第20話 くるみのドラマ撮影
5月2日、日曜日。ゴールデンウィークの連休二日目。
穏やかな朝の光が差し込むペントハウスのリビングで、俺は静かにコーヒーの香りを満喫していた。習慣とは恐ろしいもので、完全に予定のない休日の朝であっても、長年体に染み付いた体内時計が狂うことなく俺を早朝に叩き起こす。
「……おはよう、ベル、ルナ」
キッチンからリビングへ向かうと、サークルの中で二匹が身を寄せ合って丸くなっていた。俺の足音に気づいたベルが、パッと顔を上げてちぎれんばかりに尻尾を振り始める。その気配につられて目を覚ましたルナも、大きなあくびをしてから「みゃあ」と甘えた声を上げた。
この何気ない平和。そして至福の静けさ。これこそが、俺が莫大な資産を投じて、何としても守り抜きたいと願う究極の日常だ。
コーヒーメーカーからお気に入りのマグカップに熱いコーヒーを注ぎ、窓際のソファに深く腰を下ろす。眼下に広がる東京の街は、連休特有の緩やかで静かな空気に包まれている。
今日は一日、家から一歩も出ないつもりだ。溜まっている海外の経済ニュースをじっくりとチェックし、先日送った西海岸の起業家たちからの返信を待ちつつ、ベルとルナと心ゆくまで戯れる。昼食には、昨日から仕込んでおいたパンチェッタを使って、濃厚なカルボナーラでも作ろうか。
完璧な休日の計画だ。
俺が読みかけの洋書を開き、活字の世界に没入しようとした、まさにその時だった。
『♪〜』
サイドテーブルに置いてあった携帯電話が、無機質な電子音を奏でた。
着信画面に表示された文字を見る。
『天童くるみ』。
嫌な予感が、冷たい水のように背筋を走った。朝の6時過ぎに、分刻みのスケジュールで動いている売れっ子芸能人からの直接の電話。ろくな用件であるはずがない。
俺は数秒の逡巡の後、覚悟を決めて通話ボタンを押した。
「……はい、西園寺です」
『玲央!? 起きてるわよね!? 今すぐお台場の湾岸スタジオに来て! 緊急事態なの!』
受話器の向こうから、悲鳴のような声が響いてきた。普段の余裕たっぷりな「小悪魔」のトーンは欠片もない。切羽詰まった、プロの現場特有の修羅場の空気が電話越しにも伝わってくる。
「落ち着いてください。一体何があったんですか?」
『エキストラが飛んだのよ! しかも、重要なシーンの相手役! 代役がどうしても見つからないの! 身長が180センチ以上あって、タキシードが完璧に似合って、クラシックの知識がありそうな高貴な雰囲気の美少年なんて、今のこの時間帯で呼べるのは、あんたくらいしかいないのよ!』
「……は?」
思考が一瞬停止する。
エキストラ? タキシード? ドラマの撮影?
