第18話 セイラの秘密
4月30日、金曜日。
世間は明日から始まるゴールデンウィークの話題で持ちきりだった。1999年の大型連休。ミレニアムという言葉が持つ独特の浮遊感と、目前に迫った初夏の解放感が入り混じった空気が、桜花学園の教室にも充満している。
そんな周囲の喧騒をよそに、俺は昼休みのチャイムが鳴ると同時に教室からの逃避行を決め込んだ。目指すのはいつもの図書室――ではなく、北校舎の屋上へと続く階段だ。
今日はなんとなく、広い空が見たかった。通常、この学園の屋上への扉は安全管理のために施錠されているはずだが、金曜日の昼休みだけは鍵が開いていることがあるという、新入生の間でまことしやかに囁かれている噂を耳にしていたのだ。それが管理人のうっかりミスなのか、あるいは生徒への粋な計らいなのかは定かではない。
最上階の踊り場に立ち、重い鉄扉のノブに手をかけて力を込める。カチャリ、という硬質な音と共に抵抗なく扉が開いた。
「……当たりか」
俺は小さく息を吐き、重い扉をゆっくりと押し開けた。開いた瞬間に、強めの風が吹き込んでくる。春の終わりの、少し湿り気を帯びた生暖かい風。コンクリートの照り返しと、視界いっぱいに広がる真っ青な空が目に飛び込んできた。
誰もいないはずの屋上。そこに、先客がいた。
高いフェンスに寄りかかり、遠くの街並みをぼんやりと眺めている一人の少女。風に煽られ、艶やかな長い黒髪がまるで生き物のように激しく舞っている。
霧島先輩だ。
いつも図書室の窓際の席にいるはずの彼女が、なぜこんな人気のない場所にいるのだろうか。
俺は一瞬、静寂を邪魔するまいと踵を返そうか迷った。彼女の纏う空気が、いつもの静謐な読書姿とは明らかに違っていたからだ。もっと鋭利で、不用意に触れれば切れそうなほどの危うさと、他者を明確に拒絶するような冷たい色を帯びていた。
しかし、足音に気づいた彼女がこちらを振り向くのが先だった。
「……西園寺くん?」
その声には驚きよりも、どこか諦めのような響きがあった。
「すみません。先客がいるとは知らずに。お邪魔でしたら戻ります」
「いいわ。ここは誰の場所でもないもの」
彼女は視線を再びフェンスの向こうの空へと戻した。俺は少し迷ってから、彼女の視界の邪魔にならない程度の距離――フェンスを挟んで数メートルほど離れた横に立った。
「珍しいですね。先輩なら、いつも通り図書室にいると思っていました」
「……たまには、活字以外のもので息をしたくなるのよ」
霧島先輩は自嘲気味に、ふっと短く笑った。
「本の中の世界は完璧だわ。秩序があって、美しくて、最初から結末が決まっている。理不尽な不測の事態なんて起きない。……でも、現実は違う」
彼女の細い指が、金網を強く握りしめているのが見えた。力を込めすぎているのか、指先が白くなっている。
「家ではね、息が詰まるの」
唐突な告白だった。俺に向かって言ったというよりは、吹く風に独り言を乗せたような、そんなか細い声だった。
「父は厳格な裁判官。母は伝統ある茶道の家元。私の人生は、生まれた時から進むべきレールが完全に敷かれているのよ。歩き方、話し方、読む本、付き合う友人……そのすべてが『霧島家の娘』として相応しいかどうかという基準だけで採点されるの」
前世の記憶がかすかに疼いた。俺も似たような環境に身を置いていた時期がある。周囲からの過剰な期待と、愛情を盾にした息の詰まるような管理。それらから逃れるために、俺は仕事という別のレールに没頭し、そして心をすり減らして最期を迎えた。
「図書室だけが、私に残された唯一の逃げ場所だった。本を読んでいる間だけは、誰のものでもない、ただの『私』になれたから。……でも、最近はその場所すらも浸食されている気がするの」
彼女は震える声でそう続けた後、ゆっくりとこちらを向いた。
「西園寺くん。あなたは……自由ね」
「俺ですか?」
「ええ。入学式のスピーチ、聞いたわ。あなたは周囲の目や大人の思惑なんて少しも気にしていない。自分の足で、自分の行きたい場所へ堂々と歩いている。……少しだけ、羨ましいわ」
彼女が俺を見る。その瞳は、いつもの冷静な理知の光ではなく、今にも泣き出しそうな、行き場を失った幼い子供のような色をしていた。
深い孤独だ。
俺が莫大な資産を手に入れ、未来の知識を持っていたとしても、他人の抱える孤独を根本から消し去る魔法なんて持ち合わせていない。いくら金を積んでも、彼女の家庭環境を今すぐ変えることはできない。できることといえば、少しだけ視点をずらしてやることくらいだ。
俺はゆっくりと彼女の隣に近づき、視線をフェンスの向こうの空へと向けた。
「俺は自由に見えるかもしれませんが、これでも結構不自由な身ですよ。家に帰れば子犬と子猫に振り回される下僕ですし、姉には休日の荷物持ちとして扱われますからね」
俺の言葉に、彼女はきょとんとし、やがて小さく吹き出した。
「ふふ……何それ。あなたみたいな人でも、家族には頭が上がらないのね」
「それに、レールなんてものは、脱線してからが本当のスタートです」
「脱線?」
「ええ。誰かが敷いたレールを走るのに疲れたら、一度降りて歩いてみればいいんです。道がなければ、自分で草を分けて作ればいい。……俺も、一度人生のレールから大きく転落したことがありますから、その景色はよく知っています」
