エピソード8 『霧の集落』
旅人、商人、旅芸人。
様々な人種が町の門をくぐっていく。
そのなかに、ひときわ異質な人影があった。
それは、黒い頭巾付きの外套を頭から被り、背丈より頭ひとつ分ほど高い杖をついている。
胸には、円盤の中央を一本の線が縦に貫く、黒ずんだ首飾りが揺れていた。
「そこのお前、止まれ」
門に立つ若い衛兵が、その小さな人影を呼び止めた。
「怪しい奴だな、頭巾を下ろして顔を見せろ」
小さな人影は、若い衛兵の横柄な態度に小さくため息をつくと、頭巾を下ろし、衛兵を見上げた。
「……これでいいかしら?」
そこに現れたのは、長く美しい金の髪と、澄んだ碧い瞳をもつ、まだわずかにあどけなさの残る、美しい少女だった。
その見た目に、ほんの一瞬、若い衛兵は目を奪われ言葉を失った。
だが、少女の胸に揺れる首飾りに気づくと、ぶるぶると首を振った。
「お前、『狩人』なのか?」
「……ご覧のとおりよ」
少女――アリスは、装飾品とはとても言えない、黒ずんだ鉄の首飾りを指で弄び、うんざりといった様子で息を吐いた。
「もう行ってもいい?」
そういって若い衛兵の前を通り過ぎようとしたとき、
「いや、ちょっと待て」
と、もう一人の、やや年かさの衛兵が、アリスを制止した。
「確か代官のベルント様が『狩人』をお探しだったはずだ」
「え、でも、女ですよ? それもほんの子供――」
そう言いかけたとき、外套の隙間からほんの一瞬、アリスの背負う巨大な剣の刃が見えた。
若い衛兵が、ごくりと喉を鳴らす。
「馬鹿野郎、外見で判断するな。『狩人』なんてのはな、どいつもこいつも化け物なんだよ」
隠す気のない聞こえよがしなその言葉に、アリスは不快そうに眉根を寄せた。
「なんだ、何か文句でもあるのか」
「別に」
アリスはふい、と視線はずし、門の先に続く道を見る。
「それで、どうするの。そのベルント様って人のところに行けばいいの? それとも他の、屈強な男の『狩人』が来るのを待つ? あたしはどちらでもいいわ」
アリスの態度が気に障ったのか、年かさの衛兵は大きく舌打ちをする。
「とにかく『狩人』を見つけたら連れてこいとの仰せだ。案内してやる。ついてこい」
そう言うと、年かさの衛兵はひとりさっさと歩き出した。
アリスは頭巾を被りなおし、黙ってそのあとを追う。
後に残された若い衛兵は、取り残されたようにぽつんと二人の背中を見送った。
代官ベルントの屋敷は町の中央からやや外れた場所にあった。
「ここだ」
そう言いながら、年かさの衛兵は屋敷の入り口を通り過ぎると、路地裏へと足を運んだ。
「……ちょっと?」
アリスは怪訝な表情を浮かべ、年かさの衛兵の背に呼びかけた。
「裏口から通せと言われている」
そう言って、アリスを路地裏へと誘う。
路地裏はじめじめとしていて、地面は草が野放図に伸びていた。
年かさの衛兵は扉の脇に垂れた麻縄をつかみ、そっと引いた。
扉の向こう側で、誰かが動く気配があった。
扉がぎい、と軋みをあげて開くと、顔を出したのは使用人らしき女だった。
女は軽く会釈をすると、「お入りください」とアリスを屋敷の中へと通した。
裏口から続く通路は薄暗く、湿ったような嫌なにおいがした。
壁はひび割れ、足元に敷かれた石畳はところどころ黒ずんでいる。
すれ違う使用人たちは、アリスの姿を見ると、ほんの一瞬だけ視線を向け、すぐに何事もなかったかのように目を逸らした。
胸元に揺れる首飾りに気づいた者も、気づかないふりをするように、足早にその場を離れていく。
――歓迎されていない。
そのことだけは、嫌というほど伝わってきた。
やがて女は、通路の突き当たりにある、ほかよりも少しだけましな扉の前で足を止めた。
女が扉をノックすると、なかから「入れ」と、やや高い男の声が返ってきた。
扉が開けられ部屋のなかに入ると、そこは客を迎えるための部屋ではなく、ベルントが代官としての仕事をするための部屋だった。
アリスは頭巾の下で素早く目を動かし、部屋の様子を観察する。
小さな窓、差し込む光、そしてその光に照らされている、領主の紋章を染め抜いた布が垂れ下がっている。
その布を背に、背もたれの高い椅子に腰かけている男がいた。
(こいつがベルント……)
小太りで神経質そうな男で、落ち着かない目でアリスを見ている。
(……典型的な小役人ってところね)
