エピソード7 『花冠』
机に置かれた小瓶を蝋燭の炎に照らし、代官アードルフは繁々とそれを眺めた。
小瓶のなかは、黒い灰で満たされている。
「本当にこれが『獣』の残骸なのか?」
アードルフは蝋燭を挟んで向かいに立つ、小さな影に向かって言った。
「そうよ」
影は短く言った。
若い女の声だった。
頭巾付きの黒い外套を頭からすっぽりと被り、背丈よりも頭ひとつ分大きな杖を手に、影は毅然とした態度を崩さない。
胸元にぶら下げた黒ずんだ円盤が、蝋燭の炎を受けて鈍く光っていた。
「……ふむ」
アードルフは怪訝な表情のまま、小瓶の中身を机の上に出すと、ひとつまみ、蝋燭の炎を投げた。
翠色の火がぱちぱちと弾けるように光る。
「……なるほど、どうやら本物らしいな」
「……信じてもらえて何よりだわ」
そう言って、影は頭巾を下ろした。
その下から現れたのは、長く美しい金の髪と、澄んだ碧い瞳をした、まだわずかにあどけなさの残る、美しい少女だった。
ふん、と鼻を鳴らし、アードルフは引き出しから皮袋を取り出し、少女の前に投げた。
アリスは皮袋の口紐を緩めると、中身を検める。
「間違いないようね」
そう呟くと口紐を締め、皮袋を懐にしまった。
アリスの言い様が癇に障ったのか、アードルフは権高に鼻を鳴らした。
「用事が済んだならさっさと出ていってくれ。臭くてかなわん」
そういって、アードルフはまるで野良犬でも追い払うように、アリスに向かって手を振る。
アリスはそんなアードルフの態度を気にする様子もなく、静かに部屋を抜け、代官屋敷をあとにした。
町は華やかな喧騒で溢れていた。
家々は窓に野の花を束ねた花輪が吊るされ、軒先には色布が揺れている。
未舗装の通りには花びらが撒かれ、子どもたちの足で舞い上がるたびに、春の香りがふわりと立った。
アリスはそんな景色に目を細めながら、旅に必要な物資を求め、店を目指した。
不意に、同じ年頃の少女たちが、こちらに向かって駆けてくるのが見えた。
摘みたての花冠を頭にのせ、白いリネンのワンピースに、淡い緑や青の帯が色を添える。
髪にはリボンが結ばれ、陽の光を受けてきらきらと揺れている。
少女たちが、弾けるような笑顔で、アリスの横を通り過ぎた。
――花の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
アリスの目は、無意識に少女たちを追った。
不快そうに眉を顰める少女たちと目が合う。
口許を隠し、ひそひそとなにかを囁き合っている。
心臓が、どきりと鳴った。
アリスは視線を逸らし、逃げるようにその場を去った。
通りですれ違う人々の刺すような視線が、アリスに向けられる。
それが、自身をこの町における異物であると突きつけてくる。
いや、もとより『狩人』である自分の居場所など、最初からどこにもないのだ。
(……『狩人』なんて、そんなもの)
いつもの諦念を、アリスは胸の内で反芻した。
やがて、風に揺れる木の看板が目に留まった。
薄く剝げてはいるが、雑貨を扱うことを示す絵が描かれている。
扉を開けると、木や油、干し肉やハーブ、布や蝋燭といったものが、雑多に混じりあった匂いが流れてきた。
「……いらっしゃい」
入り口の横に据えられたカウンターで、椅子に座った店主がむっつりとした表情でアリスを迎える。
店主はアリスを見るや、不快そうに眉根を寄せ、ふいと顔を背けた。
(……一応あたしは客なんだけど)
内心の不快感を飲み込み、アリスは店主に向かい合う。
「干し肉とチーズ、それから、包帯が欲しいのだけれど」
いったいなにがそれほど気に入らないのか、店主はアリスの言葉に応じることなく、顔を背けたまま商品の置かれた棚を指で示した。
アリスは大きくため息をつくと、棚から必要な分の食料とチーズを持ち出し、会計を済ませるとさっさと店の外に出る。
「……この町は、よっぽど『狩人』が嫌いなのね」
そう呟き、通りへと帰っていった。
それにしても、町は浮き立っている。
町も、人も、空気さえも華やいで見えるのは、気のせいばかりではないだろう。
(……少し見て回ろうかな)
そんな考えが頭をよぎったが、先ほどから、無言の拒絶を示す視線がそこかしこから飛んでくる。
(……やっぱりやめよう)
そう思い直し、町の入り口へと向かおうとしたとき、ひとりの小さな女の子が、アリスの前に立ち、じっとアリスを見上げた。
無垢な視線に、アリスは戸惑いを隠せない。
「な……なに……?」
アリスは笑顔をつくろうとするが、口元が引きつってしまい、上手く笑えない。
そんなアリスを真っ直ぐ見つめ、少女が口を開いた。
「お姉ちゃん、臭いよ」
「……へ?」
唐突な少女の言葉に、思わず間抜けな声が出る。
すぐに母親と思しき女が飛んできて、少女を抱えあげて去っていく。
「馬鹿なこというんじゃないの!」
「だって、あのお姉ちゃん本当に臭いよ」
遠ざかりながら聞こえるやり取りに耳を傾けながら、アリスは呆然と立ち尽くしていた。
――次の瞬間、はっと息をのんだ。
袖口を鼻に近づけ匂いを嗅ぐ。
次いで髪の匂いを確かめ、さらに服の胸元を広げ鼻を突っ込んだ。
