第15話 サークルの姫・沙耶
4月24日、土曜日。
柔らかな春の陽光がたっぷりと差し込むペントハウスの広々としたリビングで、俺は白ポメラニアンのベルとスコティッシュフォールドのルナの朝の世話を終え、ほっと息を吐いた。二匹が満腹になって寄り添いながらまどろみ始めたのを確認し、俺は私服の薄手なサマージャケットに袖を通した。そして、あらかじめ用意しておいた小さな紙袋を一つ手に持ち、玄関へと向かった。
休日の午前中だが、行き先は決まっている。同じマンションの階下に住む女子大生、早坂涼さんが通う都内の私立大学だ。
「講義の合間に絶対に受けなきゃいけないバイトのシフト連絡があるのに、部屋にケータイの充電器のコード忘れた! 今から取りに戻ってたら必修の単位落とす! 玲央、これ合鍵! 悪いけど昼休みに大学の学食まで届けてくれない!?」
今朝、俺が日課の軽いランニングに出ようとした矢先、エレベーターホールで血相を変えて飛び出してきた彼女から受けた、切羽詰まったSOSだった。
現在の携帯電話のバッテリーは、普通に使っていれば数日は余裕で持つ。聞けば彼女は昨晩から充電を忘れたまま、朝までサークルの友人と長電話をしてしまい、今にもバッテリーのメモリが消えそうな状態らしい。1999年の今、コンビニに駆け込んですぐに買える乾電池式の簡易充電器は、高価な割に充電効率が悪く、頼りにならないことが多いのも事実だ。
「今月マジで金欠でピンチなんだって! 一生のお願い!」と本気で拝み倒され、部屋のスペアキーを無理やり押し付けられてしまった。前世の実業家としての俺なら、他人の自業自得な忘れ物のためにわざわざ休日を潰すような非合理的なことは決してしなかっただろう。とはいえ、ペットシッターの件で今後彼女を頼りにするつもりもあるし、ここで一つ明確な恩を売っておいて損はないと実利的に判断した。
俺は「ちょうど車を出して近くの大型書店まで行くついでがあるから」という名目で、渋々ながらお使いを引き受けたというわけだ。
車で都内の道路を走り、数十分。目的の私立大学のキャンパスに到着した。
歴史を感じさせる赤レンガ造りの重厚な校舎群と、美しく整備された新緑の並木道。休日ではあるが、サークル活動や補講に励む学生たちでそれなりに賑わっている。立て看板が所狭しと立ち並ぶ通路を歩く学生たちの手には、アンテナを伸ばしたPHSや携帯電話が握られ、腰にはポータブルMDプレーヤーをぶら下げている者もいる。どこからか軽音サークルのバンドの練習の音が微かに聞こえてくる。この時代特有の、アナログとデジタルが混在する活気あるキャンパスの風景だ。前世で起業の準備と資金繰りに追われ、まともにキャンパスライフを謳歌できなかった俺にとっては、どこか新鮮で眩しい光景でもあった。
俺は運転手にロータリーで待機するよう指示し、涼さんから指定された待ち合わせ場所である学食のテラス席へと向かってゆっくりと歩を進めた。
「あ! いたー! ボン! こっちこっち!」
学食前のベンチに座っていた涼さんが、俺を見つけるなり勢いよく立ち上がり、周囲の目を気にすることなく大きく手を振った。洗いざらしの白いTシャツに古着のオーバーオールという、相変わらずラフで飾り気のない格好だ。
「お待たせしました。はい、これ。涼さんの部屋のテーブルに置きっぱなしになっていたACアダプタです。学食かどこかのコンセントを借りられれば、夜のバイトまでは十分持つでしょう」
「サンキュ! マジで助かったわー。これで夜のバイトのシフト確保できる! 持つべきものは気が利く年下の隣人だね!」
涼さんは充電器の入った紙袋を受け取ると、大げさに拝むようなポーズをした。そこへ、背後の校舎の方から一人の女性が気だるげな足取りで歩いてきた。
