふれる美少女は誰だ』というスレッドが乱立し、瞬く間に話題が拡散されていったのだ。ネット上の熱狂はすぐにマスコミの耳にも入り、極めつけに今日の朝から昼にかけて、複数のワイドショーが「話題の東大美女」として大々的に取り上げてしまったらしい。


「まさかここまで反響が大きくなるとは、木村社長も予想外だっただろうね」

『悠長なこと言ってる場合じゃないわよ! 朝のニュースの合間にも、昼のワイドショーにも! おかげでキャンパス歩いてたら「あ、CMの子だ」って指差されて……東大生って意外とミーハーなのね!?』

「そりゃあ東大生だって普通の人間だし、世間と同じように話題の人物がいれば興味を持つよ。しかも『東大美女』なんていう分かりやすい付加価値までついてるんだから、マスコミや学生の注目度が倍増するのは避けられない有名税だよ。諦めな」

『他人事だと思って! ……もう授業どころじゃないから、今からそっち行く! 癒やして! めちゃくちゃ甘いもの用意して待ってて!』


 ガチャリ、と一方的に通話が切れた。

 俺は熱を持った携帯をテーブルに置き、やれやれと深い溜息をつく。足元では、お気に入りのクッションで丸くなっていたパピヨンのベルが「どうしたの?」とでも言いたげに首を傾げている。視線を上げると、窓際のキャットタワーの最上段から、ロシアンブルーのルナが我関せずといった涼しい顔でこちらを見下ろしていた。


「ベル、ルナ。今日は少し騒がしい午後になりそうだぞ」


 俺は立ち上がり、エプロンを身につけてキッチンへと向かった。

 見知らぬ大勢の視線に晒され、心身ともに疲労困憊しているであろう姉を癒やすためのスイーツ。生半可なケーキやクッキーでは、今の彼女の荒ぶる心を鎮めることはできないだろう。今の姉に必要なのは、もっと原始的な欲求にダイレクトに訴えかけつつ、どこか背徳感を感じさせるような強烈なご褒美だ。


「……ドーナツにするか」


 それも、コンビニの棚に並んでいるようなパサパサとしたオールドファッションではない。パン生地を時間をかけて発酵させて作る、極上にふわふわなイーストドーナツだ。

 俺は冷蔵庫を開け、必要な材料を順番にカウンターに並べていく。風味豊かな強力粉、新鮮な卵、無塩バター、上白糖、そしてパン作りの要となる生イースト。

 ステンレスのボウルに強力粉を振るい入れ、中央に窪みを作ってから、人肌に温めた牛乳で溶いた生イーストを丁寧に流し込む。ここからは生地の温度を下げないための時間との勝負になる。台に生地を取り出し、体重を乗せて捏ね始めた。叩きつけるような力強さと、生地を傷めない優しさを両立させながら、ただ無心で手を動かし続ける。やがて表面に滑らかなグルテン膜が形成され、赤ちゃんの耳たぶのように吸い付くような柔らかさを手の中に感じたところで手を止めた。


 生地を丸めてボウルに戻し、ラップをかけて30度のオーブンで40分間の一次発酵に入る。

 生地がゆっくりと呼吸をしながら膨らんでいくのを待つ間に、中に詰めるフィリングの準備に取り掛かることにした。今日はただ甘いだけではなく、少し大人なテイストを忍ばせたい。

 小鍋で牛乳を温め、卵黄と砂糖をすり混ぜたボウルに少しずつ加えていく。たっぷりとバニラビーンズの鞘をしごいて黒い粒を落とし、弱火にかけながら焦げないようにヘラで練り上げていくと、キッチンいっぱいに濃厚で甘い香りが立ち込めた。艶やかなカスタードクリームが炊き上がったところで、俺は戸棚の奥から見慣れない一本の瓶を取り出す。


『パスティス』


 フランス生まれの、アニスを主原料としたリキュールだ。

 薬草を思わせる独特の清涼感のある香りを放ち、水を加えると透明な液体が淡く白濁するという不思議な性質を持っている。本来であればロックや水割りで食前酒として楽しむ大人の嗜みだが、未成年の俺たちがそのまま飲むことはできない。しかし、この妖艶な香りは、使い方次第で濃厚なスイーツの甘さを引き締める最高のアクセントになるのだ。


 粗熱を取ったカスタードクリームに、パスティスを数滴だけ慎重に垂らす。余熱でアルコール分は完全に揮発し、後にはバニラの甘さに寄り添うような、爽やかでどこかエキゾチックなアニスの香りだけが静かに残った。味見をすると、重たくなりがちなカスタードの輪郭がくっきりと際立ち、次の一口を誘うような見事なバランスに仕上がっている。


