エピソード6 『聖堂の底』
小さな町だった。
十軒ほどの家屋と畑、そして小高い丘の上には小さな教会が建てられている。
風が吹くたび、畑に伸びた麦がさわさわと揺れた。
そんな長閑な田舎町に、異物のように小さな影がひとつ、土を踏みながら教会へと向かっていた。
膝下まである黒い頭巾付きの外套を、頭からすっぽりかぶったやや小づくりな身体に、背丈よりも頭ひとつぶん大きな杖をつきながら、影は坂道を上る。
畑仕事をする男、卵の入った籠を抱えた女、果ては軒先に座って日向ぼっこをしている老人まで、みな一様に、見知らぬ影へと視線を注いでいた。
外套の頭巾を目深に被っているせいで、顔は見えない。
視線は、首元に揺れる、黒ずんだ円盤に注がれていた。
一本の縦線が円盤の中央を貫いている――それは、装飾品と呼ぶにはあまりにも簡素で無骨な首飾りだった。
影は、自身に向けられた視線に、まるで気にする様子も見せず、淡々とその間をすり抜けていった。
やがて教会の扉の前に立つと、軽く、丁寧な手つきで扉を叩いた。
「神父様、おられますか」
透き通るような声だった。
扉の向こうで、人の動く気配がある。
「どちら様ですかな?」
問いかける声に、わずかに緊張があった。
「……『獣』の件で、伺いました」
逡巡するような一瞬の間を置いて、がちゃりと扉が開く。
扉の向こうから現れたのは、五十がらみの真面目そうな老人だった。
「……どうぞ、お入りください」
そう呟くと、老人は扉を開けた。
冷たい空気と、古い石の匂いが流れ出してくる。
影は、軽く会釈をすると、滑るように扉の内側へと入った。
長椅子が並べられ、奥には簡素な祭壇がある。
その祭壇の背後には小さな窓があり、そこから慈しむような柔らかな光が差し込んでいた。
扉が閉じられる。
影は祭壇に向かい立つと、指先を額に当てた。
そしてなにかに気づいたように動きをとめると、神父に向き直り、外套の頭巾を下ろした。
その下から現れたのは、長く美しい金の髪と、澄んだ碧い瞳をした、まだわずかにあどけなさの残る、美しい少女だった。
「アリス、と申します」
アリスは静かに名乗ると、恭しく頭を下げる。
声が、よく響いた。
アリスの首元に揺れる首飾りを見て、トマスは小さく頷いた。
「トマスです。司祭として、この教会を預かっております」
「お話を、聞かせてください」
アリスの言葉に、トマスは小さく頷くと、長椅子に腰をおろした。
「さて……どう話せば良いか」
そういって息を吐くと、手を組み、膝の上に肘を乗せた。
「……二十日ほど前のことです」
そうして、トマスはゆっくりとした口調で語り出した。
「風のない、穏やかな夜でした……」
その夜、トマスは寝つくことが出来ず、自室で書を読んでいた。
不意に、物音が聞こえた。
「平和で長閑な町です。風がなければ小さな物音でも、よく聞こえる」
部屋を出て、手燭の灯りを頼りに音を探した。
だが、教会のどこにも人の気配はない。
「私ひとりで事足りるほどの小さな教会です。人の気配があればすぐに分かる」
トマスは、唇を舐めた。
「ふと、足下から音が聞こえているような気がしたのです」
そういうと、トマスは祭壇の脇にある、いかにも重そうな木の扉を指差した。
「この教会の地下には、ここで、司祭を勤めた方の遺体を収めた棺が置かれています」
「……錠が、されているようですが?」
アリスの問いに、トマスが頷く。
「いかにも。地下への入り口はあそこだけで、鍵は私が持っています」
アリスは黙って続きを促した。
「……誰も入れないはずの地下から物音がするなどあるはずがない」
そう思いながら、トマスは扉の錠を外し、地下へと続く階段を降りたという。
やはり音がした。
――かり。
――かりかり。
爪で引っ掻くような音だったという。
「……どこかに抜け穴でも開いて、犬かなにかが迷い込んできたのか、と思いました」
とはいえ狼の可能性もある。
トマスはことさら慎重に足を運んだ。
やがて音が近くなった。
「角を曲がれば、かつての司祭たちの棺が置かれた場所でした」
そこまで言うと、トマスは言葉を探すように眉根を寄せた。
「なにか……そう。とても……嫌な臭いがしました」
トマスは角に立ち、影に身を潜めながら、そっと手燭をかざした。
そこまで話して、トマスは両手で顔を覆った。
ぶるぶると、肩が震えている。
「……あれは、あれは犬でも、狼でもなかった……」
かちかちと歯を鳴らしながら、トマスは自身が見たものを伝えようと、必死に言葉を探した。