「ちょっと涼、学食の前で何騒いでんのよ。……あら?」
女性は俺の顔を見て、ピタリと足を止めた。
身長は168センチほどだろうか。手足が長く、非常にスレンダーな体型。黒髪のロングヘアを無造作に流し、ヴィンテージ風のくすんだ色合いのワンピースに、重ためのドクターマーチンのブーツを合わせている。少し色落ちしたデニムジャケットを肩から羽織り、アクセサリーはシルバーの無骨なリングのみ。涼しげな目元と、少し歪んだようなアシンメトリーな口元の笑みが特徴的だ。どこかアンニュイで、キャンパスの若々しい喧騒から完全に切り離されたような、独特の空気を纏っている。周囲の学生たちとは明らかに一線を画す存在感だった。
「お、沙耶先輩! お疲れ様ッス!」
涼さんがビシッと姿勢を正した。どうやら、彼女が所属しているという動物愛護サークルの先輩らしい。
「見てくださいよ、アタシの隣人の玲央が、わざわざ忘れ物の充電器のお使いに来てくれたんスよ。こいつ、気が利くでしょ?」
「へぇ……」
彼女――柚木沙耶は、最初は興味なさそうに、しかしすぐに俺の全身を値踏みするような鋭い視線で眺め回した。頭の先からつま先まで、どんなブランドの服を着て、どんな歩き方をしているか。表面的な飾りの奥にある、俺という人間の本質を探るような目だ。
「初めまして。西園寺玲央と申します」
俺は静かに、礼儀正しく頭を下げた。彼女は「ふーん」と微かに鼻を鳴らし、なぜか俺の周りをゆっくりと一周した。そして、首元に顔を近づけて、小鼻をひくつかせた。
「……あんた、何か動物飼ってる?」
「えっ?」
「シャンプーとか香水じゃない。かすかにだけど、犬か何かの獣の匂いがするわね。それも、複数の種類の」
彼女はニヤリと、口の端を吊り上げて笑った。その笑みは、小悪魔的なくるみさんとも、無邪気な桜木さんとも違う、どこかシニカルで、それでいて年上の余裕を感じさせる不思議な包容力があった。野生動物が同類を見つけた時のような、独特の親しみが込められている。
「沙耶先輩、マジで鼻いいッスね! 玲央のやつ、つい最近ポメとスコを飼い始めたばっかりなんスよ」
「へぇ、ポメとスコ。……随分と可愛らしい趣味してるのね。あんたの涼しげな顔には似合ってるけど」
褒められているのか貶されているのか分からない言い回しだ。とはいえ、その言葉に悪意は感じられない。ただ純粋に、表裏のない本音だけを口にしているように聞こえた。
「沙耶先輩は、アタシのサークルの先輩なんスよ。いっつもダルそうにしてますけど、実はすっごく面倒見がいいんス」
「余計なこと言わないでよ、涼。……まあいいわ。せっかく可愛いデリバリーボーイがわざわざお使いに来てくれたんだし、学食のお茶くらい付き合ってあげてもいいわよ。奢ってあげるから」
沙耶さんは気まぐれな猫のように言い放ち、学食の入り口の方へと顎をしゃくった。どうやら、俺に拒否権は与えられていないらしい。この独特のペースに巻き込まれるのも悪くないと思い、俺は大人しく二人の後について学食のテラス席へと向かった。
テラス席に座り、それぞれ飲み物を注文した。俺はブラックのアイスコーヒー、涼さんは氷たっぷりのコーラ、沙耶さんは鮮やかな緑色のメロンソーダ。アンニュイな雰囲気の女性と、子供っぽいメロンソーダの組み合わせが、なんとも言えない奇妙なギャップを生んでいる。
「で、あんた高校生なんでしょ? どこの?」
「桜花学園です」
「ふーん。あのお坊ちゃん学校ね。……ま、涼と仲良くしてるくらいだから、ただの温室育ちのお坊ちゃんじゃないんでしょうけど。その目つき、全然子供っぽくないし」
彼女はストローでメロンソーダの氷をカラカラと回しながら、俺をじっと観察している。その視線は鋭いが、決して冷たくはない。面白いおもちゃを見つけたような、純粋な好奇心を含んだ色をしている。
