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平穏最優先の財閥御曹司、未来知識で投資起業  作者: 伊達ジン


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第24話 中間テストの怪

 5月中旬。初夏の生ぬるい風が窓から吹き込む教室は、普段の喧騒とは異なる、どこかピリついた空気に支配されていた。

 一学期の中間テスト。入学して間もない一年生たちにとって、それは高校生活における自身の立ち位置を測る最初の試金石となる。教室のあちこちからは、教科書やノートを慌ただしくめくる音と共に、「昨日の夜、数学の公式覚えようとしたら寝落ちした」「古文の範囲、結局どこからだっけ?」といった切実な声が交差していた。

 誰もが直前まで知識を詰め込もうと必死になっている中、俺は静かにマイボトルのフタを開け、温かいアールグレイを口に含んだ。ベルガモットの香りが、睡眠不足で鈍った頭にほんの少しだけ輪郭を与えてくれる。


「……随分と余裕そうだね、西園寺くん」


 不意に声をかけられ視線を向けると、隣の席の桜木マナが、うっすらと目の下にクマを作った顔でこちらをジトッと睨んでいた。彼女の机の上には、赤シートが挟まれた英単語帳が開かれている。


「諦めの境地だよ。まな板の上の鯉ってやつさ」


 俺は努めて平静な声で返した。

 嘘ではない。事実として、俺は今回のテストに向けていわゆる「テスト勉強」というものを一切していない。

 理由は単純明快だ。圧倒的な時間不足である。

 夏の渡米に向けた水面下での準備は、いよいよ最終段階に入っていた。航空券や滞在先の確保はとうに済ませてあるが、最も重要視すべきは、現地で接触するターゲットを説得するための緻密な資料作りだ。彼らが構築したアルゴリズムの持つ真の価値と、それが将来生み出す莫大な利益構造。それを、ただの夢想ではなく、確固たるロジックとして提示しなければならない。

 昨夜も気がつけば時計の針は午前3時を回っており、画面の光を浴び続けた目はひどく乾いていた。ギリギリまでキーボードを叩き続けた結果、今日の睡眠時間はわずか3時間弱だ。眼球の奥には鈍い痛みが居座っており、高校の定期テストに割くための思考の余力など、もはや一滴も残っていなかった。


『キーンコーンカーンコーン』


 始業のチャイムが鳴り響き、複数のプリントの束を抱えた試験監督の教師が教室へと入ってくる。

 一限目は現代文だった。わら半紙特有の匂いが漂う問題用紙と解答用紙が、前から順に配られていく。


「それじゃあ、始め!」


 教師の合図と共に、一斉にプリントがめくられ、鉛筆が紙を擦る音が教室中に響き渡った。

 俺は小さく息を吸い込み、問題用紙に目を落とす。


 第一問は評論。傍線部の筆者の心情を問う、オーソドックスな設問だ。

 文章全体をざっと俯瞰する。筆者は社会のシステムに対する疎外感を抱きつつも、それを直視したくないという自己正当化のバイアスに囚われているようだ。文章の構造さえ把握してしまえば、出題者がどの部分を「正解」として求めているのかは手に取るように分かる。

 第二問の四字熟語の穴埋めも、前後の文脈を辿るまでもなく、視覚的なパターンのように脳内で文字列が完成していく。因果応報、唯我独尊、五里霧中。

 ペンを走らせる手に迷いはなかった。文章の構造さえ把握してしまえば、問われている論理構成はあまりにも平易で、素直すぎた。


 開始からおよそ15分。

 最後の解答欄を埋め終え、念のための見直しを済ませても、時計の針はまだ20分しか進んでいなかった。試験終了まではたっぷり30分以上残されている。


(……少し、休むか)


 俺は音を立てないようにペンを筆箱にしまい、解答用紙を裏返した。そして、組んだ腕の上にゆっくりと頭を乗せる。

 今、俺に必要なのは一秒でも多くの睡眠だ。目を閉じると、疲労の蓄積された脳は急速にシャットダウンの手順に入り、意識は深い闇の中へと沈んでいった。


★★★★★★★★★★★


「……きなさい。おい、起きなさい、西園寺!」


 肩を強めに揺さぶられ、俺は重い瞼を開けた。

 顔を上げると、試験監督の教師が呆れと怒りが入り混じったような顔で俺を見下ろしている。周囲に視線を巡らせると、クラスメイトたちは既にペンを置き、一様にこちらへ注目していた。


「試験は終了だ。お前、まさか最初から最後まで寝ていたわけじゃないだろうな?」

「まさか。やるべきことは終わらせましたよ」


 俺は口元を覆って欠伸を誤魔化しながら、裏返していた解答用紙を表に向け、教師へと差し出した。


 その後に行われた数学、英語、理科、社会のテストにおいても、俺の行動パターンは変わらなかった。

 問題用紙が配られた直後に猛烈な速度で解答を埋め、残りの時間はすべて机に突っ伏して睡眠に充てる。特に英語は長文を読むまでもなく空欄の前後だけで解答が導き出せたし、数学の二次関数や確率の計算も、公式に当てはめるだけの単調な作業だった。

