第19話 結衣の手作り弁当
5月1日、土曜日。
ゴールデンウィークの初日。カレンダー通りの休日ではあるが、世間は既に連休特有の浮き立った祝祭の空気に包まれている。
そんな朝、俺は誰に邪魔されることもないペントハウスの真新しいアイランドキッチンに立ち、稼働させたばかりのドイツ製オーブンの前で腕を組んでいた。換気扇のダクトから、焦がしバターとアーモンドプードルの芳醇な香りが室内に立ち込めている。
焼き上がったのは『ガレット・ブルトンヌ』。フランス・ブルターニュ地方の伝統的な郷土菓子だ。有塩バターを生地の限界までたっぷりと使い、ザクザクとした強い食感と、濃厚な風味が特徴の厚焼きクッキーである。
「……焼き加減も色合いも、完璧だな」
俺はオーブンから取り出した天板を冷まし、黄金色に焼き上がった円盤を一つ手に取って味見をした。口に入れた瞬間にホロリと解ける上質なバターの風味。隠し味としてほんの少し加えたダークラムが、鼻腔へと抜ける微かな香りのアクセントになっている。前世で、重要な接待の手土産を選ぶために名店の菓子を自らの足で食べ歩き、徹底的に舌を肥えさせた経験が、ここに来て存分に活きている。
俺は満足のいく出来栄えのガレットを数枚ずつ丁寧に透明な袋に入れ、リボンをかけてラッピングを施した。
なぜ休日の朝からこんな手間のかかる焼き菓子を作っているかといえば、今日の俺の予定が少々詰まっているからだ。午前中は、花村結衣先輩からの誘い。午後は、隣人の早坂涼さんの先輩である柚木沙耶さんとの約束。自分で蒔いた種とはいえ、休日にしては慌ただしいスケジュールだ。
だが、絶対的な自由を謳歌する「隠遁ライフ」を目指す身としては、良好で適度な人間関係の構築も、自分を取り巻く環境を盤石にするための重要な投資活動の一環だ。
★★★★★★★★★★★
午前11時。
俺は愛犬のベルを専用のドッグキャリーバッグに入れ、ペントハウスから少し歩いた先にある近所の大きな公園に来ていた。新緑が目に眩しい季節だ。
ベルはまだワクチンプログラムが完全に終わっていないため、不特定多数の犬が集まる公園の地面を直接歩かせるわけにはいかない。そのため、風通しの良い日陰のベンチを見つけ、そこに清潔なタオルを敷いてベルを座らせていた。ベルは外の空気を吸い、「キュン、キュン」と楽しげな声を上げながら、短いリードの範囲内でタオルの上をピョンピョンと跳ね回って喜んでいる。
「玲央くーん!」
遠くの遊歩道の方から、よく通る元気な声が飛んできた。花村結衣先輩だ。今日は部活が休みだと言っていたが、服装はスポーティなオーバーサイズのパーカーにデニムのショートパンツ、足元は履き慣れたエアジョーダンという、実に彼女らしい活動的なスタイルだった。
「おはようございます、結衣先輩。お待たせしましたか?」
「ううん、私も今来たところ! ……って、わぁ! その子がベルちゃん!? 写真で見るより全然かわいー!」
結衣先輩は俺への挨拶もそこそこに、ベンチの上のベルの前にしゃがみ込んだ。ベルも全く人見知りをすることなく、短い尻尾をちぎれんばかりに振って彼女の手の匂いを嗅ぎ、愛想を振りまいている。
ひとしきりベルと戯れて満足した結衣先輩は、ベンチの隣に座ると、少し照れくさそうに持っていた紙袋を俺の前に差し出してきた。
「あ、あのさ……これ!」
「これは?」
「お、お弁当! ……週末だし、張り切って作りすぎちゃってさ! 一人じゃ絶対に食べきれないから、よかったら玲央くんにもらってほしいなって!」
典型的な言い訳だった。彼女の言う「作りすぎた」という言葉とは裏腹に、手渡された包みはどう見ても俺一人分として、サイズもラッピングも丁寧に計算されて作られている。
「ありがとうございます。ちょうど小腹が空いていたところなんです」
俺は余計な野暮なツッコミはせず、素直に受け取った。手に持つと、ずっしりとした物理的な重みを感じる。
「今、ここで開けてもいいですか?」
「えっ、い、今!? ……う、うん、いいけど……」
結衣先輩が少し身を強張らせる中、俺は包みを開いた。現れたのは、プラスチック製の二段重ねの弁当箱だ。
蓋を開ける。
一段目には、大ぶりの唐揚げ、デミグラスソースのハンバーグ、甘めの卵焼き、そしてタコさんウインナーが隙間なく敷き詰められている。二段目は、白米の上に海苔でバスケットボールの絵柄が丁寧に描かれていた。
「……見事なまでに茶色いですね」
「うっ! い、いいじゃん! 男の子はこういうガッツリしたのが好きなんでしょ!?」
「ええ。大好きですよ」
俺は備え付けの割り箸を割り、唐揚げを一つ摘み上げて口に運んだ。少し濃いめの醤油と生姜がしっかりと効いた味付けだ。衣は冷めてもサクサクとした食感が残るように、二度揚げされているのが分かる。
「……美味いですね。ご飯が無限に進む味だ。これなら毎日でも食べたいくらいですよ」
「ほ、本当!? ……ま、毎日って……!? そ、それはちょっと……調子乗んなよな!」
結衣先輩は耳まで真っ赤にして、俺の肩をバンと勢いよく叩いた。現役アスリートの本気の打撃は普通に痛いが、彼女の表情は満更でもなさそうだ。