「後ろ姿……そう、後ろ姿でした……」
閉じたはずの記憶の扉をこじ開けるように、ゆっくりと、たどたどしく言葉を継いでいく。
「四つん這いで、剥き出しの……骨のように細い前足で……棺を……かりかりと……」
そのときの光景を思い出したのか、トマスはガタガタと震えだした。
「恐ろしさのあまり、声が漏れました。……そいつは、振り向いて……」
トマスの顔が、恐怖に歪む。
「犬でも……狼でもなかった。あんな生き物は……見たことがない……」
主よ、とトマスは呟いた。
「……目が合った瞬間、私は逃げ出していました。地下を抜け出し、扉を閉め、鍵をかけました」
その日以来、一度も地下には行っていない、とトマスは言った。
(……実害もなく、見間違いや妄想の可能性もある、か)
アリスは拳を軽く握り、顎先に当てた。
「本当に出入り口はひとつだけでしょうか?」
アリスの言葉に、トマスは頷いた。
「少なくとも、私が知る限り、あそこの扉以外、地下へ降りる道はありません」
「どこかが崩れたとか、誰かが外から掘った、とかもありませんか?」
「それは……」
アリスが問い詰めると、トマスは言葉を詰まらせ俯いた。
「神父さま、いまから私が地下に入ってもよろしいでしょうか?」
「いまから、ですか?」
トマスは顔をあげ、複雑な表情でアリスを見た。
「はい。まずは現場を確認しないことには何にもなりません」
「……で、ですがーー」
「神父さま」
逡巡するようなトマスに、アリスは毅然とした口調で言う。
「『獣』は、祈りの言葉では退治できません。私たち『狩人』以外、『獣』を除く術はないのです」
「…………」
「大丈夫です。『獣』は夜にしか出ません。いまはまだ昼だから、大丈夫。……多分」
微笑むアリスに、トマスは重い腰をあげ、地下へと続く扉の前へとアリスを誘った。
錠を外し、扉を開ける。
アリスが階段を降りようと一歩踏み出したとき、トマスが小さく呟いた。
「どうか、主のご加護がありますように」
扉が閉められ、がちゃり、と錠をする音が聞こえた。
アリスは地下へと続く階段の前に立ち、深く息を吸うと、ゆっくりと吐き出した。
階段は、吸い込まれるように闇のなかへと伸びている。
アリスは踏み外さぬよう、一歩一歩、階段を降りていった。
地下墓地は暗く、じめじめとしている。
天井は低く、暗闇やその湿度とあいまって不快な圧迫感があった。
一条の光も差さない地下墓地には、夜よりも濃い闇が佇んでいる。
『獣』は夜に棲むのか、それとも闇に棲むのか――
一抹の不安が頭をよぎった。
アリスは頭に浮かんだ不安を払うように、頭を左右に振った。
(『獣』は夜にしか出ない。エドワードはそう言ってたわ……)
地上ではまだ太陽は中天にさえかかっていない。
(さて、まずは本当に出入り口がひとつだけなのか、確認しなくちゃね)
まずは観察。ゲーアノートはそういっていた。
不意に浮かんだ不愉快な顔に、アリスは小さく舌打ちをした。
意識を、目に集中させる。
暗闇が晴れ、景色の輪郭がはっきりと浮かびあがる。
(エドワードは、暗視をすれば昼と変わらず見えるって言ってたけど……)
アリスには、まだそこまでの練度はない。
丁寧に周囲を観察しながら歩みを進める。
ときおり、壁や床に手を触れながら、不審な点はないかを確認し、アリスは一歩ずつ、奥へと向かっていった。
単純な一本道には、トマスの足跡しか残されていない。
(……特に変わったところはなし、か)
やがて、曲がり角に差し掛かった。
角を曲がれば、かつての司祭たちの棺が置かれた場所――
トマスの言葉を思い出し、アリスは曲がり角に立つと、一度足を止めた。
耳を澄まし、ゆっくりと鼻で息を吸い込む。
おかしな音も、不快な臭いもない。
アリスは、角からそっと覗き見るように顔を出した。
左右にふたつずつ、木製の棺が壁際に縦に置かれている。
奥には小さな石造りの簡素な祭壇があり、御神体と思しきものが置かれていた。
壁にも天井にも『獣』の姿は見当たらない。
「棺の影にもいない……か」
確認するように呟くと、アリスは棺へと近づいた。
棺はどれも古く、湿気のせいか金具は錆び、木は黒ずんでいた。
アリスは棺をひとつひとつ、丁寧に観察する。
そのうちのひとつに、爪で引っ掻いたような傷があった。
開けようと必死だったのか、執拗に引っ掻いた跡が残されている。
抉られて露わになった木の肌は、まだ黒ずみがなく、真新しい傷跡のようだった。
ふと、足下に水滴のようなものが落ちていることに気づく。
