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平穏最優先の財閥御曹司、未来知識で投資起業  作者: 伊達ジン


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第16話 マナの探偵ごっこ

 4月26日、月曜日。


 ペントハウスのリビングでは、ベルとルナがすっかり仲良くなり、日当たりの良い窓際で二匹が団子になって眠る姿が日常の光景になっていた。俺はその穏やかな寝顔をコーヒーを飲みながらゆっくりと眺めてから、新しい週の始まりに向けて登校した。


 放課後のホームルームを知らせるチャイムが鳴り終わると、1年A組の教室は一気に活気づく。部活動の仮入部へ向かう者、新しくできた友人と寄り道をする相談をする者。俺は鞄に教科書をしまい、速やかに下校しようと席を立った。今日はルナのために予約しておいた特別なキャットフード――成長期の仔猫用で、添加物の入っていないオーガニックの最高級品――を買いに行く予定がある。


「西園寺くん!」


 教室の前方の扉へ向かおうとした俺の前に、一人の少女が立ちはだかった。特徴的なショートカットを揺らし、不敵な笑みを浮かべている。隣の席の桜木マナだ。


「今日は随分と早いお帰りだね。もしかして、またお家で厳しい『帝王学のレッスン』でもあるの?」


 彼女はニヤニヤしながら聞いてきた。先日、入学式でのスピーチの上手さを誤魔化すために使った「立場上、人前で話す訓練を受けていた」という言い訳を、彼女はまだ面白がって根に持っているらしい。俺の中で完全に「ガチガチに管理された御曹司」というキャラクターとして定着しているようだ。


「まあ、似たようなものだよ。やることがいろいろとあって忙しいんだ」


「ふーん……怪しいなぁ」


 マナは目を細め、俺の顔をジロジロと観察した。その瞳は、獲物を狙う肉食獣のように鋭く、そして純粋に楽しげだ。


「西園寺くんってさ、本当に謎が多いよね。住所も『港区』としか教えてくれないし、休日は何をして過ごしてるのかも絶対に秘密にしてるし。……もしかして、私たち同級生には絶対に言えないような『裏の顔』があるんじゃない?」


 心臓が小さく跳ねた。

 裏の顔。

 前世の記憶を持ち、莫大な資金を裏で運用し、すでにペントハウスで優雅な一人暮らしを始めている投資家。確かに、普通の高校一年生には到底言えない顔だ。少しでも油断すれば、彼女の勘の良さに足元を掬われかねない。


「考えすぎだよ。俺はただの、少しだけプライバシーを大事にしたいだけの高校生さ。君の想像するようなドラマチックな秘密なんて何もない」


「出た、その『大人の余裕』みたいな躱し方! ……まあいいわ。今日はこれで見逃してあげる」


 マナは意外にもあっさりと道を空けた。少し拍子抜けしつつも、俺は「じゃあ、また明日」と短く告げて教室を出た。


 昇降口で指定の革靴に履き替え、校舎の外へ出る。今日はあらかじめ運転手に連絡を入れ、目立つ校門の真ん前ではなく、少し離れた大通りで車を待機してもらっている。ルナの餌を売っている輸入ペット用品店が、学校から歩いていける距離の代官山にあるため、そこまでは春の空気を吸いながら歩いていくつもりだった。


 心地よい風を感じながら並木道を歩き始める。

 しかし、校門を出て数分ほど歩いた頃、不意に背中に視線を感じた。


(……つけられているな)


 前世、競合他社やメディアの影に常に神経を尖らせていた経験が、静かに警鐘を鳴らしている。危険な殺気ではない。もっと純粋な好奇心に満ちた、隠しきれない熱量を持った素人の気配だ。


 俺は歩調を変えずに、通り沿いにあるブティックのショーウィンドウのガラス越しに、さりげなく後方を確認した。数十メートル後ろの電柱の影に、見覚えのあるショートカットが隠れている。本人は完全に隠れているつもりなのだろうが、指定の学生鞄につけた大きなキーホルダーがはみ出して揺れているのが丸見えだ。


 桜木マナ。つい先ほど「見逃してあげる」と言った舌の根も乾かぬうちに、尾行を開始したらしい。どうやら彼女の中で、俺の「謎の私生活」を暴くことが一種のゲームになっているようだ。


 このままつけられて、待機させている高級車に乗り込むところを見られるのは面倒だ。「帝王学のレッスン」という設定は守れるかもしれないが、彼女の旺盛な探究心をさらに煽ることになる。ここは、適当なところで撒いてしまうのが賢明だろう。


 俺は全く気づかないフリをして、歩く速度を一定に保ったまま代官山のメインストリートへと入っていった。おしゃれなカフェやアパレルショップが立ち並ぶエリア。平日だが、それなりに人通りがある。


 マナは一定の距離を保ちつつ、探偵気取りでついてきている。俺が立ち止まるそぶりを見せるたびに、時折、電柱や看板の陰にサッと身を隠す大げさなアクションが見える。動きがコミカルすぎて、吹き出しそうになるのを堪えるのが大変だった。


