第23話 シッター面接
「……アメリカ?」
受話器の向こうから、涼さんの素っ頓狂な声が響いた。時刻は二十一時を回ったところ。静まり返った夜のペントハウスに、壁掛け時計の秒針の音だけが微かに響いている。電話口での簡単な説明の後、「詳しい話は直接させてください」と伝えると、彼女は二つ返事で部屋に来ることを承諾してくれた。
数分後、控えめなインターホンの音が鳴る。さすがはお隣さんと言うべきか、移動時間はほぼゼロだ。ドアを開けると、玄関に立っていた早坂涼さんは部屋着のヨレたスウェットにサンダルという、ご近所感丸出しの極めて無防備な格好だった。片手にはコンビニのビニール袋がぶら下がっており、中には冷えた缶ビールが数本覗いている。
「こんばんは、涼さん。夜分に急に呼び立ててすみません」
「おう、こんばんはボン。……ってか、改まってどうしたんだよ? 電話口で妙に深刻な声出しちゃってさ」
首を傾げる涼さんをひとまず室内に招き入れる。彼女は気兼ねのない様子でサンダルを脱ぎ捨てると、一直線にリビングへと足を踏み入れた。深刻な相談事という空気を醸し出そうとしていた俺の些細な演出は、主の来客を察知して尻尾を千切れんばかりに振って駆け寄ってきた白いポメラニアンのベルと、キャットタワーから優雅に飛び降りてきた淡いグレーのハチワレ猫であるルナの猛烈な歓迎によって、瞬く間に粉砕された。
「わしゃわしゃわしゃ! 今日も可愛いなぁお前らは! ん? 床、なんか感触変わった?」
「ええ。フローリングだとこの子たちの足腰に負担がかかるので、全面にタイルカーペットを張り替えました。滑り止めも兼ねています」
「すげぇ! ふかふかじゃん! これなら全力ダッシュしても爪が引っかからないな!」
涼さんは床に仰向けに寝転がり、腹の上に飛び乗ってきたベルとさっそく取っ組み合いを始めた。ルナはそのすぐ横にちょこんと座り、彼女の長い髪の毛を猫じゃらし代わりに前足でチョイチョイと突っついている。完全にこの空間に馴染みきった、家族同然の光景だった。俺はキッチンへ向かい、グラスに氷をたっぷりと入れてアイスコーヒーを用意し、ローテーブルに置いた。
「それで、涼さん。お電話した件なんですが」
「ん? ああ、そうだった。アメリカに行くんだって?」
彼女はゆっくりと起き上がり、胡座をかいたまま持参した缶ビールのプルタブをプシュッと小気味良い音を立てて開けた。
「はい。実は夏休みの間、一週間から二週間ほどアメリカに行く予定なんです。親戚の勧めで、少し長めの語学研修というか、ホームステイのようなものに参加することになりまして」
「へぇ、海外研修ねぇ。さすがはボンの家、教育熱心っていうかスケールが違うな。まあ、ボンの成績ならアメリカでも余裕でやってけそうだけど」
涼さんはゴクリと喉を鳴らしてビールを飲み下すと、缶を置いて真剣な顔つきになった。俺は事前に用意していた「高校生らしいもっともらしい理由」がすんなりと受け入れられたことに内心で安堵しながら、ベルとルナに視線を落とした。
「で、相談っていうのは……この子たちのことだよな?」
「そうです。俺がいない間、この子たちの世話をしてくれる人を探しているんです。環境の変化に敏感な子たちなのでペットホテルには預けたくないですし、かといって見ず知らずのシッターを家に入れるのも抵抗があります。そこで……」
「アタシに白羽の矢が立った、と」
「はい。涼さんなら、ベルもルナもすっかり懐いていますし、何より動物の扱いに関しては俺なんかよりずっと慣れている。俺が一番信頼して鍵を預けられるのは、涼さんしかいないんです」
大袈裟な物言いにならないよう、あくまで真摯に頼み込む。涼さんは少しだけ目を丸くした後、「ぷっ」と吹き出して笑い声を上げた。
「なんだよそれ。年下にそんな真顔で口説き文句みたいなこと言われても、ちっとも照れねーぞ」
彼女は照れ隠しのようにガシガシとベルの頭を撫で回した。
「いいぜ。どうせ夏休みは大学のレポートくらいしかやることなくて暇だし、涼しい部屋でこの子らと遊べるならむしろ役得だ。引き受けてやるよ」
「本当ですか!? ありがとうございます」
「おう。隣だから通うのも楽だしな。……で、シッター代は? アタシも万年金欠の貧乏学生だからな、さすがにタダってわけにはいかねーぞ。時給八百円……いや、ここは強気に九百円は欲しいところだな!」
彼女は悪戯っぽく人差し指を立ててみせた。俺は苦笑しつつ、ジャケットの内ポケットから用意していた厚みのある封筒を取り出し、テーブルの上を滑らせた。