「ただの高校生ですよ。……少しだけ、動物好きなだけで」
「ふふ、謙遜しちゃって。……ねえ、あんた。何か面白い話ないの?」
「面白い話、ですか?」
「そう。涼の話はサークルの活動と動物のことばっかりで飽きたのよ。もっとこう……ドロドロしたやつとか、刺激的なやつ。あんたみたいな顔のやつが、裏でどんな悪いこと考えてるのか興味あるわ」
なかなかの無茶振りだ。前世の実業家時代にも、こういう「一癖ある年上の相手」の懐に飛び込んでいく経験は幾度となくあった。相手が求めているのは、優等生としての模範解答ではなく、少しだけ毒のある本音の部分だ。
「そうですね……。先日、姉が表参道で芸能事務所にスカウトされて、強硬に反対する父親を説得した話とかどうですか?」
「へぇ? それは面白そう。詳しく聞かせなさいよ」
俺は姉・摩耶のスカウト劇と、父に対する「社会勉強」という名目での交渉の一部始終を、少しだけ脚色して話した。もちろん、西園寺家の内情に関わるような過激な部分は伏せて、「運良く許可が出た」という体裁にとどめてある。しかし、交渉のプロセスで用いたセルフブランディングのロジックや、これから個人がメディアとして力を持つ時代の先読み、そして相手の逃げ道を塞ぐ話術の組み立てについては、あえて隠さずに語った。インターネットが普及し始めるこれからの時代、一個人の持つ影響力が既存のメディアを凌駕する可能性について説くと、沙耶さんは目を細めて感心したように聞き入っていた。
沙耶さんは頬杖をつきながら、時折「やるじゃない」「親父さん、案外チョロいわね」と相槌を打ちながら、楽しそうに聞いてくれた。メロンソーダの氷が溶けていくのも忘れるほど、熱心に耳を傾けている。
「……なるほどね。あんた、見た目の優等生っぷりによらず、中身はかなりの策士なのね。親父さん、完全に丸め込まれてるじゃない」
話を聞き終えた彼女は、メロンソーダの残りを飲み干し、ニッと満足げに笑った。
「気に入ったわ。涼の友達にしては上出来よ」
「それは光栄です」
「また大学に遊びに来なさいよ。今度はもっと面白いネタを持ってね。あんたの話なら、いくらでも聞いてあげるから」
そう言って、彼女は立ち上がった。ヴィンテージのワンピースの裾が、初夏を思わせる温かい風に揺れる。
「じゃ、私この後ゼミの講義あるから。涼、あんたもサボってないで行くわよ」
「えー、まだ玲央と話したいのにー! これからバイトの愚痴とか聞いてもらおうと思ったのに!」
「うるさい。ほら、行くよ。単位落としても知らないわよ」
沙耶さんは涼さんのオーバーオールの首根っこを掴み、ズルズルと引きずっていく。まるで言うことを聞かない大型犬を扱う猛獣使いのようだ。涼さんは「またな、玲央ー!」とジタバタしながら大きく手を振り、赤レンガの講義棟の方へと連行されていった。
俺は二人の背中が見えなくなるまで見送り、グラスに残った氷の溶けかけたアイスコーヒーをゆっくりと飲み干して席を立った。
空のグラスとトレーを返却口へ運び、ロータリーで待機させている車へと向かって、春の陽気に包まれたキャンパスを後にする。
ロータリーに停めさせていた黒塗りのセダンに乗り込み、運転手にペントハウスへの帰還を告げる。革張りのシートに深く背中を預け、流れる窓の外の景色をぼんやりと眺めた。春の陽気に包まれた赤レンガのキャンパスが、徐々に遠ざかっていく。
車は都心の喧騒を抜け、高級住宅街へと静かに走る。俺は小さく息を吐き、ネクタイの代わりに首元を少し緩めた。
俺の意識はすでに、ペントハウスで帰りを待っているであろう、真っ白なポメラニアンとグレーのスコティッシュフォールドという、二匹の小さな家族の元へと向かっていた。




