第14話 女優・如月舞
4月21日、水曜日。
日曜日の昼下がりに表参道で姉の摩耶がスカウトされてから、3日が過ぎた。
父から条件付きの許可をもぎ取った翌日、俺はすぐに『オフィス・K』の片山氏に連絡を取り、面談の日程を調整していた。ビジネスにおいて、鉄は熱いうちに打つのが基本だ。姉の気が変わらないうちに、そして何よりこちらの提示する厳しい条件を確実に通すために、俺は放課後に予定していた市場の監視を全てキャンセルし、姉の保護者として面談に同行することにした。
指定された場所は、青山の裏通りにあるこじんまりとしたビルだった。大手芸能事務所が構えるような威圧的なガラス張りの高層ビルではないが、エントランス周りは清掃が行き届いており、センスの良さを感じさせる落ち着いた外観をしている。
「……なんだか、すごく緊張してきたわね」
ビルの前で、姉が小さく息を吐いた。今日の彼女は、清楚な白いブラウスにふわりとしたフレアスカートという、新人アナウンサーのような清潔感のあるスタイルでまとめている。彼女自身が持つ素材の良さを最大限にアピールするため、メイクもごく薄めに抑えさせていた。
「大丈夫だよ。姉さんは座ってニコニコしていればいい。難しい話は俺がするから」
「頼もしいけど……あんた、本当に弟なの?」
「戸籍上はね。さあ、行こう」
俺は少し強張っている姉の背中を軽く押し、ビルのエントランスへと向かった。インターホンを押して来意を告げると、すぐにオートロックが解除される。エレベーターで3階へ上がり、オフィスの扉を開いた。
中はカフェを思わせるような温かみのある内装で、数人のスタッフがデスクで忙しなく電話対応や事務作業に追われていた。
「お待ちしておりました! 西園寺様ですね!」
俺たちの姿を認めるなり、先日表参道で声をかけてきた片山氏が小走りで飛んできた。そのまま奥にあるパーテーションで区切られた応接スペースへと通される。そこには、人の良さそうな笑顔を浮かべた初老の男性――この事務所の社長である木村氏が待っていた。
俺は名刺を持っていないため口頭での挨拶のみにとどめ、簡単な自己紹介を交わす。そして、すぐさま本題の契約内容の確認へと移った。俺は鞄から、事前に作成しておいたA4用紙数枚にわたる「要望書」を取り出し、テーブルの上に広げた。
「学業を最優先とし、活動は週末および長期休暇のみに限定すること。水着や露出の多いグラビア関係の仕事は一切受けないこと。そして、プライバシーの保護を徹底すること。……これらが守られないと判断した場合、こちらから即座に契約を解除させていただきます」
単なる高校生が提示する条件としては生意気極まりない内容だった。案の定、木村社長は要望書に目を通しながら、少しだけ困ったように眉尻を下げた。
「なるほど……学業優先やプライバシーの保護については全く問題ありません。ただ、水着やグラビア関係が一切NGとなりますと、新人としての初期のプロモーション戦略がかなり制限されてしまいます。最初は雑誌のグラビア等で広く認知度を高め、そこから映像作品へ繋げていくのが業界のセオリーでして……」
「そのセオリーは、彼女には当てはまりません」
俺は相手の言葉を遮り、冷徹なトーンで言い放った。
「西園寺という名前を背負っている以上、安易な露出は本人だけでなく一族のブランド価値をも損なう危険性があります。それに、彼女の持つ知性や品の良さは、グラビアのような消費のされ方ではなく、もっと別の形でアピールすべきです。もし御社が、短期的な顔見せの手段しか持ち合わせていないのであれば、このお話はなかったことにさせてもらいます」
応接スペースに、ピリッとした緊張感が走った。片山氏が焦ったように社長の顔を見る。木村社長は腕を組み、姉の顔と要望書を交互に見つめながら数秒ほど沈黙した。やがて、彼は小さく息を吐いて深く頷いた。
「……わかりました。私としても、摩耶さんのポテンシャルを安売りするつもりはありません。少々ハードルは上がりますが、西園寺家の名に恥じぬよう、女優や上品なモデル路線でじっくりと育てていきましょう」