前世での過労死。あれは究極の「脱線」だった。そのおかげで俺は今、この二度目の人生を自分の意志で生きている。
「先輩は本が好きだ。その感性は、誰にも奪えない先輩だけのものです。ご両親にも、家柄にも、決して侵すことのできない聖域です。もし、現実の息苦しさに耐えられなくなったら、また逃げればいい。図書室でも、この屋上でも」
俺は真っ直ぐに彼女の瞳を見た。
「その時は、俺もここで一緒にサボらせてもらいますよ。一人でサボるより、共犯者がいた方が気が楽でしょう」
霧島先輩は驚いたように目を見開き、そして――この日初めて、年相応の柔らかな笑みを浮かべた。
「……本当に、生意気な後輩」
彼女はフェンスから手を離し、目元を軽く指先で押さえた。
「ありがとう。……少し、楽になったわ」
予鈴が鳴った。昼休みの終わりを告げる音だ。
「行きましょうか」
「ええ」
扉へ向かう彼女の背中は、先ほどまでの危うさが消え、いつもの凛とした「霧島先輩」に戻っていた。その肩の力は、ほんの少しだけ抜けているように見えた。
★★★★★★★★★★★
放課後。
屋上での静かな時間から一転、俺はまた別の「嵐」に捕まっていた。
「玲央くーん! 見ーっけ!」
校門を出たところで、弾けるような笑顔が俺の視界を塞いだ。
先日廊下でぶつかりそうになったところを助けた、花村結衣先輩だ。2年生にしてバスケ部の次期エース。ショートカットが似合う健康的な美少女であり、一部の男子生徒からは「むちふわ」という不名誉な二つ名で呼ばれている、メリハリのあるスタイルの持ち主でもある。
「奇遇ですね、結衣先輩。今日は部活は?」
「今日はオフなの! だからさ、これからデートしよ!」
「……デート、ですか?」
「そ! こないだ助けてもらったお礼もまだしてないし! ちょっと付き合ってよ!」
相変わらずの圧倒的な行動力だ。俺は少しだけ戸惑った。
「お礼なんて気にしていないんですが。それに、これから行くあてはあるんですか?」
「渋谷! センター街に新しくできたクレープ屋さんに行きたいんだけど、一人で行くのは寂しいから、ちょうどいいところを見つけたなって」
強引な誘いだが、悪意はない。霧島先輩との会話で少しばかり重くなっていた気分を、彼女のこの突き抜けた明るさで中和するのも悪くない選択に思えた。
「わかりました。そういうことなら、お供しますよ」
かくして、俺たちは電車に乗り込み、若者の街・渋谷へと向かった。
センター街は、金曜日の夕方ということもあって凄まじい人混みだ。ガングロギャル、ルーズソックス、厚底ブーツ。1999年のカルチャーの象徴たちが闊歩している。
「はぐれないようにね!」
結衣先輩が、極めて自然な動作で俺の袖口を掴んできた。
「先輩、大胆ですね」
「えへへ、役得役得♪ こんなイケメン連れて歩けるなんて、女子の夢だもん」
彼女は悪びれもせず笑い、俺をクレープ屋の長い行列へと並ばせた。周囲からの視線を感じる。制服姿で並ぶ俺たちは、この雑踏の中でもそれなりに目立つらしい。
「はい、玲央くんはチョコバナナね! 私はストロベリー!」
渡されたクレープは、生クリームが親の仇のように山盛りにされていた。前世の胃袋の感覚のままなら少々ヘビーだが、今の若い身体なら難なく代謝できるだろう。
「んー! おいしー!」
結衣先輩は口の端にクリームをつけながら、本当に幸せそうに頬張った。その笑顔は、見ているこちらまで明るくさせる力がある。
「玲央くんも食べてみて! あーん」
彼女が自分のクレープをこちらに差し出してくる。いわゆる「間接キス」のシチュエーションだ。周囲の男子高生たちからの殺気めいた嫉妬の視線が突き刺さる。
「……いただきます」
俺は小さく息を吐いて観念し、差し出されたクレープを一口かじった。甘酸っぱいイチゴと、濃厚なクリームの味が口いっぱいに広がる。
「どう?」
「……美味しいですね。ただ、クリームが少し甘すぎる気もしますが」
「えー、そう? 私はこれくらいがちょうどいいけどなー」
その後、俺たちはゲームセンターのプリクラ機へと押し込まれた。狭いボックスの中で、彼女の体温とフローラルな香りを間近に感じる。
「はい、チーズ!」
機械的な音声と共に、フラッシュが焚かれる。シールが出てくるまでの間、彼女はふと真面目な顔になって俺を見た。
「ねえ、玲央くん」
「はい?」
「私ね、バスケしてる時が一番自分らしいって思うの。でも、たまにこうやって普通の女の子らしく遊ぶのも、結構好きなんだ」
「似合ってますよ。先輩は、ユニフォーム姿も、今のその姿も」
「……ありがと。玲央くんと一緒にいると、なんか素直になれる気がする」
彼女ははにかむように笑った。その表情には、いつもの元気印とは違う、少ししっとりとした雰囲気があった。
日が暮れ、俺たちは駅の改札前で解散した。
「今日は楽しかった! 付き合ってくれてありがとね、玲央くん!」
「こちらこそ。良い気分転換になりました。気をつけて帰ってください」
「また誘うから! 絶対だよ!」
彼女は大きく手を振り、改札の奥へと消えていった。
俺はポケットの中の携帯電話を取り出し、時刻を確認する。そろそろ迎えの車が到着する頃合いだ。
俺は緩んでいた表情を引き締め直し、ロータリーへと歩き出した。