「これくらいで、どうでしょうか。もちろん、事前の手付金としてお渡しする額です」
「ん?」
涼さんが訝しげに封筒を手に取り、中身を覗き込む。そこに入っているのは、期間中の世話に関する詳細なリストと、相場のシッター代を遥かに上回る額の現金だ。彼女の目が点になり、動きがピタリと止まった。
「……は?」
彼女は封筒の中の福沢諭吉の群れと、俺の顔を三度ほど交互に見比べた。
「おいボン、桁間違ってね? ゼロ一個どころか、なんか色々おかしいぞこれ」
「いいえ。俺にとっては、この子たちの命と安全を預けるための適正価格です」
俺が提示した額は、ただのアルバイトの域を逸脱している。だが、俺が不在の間に万が一のことがあってはならない。
「俺の留守中、この部屋のスペアキーをお渡しします。朝と夜の散歩、食事の管理、トイレの掃除。そして何より、寂しがらせないように思い切り遊んであげてほしいんです。責任重大な仕事のお願いですから、これくらいは受け取っていただかないと俺も安心して海を渡れません」
「いや、それにしても……これ、アタシの数ヶ月分のバイト代だぞ……手が震えるんだけど」
「その代わり、一つだけ条件があります」
俺は姿勢を正し、相手の目を見て告げた。
「俺がアメリカに行っていること、そしてこの部屋での留守番のことは、すべて他言無用でお願いします。姉さんにも、です。余計な心配をかけたくないので」
「……なるほど。口止め料込みの特別手当ってわけか」
涼さんは少しだけ呆れたような、それでいて感心したような笑みを浮かべ、ビールの残りを一気に飲み干した。
「分かった。金持ちの考えることはよく分かんねーけど、アタシは口が堅いのが取り柄だ。任せておけ。動物の世話もきっちり完璧にこなしてやるよ」
彼女はテーブル越しに身を乗り出し、俺の手をガシッと力強く握りしめた。その掌は温かく、何よりも頼もしかった。
「よろしくお願いします。涼さんに頼んで本当に良かったです」
「おう! 期待以上の働きをしてやるから覚悟しとけよ!」
こうして、渡米にあたっての最大の懸案であった留守中の問題は、隣人の快諾によって無事に片付いた。涼さんはその後、一時間ほど絨毯の上でベルとルナと息が上がるまで遊び倒し、「じゃ、また明日な!」と嵐のように去っていった。
静寂が戻ったリビングで、俺はソファに深く腰を下ろし、ふうっと長く息を吐き出す。足元のタイルカーペットでは、全力で遊び疲れたベルとルナが、互いの体をくっつけ合うようにしてすでにスヤスヤと眠り始めていた。この無防備な寝顔を安全な場所で守れるのなら、あの程度の出費など安いものだ。
★★★★★★★★★★★
翌日の五月十一日、火曜日。
気になっていた問題がクリアになり、学校での俺の足取りは自然と軽くなっていた。放課後のチャイムが鳴ると同時に、手早く鞄に教科書を詰め込む。今日はこのまま真っ直ぐに帰宅し、渡米のためのフライトの予約と、現地のホテルの手配を済ませてしまうつもりだった。
「西園寺くん!」
教室の後ろのドアから廊下に出ようとしたその時、背後からよく通る声で呼び止められた。振り返るまでもない。この無駄に元気の良い声と、弾むような足音の主は一人しかいない。
「……なんだい、桜木さん」
「『なんだい』じゃないよ! 昨日、私との約束断ったでしょ! 『用事がある』って言ってさ!」
桜木マナが、少しだけ頬を膨らませて俺の前に立ちはだかっていた。
「ああ……うん。ちょっと大事な用事があってね」
「ふーん。で? その用事はちゃんと済んだわけ?」
彼女は少しだけ背伸びをするようにして、上目遣いで俺の顔を覗き込んでくる。相変わらず、他人の機微を読み取るのがやけに上手い目をしている。
「おかげさまでね。なんとか片付いたよ」
「じゃあさ! 今日こそ付き合ってよ! クレープ! 駅前に新しくできたお店、すっごく気になってるんだよね!」
彼女は有無を言わさず俺の腕をグイと引き寄せた。その強引さに、つい苦笑が漏れてしまう。昨日は涼さんとの交渉を優先して、彼女からの誘いを無碍に断ってしまった負い目がある。その埋め合わせくらいはしておかないと、後々まで小言を言われそうだ。それに、連休明けの学校生活で彼女なりにストレスも溜まっているのだろう。
「……分かったよ。一杯だけなら付き合う」
「やった! 言質とった! じゃあ早速行こ行こ!」