「……これは」
指先で掬いとる。
擦り合わせてみると、わずかに粘りがあった。
鼻先に近づけて臭いを嗅ぐ。
「――うっ」
肉の腐ったような臭い――『獣』特有の、嫌な臭いがした。
「ここまでは一本道で、足跡は神父さまのものしかなかった……」
アリスは唇に拳を当てる。
「……『獣』は夜の闇が溜まった場所から生まれる……」
民間伝承として謳われている一文を呟く。
「もしこれが、本当のことを言っているのだとしたら……?」
一本道に残らない足跡。
夜にしか出ないというエドワードの言葉。
民間伝承に伝わる一説。
「……『獣』は、ここで発生した……?」
信じがたいことだが、そう考えれば、全て辻褄が合う。
「……とりあえず、これ以上は無意味ね」
そう呟くと、アリスは地上へと戻るべく、来た道を戻っていった。
地上では、トマスが祈りを捧げていた。
祭壇の前に跪き、必死に祈りの言葉を呟いていた。
アリスが地下へと降りてから、ずいぶん経ったような気がする。
(――まさか、あの化け物に……?)
そんなことが頭をよぎったとき、不意に地下へと続く扉の内側から、こん、こん、とノックの音が聞こえた。
トマスは飛びあがりそうになりながら、恐る恐る扉の方へと視線を向ける。
――こん。
――こん、こん。
ゆっくりと扉へと近づきながら、トマスはごくりと喉を鳴らした。
――こん。
――こん、こん。
「――神父さま、アリスです。開けてください」
扉の向こうから聞こえた柔らかい声に、トマスは安堵のため息を吐いた。
「結論から申し上げて、『獣』はあの地下墓地で発生したと思います」
アリスの言葉に、トマスは驚愕の表情を浮かべた。
「そんな馬鹿な……神の座す神聖な教会で、そんな……」
「神父さま――」
信じられないと呟くトマスに、アリスは自身が見たものを冷静に告げた。
そして、さらに言葉を継いだ。
「信仰は……神はすべてを救ってはくれません。だからこそ、『狩人』がいるのです」
「いや……しかし……」
トマスは反論しようと試みるが、上手く言葉が出てこない。
「とにかく、今夜もう一度地下に入ります」
アリスの言葉に、トマスは祈るように組んでいた手をゆっくりとほどいた。
それは意図的なのか、あるいは無意識なのか――
深更、アリスとトマスは、祭壇の側にある扉の前に立っていた。
扉にかけられた錠を外すようアリスが促すと、トマスはやや戸惑いながら、懐から鍵を取り出した。
手の震えのせいか、鍵は二、三度ほど、鍵穴の淵を打った。
アリスは扉の内側に入るとトマスに向き直った。
「夜が明けるまでは、鍵はかけたまま、決して扉を開けないでください」
声を低めるアリスに、トマスは不安そうな表情を浮かべ、恐る恐る口を開いた。
「もしも……もしも夜が明けても、貴女さまが戻らなければ――?」
トマスの言葉に、アリスはふっ、と薄く笑った。
「そのときは、錠はそのまま、新たな『狩人』を求めてください」
そう言って、アリスはくるりと背中を向けると、闇にのまれるように、地下へと向かう階段を降りていった。
トマスは無言でその背中を見送ると、静かに扉を閉め、錠をかけた。
小さな聖堂に、錠をかける音だけが、やけに大きく響いた。
アリスは地下墓地に降り立つと、そっと目を閉じ、意識を閉じた目に集中させた。
瞼の裏側で、微かに光が爆ぜる。
そうしてゆっくりと目を開くと、闇に沈んだ地下墓地の輪郭が浮かびあがった。
「……さて、と」
小さく呟くと、アリスは地面や壁、天井に目をやった。
些細な変化も見逃すまいと、つぶさに観察する。
だが、昼間に入ったときと比べて、変化はないように感じられた。
アリスは、鼻からゆっくりと空気を吸い込んだ。
地下の澱んだ空気のなかに、微かに腐った肉の匂いが混じっている。
足を止め、耳を澄ます。
――かり。
――かり、かり。
なにかを引っ掻く乾いた音が、微かに聞こえた。
(――いる)
間違いなく、この奥に『獣』がいる。
(……この音、この臭い……)
昼に感じた疑念が、確信へと変わっていく。
(やっぱり『獣』は、この地下で発生してる――)
アリスは、外套を脱ぐと、背の刃の留め具を外す。
ずん、と重い音ともに、刃が地面に突き立った。
手に持った杖を差し込む。
がちゃり、と鈍い音――
アリスは柄を握り、手に馴染む感触を確かめる。
剣を肩に担ぎ上げ、アリスは地下墓地の奥へ向かった。
臭いは濃く、音は近くなってくる。
そうしてアリスは通路の角に立った。
異質な気配がその先にある。
(――いる。確実に!)
