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平穏最優先の財閥御曹司、未来知識で投資起業  作者: 伊達ジン


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第21話 魔性の手招き

 5月4日、火曜日。国民の休日。

 ゴールデンウィークも折り返し地点を過ぎたこの日、俺はペントハウスのリビングで、ある「大工事」に着手していた。


「よし、これでラストだ」


 手に持っていた最後の一枚を、慎重に床へと嵌め込む。カチリ、という小気味よい感触と共に、リビングの床面は見違えるような変貌を遂げた。これまで敷いていた簡易的なコルクマットではない。俺がこの休日のために発注しておいた、業務用の高級タイルカーペットだ。色は落ち着いたチャコールグレーとライトグレーの市松模様。厚みがあり、クッション性は抜群。裏面には特殊な吸着加工が施されており、ロボット掃除機が走ってもズレない仕様だ。


 何より重要なのは、その「グリップ力」である。ポメラニアンのような小型犬にとって、フローリングの滑りやすさは膝蓋骨脱臼の原因となる最大の敵だ。コルクマットでも悪くはないが、耐久性と衛生面、インテリアとしての美しさを考慮すれば、このタイルカーペットこそが最適解だと言える。


「……ふっ、完璧な仕上がりだ」


 額の汗を拭いながら、俺は自画自賛した。業者に頼まず自分で敷き詰めたのには理由がある。ミリ単位のズレも許さない俺の几帳面さを満たすためと、何より「愛する家族のための環境作り」というプロセスそのものを楽しみたかったからだ。


「お待たせ。ベル、ルナ」


 俺はケージの扉を開け、別室で待機させていた二匹を解放した。


「ワンッ!」

「みゃう?」


 二匹がリビングへと飛び出してくる。最初に反応したのは、やはりベルだった。白い毛玉が、新しいカーペットの上を弾丸のように駆け抜ける。小気味よい足音が響く。滑らない。以前のようにカーブで足を取られることもなく、しっかりと踏ん張りが効いている。その事実に気づいたのか、ベルのテンションが一気に跳ね上がった。


「キュウ〜ン! キャンッ!」


 ベルは尻尾を千切れんばかりに振りながら、リビングの中央で急ブレーキをかけ、そこからその場で高速回転を始めた。いわゆる「喜びの舞」だ。白い竜巻と化したベルは、ひとしきり回った後、今度はカーペットの上にゴロリと寝転がった。そして、背中をカーペットに擦り付けるようにして、クネクネと身をよじらせる。上目遣いで俺を見つめながら、短い手足をバタつかせ、無防備なお腹を晒している。チャコールグレーのカーペットに、純白の毛並みがよく映える。


「……っ!」


 俺は胸を押さえてその場にうずくまった。可愛い。あまりにも可愛すぎる。新しい床の感触を全身で堪能し、「パパ、これ最高だよ!」と全身全霊で伝えてくるその姿。天使か。いや、天使を超越した何かだ。


「気に入ってくれたみたいで良かったよ、ベル」


 俺は床に這いつくばり、ベルのモフモフのお腹に顔を埋めた。太陽の匂いと、シャンプーの残り香。至福の吸入タイムだ。


 一方のルナはといえば、爪研ぎ防止加工が施されたカーペットの感触を確かめるように、慎重に肉球でペタペタと触れている。そして「悪くないわね」といった顔で、日当たりの良い場所を選んで香箱座りを決めた。


 このまま一日中、ベルとルナと床でゴロゴロしていたい。

 そう願った、その時だった。


 ブブブブブ……。


 ダイニングテーブルの上に置いてあった携帯電話が、不穏な振動音を立てた。俺はベルから顔を離し、渋々といった体で画面を覗き込んだ。


『非通知設定』。


 眉をひそめる。俺の番号を知っている人間は限られている。営業の電話だろうか。無視しようかとも思ったが、もし姉の身に何かあった場合の緊急連絡かもしれない。俺は警戒しつつ、通話ボタンを押した。