大きな机の上に積まれたふたつの書類。
封蝋の施された書簡は丁寧に積まれているが、それ以外の書類は粗雑に積まれ、埃をかぶっている。
どうやらこの男の視線は、机の上の書類ではなく、その向こう――領主のいる方向だけを向いているらしい。
「あなたがベルント? 『狩人』をご所望だと聞いたのだけれど――」
そう言ってアリスが頭巾を下ろすと、ベルントは思わず椅子から立ち上がった。
「お前が『狩人』だと? ほんの小娘じゃないか!」
唾を飛ばしながら「ふざけるな」と机をたたく。
何度も繰り返されるこのやりとりも、アリスにとってはいつものことだった。
胸元の首飾りをこれ見よがしに弄ぶ。
「あなたがどう思おうがあたしは『狩人』だし、あなたは『狩人』を必要としている。でも、あたしを信用するもしないもあなたの勝手だし、どうするかはあなたが決めること」
ベルントの視線は、アリス弄ぶ首飾りに注がれていた。
「必要がないというのならあたしは帰るわ。問題が解決するといいわね」
「ま、待て!」
そう言って立ち去ろうとするアリスを、ベルントは慌てて制止する。
「わ、わかった、信用する。私の話を聞いてくれ」
これもまた、アリスにとってはいつもの光景だった。
アリスは町から離れた場所にある森の入り口に立っていた。
ベルントが言うには先日、この森の入り口で、『獣』の被害に遭ったと思われる死体が発見されたという。
アリスはその場にしゃがみ込むと、手で土に触れ、視線を落とし、這わせるように地面を眺めた。
よく見れば、短い草が、森の奥から何かを重たいものを引きずってきたかのように、微かな溝とともに同じ方向に倒れている。
「……ここで襲われたわけではなさそうね」
そう呟き立ち上がると、アリスは空を見上げた。
太陽はすでに中天を過ぎ、傾きはじめている。
「……辿るしかない、か」
そういってアリスはひとつ重たい息を吐くと、森の奥へと向けて、歩き出していった。
森のなかに足を踏み入れると、空気がひんやりと変わった。
木々が陽光を遮り、昼だというのに薄暗い。
風が止み、葉擦れの音すらほとんど聞こえない森は、不気味なほど静かだった。
アリスは倒れた草の流れを追いながら慎重に歩みを進めた。
足元には、何かが通ったような浅いへこみが続いている。
それは足跡ではない、何かを引きずるように運んだ痕跡だった。
進むにつれ、草の倒れ方がはっきりしてきた。
一本一本が同じ方向へ押し倒され、まるで細い獣道のようになって、森の奥へと続いている。
途中、低い枝が折れ、幹の皮が不自然に削れている場所があった。
身体か、荷物か、あるいは死体の一部が擦れたのだろう。
アリスは手を伸ばし、その削れた跡をなぞった。
指先に、わずかな湿り気を感じる。
「……まだ新しい、か」
そういって、アリスはさらに森の奥へと足を進めていった。
不意に、森を満たしていた木々の緑と湿った土の匂いに、かすかに違う匂いが混じり始めていることに気づく。
それは、どこか血を思わせる、甘く重たい匂いだった。
草木をかき分けながら、痕跡と匂いをたどっていく。
やがてわずかに開けた場所に出たとき、アリスは足を止めた。
そこは、地面の様子がそれまでとは明らかに違っていた。
草が枯れ、露になった黒土の上に、乾ききらない赤黒い染みがいくつも広がっている。
それは、ここで大量の血が流れたという動かぬ証拠だった。
だが――
「……妙ね」
アリスは顎に手を当てて呟いた。
「これだけの血が流れているのに、食べカスが……ない」
そう言ったとき、ふと、ベルントが言っていた言葉を思い出した。
――死体は、力任せに腹を引き割かれ、内臓だけがなくなっていた。
「……肉の破片も骨の欠片のないのに、大量の血が流れた痕跡だけがある、か」
狼も熊も、そんな食い方はしない。
「とはいえ……人間が関わっているのは確かだわ」
『獣』は、わざわざ死体を始末したりはしない。
ここまで残されていた痕跡は、明らかに人間の手による痕跡だった。
「……近くに人が住む場所があるはず」
アリスが改めて周囲を観察すると、あさっての方向に、これまでとは違う痕跡を見つけた。
それは先ほどまでたどってきた、何かを引きずったような跡ではなく、人が通ることで踏み倒された草の跡だった。