 こうして、俺にとっての初めての中間テストは、極限まで効率化された「睡眠時間確保の場」として幕を閉じた。


★★★★★★★★★★★


 数日後。

 テスト返却日の教室は、予想通りの喧噪に包まれていた。


「うわ、最悪! 赤点まであと2点だったのに!」

「英語の長文、時間全然足りなかったんだけど……」


 あちこちで悲喜交々の声が上がる中、プリントの束を手にした担任が教壇に立ち、パンパンと手を叩いて場を静めさせた。


「えー、今回のテスト結果だが……学年トップは、このクラスから出た」


 その言葉に、教室の空気がざわっと揺れる。


「西園寺」

「はい」


 名前を呼ばれ、俺は静かに席を立った。

 教壇へ向かい、担任から5枚の解答用紙を受け取る。

 チラリと視界に入った右上の数字は、国語、数学、英語、理科、社会、そのすべてに「100」という赤い数字が書き込まれていた。

 合計、500点満点。


「…………」


 俺が席に戻るまでの間、教室は奇妙なほど静まり返っていた。

 誰も一言も発しない。あまりにも現実味のない極端な数字を突きつけられ、どう反応していいのか分からないといった様子だった。


 担任が重々しい手つきでこめかみを押さえる。


「職員室でも少し話題になってるぞ。お前、授業中はノートもろくに取らず、テスト中も大半の時間は突っ伏して寝ていたそうじゃないか。それで全教科満点とは、一体どういう手品だ?」

「手品など使っていません。ただ、出題された問題に対して、適切な解答を書いただけです」


 俺は事実のみを淡々と答えた。決して挑発する意図はなく、それ以外の答えようがなかったのだ。


「……はぁ。まあ、カンニングの疑いがあるわけでもないし、お前の実力だということは認める。ただな、もう少しこう……生徒らしいというか、愛嬌のようなものをだな……」

「善処します」


 俺が席に着くと、隣のマナが口を半開きにしたまま完全に固まっていた。


「……西園寺くん」

「何かな」

「あんた、本当に人間? 実は精巧に作られたアンドロイドとかじゃないよね?」

「失礼なことを言う。ちゃんと温かい血が流れているよ」

「信じられない。絶対、脳内にスーパーコンピューター埋め込んでるでしょ! ちょっと頭蓋骨開けて見せてよ!」

「物騒なことを言うな。サイコパスか君は」


 マナが大袈裟に騒ぎ立ててくれたおかげで、ようやく教室の凍りついた空気が溶け始めた。


「すげぇ……西園寺、マジでバケモノじゃん」

「なんかもう、凄すぎてよく分かんないな……」


 周囲から向けられる視線は、称賛というよりも畏怖に近いものだった。

 俺は誰にも気づかれないように、ひっそりと息を吐き出した。

 本来であれば、目立たないように平均点を少し上回る程度の点数に調整するつもりだったのだ。しかし、いざ問題用紙と向き合うと、「この設問はここを引っかけようとしているな」「この出題者の意図はこういうことだろう」と、無意識のうちに出題側のロジックを分析してしまい、結果として完璧な解答を構築してしまっていた。

 手加減をするというのは、案外難しいものだ。


 放課後。

 予想通り担任に呼び出された俺は、職員室で「授業態度の改善」と「今後の進路に関する真剣な展望」についての説教をたっぷり30分ほど聞かされた後、ようやく解放された。


 廊下を歩きながら、窮屈だったネクタイの結び目を少しだけ緩める。

 疲労感がどっと押し寄せてきた。早くペントハウスへ帰ろう。今頃は涼さんが、ベルとルナを連れて夕方の散歩に出ているはずだ。

 愛らしい家族の姿を見て、このささくれた心を浄化しなければならない。


 昇降口へ向かって歩いていると、中庭の入り口付近から、騒がしい男子生徒たちの声が聞こえてきた。

 数人のグループが、何やら一箇所を取り囲むようにして立ち止まっている。


「おい見ろよ、あの犬。めっちゃ小さくね?」

「ほんとだ、動くぬいぐるみじゃん。つーか、間違って踏んづけちゃいそうだよな」

「それな。サッカーボールみたいに蹴り飛ばしたら、どこまで飛んでいくかな。ギャハハ!」


 その下品な笑い声が耳に届いた瞬間、俺の足はピタリと止まった。

 視線の先。

 校門へと続く通路の脇に、涼さんの姿があった。俺を迎えに来てくれたのだろう、彼女の胸元には、淡いブルーのスリングが下げられている。

 そして、そのスリングの中からちょこんと顔を出しているのは、真っ白なポメラニアン――ベルだった。

 地面を直接歩かせるにはまだ早い時期であるため、こうして抱っこされて外の空気に触れさせているのだ。ベルはスリングの中で安心しきったように、周囲の様子を好奇心旺盛に見回している。