「……はい、西園寺です」

『あら、意外と早く出たわね。もっと焦らすかと思ったのに』


 受話器の向こうから聞こえてきたのは、濡れたような、それでいて芯のあるアルトボイス。聞き覚えがある。いや、忘れるはずがない。つい先日、姉の事務所契約の際に遭遇した人物。


「……如月舞さん、ですか?」

『正解。私の声を覚えていてくれて光栄だわ、玲央くん』


 くすりと笑う気配が伝わってくる。背筋に冷たいものが走った。


「どうやってこの番号を?」

『社長から聞いたの。摩耶ちゃんの連絡先と一緒に、念のため保護者のあなたの番号も教えてもらったわ。何かあったら困るでしょ?』


 彼女は悪びれもせずに言った。事務所のトップ女優が社長に頼めば、新人の緊急連絡先など容易に聞き出せるだろう。


『それより、今から会えない? 美味しい紅茶が手に入ったの』

「……お断りします。今日は予定が」

『ベルちゃんとルナちゃんと遊ぶ予定? それとも、新しいカーペットの感触を確かめる予定かしら?』

「なっ……!?」


 俺は思わず周囲を見渡した。


『ふふ、冗談よ。摩耶ちゃんから聞いたの。「今日は玲央が床の張り替えをするから邪魔しちゃダメ」って釘を刺されてたから』


 カマをかけられただけか。俺は小さく安堵の息を吐いた。この人は心臓に悪い。


「……それで、ご用件は? 紅茶を飲むためだけに呼び出すような暇人ではないでしょう」

『つれないわね。……でも、そうね。用件はあるわ』


 彼女の声のトーンが、ふっと下がった。


『見たわよ。「ビデオ」』

「……ビデオ?」

『おとといの撮影のラッシュ映像。……「謎の貴公子」役の彼、素敵だったわ』


 心臓が跳ねた。あれは内密に処理されたはずだ。姉にも秘密にしている。


『監督がね、興奮して見せてくれたの。「とんでもない原石を見つけた」って。……ねえ、玲央くん。あなた、やっぱり「こっち側」の人間なんじゃない?』

「買い被りです。あれは人助けで……」

『言い訳はいいわ。……青山にあるホテルのラウンジ。1時間後に待ってる』

「いや、だから行きませんよ」

『来なかったら、このビデオ、摩耶ちゃんに見せちゃおうかなぁ。「玲央くんが内緒で女優デビュー!? しかもくるみとイチャイチャ!?」って』

「……」


 詰んだ。姉に見られれば、「私も見る!」「ていうか何で私に黙ってたの!」「私も玲央と共演する!」と大騒ぎになるのは火を見るより明らかだ。これは脅迫だ。だが、極めて有効な脅迫だ。