「断ります。俺はただの一般の高校生ですよ。それに、今日は一日家でゆっくり過ごすという極めて重要な予定が……」
『ベルちゃんとルナちゃんのご飯とおやつ、最高級のやつ1年分! あと、摩耶には絶対に内緒にしてあげるから!』
「……」
痛いところを正確に突かれた。姉の摩耶に知られれば、「玲央がドラマに出るなら、私も絶対に見に行く!」と言って現場が大混乱になるのは目に見えている。それに、くるみさんは姉の親友であり、俺の隠遁ライフにおけるペット事情を知る数少ない理解者だ。ここで明確な恩を売っておくのは、今後の平穏な生活を守る上でのリスクマネジメントの観点から見ても、決して悪くない取引だ。
俺は深いため息を一つ吐き、手元の洋書をパタンと閉じた。
「……分かりました。準備して30分で向かいます」
『愛してるわ、玲央! 一生の恩に着るわよ!』
一方的に通話が切れる。俺は天井を仰いだ。完璧に構築されたはずの平和な休日は、開始数分で脆くも崩れ去った。
★★★★★★★★★★★
お台場、湾岸スタジオ。
巨大な倉庫のような建物の前でタクシーを降りると、既にインカムをつけたスタッフらしき女性が血相を変えて待機していた。
「西園寺玲央様ですね! お待ちしておりました! 時間がありません、こちらへ!」
挨拶もそこそこに、俺は迷路のような複雑な廊下を連れ回され、メイク室へと放り込まれた。
「うわ、すごい……」
「CGみたい、肌真っ白……」
メイク担当の女性たちがざわめく中、俺は淡々と椅子に座らされた。
「時間はあまりありませんが、ベースメイクだけでも……」
「いえ、必要ありません」
俺は静かに手で制した。
「肌のコンディションは整っていますし、照明で飛ぶこともないと思います。余計な手間は省いて、髪だけ整えていただければ十分です。現場は巻いているんでしょう?」
「は、はい……!」
俺の冷静な指摘に、メイクスタッフはコクリと頷き、素早くヘアセットだけを済ませた。用意された衣装――仕立ての良い黒のタキシードに着替えて鏡の前に立つ。西園寺家の血筋と、日頃からオーダーメイドのスーツを着慣れているせいか、衣装に着られている感は全くない。
スタジオに入ると、そこは完全に別世界だった。煌びやかなシャンデリアが吊るされ、大理石調の床が光を反射している。セットの中央には、見事なグランドピアノが鎮座していた。富豪の夜のパーティー会場という設定らしい。
「玲央!」
ドレス姿のくるみさんが駆け寄ってきた。深紅のイブニングドレス。背中が大きく開いた大胆なデザインだが、彼女の堂々とした立ち振る舞いとプロのオーラが、それを下品ではなく高貴なものに見せている。
「来てくれて本当に助かったわ。……って、ちょっと」
彼女は俺の姿を下から上まで見て、言葉を詰まらせた。
「……似合いすぎじゃない? あんた、本当にただの高校生?」
「中身は疲れた一般人ですよ。……で、俺は具体的に何をすればいいんですか?」
「これよ」
渡されたのは、ペラペラの台本が1枚だけ。
役名は『謎の貴公子』。セリフは一言のみ。
『……美しい旋律ですね』
それだけだ。だが、ト書きには詳細な指定がある。
『主人公が弾くピアノに聴き入り、彼女の才能を見抜くような、深みのある微笑みを浮かべる』
「……なるほど」
俺は瞬時に状況と自分の役割を理解した。このシーンの絶対的な主役は、あくまでくるみさんだ。俺の役割は、彼女の演奏を際立たせるための引き立て役。ただし、ただの背景のモブであってはいけない。彼女の演奏が「高貴で耳の肥えた人間にさえ認められる素晴らしいものだ」という説得力を持たせるための、権威ある舞台装置としての機能が求められている。
「監督、連れてきました!」
くるみさんが声を張り上げる。メガホンを持った初老の男性――業界では妥協を許さないことで有名な鬼監督らしい――が、ジロリと俺を睨みつけた。
「ふん……顔だけの素人のガキか。まあいい、もう時間がない。おい若造、そこに立て。ピアノを弾く天童を見ろ。そして、適当に頷け。棒立ちでいいから、素人臭い動きで邪魔だけはするなよ」
典型的な、現場叩き上げの職人気質だ。俺は内心で息を吐きながら、姿勢を正して恭しく一礼した。
