第13話 姉の芸能界入り
4月18日、日曜日。
休日の表参道は、春の穏やかな陽気に誘われた多くの人々で賑わっていた。ケヤキ並木の鮮やかな新緑が日差しを柔らかく遮る歩道を、姉が弾むような足取りで進んでいく。俺はその半歩後ろを、高級ブランドのロゴがプリントされたいくつものショッピングバッグを両手に提げて歩いていた。
休日の家族サービスとしての荷物持ちではあるが、決して苦痛ではない。前世では家族と休日を過ごす時間すら持てなかったことを思えば、こうして姉の買い物に付き合い、街の空気をのんびりと感じる時間は貴重なものだった。
「玲央、こっちこっち! 見て、このシャツすごく可愛くない? 今年の春の流行りだって店員さんが言ってたの」
姉がショーウィンドウの前で足を止め、瞳を輝かせて俺を振り返る。
「似合うと思うよ。姉さんは肌の色が白いから、そういう淡いパステルカラーがよく映えるはずだ」
「もう、口が上手いんだから。……でも、玲央がそこまで言うなら買っちゃおうかな」
彼女は嬉しそうに頬を緩め、迷うことなくブティックの中へと入っていった。今日姉が着ているのは、ベージュのトレンチコートに細身のデニムという極めてシンプルなスタイルだ。それでも道行く人々が思わず振り返るほどの、華やかで目を引くオーラを放っている。母親であるソフィア譲りの整った顔立ちと、東大生という知性、そして天真爛漫な愛嬌。素材としてはこれ以上ないほどに完成されている。本人は「私はマミーには到底敵わないわよ」とよく謙遜しているが、彼女には彼女だけの、親しみやすさと高嶺の花としての気高さが共存する独特の魅力があった。
買い物を一通り終え、俺たちは表参道の大通りから少し入った路地にある、落ち着いた雰囲気のオープンカフェで休憩することにした。パラソルの下のテラス席に座り、運ばれてきた冷たいアールグレイのグラスで喉を潤す。
「ふぅ、ちょっと買いすぎちゃったかも。でも久しぶりに玲央とゆっくり歩けて楽しかったー!」
「また実家のクローゼットがパンクするんじゃないか? 入りきらなくなったら、俺のペントハウスに少し置いてもいいけどな。あそこはまだ空間が余っているし」
「え、いいの!? さすが玲央、太っ腹! ……あ、でもくるみが入り浸りそうだから、やっぱりやめておくわ」
姉はストローを咥えながら、悪戯っぽく笑った。穏やかな日差しと、ケヤキの葉を揺らす風。平和な休日の昼下がりだった。しかし、その静寂は、ある一人の男の登場によって唐突に破られることになる。
「あの、失礼します! 少しいいでしょうか!」
突然、皺の寄ったスーツを着た男が俺たちのテーブルへと早足で近づいてきた。年齢は三十代半ばだろうか。少し焦ったような、それでいて獲物を見つけた狩人のような熱を帯びた目をしている。手には名刺入れをきつく握りしめていた。ナンパにしては様子が必死すぎる。
「……何でしょうか」
俺が警戒を解かずに割って入ると、男は俺の顔を見て一瞬だけ気圧されたように言葉を詰まらせた。それでもすぐに視線を姉へと戻し、身を乗り出してきた。
「突然の無礼、誠に申し訳ありません。私、芸能事務所『オフィス・K』の片山と申します。実はずっと、そちらの女性を見ておりまして……。どうしても声をかけずにはいられなかったんです。ぜひ、この名刺を受け取っていただけませんか!」
男は勢いよく名刺を差し出した。スカウトだ。この界隈では珍しいことではないが、この男の目は「数打ちゃ当たる」といった軽いノリではない。ダイヤモンドの原石を偶然見つけた鉱夫のような、執念に近い輝きが宿っていた。
「芸能界……ですか?」
姉が驚いたように目を丸くした。
「はい! あなたの持つその圧倒的な透明感、輝くような笑顔、そして立ち振る舞いの優雅さ。どれをとっても現役のトップモデルに引けを取りません。うちはまだ小規模な事務所ですが、タレント一人ひとりの個性を活かした育成には絶対の自信があります。もしよろしければ、一度お話だけでもさせていただけないでしょうか!」