 一次発酵を終えてボウルから溢れんばかりに膨らんだ生地を取り出し、優しく掌で押してガスを抜く。均等に分割し、綺麗なリング型に成形してから、さらに二次発酵の工程を経る。ふっくらと丸みを帯びて膨らんだ生地は、少し強く触れただけで形が崩れてしまいそうなほど繊細で愛らしい。

 コンロに火をつけ、揚げ油の温度をきっちり170度に設定する。高すぎれば表面だけが黒く焦げ付き、低すぎれば油を吸ってべちゃべちゃとした重い仕上がりになってしまう。1度の狂いも許されないシビアな工程だ。菜箸の先から立ち上る細かな泡で温度を見極め、クッキングシートに乗せた繊細な生地を、そっと油の海へと滑らせた。


 ジュワアァァァ……。


 静かなキッチンに、食欲を刺激する心地よい音が響き渡る。無数の小さな気泡が生地の周囲を包み込み、ゆっくりと熱を伝えていく。片面をきっちり2分間揚げてから、菜箸で優しくひっくり返す。油の中から姿を現したのは、食欲をそそる完璧なキツネ色だった。

 そして何より美しいのは、生地の側面にぐるりと一周、くっきりと浮かび上がった白い線――通称「ホワイトライン」だ。これこそが、発酵が過不足なく完璧に行われ、生地の中にたっぷりと空気を含んで軽く仕上がっている何よりの証拠である。


 網の上に揚げたてのドーナツを引き上げ、しっかりと油を切ってから粗熱を取る。横からペティナイフで細い切れ目を入れ、絞り袋に入れた特製のパスティス・カスタードをたっぷりと注入していく。最後に、茶漉しを使って粉砂糖をまるで初雪のようにハラハラと降らせれば、すべての工程が終了した。


 その絶妙なタイミングを計っていたかのように、玄関のチャイムがけたたましく鳴り響いた。


「玲央ー! 開けてー! 早くー!」


 俺はエプロンで手を拭きながら玄関へ向かい、ドアの鍵を開けた。

 そこには、まるで週刊誌に追われるお忍びのアイドルのような風体の人物が立っていた。顔の半分を覆い隠すような巨大なサングラスに、目深に被ったキャップ。さらに襟元を立てたスプリングコートという異様な出で立ちだが、その内側から漏れ出す隠しきれない華やかなオーラによって、変装は完全に逆効果になっている。


「おかえり、一躍時の人」

「もう! 茶化さないでよ! こっちは生きた心地がしなかったんだから!」


 帽子とサングラスを乱暴にむしり取りながら、姉がリビングへと雪崩れ込んでくる。


「はいはい、お疲れ様。とりあえずそこに座って一息つきなよ。ベル、お姉ちゃんを慰めてあげて」

「ワンッ!」


 空気を読んだベルが短い尻尾をちぎれんばかりに振りながら駆け寄り、姉の足元に擦り寄った。


「ベルちゃーん! 会いたかったよぉ〜! 癒やされるぅ〜!」


 姉はカーペットの上にへたり込み、ベルの柔らかな毛並みに顔を埋めた。


「本当に疲れた……。大学のキャンパス歩いてるだけで、みんな私のこと珍獣か何かみたいに遠巻きに見るんだもん。遠くからこっそりカメラ向けられたりして、気が気じゃなかった……」

「ネットの話題なんて数日もすれば次の獲物に移って飽きられるよ。それより、リクエスト通りの甘いものを用意したから食べな」


 俺は揚げたてでほんのりと温かいドーナツを乗せた皿と、氷をたっぷり入れたグラスをローテーブルに置いた。グラスの中身は、冷たい水とアーモンドシロップを合わせ、そこに少量のレモン果汁を加えた『モレスク』というノンアルコールドリンクだ。本来はこれもパスティスを使うカクテルだが、今日はアーモンドの風味で代用している。


「……ドーナツ?」


 姉がベルを抱きしめたまま顔を上げ、テーブルの上の皿を見つめる。


「ただのドーナツじゃないよ。まあ、食べてみて」


 姉は半信半疑といった表情で大ぶりのドーナツを両手で持ち上げ、大きく口を開けてかぶりついた。


 サクッ。フワッ。


 表面の薄い層が心地よい音を立てて砕け、その内側にある空気を含んだ柔らかな生地が、口の中で雪のように解けていく。そして、切れ目から溢れ出した濃厚なカスタードクリームが、生地と絶妙に絡み合った。


