第22話 渡米計画
5月10日、月曜日。
ゴールデンウィークの連休が終わり、世間は再びいつもの重苦しい日常の歯車を回し始めた。
桜花学園の教室にも、長期休暇明け特有の気だるく淀んだ空気が漂っている。
「はぁ……マジで学校だりぃ。五月病って誰が名付けたんだよ、天才かよ」
隣の席で、桜木マナが机に完全に突っ伏しながら力なく文句を垂れている。その覇気のない姿は、普段の好奇心旺盛な彼女からは想像もつかない。
「季節の変わり目は自律神経が乱れやすいからね。少し体を動かして、夜は湯船に浸かるといいかもしれない」
俺が新しい教科書を開きながら無難なアドバイスを送ると、マナはむくりと顔だけを上げた。
「西園寺くんさぁ……そういうとこだよ? もっとこう、『わかるー、超だるいよねー』とか、同調してくれる相槌とかないわけ? 正論のアドバイスが一番疲れるんだから」
「ごめんごめん。俺も本当は、今すぐ家に帰ってベルとルナを撫で回したいと思ってるよ。学校なんてだるいよね」
「うわ、なんか西園寺くんが言うと全然心こもってない感じがする! 可愛くないっ!」
マナは頬を膨らませてそっぽを向いたが、少しだけ調子が戻ったようだ。
俺は小さく息を吐きつつ、内心では彼女の平和で年相応な悩み事を少し羨ましく思っていた。
今の俺の頭の中は、五月病どころではない。もっとスケールが大きく、刺激的で、そして頭の痛い問題で占められていたからだ。
★★★★★★★★★★★
放課後。
マナからの「ねえ、帰りにセンター街で新しくできたクレープ食べに行かない?」という誘いを「どうしても外せない用事があるんだ」と丁重に断り、俺は迎えの車に乗り込んだ。
ペントハウスに帰着し、玄関のドアを開けた瞬間、ベルとルナの熱烈な歓迎を受ける。
「ただいま、ベル、ルナ」
玄関まで走ってきた二匹を交互に抱き上げ、顔をすり寄せてモフモフの感触を堪能する。帰宅した瞬間にこの癒やしの時間があるからこそ、俺は外の世界で冷静な思考を保てるのだ。
俺は制服を着替えることもなく、リビングのソファに腰を下ろし、サイドテーブルに置いてあったノートパソコンを素早く開いた。『Fruits』社製の、スケルトンボディが美しいマシンだ。ダイヤルアップ接続の電子音を経て、インターネットの海へとダイブする。
メーラーを立ち上げる。そこに、待ちわびていた一通のメールが届いていた。
差出人は『L.P. & S.B.』。
件名は『Re: Investment Proposal from Japan』。
俺の心拍数が、わずかに上がる。
ゴールデンウィーク中、俺は彼らに「ある提案」を綴った長文のメールを送っていた。
カリフォルニア州メンローパーク。とある家のガレージを拠点に、これからの世界を根本から変える画期的な検索エンジンを開発している二人の若き天才たち。『Goggle』の創業者、ロリーとセルゲイブだ。
(……来たか)
俺は深呼吸をし、メールを開封した。
文面は英語だ。簡潔で、少し警戒心を含んだ、いかにもエンジニアらしい理知的な文章だった。
『西園寺氏へ。
西園寺投資グループからの提案、特に我々の検索エンジンのアルゴリズムの将来性と、収益化モデルに関する洞察には非常に驚かされた。正直に言おう。我々は最初、これをどこかの競合企業による質の悪い悪戯か探りだと思った。日本の投資家が、我々の技術の本質をここまで正確に理解しているとは到底思えなかったからだ。
しかし、君が示した「バナー広告に代わる新たな広告モデル」の具体的なアイデアは、我々が内々に議論していた方向性とあまりにも見事に合致していた。
我々は、君たち投資グループの資金と、その先見性に興味がある。