そう確信し、アリスはそっと覗き込んだ。
大きな犬のような影が、棺を開けようと必死に爪をたてている。
『獣』は棺に夢中で、アリスの存在にまるで気づいていない。
(……いけるか?)
それほど近い距離ではないが、アリスの脚力なら刃の届く距離まで詰めるのはさほど難しくはない。
しかも通路は袋小路になっていて、おまけに『獣』は背中を向けている。
(いける――!)
アリスは角から飛び出すと、地面を蹴り、一気に『獣』へと向かった。
『獣』は、なおも棺に爪を立てている。
アリスは『獣』を刃圏に捉えると、その背中に向け一息に振り下ろした。
地面を裂き、土埃が舞う。
剣は棺を砕き、獣を背後から一刀両断にした。
――はずだった。
だが、手応えがない。
(――外した?)
そうではなかった。
(――違う! かわされたんだ!)
間合い、呼吸――確かに仕留めたはずだった。
だが――
『獣』はアリスが間合いを詰め、剣を振り下ろした刹那、振り返ることなく跳躍し、身を翻しながら天井を蹴り、アリスの背後へと着地していた。
不意を突いたはずが、逆にアリスが袋小路に追い込まれる。
(――まずい!)
アリスは素早く振り返った。
――だが、アリスが体勢を整える前よりも早く、『獣』はアリスに向かって飛びかかる。
地を――
壁を――
天井を――
四方を駆けるように飛びながら、『獣』はアリスへと牙を剥く。
咄嗟に剣を引きあげ身を守るが、わずかに『獣』が速かった。
『獣』の牙が、アリスの腕を裂く。
「っ――!」
焼けるような痛みに顔をしかめる。
傷口を抑える指の隙間から、血が滲んだ。
『獣』が、アリスに向き直る。
改めて、正面から『獣』と対峙する形になった。
注意深く観察する。
大型の犬ほどの体躯に、トマスが言ったように骨のように細い手足が四つ伸びており、その先には鋭い爪が伸びていた。
だが、それよりもアリスの目を引いたのは、『獣』の外貌そのものだった。
顔には目がなく、口は大きく裂けている。
体表には毛がなく、爛れたような皮膚が剥き出しになっていた。
「……なんて……醜い……」
思わず吐き気を催すほどの見た目に、思わずアリスは呟いた。
剣を握りなおし、呼吸を整える。
剣を振り上げ飛びかかりそうになる衝動を、アリスは懸命に抑えていた。
(……落ち着け、落ち着け)
ゆっくりと息を吸い、さらにゆっくりと吐き出す。
荒く震える呼吸が、少しずつ、落ち着きを取り戻していく。
(大丈夫……あたしは冷静だ……)
そうして、先ほど剣を振り下ろしたときに感じた違和感を反芻した。
(あのとき、こいつは確かにあたしに気づいていなかった……)
地面を蹴る音に反応したのか――
(……いいや、違う)
それならば、剣を振り下ろす前に動きがあったはずだ。
だが、目の前の『獣』は間違いなく、地面を蹴った音には無反応だった。
そんなアリスの戸惑いをよそに、血の匂いを感じとった『獣』は、ひくひくと鼻を動かすと、甲高い遠吠えをあげた。
――威嚇ではない。
「……あんたには、芳しい花みたいに感じるのかしら」
皮肉とともに唾を吐く。
「残念だけど、食われてやる気はないわ」
そう言って、アリスは剣を構え直した。
(……音じゃない。だったらなにに反応した……?)
思考をめぐらすアリスに、しかし『獣』は待ちはしない。
再び四方を蹴りながら、アリスに目がけて突進してきた。
地面を蹴り、跳躍する。
(――くそ!)
