第33話 ガレージの天才たち
7月27日、火曜日。
昨夜の盛大なウェルカムパーティーの喧騒が嘘のように、カリフォルニアの空はどこまでも高く、底抜けに青かった。母の知人や現地の名士たちが次々と挨拶に訪れる煌びやかな宴をなんとか乗り切り、ようやく得られた自由な時間だった。
ロサンゼルスからサンノゼへの短いフライトを終え、俺は手配してあったレンタカーの助手席に深く腰を沈めていた。ハンドルを握っているのは、母が護衛として絶対につけると言って譲らなかった屈強なSPのマイクだ。仕立ての良いスーツに身を包み、彫りの深い顔にサングラスをかけた彼は、周囲の景色に目を配りながら滑らかな手つきで車を走らせている。
「ボス、目的地周辺のエリアに入りました。あと10分ほどで到着する見込みです」
ルームミラー越しに視線を向けながら、マイクが淡々と報告してくる。その落ち着き払った声の響きに、俺は思わず小さなため息をこぼした。
「ありがとう、マイク。……でも、やっぱりその呼び方はやめてくれないか。俺はただの学生なんだ」
「マダムからの厳命ですので。西園寺家の跡取りを警護する以上、プロトコルは遵守いたします」
マイクは口元に微かな苦笑を浮かべただけで、あっさりと俺の要求を却下した。これ以上言っても無駄だと悟り、俺は窓の外を流れる景色へと視線を移した。
車はハイウェイを降り、のどかな風景の中を進んでいく。広大な敷地を持つオフィスパークと、緑豊かな住宅街がモザイク状に混在するこの一帯こそが、シリコンバレーだ。今はまだ平穏な空気が漂っているが、ここはやがて世界中の富と才能を吸い寄せ、次世代の産業を牽引する巨大な震源地となる。そのうねりの中心へと、俺は今、真っ直ぐに向かっていた。
やがて車は、メンローパークの閑静な住宅街へと滑り込んだ。綺麗に刈り込まれた芝生が広がり、手入れの行き届いた大きな木々が心地よい日陰を作っている。どこにでもあるような中流階級の住宅地の一角にある、一軒の変哲もない家。
「こちらです」
マイクが静かに車を停めた。指定された住所の家の前には、洗車もされていない年代物の車が数台、無造作に停められている。奥にあるガレージのシャッターは半分だけ開け放たれており、そこからは熱気を帯びた排気音と、絶え間なく回る複数の冷却ファンの唸り声、そして若者たちの早口で激論する声が漏れ聞こえていた。
ここが、彼らの拠点だった。
「マイク、君は車で待機していてくれ。中には俺一人で行く」
「ですが、未知の環境に単独で入られるのはリスクが……」
「大丈夫だよ。中にいるのは武装したギャングじゃない。コンピューターの画面と睨み合っている学生たちだ」
食い下がるマイクを片手で制し、俺は車のドアを開けた。乾いた風が頬を撫でるのを感じながら、砂利道を踏みしめてガレージへと向かう。
半分開いたシャッターの下をくぐり抜け、「Excuse me」と声をかけると、奥で交わされていた激しい議論がピタリと止んだ。
薄暗いガレージの中は、控えめに言ってもカオスだった。
中央には廃棄された卓球台がデンと置かれ、それを巨大な共有デスクの代わりとして、カバーを外された無骨なパソコンが何台も乱雑に並べられている。コンクリートの床にはLANケーブルや電源コードが蛇のように這い回り、足の踏み場もないほどだ。部屋の隅には食べかけのピザの箱が積み上がり、空になったコーラの缶が転がっている。
その乱雑な空間の中心にいた二人の青年が、作業を止めて怪訝そうな顔でこちらを振り返った。
一人は背が高く、知的なフレームの眼鏡の奥から鋭い観察眼を覗かせているローリー。もう一人は少し小柄だが、神経質そうに唇を結び、こちらを値踏みするような視線を向けてくるセルゲイブ。
彼らが、後に世界最高峰の検索エンジンを世に送り出すことになる創業者たちだった。
「……君が、連絡をくれたレオ・サイオンジか?」
ローリーが卓球台から身を乗り出し、目を細めて俺を上から下まで舐めるように見た。その視線には、明らかな落胆と戸惑いが混じっていた。
「アジアから個人的にコンタクトがあったから、どんな人物かと思えば……噂には聞いていたが、本当にただのティーンエイジャーじゃないか」
彼がそう口にするのも無理はない。いくらスーツのジャケットを羽織って大人びた振る舞いを意識していても、俺の外見が学生である事実は隠しようがないからだ。
「ええ、初めまして。日本から来ました、西園寺玲央です。貴重な時間を割いていただき、ありがとうございます」