だが、当然のことながら、メールのやり取りだけで出資の話を進めるわけにはいかない。
もし本気で我々の技術に投資する気があるのなら、直接我々のオフィスに来てほしい。君の目で直接我々のコードを見て、その上で判断してくれ』
読み終えた瞬間、俺は静かに拳を握りしめた。
第一関門突破だ。彼らは俺の提示したビジョンに食いつき、会う気になっている。
1999年の今、彼らは深刻な資金難に苦しんでいるはずだ。大手ポータルサイトへの技術売却交渉もうまくいかず、日に日に増大するサーバー代の捻出にも頭を抱えている時期。そこに現れた、謎の日本人投資家。彼らにとって俺は怪しい存在であると同時に、喉から手が出るほど欲しい「資金源」であり、技術の真価を理解してくれる「理解者」でもある。
「……行くしかないな」
俺は画面を見つめながら呟いた。
これだけ重要な案件を、メールや電話のやり取りだけで完結させるのは不可能だ。直接現地へ飛び、彼らの情熱に触れ、そして俺という人間を信用させて強力なパートナーシップを結ぶ。そのためには、太平洋を渡る必要がある。
時期は……夏休みだ。
7月下旬から8月。学校が長期休暇に入るそのタイミングなら、誰にも怪しまれずに渡米できる。現地で活動している母さんに会いに行くという名目も使える。
俺はカレンダーアプリを開き、渡航スケジュールのシミュレーションを始めた。フライトの手配、ホテルの予約、そして現地での移動手段。ファーストクラスで飛び、最高級のスイートに泊まり、リムジンを手配する。今の俺にとって、渡航費や滞在費といった金銭的な問題は何の障壁にもならない。
「……あ」
俺のタイピングする手が止まった。
致命的な、あまりにも致命的な物理的問題に気づいてしまったからだ。
俺は恐る恐る、視線を床へと落とした。そこには、世界で一番愛おしい生き物たちがいた。
「ワンッ!」
ベルが、お気に入りの天然ゴムのボールを咥えて「投げて!」とアピールしてくる。そして、その少し後ろ。俺が休日に苦労して敷き詰めた新しいタイルカーペットの上で、ルナが一人遊びに興じていた。彼女が真剣な顔で相手にしているのは、俺が脱ぎ捨てたパーカーの紐だ。
「……みゃっ!」
ルナは極端に低い姿勢で紐の先端を狙い、お尻をフリフリと振っている。スコティッシュフォールド特有のぺたんと折れた耳。真ん丸な瞳は狩人のように鋭く、それでいてキラキラと輝いている。
バッ!
短い前足が素早く繰り出される。しかし、紐はひらりと宙を舞い、ルナの空振りを誘った。
「ふぎゃっ」
勢い余って、ルナがごろんと横転した。仰向けになったまま、白いお腹を丸出しにして、悔しそうに「みゃあ〜!」と鳴く。そして、今度は寝転がったまま、四肢を使って紐を捕まえようとバタバタと暴れ始めた。ピンク色の柔らかそうな肉球が空を切り、その動きに合わせて長い尻尾がパタンパタンと床を叩く。
「…………」
俺は額に手を当て、深く息を吐いた。
可愛い。どうしようもなく可愛すぎる。
あんな無防備で、あんなに一生懸命で、あんなに愛くるしい家族を置いて、アメリカへ行く?
「無理だろ……」
俺はソファに沈み込んだ。
1999年の現在、ペットの海外渡航は極めてハードルが高い。検疫だけで数週間から数ヶ月かかる国もあるし、長時間のフライトは小型犬や幼い猫にとって命に関わる過酷なストレスだ。貨物室に預けるなんて論外だ。愛する家族を荷物扱いになんて絶対にできない。
つまり、俺が渡米する場合、ベルとルナは日本でお留守番ということになる。期間は最低でも一週間。交渉が難航すれば二週間に及ぶ可能性もある。その間、誰がこの子たちの世話をする?