「承知いたしました。ご迷惑をお掛けしないよう、努めます」
その所作。角度、速度、そして顔を上げた時の視線の置き方。相手に不快感を与えず、かつ侮らせないための完璧な「礼節の仮面」。監督の目が、わずかに見開かれたのが分かった。
「……ふん。口だけは達者なようだな。いくぞ! 本番!」
助監督のカチンコが鳴る。
「よーい、ハイ!」
スタジオの空気が一変した。
くるみさんが優雅な動作でピアノに向かう。彼女の細い指が鍵盤を走り、ショパンの『ノクターン』が流れ出した。
上手い。忙しいタレント活動の合間に、どれほどの練習を積んだのだろうか。ミスタッチこそないが、プロのピアニストの演奏と比べると、どこか必死さが滲み出ている。役柄としては「誰もが認める天才ピアニスト」という設定のはずだ。今のままでは、少し説得力が弱い。
ならば、俺の仕事は一つだ。
俺はセットの柱に寄りかかり、グラスを片手に彼女を見つめた。意識するのは、単なる「観察」ではない。目の前の人間の価値を正しく測り、そこに眠る可能性を引き出すための、強い意志を持った視線だ。
俺は無言のまま、視線だけで彼女に語りかける。
くるみさんが、ふと顔を上げた。俺と目が合う。俺はわずかに、本当に数ミリだけ口角を上げた。
『大丈夫だ。そのまま自分のペースで続けろ』
そう伝えるように。彼女の瞳が僅かに揺れ、そして強い光が宿った。演奏の質が劇的に変わる。指先の無駄な力みが取れ、音が伸びやかで豊かなものになる。彼女の集中力が極限まで高まったのだ。
演奏が終わる。
静寂。俺はグラスをサイドテーブルに置き、ゆっくりと拍手をした。音は立てない寸止めだ。だが、そのゆっくりとした動作だけで、会場の空気が震えるような重厚感を演出する。
そして、近づく。一歩、二歩。距離感が縮まるにつれ、俺の表情から固さが消え、純粋に「音楽に魅了された青年」の顔へと変化していく。
「……美しい旋律ですね」
台本通りのセリフ。だが、俺はそれを、ただの暗記した言葉としてではなく、腹の底から感嘆のため息のように吐き出した。彼女の才能への敬意。そして、この場に立ち会えたことへの純粋な感謝。
くるみさんが、呆然と俺を見上げている。その頬が、メイクのせいではなく、自然と紅潮していくのが分かった。
「……カット! オッケーい!!」
監督の怒号のような声が響き渡った。
「素晴らしい! 今の表情、最高だぞ天童! それにそこの若造! お前、どこの劇団だ!? あの間の取り方と空気感、只者じゃねぇな!」
スタジオ中から拍手が巻き起こった。スタッフたちが「すげぇ……」「あのイケメン誰?」「空気が一瞬で締まったぞ」と囁き合っている。
俺は瞬時にその場の「演技」を解除し、ただの高校生らしい控えめな態度に戻った。
「お疲れ様でした」
深々と頭を下げる。
「……はぁ」
くるみさんがピアノに突っ伏した。
「ちょっと……何なのよ、あれ」
彼女が顔だけ上げて、恨めしげに俺を睨む。
「あんた、演技未経験って言ったわよね?」
「ええ、未経験ですよ。今のも演技の真似事をしただけです。相手の動きを見て、自分がどう振る舞えば一番場が丸く収まるか、それに合わせただけですから」
「……かわいくない」
彼女はむくれ、それから小さく笑った。
「でも……助かったわ。あんたが真っ直ぐに見ててくれたから、なんか、落ち着いて弾けた」
「それは光栄です。……で、報酬の件ですが」
「分かってるわよ! 最高級フードでしょ! ……あとで、ご飯くらい奢らせなさいよね」
「高いですよ、俺の休日の時給は」
「生意気!」
こうして、俺の突然のエキストラデビューは幕を閉じた。監督からは「役者にならないか」と執拗にスカウトされたが、「家業を継ぐので」という鉄板の断り文句で煙に巻いた。
帰り道。タクシーの窓から流れる東京湾を見つめながら、俺は大きく息を吐いた。
「……疲れた」
たった数分の出演だったが、慣れないことをしたせいかひどく精神力を消耗した。だが、ポケットの中の携帯電話が震え、くるみさんから『ありがと。また連絡する』という短いメールが届いたのを見て、俺は小さく息を吐いた。
明日からはまた、学校での日常が始まる。
俺は緩めたネクタイを外し、シートに深く身を預けた。