そこからは話がスムーズに進んだ。こちらの厳しい条件を飲み込みつつも、タレントの将来を長期的な視点で見据える木村社長の姿勢から、この事務所の堅実な経営方針が窺える。姉を預ける最初の場所としては、決して悪くない選択だろう。
「あの、ところで……」
契約書へのサインが無事に終わり、場の空気が和んだところで、姉がおずおずと口を開いた。
「この事務所って、如月舞さんが所属されていますよね? 今日はいらっしゃらないんですか?」
如月舞。十九歳にして数々の映画賞を総なめにしている、若手実力派女優だ。透明感のある清純なビジュアルとは裏腹に、背筋が凍るような狂気的な役からコミカルな役まで完璧に演じ分ける「憑依型」の女優として広く知られている。姉が憧れている人物の一人でもあった。
「ああ、舞なら今は奥のレッスンルームに……」
社長が言いかけた時、応接スペースのパーテーションの奥から一人の女性がふらりと現れた。
「呼んだ? 社長」
空気が、一瞬で変わった。その場にいた全員の視線が、極めて自然に彼女へと吸い寄せられる。とろりとした質感の長い黒髪に、白磁のように透き通った肌。そして、見る者の奥底を射抜くような、大きく濡れた瞳。Tシャツにスウェットというリラックスしたラフな格好であるにもかかわらず、彼女が立っている場所だけスポットライトが当たっているかのような、圧倒的な艶やかさがあった。
如月舞。本物だ。
「きゃっ……! 本物……!」
姉が小さく息を呑み、テーブルの下で俺の腕をギュッと掴んできた。舞さんは俺たちの方へゆっくりと歩み寄り、不思議そうな顔で小首を傾げた。
「あら、新しい子? すごく可愛いわね」
その声は、春の夜風のように甘く、鼓膜を心地よくくすぐる響きを持っていた。
「は、はい! 西園寺摩耶です! ずっとファンでした! これからよろしくお願いします!」
姉が勢いよく立ち上がり、直立不動で深く頭を下げる。舞さんはふふっと柔らかく笑い、次に座ったままの俺へと視線を移した。
「そっちは? 摩耶ちゃんの彼氏さん?」
「いえ、弟です。今日は保護者代わりとして面談に同行しました。西園寺玲央です」
俺は努めて冷静に、大人の礼儀作法でそつなく挨拶をした。
「へぇ……弟くん、ね」
舞さんは俺の目の前まで歩み寄り、テーブル越しに至近距離で顔を覗き込んできた。ふわりと、甘い花の香りが漂う。
「あら、すごく綺麗な顔をした弟くんね。……でも、目が全然笑ってないわ」
その言葉に、俺は内心で僅かに舌を巻いた。
実業家として使い慣れた完璧な愛想笑いを、初対面で、しかも一瞬で見抜かれたのだ。彼女が若手実力派と呼ばれる所以は、この異常に高い他者への観察力と、隠された感情を読み取る感受性にあるのだろう。ただの美貌だけでは生き残れない世界でトップを走る人間の鋭さに、俺は密かに一目置いた。
「お褒めいただき光栄です。姉のことは、どうかよろしくお願いします」
俺は動揺を一切表に出さず、あくまで冷静に大人の対応で返した。舞さんは「つまんないの」と悪戯っぽく微笑み、俺から離れた。
「摩耶ちゃん、これからよろしくね。レッスンのことでも何でも、困ったことがあったら聞いて」
「は、はい! 一生ついていきます!」
姉は完全に彼女の魅力に当てられていた。
★★★★★★★★★★★
事務所を出た後、興奮冷めやらぬ姉を実家の迎えの車に乗せて帰し、俺は一人で街に残った。時刻は夕方の十七時過ぎ。まだペントハウスへ帰るには少し早い。それに、今日の俺にはもう一つ、やりたいことがあった。
無性に、甘くてほろ苦いものが作りたかった。姉の契約という大仕事を終えた安堵感か、それとも如月舞という規格外の才能を持つ人間と対峙したせいか。複雑で繊細な手作業に没頭し、頭の中の思考を一度リセットしたかった。俺は青山通りからタクシーを拾い、銀座へと向かった。
目指すのは、プロのパティシエも御用達の製菓材料の専門店だ。