片山と名乗った男は、額に汗を浮かべながら熱心に語りかけた。姉は困惑したように俺の顔を覗き込んでくる。普通なら即座に断るところだ。西園寺家の令嬢が、どこの馬の骨とも知れない事務所に入るなど、厳格な父が許すはずがない。
ところが、姉の瞳の奥には、単なる困惑だけではない微かな興味の光が宿っていた。母が今も第一線で立ち続けているきらびやかな世界への、無意識の憧憬だろうか。
「……姉さん、どうする? 興味がないなら、俺が断るけど」
俺が尋ねると、姉は少しの間沈黙して考え込んだ後、ゆっくりと片山の手から名刺を受け取った。
「ありがとうございます。……ただ、私一人では決められませんので。まずは父に相談してみます」
「はい! もちろんです! ぜひ、前向きにご検討ください。ご連絡を心よりお待ちしております!」
男は深々と頭を下げ、何度も振り返りながら去っていった。嵐のような数分間。姉は手の中の名刺を見つめ、どこか遠くを見るような目をしている。
「……本気でやってみたいのか?」
「え? うーん、自分でもよくわからないんだけど……まさか私が、スカウトなんてされると思わなかったから。マミーみたいになれるわけないのにね」
自嘲気味に笑うが、その指先は名刺の角をしっかりと握りしめていた。偉大な母親へのコンプレックスと、それを少しでも超えたいという渇望。そして何より「西園寺摩耶」という一人の女性として、その価値を他人から評価されたことへの純粋な喜びがそこにはあった。
俺は残りのアイスティーを飲み干し、静かに、確信を持って告げた。
「やってみればいい。姉さんが心からやりたいと思うなら、俺は全力で応援するよ。父さんの説得なら、俺が引き受けよう」
その夜。西園寺家のダイニングルームは、氷のような冷たい静寂に包まれていた。夕食の席で、姉が昼間の出来事を報告した直後のことだ。
「断じて許さん」
父の一言が、重く響いた。銀のカトラリーを置き、父は厳格な西園寺家の当主としての顔で姉を鋭く射抜いた。
「西園寺の娘を見世物にするつもりか。学生の本分は学業に他ならん。ましてやお前は、難関を突破して東大に入学したばかりだ。芸能界という不安定で不透明な世界に、わざわざ足を踏み入れる必要などどこにもない」
それはあまりにまっとうな、親としての、そして一族の長としての正論だった。姉は言葉を失い、膝の上で震える手を握りしめている。
「……でも、パパ。私、少しだけ試してみたいの。マミーだって、あの世界で今も輝いているじゃない?」
「ソフィアは特別だ! あいつには生まれ持った稀有な才能があった。お前が同じ険しい道を歩む必要はない。それに、あの業界には甘い言葉で近づく不逞の輩も多い。お前のような箱入り娘が太刀打ちできるほど、生易しい場所ではないんだ」
父の声が低く、威圧感を増していく。娘を危険に晒したくないという不器用な愛情の裏返しであることも、俺には理解できていた。姉は反論する言葉を見つけられず、ただ唇を噛んでいる。
ここが、俺の出番だ。
「父さん」
俺は静かに、食卓の空気を変えるような通る声で口を開いた。
「姉さんの気持ちを、頭ごなしに否定するのはあまりに酷ではないかな」
「玲央。お前まで何を言う。お前なら、そのリスクの大きさは理解しているはずだ」
「ええ、確かにリスクは存在します。同時に、見合うだけのリターンも無視できません。これを社会勉強という名の、最高級の教材だと考えてみてはどうでしょうか」
「社会勉強だと?」
俺はナプキンで口元を拭い、父の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「これからの時代、個人の発信力やセルフブランディングの能力は、ビジネスの現場においても強力な武器となります。西園寺という名前に守られるだけでなく、摩耶という一人の人間が、厳しい競争社会の中でどう評価され、どう立ち振る舞うべきか。それを身を以て学ぶ場として、芸能界という特殊な環境は決して悪くない。むしろ、将来的に西園寺グループを支える教養の一つとして、大きな資産になるはずです」
「詭弁だな」
父は鼻で笑い、鋭い眼光を崩さなかった。