俺は相手の反応を想定内と受け止め、静かに右手を差し出した。セルゲイブが傍らに立ち、ローリーと顔を見合わせてから、ためらいがちにその手を握り返してきた。
「歓迎するよ、レオ。見ての通り酷く散らかっているが、今の僕らにとってはここが世界の中心だ」
セルゲイブの皮肉めいた挨拶を皮切りに、俺たちは卓球台の周りで短い自己紹介を済ませた。彼らは投資家やスーツを着たビジネスマンの応対に慣れておらず、警戒心を隠そうともしない生粋のエンジニアだった。俺がどこの誰で、どんな背景を持っているかよりも、自分たちが心血を注いで組み上げたアルゴリズムを正しく評価できる相手なのかどうか、その一点にしか興味がないようだった。
「早速だが、君がわざわざ日本から見に来たデモを見せよう」
ローリーがキーボードを叩き、モニターの電源を入れた。俺は促されるままに、デスクの前に置かれたバランスボールに腰を下ろした。
ブラウン管の画面の中央には、驚くほどシンプルな検索ボックスだけがぽつんと配置されている。ロゴのデザインはまだ垢抜けず、洗練とは程遠いものだったが、機能美に特化したその無駄のなさは既に完成の域にあった。
「何でもいい、試しに検索してみてくれ」
促され、俺はキーボードを引き寄せると『Stanford University』と打ち込み、エンターキーを叩いた。
一瞬のラグの後、画面が切り替わり、検索結果のリストがズラリと表示される。一番上にはスタンフォード大学の公式トップページがあり、それに続いて主要な学部の案内、公式の関連ニュースのリンクが完璧な精度で並んでいた。既存のディレクトリ型検索エンジンや、単にキーワードの含有量だけで順位を決めるシステムでは、無関係なスパムサイトが上位に紛れ込むのが常だったが、この結果には一切のノイズが存在しない。
「……素晴らしい精度だ。リンクの構造そのものを解析して重要度を算出するアプローチが、これほど見事に機能しているとは」
俺が率直な感想を口にすると、ローリーの表情がパッと明るくなった。
「わかってくれるか! 既存のエンジンは単なる単語の辞書引きに過ぎない。だから少し小細工をされれば簡単に騙される。だが僕らのシステムは違う。ウェブ上のすべてのリンク関係を網羅的に解析し、価値のある情報が自然と上にくるように設計しているんだ」
先ほどの警戒心はどこへやら、自分たちの技術を理解された喜びで、二人の瞳は少年のように熱を帯びていた。彼らはこの検索システムが、遠からず世界中の情報へのアクセス方法を根本から覆すと確信している。
「アルゴリズムの優秀さは十分に理解できた。ただ、これだけの計算をリアルタイムで処理し、さらに拡大していくウェブの海に対応するには、莫大なリソースが必要になるはずだ」
俺は視線をモニターから外し、ガレージの最深部で轟音を立てているサーバー群へと目を向けた。
それは、市販の安価なパソコンパーツをむき出しのまま繋ぎ合わせ、ラックの代わりに安物の棚に詰め込まれた、つぎはぎだらけの代物だった。熱暴走を防ぐために家庭用の扇風機が何台も全開で首を振っているが、それでもガレージ内の温度は異常に高く、物理的な限界がすぐそこまで迫っていることは素人目にも明らかだった。
俺の言葉に、二人の顔からスッと熱が引いていくのがわかった。痛いところを突かれたというように、セルゲイブが重いため息をつく。
「……ご察しの通りさ。システムの優秀さに気付いたアーリーアダプターたちのアクセスが日に日に増え続けている。嬉しい悲鳴ではあるんだが、トラフィックを処理するためのハードウェアが全く追いついていない。新しいハードディスクを買い足す資金も、回線の維持費も、正直なところ今月末で底を尽く」
「大手ポータルサイトへの売却交渉も決裂した。彼らは自分たちのディレクトリ型ポータルにユーザーを囲い込むことにしか興味がないから、ユーザーを外部の最適なサイトへ素早く逃がしてしまう僕らの技術は『邪魔だ』と鼻で笑われたよ」
ローリーが唇を噛み締め、自嘲気味に肩をすくめた。
世界中の情報を整理するという途方もないビジョンが、ハードディスクを買う数千ドルの資金不足によって、この薄暗いガレージの中でひっそりと息絶えようとしている。それが、現在の彼らが直面している残酷な現実だった。
「もし、この状況を根本から解決できるとしたらどうする?」
俺は扇風機の風を受けながら、二人の目を見て静かに切り出した。