「……分かりました。行きます」

『ふふ、いい子ね。待ってるわ』


 通話が切れた。俺は携帯電話を握りしめたまま、天を仰いだ。足元では、ベルが「パパ、遊ばないの?」と不思議そうに首を傾げている。


「ごめんな、ベル。……ちょっと出かけてくる」


 俺はスーツに着替え、ペントハウスを後にした。


 青山、高級ホテルの最上階ラウンジ。

 会員制のその場所は、昼間だというのに薄暗く、重厚な空気が漂っていた。案内された奥の個室の扉を開ける。


 そこには、窓際の席で優雅にティーカップを傾ける女性がいた。大きな女優帽を目深に被り、サングラスをしているが、隠しきれないオーラが漏れ出ている。


「いらっしゃい。早かったわね」


 彼女は俺を見るなり、サングラスを外して微笑んだ。その笑顔だけで、部屋の空気が華やぐ。


「……呼び出しに応じたのは、あくまでビデオの件を秘密にしてもらうためです」


 俺は対面のソファに座り、牽制球を投げた。


「知ってるわ。……ふふ、そんなに警戒しないで。取って食おうってわけじゃないのよ」


 彼女はポットから紅茶を注ぎ、俺の前に差し出した。ダージリンのセカンドフラッシュ。マスカテルフレーバーの良い香りだ。


「それで、話というのは?」


 俺は紅茶には口をつけず、単刀直入に切り出した。舞さんはカップを置き、長い脚を組み替えた。そして、探るような瞳で俺を射抜く。


「あの演技……いえ、あれは演技ですらなかったわね」


 彼女は独り言のように呟いた。


「監督は絶賛してたわ。「間の取り方が天才的だ」って。……でも、私は違うと思う」

「どういう意味ですか?」

「あなたは、演じてなんていなかった。ただ、そこに「いた」だけ。くるみを見下ろして、何かを評価してるような……そんな目だった」


 彼女の言葉に、俺は眉一つ動かさないよう努めた。鋭い。俺があの時使ったのは、演技力ではない。それを何となく感じ取ったのか。


「……買い被りですよ。俺はただ、役になりきろうと必死だっただけです」

「嘘ね」


 彼女は断言した。そして、身を乗り出し、顔を近づけてきた。甘い香水の香りが鼻腔をくすぐる。


「ねえ、玲央くん」


 彼女の瞳が、俺の瞳の奥を覗き込む。


「私、あのビデオを見て思ったの。……あなたのあの目。あの熱っぽくて、でも冷徹な視線」


 彼女は妖艶に微笑み、爆弾を投下した。


「――玲央くん、私のこと見てたでしょ?」

「……は?」


 思考が停止した。何を言っているんだ、この人は。


「あの撮影の日、私は現場にはいなかった。でも、あなたはカメラ越しに、あるいはその場の空気越しに、何か別のものを見ていた。……いいえ、もっと前からね。初めて事務所で会った時から」


 彼女の指先が、俺の頬に触れる。


「あんな風に、値踏みするように、でも愛おしそうに人を見ることができるのは……対象に深い執着がある人間だけよ。……図星でしょう?」


 俺は数秒間、彼女の言葉を反芻し、そして理解した。彼女は勘違いをしている。俺の視線を、「異性への執着」だと解釈しているのだ。確かに、俺は彼女を「見て」いた。だが、それを正直に言うわけにはいかない。


「……自意識過剰ですね」


 俺は彼女の手をそっと外し、冷静に返した。


「俺はただ、素晴らしい音楽と、友人の頑張りに心を動かされただけですよ」

「ふふ、そうやってはぐらかすのね」


 彼女は楽しそうに笑い、席に戻った。


「まあいいわ。……でも、一つだけ言っておくわね」


 彼女は紅茶を一口飲み、それから悪戯っぽくウインクをした。


「私、追いかけられるのは好きじゃないの。……でも、素直じゃない男の子を追い詰めるのは、大好きよ」


 背筋が寒くなった。これは、ロックオンされたということか。


「……お手柔らかにお願いします。俺はただの一般人ですから」

「一般人は、あんな顔でピアノを聞いたりしないわよ」


 彼女はクスクスと笑い続けた。

 結局、その後1時間ほど、彼女のとりとめのない話に付き合わされ、解放されたのは夕方近くだった。


 帰り道。夕暮れの青山通りを歩きながら、俺は深い深いため息を吐いた。


「……疲れた」


 肉体労働の疲れなど吹き飛ぶほどの、精神的疲労。如月舞。やはり、彼女は危険だ。俺の「本質」に、本能だけで近づいてくる。


「……早く帰ろう」


 俺は歩調を早めた。

 俺は携帯電話を取り出し、涼さんにメールを打った。


『件名:SOS

 本文:

 今から帰ります。

 もし暇なら、夕飯でもどうですか?

 ベルとルナが新しいカーペットで大はしゃぎしているので、見てやってください。

 あと、俺の精神力がゼロに近いので、何か美味いものを作ってください』


 送信ボタンを押すと同時に、俺はようやく少しだけ笑うことができた。

 俺は夕闇の迫る空を見上げ、家路を急いだ。

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