選択肢を頭の中で並べては、次々と消していく。
ペットホテルは論外だ。狭いケージに閉じ込められ、知らない犬猫の匂いと鳴き声の中で過ごすストレスは計り知れない。それに、万が一の病気や脱走のリスクを考えると、他人に預けるのは怖すぎる。
プロの家事代行サービスやシッターを頼むのも気が進まない。見ず知らずの人間を俺のプライベートな領域に入れるわけにはいかないし、何よりビジネスライクな人間にベルとルナの世話を任せたくない。
姉の摩耶はどうだ。彼女は動物好きで二匹も懐いているが、大学の課題と芸能活動のレッスンで多忙を極めている。「毎日通って世話をする」というのは物理的に不可能だろうし、「玲央がいないなら私がここに泊まり込む!」と言い出して、俺の不在中にこのペントハウスを自分の城に改造しかねない。
実家の使用人に頼むのも駄目だ。父に俺の生活の実態が筒抜けになる。
「……詰んだか?」
俺は頭を抱えた。
未来の覇権企業への巨額投資というビジネスチャンスと、愛する家族の安寧。究極の二者択一だ。
前世の俺なら、間違いなくビジネスを選んでいただろう。
だが、今の俺は違う。
ルナがパーカーの紐をようやく捕まえ、勝利の雄叫びのような高い声を上げている。その満足そうな顔を見ているだけで、数億ドルの利益なんてどうでもよくなってくる。
いや、簡単に諦めるな。誰か、信頼できて、動物の扱いに慣れていて、俺の秘密を知っていて、ベルとルナが心を許している都合のいい人物はいないか。
「……あ」
いた。俺の脳裏に、ショートカットのボーイッシュな笑顔が浮かんだ。
豪快だけど繊細で、動物を見ると人格が変わるほどの愛を持つ女性。
隣人の『早坂涼』さんだ。
俺はソファから身を乗り出した。
彼女は大学生だ。俺が渡米する夏休み期間は、彼女にとっても夏休みのはずだ。もちろん、彼女にもバイトやサークルの予定があるだろう。
だが、もし彼女に「専属のペットシッター」としてのアルバイトを依頼できたら?
報酬は相場の何倍出してもいい。このペントハウスの合鍵を渡し、俺がいない間、ここでベルとルナと過ごしてもらう。彼女なら、ベルの散歩も完璧にこなしてくれるだろうし、ルナの遊び相手も喜んでしてくれるはずだ。何より、彼女自身がこの二匹の熱烈なファンだ。
「……いけるか?」
俺は立ち上がり、リビングを歩き回った。涼さんになら、任せられる。
初めてマンションの廊下で会った時、彼女が見せた動物への接し方は本物だった。先日、一緒に餃子を食べた時、彼女が見せた裏表のない性格も信頼に足る。
問題は、彼女が引き受けてくれるかどうかだ。
善は急げだ。いきなり「アメリカに行くから預かってほしい」と頼むのは重すぎる。まずは「忙しい時にお願いするシッター契約」の話として持ちかけ、徐々に既成事実を作っていくのが自然だろう。
俺は携帯電話を取り出し、連絡先リストから『早坂涼』を選んだ。
その時、足元でルナが「なぁに?」と俺を見上げてきた。口にはまだパーカーの紐を咥えている。
「ルナ、もしかしたら夏休み、涼お姉ちゃんがいっぱい遊んでくれるかもしれないぞ」
ルナは首を傾げ、それから興味なさそうにプイと顔を背け、再び紐との格闘に戻った。そのマイペースさが今は頼もしい。
俺は小さく息を吐き、通話ボタンを押した。
コール音が鳴る。隣に住む、動物好きの女子大生への依頼。俺の「渡米計画」と、何より大切な隠遁ライフを守るための重要な交渉だ。
『……はい、もしもし? ボン? どうした?』
電話の向こうから、明るく気だるげな声が聞こえた。
「夜分にすみません、涼さん。……実は、少し折り入ってご相談がありまして」
俺の渡米計画は、こうして第一歩を踏み出した。




