第17話 西海岸の風
4月28日、水曜日。
ホームルームが終わると同時に、俺は速やかに教室を後にした。隣の席のマナが何か話しかけようとしていた気配はあったが、足早に昇降口へと向かう。最近の彼女は俺の行動パターンを観察することに夢中になっているようだが、人混みを利用して撒く技術もすっかり身についてきた。
校門から少し離れた大通りで待機させていた迎えの車に乗り込み、真っ直ぐにペントハウスへと向かう。今日の俺には、何よりも優先して進めなければならない重要なタスクがあった。
ペントハウスに到着すると、熱烈な歓迎をしてくれるベルとルナを手早く撫でて落ち着かせ、俺はリビングのソファに深く腰を下ろした。膝の上にノートパソコンを開き、ダイヤルアップ接続でネットワークに繋ぐ。
画面に表示させたのは、米国西海岸を中心とした海外のテック系ニュースサイトや、大学の研究室が公開している技術論文のデータベースだ。
画面をスクロールしながら、特定のキーワードで検索をかける。
『スタンフォード大学』『検索アルゴリズム』『ページランク』。
やがて、テキスト中心の簡素な論文サイトの中に、俺が探していた二人の学生の名前を見つけた。ロリーとセルゲイブ。1999年の今、インターネットの世界はまだ混沌の只中にある。検索エンジンといえばディレクトリ型の『Yahho!』やロボット型の『AltaVista』などが主流であり、ユーザーが目的の情報に正確に辿り着くのにも一苦労する時代だ。
しかし、彼らが開発した「ページランク」というアルゴリズムは、ウェブサイトの重要度をリンク構造から客観的に評価するという画期的なものだ。これまでの検索エンジンとは根本的に次元が違う。
彼らは今、カリフォルニア州のメンローパークにあるガレージを借りて、自分たちの開発した検索エンジン『Goggle』を形にする準備をしているはずだ。そして同時に、深刻な資金難に苦しんでいる時期でもある。自前のサーバーを買う金もなく、大学の回線を借りて細々とシステムを運用している段階だ。
「……連絡先は、と」
公開されている論文の末尾や、大学のディレクトリを辿り、彼らのものと思われるメールアドレスを発見した。まだ法人化もしていない、学生の研究プロジェクトの連絡先だ。
俺はメーラーを立ち上げ、文面の作成に取り掛かった。
突然「1000万ドル投資する」などという怪しいメールを送りつければ、確実にスパム扱いされて即座に削除されるだろう。彼らは優秀な技術者であり、自分たちのアルゴリズムの価値を誰よりも理解している。無名の高校生からの胡散臭いオファーなど相手にしない。
俺は西園寺家の投資部門であるという事実を前面に出し、彼らの開発したアルゴリズムがいかに優れているか、そしてそれが今後のインターネットの構造をどう変革するかについて、技術的な視点から詳細な分析を英語で書き連ねていった。
『貴殿らの開発したページランクというアルゴリズムは、現在のインターネットが抱える情報の海という課題を根本から解決する可能性を秘めていると確信しております。私は日本の投資グループを代表し、貴殿らの技術の商用化に向けたシードラウンドでの資金提供、および将来的な日本市場への進出サポートについて、具体的な協議の場を設けたいと考えております』
まずは興味を持たせること。そして、こちらが単なる金づるではなく、技術の価値を正当に評価できる強力なパートナーになり得る存在だと認識させることが重要だ。具体的な出資額の提示は、彼らが食いついてきてからの次のフェーズで行う。
俺は文面を何度も推敲し、完璧なビジネスメールに仕上げてから送信ボタンを押した。
この一通のメールが、将来の俺の資産を天文学的な数字へと押し上げる強固な足がかりとなる。彼らの技術に対する初期投資は、数年後の時価総額を考えればタダ同然だ。もちろん、ただ金を入れるだけでなく、俺の前世の知識を生かした経営のノウハウや、日本市場でのローカライズなど、彼らにとっても魅力的な条件を提示するつもりだ。
「よし」
俺はパソコンをスリープ状態にし、小さく息を吐いた。これで最初の布石は打った。彼らからの返信を待ち、夏休みには西海岸へと飛んで直接交渉のテーブルに着く手はずを整える。高揚感が静かに胸を満たしていくのを感じた。
時計を見ると、18時を回っていた。
そろそろ出かける時間だ。今日はもう一つ、重要な予定が入っている。
「ベル、ルナ。また少し留守番だ。いい子にしててくれよ」
サークルの中でじゃれ合っている二匹の頭を順番に撫で、俺はクローゼットからダークグレーのサマージャケットを取り出した。今日は少し大人びた落ち着いた格好をしていく必要がある。
車を呼び出し、西麻布へと向かう。
大通りから少し入った路地裏にある、隠れ家的なイタリアンレストランの前で車を降りた。看板も出ていない、一見さんお断りの名店だ。重厚な木製の扉を開け、予約名を告げる。案内されたのは、店の奥にある防音の行き届いた個室だった。
「あら、来たわね」
先に到着していた女性が、ワイングラスを傾けながら柔らかく微笑んだ。如月舞。今をときめくトップ女優であり、先日、姉が所属することになった『オフィス・K』の先輩でもある。