マナは俺の腕を掴んだまま、軽快なステップで廊下を歩き出した。すれ違う周囲の生徒たちが「あ、西園寺と桜木だ」「相変わらず仲良いよな」「いや、桜木が一方的に引っ張ってるだけだろ」とヒソヒソと囁いているのが聞こえるが、訂正するのも面倒なので放置することにした。
駅前のアーケード街にある新しいクレープ屋は、放課後の時間を楽しむ高校生たちでごった返していた。甘いバニラと焦がしバターの匂いが充満する店先の列に並びながら、マナはショーケースのメニュー表を真剣な顔で睨みつけている。
「んー、王道のチョコバナナも捨てがたいけど、期間限定の『春のイチゴスペシャル』も気になるんだよね……。西園寺くん、どっちがいいと思う?」
「俺に聞かれても困るよ。君が食べたい方を選べばいいんじゃないか。どうせ両方食べきれなくて、俺が残りを引き受けることになるんだろうし」
「えっ!? 西園寺くん、私の食べかけ食べてくれるの!? それって間接キスじゃん!?」
「……そういう意味じゃない。二つ買って、最初からシェアすればいいと言ったんだ」
「むぅ。西園寺くんってば、相変わらず夢がないなぁ」
結局、彼女は見た目が華やかなイチゴスペシャルを、俺はシンプルなシュガーバターを注文し、近くの公園のベンチに移動して座った。マナは大きな口を開けてクレープを頬張り、「ん〜! 甘くて幸せ〜!」と足をバタつかせている。
「西園寺くんってさ」
頬に少しだけ生クリームをつけたまま、彼女が唐突に呟いた。
「なんか最近、たまにすごく遠くを見てるような顔するよね」
「……どういう意味だい?」
「わかんない。ただの勘だけどさ。……なんていうか、同じ高校生じゃないみたいっていうか、全然違う遠い世界のこと考えてるような、そういう顔してる時がある」
俺は平静を装い、シュガーバターの端をかじった。相変わらず鋭い直感だ。渡米計画のことなど、姉にも彼女にも一切話していないのに、何かを察知しているらしい。
「考えすぎだよ。俺はただ、来月の中間テストの範囲が広くて面倒だなと考えていただけさ」
「嘘だー。西園寺くんに限って、勉強のことで悩むわけないじゃん。……ま、言いたくないならいいけどね」
彼女はあっけらかんと笑い飛ばし、残りのクレープを口に押し込んだ。
「あ、次ゲーセン行こ! 新しいプリクラの機械が入ったらしいから撮りたい!」
「え、クレープ食べたばかりじゃないか」
「歩いて消化運動! ほら、もたもたしないで行くよ!」
再び腕を引かれ、俺たちは駅ビルの中にあるゲームセンターへと連行された。九十年代末のゲーセン特有の、電子音の洪水とタバコの煙が入り混じった独特の喧騒が広がっている。『ダンス・ダンス・レボリューション』の筐体の前で汗を流す学生たちの横を抜け、奥にあるプリントシール機のコーナーへと押し込まれる。
「はい、お金入れて! 五百円ね!」
「……はいはい」
カーテンで仕切られた狭いボックスの中、マナと肩が触れ合う距離で立つ。
「西園寺くん、もっとこっち寄って! フレームに入りきらないよ!」
「これ以上寄ったらぶつかるだろう」
「いいから! ほら、笑って! はい、チーズ!」
眩しいフラッシュが何度か焚かれる。画面の中でカウントダウンに合わせてポーズをとる俺の顔は、明らかに面倒くさそうにしているのに、どこか満更でもないような微妙な表情になっていた。隣のマナは、心底楽しそうに満面の笑みを浮かべている。
機械の外に出て、シールがプリントアウトされるのを待っている間、彼女はふと俺を見上げて言った。
「……ありがとね、西園寺くん」
「ん?」
「なんか色々と忙しそうなのに、私のわがままに付き合ってくれて。……私、西園寺くんと一緒にいると、不思議と元気が出るんだよね」
照れくさそうに少しだけ頬を赤らめる彼女を見て、俺は小さく息をつき、彼女の頭に軽くポンと手を乗せた。
「俺の方こそ。いい気分転換になったよ。ありがとう」
「……むぅ、また子供扱いして」
彼女は唇を尖らせて文句を言ったが、その表情は嬉しそうに綻んでいた。
帰り道、一人になった車の中で、手帳の裏表紙に貼られた小さなプリントシールを眺める。
シリコンバレーでの交渉は、今後の人生を左右する重要な局面に差し掛かっている。だが、こうして友人たちと過ごす時間や、家に帰れば出迎えてくれる小さな家族の存在もまた、今の俺にとっては決して手放したくない大切なものになりつつあった。
手帳を閉じ、鞄の奥へしまう。家に着いたら、まずは航空券の手配を済ませよう。やるべきことは、まだ山積みだ。