 俺は目的の店――輸入ペット用品専門店『Paws & Tails』に入った。ここは海外のセレブリティも愛用するような高級ペットグッズを専門に扱っており、店内は洗練されたサロンのような落ち着いた雰囲気だ。全面ガラス張りの店内からは、外の様子がよく見える。


 俺は陳列棚の影から、外を伺った。マナは店の向かいにあるオープンテラスのカフェのメニューボードの陰に隠れ、こちらの様子を伺っている。「ペットショップ? なんで?」という顔で眉をひそめているのが、ここからでも手に取るように分かる。


 俺は顔なじみの店員に声をかけ、予約しておいたキャットフードを受け取った。一缶数千円もする、ヒューマングレードのオーガニック素材のみを使ったフードだ。ルナが健康に育つためなら安い出費だ。ついでに、ベルのための新しいおもちゃとして、天然ゴム製のボールもいくつかカゴに入れた。


 会計を済ませ、店員に小声で尋ねた。


「すみません、少し厄介な知り合いに見つかってしまって。もしよろしければ、裏口から出させてもらえませんか?」


 店員は俺の制服と、外で不自然に張り込んでいるマナの姿を見て、何かを察したように微笑んだ。


「なるほど、大変ですね。……どうぞ、こちらへ」


 俺は丁寧に礼を言い、スタッフ用のバックヤードの通路を通って裏通りへと出た。表通りの喧騒とは打って変わり、人通りのない静かな路地裏だ。ここならマナからは完全に死角になる。俺は携帯電話を取り出し、待機させていた運転手に現在地を連絡した。


「代官山の裏通りだ。ここでピックアップしてくれ」


 数分後、黒塗りの車が音もなく滑り込んできた。俺は素早く後部座席に乗り込む。


 走り出した車窓から、表通りの様子がチラリと見えた。マナが痺れを切らしたように店に入っていくのが見える。だが、そこにはもう俺の姿はない。店員に「あのお客様なら、もうお帰りになりましたよ」と告げられ、呆然とする彼女の顔が目に浮かぶようだ。


 俺はシートに深く身を預けた。これでルナの餌は確保できたし、マナの尾行も無事に撒くことができた。しかし、今日の俺の予定はこれだけではない。


 ポケットの中で、携帯電話が短く震えた。小さなモノクロ液晶を確認すると、差出人は『早坂涼』となっていた。


『件名:飯!

 本文:

 おう、玲央! 今どこだ? 学校終わったか?

 アタシも今講義終わったとこ!

 昨日お前んちで散々ベルとルナに癒やされたお礼も兼ねて、腹減ったから飯行こうぜ!』


 短い文面からも、彼女のハスキーで元気な声が直接聞こえてきそうだ。昨日も日曜日の昼下がりにペントハウスへ遊びに来て、床に這いつくばってベルとルナを溺愛していったばかりだが、よほどこの二匹のことが気に入ったらしい。


 俺は携帯電話の物理ボタンを押し、返信を打った。


『件名:Re: 飯!

 本文:

 了解です。ちょうど代官山での用事が済んだところです。

 何を食べますか?』


 送信して数秒後、すぐに返信が来た。


『件名:Re: Re: 飯!

 本文:

 肉! 焼肉! ……と言いたいとこだけど、今日は給料日前で金欠なんだわ。

 だから、安くて美味いアタシの奢れる範囲の店に行こうぜ!

 渋谷のハチ公前で落ち合おう。アタシの知ってる穴場、連れてってやるよ!』


 俺は運転手に行き先を渋谷駅周辺に変更するよう伝えた。制服のままだが、涼さんなら俺がどんな格好をしていようと全く気にしないはずだ。


 渋谷の雑踏。スクランブル交差点の凄まじい人混みを抜け、指定された待ち合わせ場所へ向かう。ハチ公前は人で溢れかえっているが、涼さんの姿はすぐに見つかった。


 人混みの中でも一際目を引く、長身でスタイルの良いショートカットの女性。今日は着古したライダースジャケットにダメージデニムという、かなりロックな出で立ちだ。


「おーい! 玲央! こっちこっち!」


 彼女は俺を見つけるなり、大きく手を振って駆け寄ってきた。


「お待たせしました、涼さん」


「おう! なんか制服姿も板についてきたな。……ていうか、お前また背伸びたか? アタシより高くなってないか?」


 涼さんは俺と背比べをするように並び、自分の頭の上に手をかざして俺の目線と比べた。彼女も女性としては長身だが、今の俺はそれを優に超えている。ハイヒールを履かない彼女を少し見下ろす形になるのは、昔の記憶と比べて新鮮な感覚だ。