代官の言葉、すれ違う人々の視線、雑貨屋の店主の態度――
それら点と点が、少女の一言で一本の線へと繋がっていく。
頬がかっと火照り、顔はあっという間に耳朶まで真っ赤に染まった。
アリスは頭巾を目深に被ると踵を返し、先ほど出たばかりの雑貨屋へ、ほとんど走るような速度で引き返していった。
雑貨屋に戻ったアリスは飛び込むような勢いで店のなかへと入っていった。
何事かと驚いた店主が、口を大きく開けたまま、アリスを見た。
「……な……なにか、商品に不手際でも……?」
戸惑う店主に、アリスは俯いたまま、消え入りそうな声で呟いた。
「……っけん……」
「は?」
「石鹸……ください……」
ああ、と店主は事情を理解し、棚にある石鹸をアリスに渡した。
アリスは無言のまま頭を下げると、代金を置いてそそくさと店を出る。
残された店主は、開けられたままの扉を呆然と眺めていた。
石鹸を握りしめたまま、アリスは通りを見回した。
祭りの熱気の向こう、白い湯気が屋根の上へと立ちのぼっている建物が見える。
頭巾を目深に引っ張り、うつむき加減で足早に行く。
やがて、扉の上に公衆浴場を表す、湯桶を描いた木の看板が揺れているのが見えた。
扉を開けると、むわりとした熱気が顔にまとわりついた。
湿った石の匂いと、薬草を煮出したような湯の香りと、石鹸の泡、洗いたての布の匂いまで混ざっている。
町の女たちが桶を手に談笑し、子どもたちが湯気の向こうではしゃいでいるのが見える。
祭りで浮き立つ空気が、ここにも満ちていた。
「お、お湯を、借りたいの――」
おどおどとしたアリスの言葉に、受付にいる恰幅の良い女主人が顔をあげた。
「いらっしゃ――」
そう言いかけて、女主人は眉根を寄せた。
視線が、胸元で揺れる首飾りに注がれる。
「……あんた、もしかして『狩人』かい?」
もごもごと口ごもるアリスに、女主人は冷たく鼻を鳴らした。
「悪いけど『狩人』なんぞに貸す湯はないよ」
聞き慣れた棘のある言葉。
普段なら容易に受け流すことができたが、今のアリスにそんな余裕はなかった。
「……か……身体を、洗ったら……すぐに出ていくわ。だ、だから――」
「――お断りだね」
女主人がぴしゃりと言う。
「他のお客に迷惑だからね。『狩人』なんぞが近くに来たら、みんな怖がっちまうじゃないか」
そう言うと、女主人はぷいとそっぽを向いてしまった。
返す言葉もなく、アリスは無言のまま俯きながら、唇をきゅっと結び、外套の裾を握りしめる。
羞恥に頬を染め、女主人の冷たい言葉に、目には涙を浮かべていた。
「……しようがないねえ」
女主人は立ち尽くすアリスを横目で見ると、大きなため息をついた。
「湯は貸してあげられないけど、店の裏の川を遡っていけば、泉がある。そこは滅多に人が来ないし、こっそり身体を清めるにはちょうどいい場所さ」
そう言って、女主人は店の裏手を指差した。
アリスはきょとんとした顔で、女主人を見る。
「そんな顔で見られちゃあね」
そう言って、女主人は困ったように微笑んだ。
女主人の言う通り、川を遡るように歩いてほどなく、密集した木々に隠されるようにして、小さな泉が姿を現した。
水の湧き出る場所なのか、深くはないが、泉は水底が見えるほど透き通っている。
アリスは背負っていた剣を木に立てかけると周囲を見回し、誰もいないことを確認すると、背負っていた剣を下ろす。
そして枯れ木を集めると、泉の側に小さな火を焚いた。
改めて周囲を確認し、アリスはそっと衣服を脱いだ。
春の温い空気が、露になった肌を撫でる。
アリスはそっと泉の水を手のひらにすくった。
澄んだ水は、まだわずかに冬の名残を残している。
「冷たいけど……これくらいなら」
そう呟くと、浸した布を絞り、石鹸をこすりつけた。
雑貨屋の店主がアリスを哀れんだのか、石鹸は獣脂の臭いではなく、微かに花の香りがした。
首や脇、胸元を念入りに洗っては、鼻を近づけ臭いを確認する。
そうしてあらかた身体を洗い終えたアリスは、泉のなかへと身を滑らせた。
腰まで水に浸かりながら、首を傾け髪を流す。
ふと、腕に残る無数の傷跡に気づき、髪を洗う手を止めた。
腕だけではない。
胸にも、腰にも、今は水の中に沈んでいる足にも、大小無数の数えきれない傷がある。
町ですれ違った同じ年頃の少女たちの姿を思い出す。
華やかで、柔らかで、とてもいい香りをした少女たち。
アリスは何かを振り払うように激しく首を左右に振った。
(あたしは『狩人』――『狩人』なんだ!)
アリスは立てかけた剣に目をやった。
(……『狩人』なんだ……)
焚火の炎に照らされた自分の姿がぼんやりと映る。
小さな身体、細い手足、それに相反し、身体は丸みを帯びていく。
膨らんだ乳房と月のさわりが、自分は女であるという現実を、否応なく突きつけてくる。
――どうにもならないことを考えるのはやめろ。
いつかエドワードに言われた言葉だ。
アリスは泉から上がると、焚火の側に腰を下ろした。
ぱちぱちと音を立てながら、ゆらゆらと揺れる炎を眺める。
一輪の野の花が咲いているのに気づく。
アリスは指先で花弁を弄ぶと、優しく手折り、そっと髪に挿した。
いつのまにか、空には月が輝いていた。