「たかが街角で声をかけられた程度の事務所で、何が学べるというんだ。それに、いくら社会勉強と理屈をこねようが、摩耶に悪い虫がつくリスクは拭えん。どこの馬の骨とも知れない連中に、娘を近づけさせるわけにはいかない」
想定内の反発だ。俺は表情を変えず、さらに踏み込む。
「それについては、すべて対策を用意します。まず、その『オフィス・K』という事務所については、既に俺の方で背景を調査させました。規模こそ小さいですが経営基盤は健全であり、反社会的勢力との繋がりもありません。それでも不安なら、契約の細部については西園寺家の顧問弁護士を立ち会わせ、徹底的に条件を詰めさせればいい。活動のスケジュールも、学業を最優先し、支障が出ない範囲に厳格に制限させます」
「……」
父は腕を組み、沈黙した。俺の具体的なリスク管理の提示に、反論の糸口を探しているようだった。
「さらに、不逞の輩に対する懸念ですが、俺が実質的なマネージャー兼監視役として目を光らせます。必要であれば、西園寺家から専属の警護を現場に配置しても構いません。姉さんに少しでも危険が及ぶような事態になれば、その瞬間に契約を破棄し、事務所ごと潰す手はずを整えておきます」
「お前が、そこまでやるというのか」
「ええ。姉さんの安全と、西園寺家の不利益にならないことは、俺が全責任を持って保証します」
父は目を閉じ、深い思案に沈んだ。時計の針の音だけが聞こえる張り詰めた空気の中、数十分にも及ぶ長い沈黙が続いた。
やがて父は目を開け、諦めたように大きな溜息をついた。
「……玲央がそこまで理を尽くして保証し、全責任を負うと言うなら、条件付きで認めよう」
「本当!?」
姉が顔を上げる。
「ただし! 学業の成績が僅かでも下がれば、その瞬間に引退だ。活動は週末や長期休暇のみに限定する。玲央、お前が責任を持って摩耶を守り抜け。少しでも危険な兆候があれば、有無を言わさず辞めさせるからな」
「承知しました。約束します」
俺は力強く頷いた。父は首を振り、グラスの水を飲み干した。
「お前たちには敵わん。ソフィアの血のせいか、こういう時の頑固なまでの情熱は母親にそっくりだな」
そう語る父の横顔には、もはや怒りなどはなく、自分の意志をはっきりと示すようになった子供たちへの深い愛情が満ちていた。
夕食後。実家にある俺の自室でパソコンの画面を見ていると、勢いよく扉が開いた。
「玲央ー! 本当に、本当にありがとー!」
いきなり背後から抱きつかれ、俺は椅子ごとよろめいた。姉の柔らかい温もりと、華やかなシャンプーの香りが鼻をくすぐる。
「苦しいよ、姉さん。……とにかく良かったな、許可が出て」
「うん! 全部玲央のおかげ。あんなに理路整然とパパを説得しちゃうなんて、本当にすごいわ」
「俺が守るって言っただろう。もし変な連中が近づいてきたり、嫌な思いをさせられたりしたら、すぐに俺に言ってくれ。それ相応の手段で対処するから」
「あはは、玲央が言うと冗談に聞こえないわね! でも、頼りにしてるわよ!」
姉は俺の頭をくしゃくしゃと撫で、上機嫌で鼻歌を歌いながら部屋を出て行った。
嵐が去った後の静かな部屋で、俺は再びデスクに向き直った。姉の芸能界入り。これは俺が進めている事業構想にとっても、決して悪い話ではない。将来的にモバイルコンテンツや動画配信、あるいはSNSに関連した事業を立ち上げた際、身内に強力な影響力を持つインフルエンサーがいれば、これ以上ない広告塔として活用できる。彼女が自分の意志で輝ける最高のステージを提供し、その対価としてグループの利益を最大化させる。完璧な関係だ。
そして何より、姉のあんなに晴れやかな笑顔を守ることができたのなら、それだけで今回の長い交渉の価値はあった。
俺はノートパソコンの画面に表示された、姉が所属することになる事務所の財務諸表と役員名簿をじっと見つめた。
「さて、まずはこの事務所の社長に挨拶の場を設けさせるか」
西園寺家という巨大なバックボーンがあることを示し、姉を丁重に扱わせるための周到な根回し。明日の放課後、ペントハウスへ戻る前にいくつか連絡を入れておく必要がある。
俺は手元のキーボードを叩き、静かに必要な作業を進めていった。