注意深く踏み倒された草をたどっていくと、次第に森の密度が薄くなっていくのを感じた。
下草は踏みしだかれ、ところどころ地面が露出している。
刃物で払われた枝、切り株、踏み固められた地面。
少しづつだが確実に、森は、人の手が入った場所の顔を見せはじめていた。
不意に風が吹き、森の緑の香りに混じった煙の匂いが、はっきりと鼻を打つ。
それと同時に、かすかにだが、乾いた音が聞こえた。
(――木を割る音だ)
さらに、どこかで金属を打つような、低い響き。
それまで死んだように静まり返っていた森に、わずかだが、確かに人の営みの気配が混じりはじめていた。
アリスは足を止め、耳を澄ます。
そして、音のする方角へと、慎重に歩き出した。
数十歩も進むと、森の様子が変わりはじめた。
木々の間隔が、わずかに広くなり、下草は短く刈られている。
踏み固められた土の道が、アリスを誘うように、その奥へと続いていた。
そして――
一歩踏み出した瞬間、視界が一気に開けた。
そこは、森にぐるりと囲まれた、小さな盆地だった。
周囲の木々は、円を描くように残され、外界を拒む壁のように立っている。
その内側に、寄り添うように建てられた、いくつもの質素な家屋があった。
数えれば、およそ五十人ほどが暮らしているであろう、小さな集落。
貧しいが、荒れてはいない。
それは、森の奥の小さな集落には不似合いなほどの、整然とした秩序の匂いを感じさせた。
すぐそばで畑仕事をしていた男がアリスの姿に気づき、動きを止めた。
男は信じられないものを見るように、森の縁に立つアリスを見つめている。
アリスを見つめたままじりじりと後ずさる。
――次の瞬間、男は手に持っていた鍬を放り出し、一目散に集落の奥へと走り去っていった。
ほどなくして、集落のあちこちから人の動く気配が溢れはじめた。
家屋の陰から、畑の向こうから、何人もの村人が距離を保ったまま、アリスの方を窺っている。
誰も近づいてこず、声をかけてもこない。
ただ、視線だけが、じっと突き刺さる。
ひそひそと、抑えた声で何かを話し合う気配。
アリスは住民たちを刺激しないよう、あえて動かず立ち尽くしていた。
やがて、住民たちの間を割って、一人の男がゆっくりとアリスへと近づいてくる。
五十がらみの瘦身の男で、白いものの混じった髪を後ろで束ね、質素だが清潔な服を身につけている。
その顔には、村人たちに共通する警戒の色はあるが、露骨な拒絶や敵意はなかった。
男は、アリスから少し距離を置いたところで足を止め、静かに頭を下げた。
「まずは名乗らせてください。私はエトヴィン。この集落で、皆の話を取りまとめております」
穏やかな声だった。
「この集落は、外の方をお迎えすることがほとんどありません。差し支えなければ、お名前と、ここへ来た理由をお聞かせ願えますか」
エトヴィンの言葉に、村人たちは固唾を飲んでアリスを見つめる。
アリスは、エトヴィンの顔をまっすぐに見返し、ゆっくりと頭巾に手をかけた。
「……これはまた、ずいぶんとお若い」
頭巾の下から現れたアリスの姿を見て、エトヴィンは驚くように呟いた。
「アリスと申します」
アリスは手を胸の前で組み、ことさら慇懃に頭を下げた。
この集落は、『獣』についてなにか知っている気がする。
下手に刺激するよりも、懐に入った方が得策だ。
「エトヴィン様がこの村の長でいらっしゃいますか?」
「この村に長はおりませんが、強いていえば私を長として皆が慕ってくれております」
エトヴィンは、アリスの胸元で揺れる首飾りに目をやると、ほうと呟き、
「あなた様のようなうら若き乙女には、少々不似合いな首飾りですな」
と微笑んだ。
アリスは指先で首飾りに触れると、ほんの少しだけ目を伏せた。
「これは、わたくしの……大切な人の形見なのです」
「ああ、それは申し訳ない」
エトヴィンは慌てて頭を下げる。
「それで、いったいどういった理由でこのような辺鄙な場所へ?」
穏やかな口調、柔和な表情とは裏腹に、エトヴィンは探るような視線をアリスに向ける。
「旅の途中、森の入り口で少し気になる痕跡を見つけて……それを辿っているうちに、道に迷ってしまって……好奇心は身を滅ぼすというのは本当なのですね。この集落にたどり着けたのは幸運でした」
苦笑するアリスにエトヴィンも笑う。
「なるほど。それはさぞお困りでしょう」