「成長期ですからね。……で、その穴場のお店というのは?」


「こっちこっち! ついてきな!」


 彼女は俺の腕を軽く掴み、雑踏の中をぐいぐいと進んでいく。センター街の喧騒を抜け、細い路地裏へ。いかにも怪しげな、古びた雑居ビルの前で止まった。


「ここだ! 『中華料理 龍鳳』! ここの餃子と炒飯がマジで絶品なんだよ!」


 油で黒ずんだ看板。使い込まれた暖簾。およそ「西園寺家の御曹司」が足を踏み入れるべき場所ではない。だが、俺はこういう匂いのする安食堂が嫌いではない。前世の創業期、金がなかった頃に徹夜明けで通った中華屋の記憶が蘇る。


 店内は仕事帰りのサラリーマンや学生で満席だったが、運良くカウンター席が二つだけ空いていた。肩が触れ合うほどの距離で並んで丸椅子に座る。


「オヤジ! 餃子二人前と、炒飯大盛り! あとビール! ……あ、こっちはコーラで」


 涼さんは慣れた様子で大将に注文し、俺にはコーラを頼んでくれた。未成年への配慮。サバサバしていて豪快に見えて、こういう細やかな気配りができるのが彼女の魅力だ。


 運ばれてきた餃子は、規格外の大きさだった。皮はパリパリに焼かれ、中は肉汁が溢れんばかりに詰まっている。一口噛むと、強烈なニンニクの香りと共にジャンクな旨味が口いっぱいに広がる。


「……美味いですね、これ」


「だろ!? これ食うと一発で元気出るんだよなぁ!」


 涼さんはジョッキのビールを美味そうに煽り、豪快に笑った。その屈託のない笑顔を見ていると、学校での探り合いや、投資家としての張り詰めていた神経が、ふっと自然に緩んでいくのを感じる。


「なあ玲央、学校どうよ? もう慣れたか? 可愛い彼女とかできたか?」


「まさか。まだ入学して少ししか経ってないですよ。それに、今はベルとルナの世話で手一杯ですから」


「あはは! 違いねぇ! あの子たち可愛すぎるもんなぁ。ルナちゃんも昨日、やっとアタシの指からおやつ食べてくれたし。……また今週末、新しいおもちゃ持って遊びに行っていいか?」


「ええ、もちろん。ベルもルナも、涼さんに会いたがってますから」


「っしゃあ! じゃあ今度の土曜、すっげぇ食いつく猫じゃらし買って持っていくわ!」


 たわいない会話。株価の変動も、将来のビジネスの話も一切しない。ただ、安くて美味いものを食べて、腹の底から笑い合うだけの時間。今の俺には、この涼さんとの距離感が心地よかった。


 店を出て、会計を済ませようと財布を取り出したところで、涼さんが俺の手を制した。


「おいおい、今日はアタシが奢るって言ったろ。財布しまえ」


「いや、でも涼さん、金欠だって……それに、俺が半分出しますよ」


「バカ言え。大学生が高校生に金払わせるわけにいかねーだろ。給料日前つっても、餃子と炒飯くらい奢れるわ! 昨日の癒やし代だと思えば安いもんさ」


 彼女はそう言って千円札を数枚カウンターに置き、強引に会計を済ませてしまった。その気風の良さに、俺は苦笑して引き下がるしかなかった。


「ごちそうさまでした。次は必ず俺が払いますからね」


「おう、期待してるぜ! 次は高い焼肉奢ってもらおうかな!」


 夜風が火照った頬に気持ちいい。待たせていた車に乗り込み、帰路につく。隣で涼さんが、窓の外を流れる夜景を見ながらポツリと言った。


「……なんかさ、お前とこうして飯食うの、不思議な感じだな」


「そうですか?」


「ああ。昔は泣き虫のチビだったのに、今じゃアタシよりデカくなって、高級車乗り回してさ。……でも、中身は変わってないな。動物に優しいとことか、そういう根っこの部分は」


 彼女は振り返り、俺を見て優しく微笑んだ。その表情は、いつもの男勝りな彼女とは少し違う、温かさを帯びていた。


「……人は変わりますよ。でも、根本的な部分は変わらないのかもしれませんね」


 俺は曖昧に答えた。中身は入れ替わってしまったが、ベルとルナに向けられる愛情や、彼女に向けられる親愛の情だけは、決して嘘ではない。


 ペントハウスのあるマンションに到着する。同じ最上階の、隣り合う部屋。自分の部屋のドアの前で、涼さんは軽く手を振った。


「ありがとな、玲央! 今週末、また遊ぼうぜ!」


「ええ、楽しみにしています。おやすみなさい、涼さん」


「おう、おやすみ!」


 彼女が自室に入っていくのを見届け、俺も鍵を開けた。扉の向こうからは、俺の足音を聞きつけたベルとルナの「早く入れ」と催促するような小さな鳴き声が聞こえてくる。


「ただいま。……いい子にしてたか?」


 俺は玄関に飛び出してきた二匹を抱き上げ、リビングへと足を踏み入れた。

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