下からの攻撃に、アリスは後の先を取るべく、剣を斜めに薙いだ。
だが――
襲いくると思われた『獣』は、真上に跳躍してアリスの剣をかわすと、空中で身を捻り、天井を蹴ってアリスの左腿を噛み裂いた。
「――くっ!」
アリスは剣を突き立て、地面に膝をついた。
太腿から滴る血が、地面を濡らす。
(――まただ)
アリスが剣を振る直前まで、間違いなく『獣』は攻撃態勢に入っていた。
ならば、いったいなにに反応したのか。
(音でもない、匂いでもない。だったらなに――)
焦るアリスを嘲笑うように、縦横無尽に襲いくる『獣』の牙と爪が、アリスを削っていく。
致命傷は避けてはいたが、すでに大小無数の傷が、アリスの身体を赤く濡らしていた。
「――くっ……そぉ!!」
遮二無二なって剣を振るが、『獣』はひらりひらりと舞うように身を踊らせ、皮を裂くことさえ許さない。
(――ダメだ!)
どれほど機を外してみても、剣を振った直後には『獣』は動きを変えてしまう。
(剣を振るまでは間違いなくあたしを狙ってる。なのに剣を振った瞬間に動きを変えられてしまう――)
そのとき、アリスの脳裏に稲妻が走った。
(剣を――振った瞬間?)
鼓動が、どくんと鳴った。
アリスは剣を担ぎあげ、一歩踏み込むように地面を踏んだ。
『獣』が低く身構える。
次に、足下の小石を拾いあげ、獣の背後を狙って軽く放り投げた。
からりと乾いた音が『獣』の背後でなった。
『獣』は、反応を示さない。
腕を振り、流れる血を『獣』に向けて飛ばす。
『獣』は大袈裟に身を翻し、飛ばした血をかわした。
(――もしかして、空気の流れに反応している?)
確信はない。
もしそうならば、後の先を取れれば倒せる。
だが――
(――あたしの力じゃ、こいつより速く剣を振れない)
エドワードなら、あるいはゲーアノートなら簡単だろう。
いや、男の『狩人』ならば難なくやってのけるかもしれない。
アリスは自身の非力さに、歯噛みするしかなかった。
(どうすればいい……)
確証はない。
だが、このまま続けていても勝機は見えそうにない。
(……やるしかない)
そう決心し、アリスは柄を握った手を捻る。
かちゃり、と小さな音が鳴った。
『獣』が大きく吠えた。
壁から天井、天井から地面――蹴っては跳び、跳んでは駆ける。
そしてアリスに向かって飛びかかろと身をたわめた。
アリスは大きく踏み込み、剣を振った。
『獣』は壁に跳び、それをかわす。
それは、これまでの戦いを再生するかのような攻防だった。
ただひとつ違っていたのは、アリスが振ったものは剣ではなく、剣から引き抜かれた柄だった。
跳躍した『獣』は壁を蹴り、アリスへと飛びかかる。
アリスは剣を振った勢いのまま回転し、抜いた柄を再び剣へと突き刺した。
がちゃり、と重い音がした。
そして全身の力を振り絞り、飛びかかってきた『獣』に、剣を叩きつけた。
確かな手応え――
次の瞬間、剣は『獣』の身体を縦にふたつに切り裂いていた。
噴き出した血が、アリスの全身を濡らす。
アリスは剣を地面に突き立てると膝をつき、全身で大きく呼吸をした。
隣では、『獣』の残骸がぶすぶすと焦げ臭いにおいをあげながら崩れていく。
アリスは、深く息を吸い込むと、ゆっくりと吐き出した。
「……これで終わりよ」
そう呟くと、懐から小さな小瓶を取り出し、黒い灰を掬い取った。
アリスは外套を拾いあげると、地上へと続く階段を登った。
一段登るたびに、空気が甘やかになっていく気がする。
扉を叩くと、すぐに鍵が外された。
トマスが、アリスの帰還を待ち侘びていたのだろう。
扉が開くと、トマスが血相を変えてアリスを出迎えた。
「ご無事で……! ああ、主よ、感謝を……」
アリスの全身を血に濡らした姿を見て、トマスの顔がさっと青ざめる。
「すぐに手当てを――」
「大丈夫です」
アリスはそう言って、トマスの手を静かに制した。
「『獣』は、仕留めました」
短くそう告げると、アリスは長椅子に腰を下ろした。
アリスはひとつ息を吐いた。
「少し、休ませていただけますか」
祭壇から差し込む光が、白く、穏やかに聖堂を満たしている。
トマスはしばらく言葉を失ったまま、アリスを見つめていた。
やがて、ゆっくりと長椅子に腰をおろすと、組んだ手を膝の上に置き、目を閉じた。
唇が、静かに動く。
祈りの言葉だろう。
アリスはそれを黙って聞いていた。