「……っ!?」


 姉の目が、こぼれ落ちそうなほど大きく見開かれた。


「何これ!? すっごい美味しい! え、これ本当にドーナツなの? 持ってる手応えがないくらい、空気みたいに軽いんだけど!」

「時間をかけてイースト発酵させてるからね。それに、たっぷり詰めたクリームにも少し工夫をしてる」

「ん〜! なんか、ハーブっぽいっていうか……すごく爽やかな香りが鼻に抜ける! 甘いのに全然くどくない!」

「パスティスっていう、アニスのお酒の香りを移してあるんだ。アルコールは飛んでるから酔わないけど、香りのアクセントになると思ってね」

「へぇ……お洒落! なんか高級なパティスリーの味がする! 玲央、あんた本当に何者なの?」


 姉は感嘆の声を上げながら、夢中になってドーナツを頬張っていく。口の周りに白い粉砂糖をべったりとつけ、指先についたクリームまで舐めとるその無防備な姿は、ワイドショーで持て囃されている「クールで神秘的な東大美女」というイメージとは程遠い、食い意地の張ったいつもの姉だった。


「一緒にドリンクも飲んでみて。口の中の甘さがリセットされてさっぱりするから」

「ん、ありがと。……あー、冷たくて美味しい。生き返ったぁ」


 二個目のドーナツを平らげ、グラスを空にした姉は、ようやく人心地ついたのかソファの背もたれに深く体を預け、長いため息を吐き出した。


「……ねえ、玲央。私、芸能界向いてないのかな」


 不意に、ぽつりとこぼれ落ちた弱気な言葉。


「どうして急にそんなこと言うの?」

「だって、怖いのよ。今日みたいに、全然知らない人たちから一斉に見られたり、ヒソヒソ噂されたりするのが。……今日はまだ大学の中だったから良かったけど、これが街中とか電車の中になったらって想像すると、もう普通の生活なんてできないんじゃないかって……」


 想定外のスピードで注目を浴びてしまったことへの、戸惑いと恐怖。姉の震える声色から、その本気の怯えが伝わってくる。

 俺はキッチンから自分の分のホットコーヒーを淹れて戻り、対面のソファに腰を下ろした。


「大丈夫だよ」

「……どうして、そんなに簡単に言い切れるの?」

「姉さんには、こうして帰ってくる場所があるからだよ」


 俺は部屋の中をぐるりと見渡した。

 カーペットの上で丸くなって眠り始めたベル。キャットタワーの上で毛づくろいを終え、あくびをしているルナ。そして、キッチンから漂ってくる甘い油とバニラの匂い。


「外の世界でどんなに好奇の目に晒されても、ネットの掲示板で何を言われても、このドアを開ければ姉さんはただの『西園寺摩耶』に戻れる。俺もいるし、ベルもルナもいる。この家の中だけは、外の喧騒なんて一切関係ないんだから」


 俺はコーヒーを一口飲み、姉の顔を真っ直ぐに見つめた。


「それに、俺がついてる。姉さんが安心して仕事ができるように、面倒なトラブルとか変な虫は俺が全部追い払ってやるよ。だから、安心してやりたいようにやればいい」

「……ぷっ」


 俺の言葉を聞いた姉が、急に吹き出した。


「ふふっ、何よそれ。相変わらず重度のシスコンなんだから」

「事実を言ったまでだよ。……ほら、せっかく揚げたんだから、もう一個食べる?」

「食べる! もしこれで太って撮影に響いたら、全部玲央のせいだからね!」


 姉は完全に吹っ切れたような明るい笑顔を取り戻し、元気よく三個目のドーナツに手を伸ばした。テレビの中で作られた虚像ではなく、口の周りに粉砂糖をつけた実像としての姉。俺が守るべきは、この姉の無防備な笑顔なのだと改めて心に刻む。


「あ、そういえばさ」


 姉がドーナツをモグモグと咀嚼しながら思い出したように言った。


「来週の日曜、ファッション誌の撮影が入ったの。木村社長が急遽押し込んでくれたみたいで。……それでね、玲央も現場に来てくれない?」

「俺が? なんでまた」

「マネージャーの片山さんがね、『ぜひ弟くんの意見も聞きながら進めたい』って言ってたの。……それに、初めての雑誌の現場だし、玲央がそばにいてくれた方が私、変に緊張せずに頑張れるから」


 上目遣いでこちらを見つめてくるその仕草は、計算し尽くされたようにあざとい。だが、それが彼女なりの照れ隠しであることも分かっている。


「……分かったよ。日曜なら別に予定もないし、スケジュール空けておく」

「やったー! 愛してるわ玲央!」

「はいはい。とりあえず、口の周りの砂糖を綺麗に拭いてから言ってよね」


 姉から手渡されたティッシュを受け取りながら、俺は小さく笑い声を上げた。

 窓の外では、東京の空がゆっくりと茜色に染まり始めている。ペントハウスの静かなリビングには、手作りのドーナツの甘い匂いと、爽やかなアニスの香りがいつまでも心地よく漂っていた。

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