今日の彼女は、シックな黒のノースリーブワンピースに身を包み、長い髪をアップにまとめていた。露出は決して多くないのに、そこはかとない色気と洗練された空気が漂っている。
「お待たせしました、舞さん」
「いいのよ。私も今来たところだし。……ふふ、今日は制服じゃないのね」
「さすがにこの店に制服では浮いてしまいますから」
「あら、残念。可愛い高校生と密会してる背徳感を味わいたかったのに」
彼女は悪戯っぽく笑い、向かいの席を勧めた。相変わらず、ペースを崩すのが上手い人だ。先日事務所で会った時よりも、さらに彼女自身の持つ「場を支配する空気」が強くなっているように感じる。
「今日はどういった風の吹き回しですか? まさか、姉のことで何かトラブルでも?」
俺は席に着くなり、単刀直入に聞いた。多忙を極めるトップ女優が、わざわざ高校生の俺を食事に呼び出すなど、何か裏があるに違いない。
「ううん、摩耶ちゃんはすごく頑張ってるわよ。飲み込みも早いし、素直でいい子だし。……今日は、純粋にあなたという人間に興味があっただけ」
「俺にですか?」
「そう。あの日、事務所で会った時……あなた、私の目を見ても少しも動じなかったでしょ?」
彼女はワイングラスをテーブルに置き、少し身を乗り出してきた。アンティークのキャンドルの光が、その大きな瞳の中で揺れている。
「たいていの男の人は、私の目を見ると無意識に媚びるか、萎縮するか、あるいは露骨な目線を向けてくる。でも、あなたは違った。……まるで、私の奥にある『価値』を冷徹に分析しているような目だったわ」
鋭い観察眼だ。憑依型女優と呼ばれるだけあって、他者の感情の機微や視線の意味に極めて敏感なのだろう。
「……買い被りですよ。俺はただ、大切な姉を預ける事務所の先輩が、どのような方なのかをフラットに見極めようとしていただけです」
「ふふ、それよ。その生意気で堂々としたところ」
舞さんは楽しそうに笑い声を上げた。そして、不意に表情から笑みを消し、真っ直ぐに俺の目を見据えた。
「ねえ、玲央くん。あなた、本当に中身は十五歳の高校生なの?」
核心を突くような問いかけだった。だが、俺の表情筋はピクリとも動かない。
「……戸籍上は、間違いなく十五歳ですよ」
「またその返し。……まあいいわ。正体が何であれ、あなたが普通の高校生ではない『特別』な人間だっていうのは間違いないもの。私、そういう少し歪んだ人間が大好きなの」
彼女は再びワインを一口飲み、艶然と微笑んだ。その笑顔には、周囲の人間を引きずり込むような抗いがたい引力がある。前世の俺であれば、彼女のペースに呑まれ、一瞬で骨抜きにされていただろう。
「光栄ですが、俺はただの少し姉想いな高校生ですよ」
「ふふ、そういうことにしておいてあげるわ。……でもね、私に興味を持たれた以上、少しだけ覚悟しておいてね」
彼女の瞳が、かすかに光を帯びた。役者の演技なのか、それとも彼女自身の素の本性なのか、容易には判別がつかない。
料理が運ばれてくると、彼女の張り詰めた雰囲気は一変した。「わぁ、美味しそう!」と目を輝かせ、無邪気にフォークを動かし始める。さっきまでの相手を試すような空気はどこへやら、美味しいものに目がない年相応の女性の顔を見せる。
この激しいギャップ。天然なのか、それともすべて計算し尽くされた振る舞いなのか。どちらにせよ、見ていて飽きない人物であることは確かだ。
「そういえば、摩耶ちゃんから聞いたわよ。あなた、お料理が得意なんですって?」
「ええ、まあ。休日の趣味程度ですが」
「今度、私にも作ってよ。お店のプロの味より、誰かが作ってくれる家庭の味に飢えてるの」
「……機会があれば」
「約束よ? 破ったら、摩耶ちゃんにキツいレッスンしちゃうかも」
「それは困りますね。……分かりました、善処します」
俺は苦笑交じりに葡萄ジュースを飲んだ。完全に主導権を握られているように見せて、実のところ俺自身もこの予測不能な会話のキャッチボールを楽しんでいる部分がある。彼女のような強烈な個性と渡り合うのは、ビジネスの冷徹な交渉とはまた違った、知的なゲームのようだ。
食事を終え、店を出る。西麻布の夜風が、少し火照った頬に心地よい。
「送りますよ。車を待たせてありますから」
「あら、紳士ね。でも今日はいいわ。事務所の迎えが来てるから」
店のすぐ前の通りに、事務所の送迎車が既に横付けされていた。彼女は振り返り、俺に向かって軽く手を振った。
「楽しかったわ、玲央くん。また遊びましょ」
「ええ、お手柔らかにお願いします」
彼女が車に乗り込み、去っていくのを見送る。俺は自分の車を呼び出し、ペントハウスへと向かった。
帰宅すると、ベルとルナが玄関まで出迎えてくれた。その無垢な姿に触れると、張り詰めていた神経が自然と緩んでいくのがわかる。
「遅くなってごめんな。……明日はゆっくり遊んでやるからな」
俺は二匹を同時に抱き上げ、リビングへと足を踏み入れた。テーブルの上のパソコンが、スリープモードの青いランプを静かに点滅させている。俺は二匹をソファに下ろすと、ネクタイを緩めながら、明日の市場の動きに思いを巡らせた。