店内には芳醇なカカオの香りが充満している。俺は迷わず、フランス・ヴァローナ社のクーベルチュール・チョコレート『グアナラ』を手に取った。カカオ分七十パーセント。力強い苦味とエレガントな酸味のバランスが絶妙な、ブラック・チョコレートの最高峰だ。さらに、中に入れるガナッシュ用には、ミルク感の強い『ジヴァラ・ラクテ』を選ぶ。純生クリームに転化糖、無塩バターと、材料選びに妥協は一切しない。手元にある莫大な資金は、日々のこういうささやかな贅沢を楽しむためにこそ存在しているのだ。
買い物を済ませ、次はこだわりのコーヒー豆を扱う専門店へ足を運んだ。濃厚なチョコレートとのペアリングを考えるなら、深煎りのマンデリンか、あるいはもっと華やかなものがいい。
「パナマ産のゲイシャ種は入っていますか」
店主に尋ねると、少し驚いたような顔をされた。この時代、ゲイシャ種はまだ知る人ぞ知る希少品種だ。運良く入荷していた豆を少量だけ購入する。ジャスミンのようなフローラルな香りが、チョコレートの余韻を鮮やかに彩ってくれるはずだ。
両手に紙袋を提げ、再びタクシーでペントハウスへ戻る。
「ただいま、ベル、ルナ」
玄関のドアを開けると、二匹の家族が足音を聞きつけて迎えに来てくれた。ベルの激しい尻尾アタックと、ルナの足元に擦り寄ってくる感触。これだけで、交渉事で張り詰めていた一日の疲れがスッと抜けていく。
俺はジャケットを脱ぎ、シャツの袖を捲り上げてエプロンを締めた。入念に手を洗い、キッチンに向かう。
まずはガナッシュ作りに取り掛かる。小鍋に生クリームと転化糖を入れ、沸騰直前まで温める。それを、細かく刻んでおいた『ジヴァラ・ラクテ』のボウルに注ぎ入れた。ゴムベラを使い、中心から小さく円を描くように静かに混ぜ合わせる。水分と油分を繋ぎ合わせる乳化の作業だ。分離させず、余分な空気を入れないよう、生地に艶が出るまで丁寧に混ぜ合わせる。室温で柔らかくしておいたバターを加え、最後に隠し味として少量のコニャックを垂らすと、香りが一気に大人びたものに変わった。
型に流し込んで冷蔵庫で冷やし固める間に、外側をコーティングするチョコレートの準備を進める。チョコレートに含まれるカカオバターの結晶を安定させ、パリッとした食感と美しい光沢を生み出すためのテンパリングの作業だ。ボウルに入れた『グアナラ』を湯煎にかけて溶かし、次に冷水に当てて温度を下げ、再び少しだけ温度を上げる。温度計の目盛りから目が離せない。僅かな温度の狂いが仕上がりを左右する、この張り詰めた緊張感がたまらなく心地よかった。
冷え固まったガナッシュを正方形に切り分け、テンパリングしたチョコレートに手早くくぐらせる。余分なチョコレートを落とし、オーブンシートの上に等間隔に並べていく。表面に金箔を少し乗せれば、宝石のように黒く輝くボンボン・ショコラの完成だ。
作業を終えると、心地よい疲労感が肩に乗った。時計を見ると、二時間が経過している。完全に作業に没頭していたようだ。
俺はケトルで湯を沸かし、買ってきたばかりのコーヒー豆をミルで挽く。ガリガリという豆を砕く音が、静かなペントハウスに響く。ドリッパーに粉をセットして湯を注ぐと、粉がふっくらと膨らみ、華やかなアロマが立ち昇った。
ダイニングテーブルに、完成したばかりのチョコレートとコーヒーを並べる。リビングの照明を落とし、窓の外の夜景を眺めながら席に着いた。ベルとルナは、足元のカーペットでじゃれ合っていたが、俺が座ると足元に寄ってきて寛ぎ始めた。
まずはコーヒーを一口含む。透き通るような酸味と、花のような香りが口の中に広がる。次に、出来立てのチョコレートを口に運んだ。パリッという薄いコーティングが割れる心地よい音。その中から、濃厚で滑らかなガナッシュが溢れ出し、舌の熱でゆっくりと溶けていく。カカオの苦味、ミルクの甘み、コニャックの芳醇な香りが混然一体となって広がっていく。
そこにコーヒーを流し込むと、口の中の油分がすっきりと洗い流され、カカオとコーヒーの香りが複雑に絡み合いながら鼻腔へと抜けていった。
完璧な仕上がりだ。
最後の一粒を口に放り込み、グラスに残ったコーヒーをゆっくりと飲み干す。心地よい苦味が引いていくのを感じながら、俺は静かに席を立った。