 そのベルを指差して、男子生徒たちは下劣な言葉を吐き、笑っていた。


「あんな弱っちい犬飼ってる男とか、絶対趣味悪いだろ」

「マジでそれ。飼うならもっとデカい犬にしろっての」


 ――プツン。


 自分の中の奥深くで、何かが冷たく弾ける音がした。

 理性的な判断や、大人としての寛容さといったストッパーが、一瞬にして凍りつき、粉々に砕け散った。


 俺は無言のまま方向を変え、中庭へと足を踏み入れた。

 硬い革靴のヒールが地面を叩く音が、静まり返った夕暮れの空間に異様に大きく響き渡る。

 足音に気づいた男子生徒たちが、鬱陶しそうに振り返った。


「あ? なんだよお前……って、西園寺?」


 彼らの顔から、ヘラヘラとした薄ら笑いが急速に消え去っていくのが分かった。

 今の自分がどんな表情をしているかなど、鏡を見ずとも容易に想像がつく。感情の起伏を一切排した、ただ目の前の障害を排除するためだけの、冷ややかな視線。


「……君たち、今なんと言ったか、もう一度正確に復唱してもらえるかな?」


 俺は彼らの目の前で立ち止まり、静かに問いかけた。

 声を荒らげる必要はない。怒りに任せて怒鳴るのは、己の未熟さを露呈するだけの愚かな行為だ。


「え、いや……別に、大したことは……」


 リーダー格らしい男子生徒が、俺の静かな圧に気圧されたように一歩後ずさった。


「大したことではない? 『サッカーボールみたいに蹴り飛ばしたら』と言っていたな。それは、我が家の家族に対する明確な加害の予告と受け取っていいのだろうか」

「いや、あれはただの冗談っていうか……」

「命に対する暴力的な想像を口にしておきながら、冗談で済むと思っているのなら、君たちの想像力は致命的に欠如している」


 俺はさらに一歩、距離を詰めた。

 見上げる形になった彼らの瞳に、明らかな恐怖の色が浮かぶ。


「その言葉の責任、どう取るつもりだ? 名前とクラスを教えろ。場合によっては、学校と警察を通して、厳正な対応を取らせてもらうが、異論はないな?」

「っ……! す、すみませんでした!」

「二度と、軽々しく命を侮辱するような言葉を口にするな。次はないと思え」


 低いトーンで冷徹に言い放つと、男子生徒たちは青ざめた顔を見合わせ、蜘蛛の子を散らすように慌てて逃げ出していった。

 彼らの背中が校舎の角に消えるのを確認してから、俺はふうっと短く息を吐いた。


「……少し、感情的になりすぎたか」


 高校生の軽口に対して、徹底的に逃げ道を塞ぐような詰め方をしてしまった。

 だが、後悔など微塵もない。大切な家族を脅かそうとする不穏な種は、芽を出す前に徹底的に摘み取る。それが俺のやり方だ。


「ボン!」


 声に振り返ると、通路の向こうで涼さんがこちらに向かって小さく手を振っていた。


「ワンッ!」


 スリングの中にいるベルも俺の姿に気づいたのか、嬉しそうに短い鳴き声を上げ、前足をバタバタと動かしている。

 その無垢で愛らしい姿を見た瞬間、胸の内に渦巻いていた冷たい怒りが嘘のように溶け去り、じんわりとした温もりが広がっていくのを感じた。


「おーい」


 俺は固まっていた表情を緩め、二人の元へと駆け寄った。


「どうしたんスか? なんか向こうの生徒たちと、随分怖い顔で話してたみたいですけど」


 涼さんが首を傾げながら尋ねてくる。


「いえ、少し虫の居所が悪かっただけです。それよりも、迎えに来てくれてありがとうございます」

「ちょうどルナの散歩も終わったところだったんで。ほらベルちゃん、ボンだよ」


 俺はスリングを覗き込み、ベルの小さな頭をそっと撫でた。


「キュ〜ン……」


 ベルが甘えるような声を出し、俺の指先を小さな舌でペロペロと舐める。

 その温かく柔らかな感触が、徹夜明けの疲労と先ほどの苛立ちを、綺麗に洗い流してくれた。


「今日もいい子にしてたか、ベル」


 俺はベルの白い毛並みに頬を寄せ、その温もりを確かに感じ取った。

 涼さんは「相変わらずのメロメロっぷりっスね」と笑いながら、俺たちの様子を温かい目で見守ってくれている。


 俺は満たされた思いを胸に抱きながら、夕暮れ時の帰り道を歩き始めた。

 吹き抜ける初夏の風は心地よく、明日への活力を少しだけ取り戻せたような気がした。

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