「お返しと言ってはなんですが、俺からも」
俺は持参した鞄から、ラッピングしたガレットを取り出した。
「これ、今朝俺が焼いたんです。よかったら」
「えっ!? これ、玲央くんの手作り!?」
彼女は目を丸くして受け取った。そして、恐る恐るリボンを解き、中身を確認する。
「……嘘。これ、お店で売ってる高級なお菓子みたいじゃん。本当に作ったの?」
「味には自信があります」
彼女は一つ取り出し、サクッとかじった。
「ん……んんっ!? おいしっ! 何これ、バターの風味がすごい!」
「ガレット・ブルトンヌです。少しカロリーは高いですが、部活の後のエネルギー補給にはちょうどいいかと」
「すごい……なんだか、私のお弁当が霞んじゃうよ……」
「そんなことはないですよ。先輩の弁当には、どんなプロの技術でも再現できない『元気』が詰まってますから」
「……もう。玲央くんってさ、たまに凄くキザなこと言うよね」
「そうですか? 本心を言っているだけですが」
彼女は「むぅ」と口を尖らせながらも、残りのガレットの袋を大事そうに自分の鞄へと仕舞い込んだ。
その後、俺たちはベンチで並んでお弁当を食べ終え、ベルをキャリーバッグに戻してから、公園の周辺を少しだけ散歩して解散した。
★★★★★★★★★★★
午後。
俺は渋谷の駅前に立っていた。
一度ペントハウスに戻り、ベルを安全なサークルの中で留守番させ、ルナにミルクを与えてから、再び出かけてきた。午前中のラフな格好から一転、今は仕立ての良いモノトーンのジャケットにスラックスという、少し落ち着いたスタイルに着替えている。
待ち合わせの相手は、柚木沙耶さん。
隣人である涼さんの大学の先輩であり、俺とは先日大学のキャンパスで知り合ったばかりだ。「GW暇でしょ? 付き合いなさいよ」という、有無を言わさぬ呼び出しだった。
「おまたせー」
人混みの中から、気怠げなハスキーボイスがした。沙耶さんだ。
今日の彼女は、古着のバンドTシャツにロングスカート、足元はドクターマーチンという、彼女らしいグランジファッション。黒髪のロングヘアを無造作に下ろし、手にはチュッパチャプスの棒を持っている。
「待ってませんよ。俺も今来たところです」
「ふーん。優等生な回答ね。……ま、いいわ。行くよ」
彼女は結衣先輩のように俺の腕を掴むことはなく、スタスタと自分のペースで歩き出した。適度な距離感を保つ、猫のような気まぐれさだ。
連れて行かれたのは、センター街の喧騒から少し離れた路地裏にある、薄暗い中古レコード店だった。
「ここ、レア盤が多いのよ」
彼女は慣れた手つきで、ぎっしりと詰まったレコード棚を漁り始めた。俺も隣に並び、色褪せたジャケットを眺める。ジャズ、ロック、ソウル。CD全盛の1999年の今、レコードは一部の愛好家の間でのみ根強い人気を保っているメディアだ。
「玲央くんはさ、普段何聴くの?」
「雑食ですけど……古いジャズとか、クラシックも聴きますよ」
「へぇ。高校生にしては随分と渋い趣味ね」
彼女はニヤリと笑い、一枚のレコードを抜き出した。ビル・エヴァンスの『Waltz for Debby』。
「これ、いいよね」
「名盤ですね。雨の日に、一人で静かに聴きたくなる」
「……分かってるじゃん」
彼女は満足そうに小さく頷いた。
その後、俺たちは周辺の古着屋を何軒か巡り、最後に昭和の香りが色濃く残る、レトロな純喫茶に入った。紫煙が燻る店内は、不思議と落ち着く空間だった。
「クリームソーダ二つ」
席につくなり、沙耶さんが注文した。どうやら彼女の定番メニューらしい。
運ばれてきた鮮やかな緑色の液体と、赤いサクランボ。彼女はストローで器用にグラスの中の氷をカラカラと回しながら、上目遣いで俺の顔を見た。
「ねえ。涼から聞いたけどさ」
「何をですか?」
「あんた、ただの実家がお金持ちの高校生じゃないんでしょ?」
「……どういう意味ですか?」
「勘よ。涼はそういう機微に鈍感だから『すげーイケメンで気の利く弟分』くらいにしか思ってないみたいだけど、私は違う。あんたの目、ただのガキの目じゃないもの」
彼女はストローを咥えたまま、俺の瞳の奥をじっと覗き込んだ。その瞳は、俺が被っている「優等生」という皮を一枚剥がし、その下にある本質を見透かそうとするような鋭い知性を帯びていた。
「……人より少しだけ、色々と苦労する環境にいるんですよ」
俺は適当な言葉で曖昧に笑って誤魔化した。沙耶さんは「ふーん」とそれ以上深くは追求せず、視線を外してアイスクリームをスプーンですくった。
「ま、深くは聞かないけど。……あんまり背負い込みすぎないことね。壊れちゃうわよ」
「……アドバイス、感謝します」
「別にあんたのためじゃないわよ。涼が悲しむ顔を見たくないだけ」
彼女はツンとした態度で言い放ち、クリームソーダを一気に飲み干した。
「ごちそうさま。……美味しかったわ、付き合ってくれて」
「こちらこそ。面白い店を知れました」
店を出ると、空は既に茜色に染まり始めていた。俺は駅へ向かう沙耶さんを見送り、一人でペントハウスへの帰路につくため、渋谷の雑踏の中へと歩き出した。