「サーバーの停止を心配する日々を終わらせ、トラフィックの増大に耐えうる本格的なデータセンターを構築するための資金を提供できると言ったら」
その言葉がガレージの空気をピッチリと凍らせた。ローリーとセルゲイブは呆然としたように顔を見合わせ、それからゆっくりと俺に向き直った。その目には、期待よりも遥かに強い疑心暗鬼の色が浮かんでいた。
「……からかっているのか? いくら君が裕福な家庭の出身だとしても、僕らが必要としているのはお小遣い程度の額じゃない。数百万ドル単位のインフラ投資の話だぞ」
ローリーが声を潜め、怒りを滲ませて言う。突然現れた見ず知らずの少年が、自分たちの窮地を救う莫大な資金を提供すると言い出せば、不審に思うのが当然の反応だった。
「もちろん、ここでいきなり小切手を切るような真似はしない。君たちが俺の背景と資金力を疑うのは当然の権利だ」
俺は立ち上がり、ポケットから名刺サイズのカードを取り出して卓球台の上に置いた。
「明日の正午、サンノゼ市内のこのレストランに来てほしい。そこで俺の出資条件の提示と、資金の証明を行う。君たちのビジョンと技術を正当に評価し、口出しせずに成長を後押しする用意がある。……来るかどうかは、一晩話し合って決めてくれ」
それだけ言い残し、俺はガレージを後にした。背中越しに、彼らが名刺を手に取り、押し黙ったまま見つめている気配が伝わってきた。今はこれ以上言葉を重ねる必要はない。焦燥感に駆られている彼らには、冷静に状況を整理し、決断するための時間が必要だった。
車に戻り、マイクの運転でサンノゼのホテルへと帰還した。
広々としたスイートルームのソファに深く沈み込み、ネクタイを緩める。交渉の感触は決して悪くなかった。彼らは自らの技術の限界ではなく、物理的な限界に直面し、飢えと焦りを感じている。そこに救いの手が差し伸べられれば、どんなに不審であっても話を聞きに来るはずだ。明日のランチミーティングが本番となる。
ふと、サイドテーブルに置いてあった携帯電話の小さなランプが点滅しているのに気づいた。日本からのメール着信だ。
画面を開くと、差出人は早坂涼だった。件名には『本日の留守番部隊』とだけ記されている。
添付された画像ファイルをダウンロードして開くと、ペントハウスの広いリビングの床で、俺が渡米前に脱ぎ捨てていったグレーのスウェットの山に顔を埋めるようにして眠るルナと、その傍らで丸くなっているベルの姿が写っていた。
「……相変わらずだな」
写真の中で気持ちよさそうに目を閉じているルナの姿を見て、俺の脳裏に出発前夜の光景が鮮明に蘇ってきた。
7月24日の夜。
渡米用の荷造りをあらかた終え、ソファで一息ついていた時のことだ。着替えようとクローゼットから服を出していると、足元で「みゃぅ」という短く甘えたような鳴き声がした。
視線を落とすと、淡いグレーのハチワレ模様をしたルナが、俺の足元にまとわりついて見上げていた。普段は気まぐれで、撫でようとしてもスッと身をかわすことが多いルナにしては珍しい行動だった。
「どうした、ルナ。遊んでほしいのか?」
俺がしゃがみ込んで手を伸ばそうとした瞬間、ルナが俊敏な動きで跳躍し、俺の履いていたスウェットパンツの腰から垂れ下がっていた太めの紐にガブッと噛み付いた。
「おいおい、それはおもちゃじゃないぞ」
苦笑しながら紐を口から外そうとしたが、ルナは頑として離そうとしなかった。「うー! うー!」と小さな喉を唸らせながら、両方の前足で器用に紐の根元をホールドし、耳を後ろに伏せた真剣な表情でガジガジと噛み続けている。
いつもはクールな振る舞いを崩さないルナが、なぜかその時だけは紐に対する異常な執着を見せ、引っ張るたびにズルズルと床を引きずられながらも決して顎の力を緩めなかった。ただ単に揺れる紐が本能を刺激しただけなのだろうが、出発の準備に追われていた俺には、その必死な抵抗の姿がたまらなく愛おしく見えた。
結局、その紐はルナの鋭い歯によって見る影もなくボロボロにされ、俺は諦めて別のズボンを引っ張り出す羽目になったのだった。
「……帰ったら、思い切り遊んでやらないとな」
俺はホテルの静かな部屋の天井を見上げ、小さく息を吐いた。
携帯電話の画面に映る写真に向かって無言でやすらぎを覚えながら、俺は明日の会談に向けて頭の中をビジネスモードへと切り替えていく。用意する資金は1000万ドル。この額面が提示された時、彼らがどんな顔をするか。
窓の外では、シリコンバレーの青い空が徐々に夕暮れの色に染まり始めていた。