エトヴィンは、少しだけ眉を下げて言った。
「この森は、慣れぬ方が歩くには少々険しい。ましてまもなく日も沈む」
そう言って、ちらりと空を見上げる。
木々の隙間から覗く陽は、すでに西へと傾きはじめていた。
「よろしければ、今夜はこの集落でお休みください。粗末ではありますが、雨露をしのげる場所くらいはご用意できます」
「……ご迷惑ではありませんか?」
アリスがそう言うと、エトヴィンは穏やかに首を振った。
「困っている方を追い返すほど、我々は薄情ではございません」
そう言ってから、少しだけ言葉を選ぶように間を置き、
「もっとも……この集落は、外の方を迎え慣れておりません。ご不便をおかけすることもあるでしょうが」
と、やんわり釘を刺すように付け加えた。
「ありがとうございます。お世話になります」
アリスが頭を下げると、エトヴィンは満足そうに頷いた。
「では、ご案内いたしましょう」
エトヴィンが歩き出し、アリスがそのあとに続く。
集落の人々は、相変わらず距離を置いたまま、二人の姿を見送っている。
いつもと変わらない視線の重さ。
だが、慣れ切った居心地の悪さにふと、いつもとは違う視線が混じっていることに気づいた。
家屋の木陰、薄暗い影の中。
小さな人影が、じっと、こちらを見つめている。
アリスが目を向けると、人影は慌てたように身を隠した。
一瞬だけ見えたのは、ぼさぼさの髪と、大きな目をした、小柄な少年だった。
その目には、他の住民たちが向けるような警戒や拒絶はなく――ただ、純粋な好奇心だけがあった。
(……子供)
アリスは視線を戻し、エトヴィンの後を追った。
案内された小屋は、集落の外れにあった。
他の家屋よりもひとまわり小さく、壁には年月を経た染みが浮いている。
エトヴィンが扉を開けると、ぎい、と軋んだ音が鳴った。
「粗末な場所で申し訳ございません。もとは道具置き場でしたが、寝泊まりはできるように整えてあります」
中は薄暗く、小さな窓からわずかに光が差し込んでいる。
質素な寝台、小さな机と椅子、それだけが置かれた簡素な部屋だった。
「大変言いにくいのですが、今年は作物の実りが悪く、森の恵みも良くない。旅の方にお出しするほどの蓄えがないのです。申し訳ないが夕餉をお出しすることはかないません」
すまなそうに頭を下げるエトヴィンに、アリスは恐縮するように首を左右に振った。
「とんでもありません。こうして雨風をしのげる場所で眠れるだけで十分です」
ああ、そうそう、とエトヴィンは思い出したようにひとつ手を叩いた。
「陽が落ちきってからは小屋の外には出ないようにしてください。集落は安全とは言え周りは森、狼などもおりますので」
「分かりました。お心遣い、感謝いたします」
そう言って、扉を閉めて去っていくエトヴィンを見送ると、アリスは、大きく息を吐いた。
背負った剣を下ろし、杖とともに壁に立てかる。
窓の外に目をやると、陽はすでに沈みかけている。
集落の向こうに見える森が、夕闇に沈もうとしていた。
(……妙な集落だ)
アリスは腕を組み、窓の外を眺めた。
整然とした秩序、よそ者を拒む空気、そして――あの痕跡。
(まさか、とは思うけど……)
嫌な予感が、胸の奥でくすぶっている。
だが、確証はない。
アリスは首を振ると、寝台に腰を下ろした。
外套を脱ぎ、立てかけた剣を隠すように被せた。
胸元の首飾りを指先で弄ぶ。
一本の縦線が円盤の中央を貫いている――それは、『狩人』を『狩人』たらしめる証。
「……明日、少し探ってみるか」
呟くと、アリスは寝台に横になった。
疲れが、じわりと身体に染み込んでくる。
まどろみの中で、アリスは木陰から覗いていた少年の顔を思い出していた。
あの目――警戒も拒絶もない、ただ純粋な好奇心だけを湛えた目。
(……あんな目で見られたのはいつ以来だろう)
そんなことを考えながら、アリスは静かに目を閉じた。
アリスの目を覚ましたのは、扉を叩く音だった。
身体を起こし、窓の外を見ると、夜が明けたばかりらしく、部屋のなかは薄暗かった。
「……誰?」
扉の向こうからは何の返事も返ってこない。
再び、こつこつと扉が叩かれた。
アリスは腰に差しているナイフに手をかけ、そっと扉に近づく。
そして、素早く扉を開けた。
そこに立っていたのは、昨日、木陰からうかがうようにアリスの姿を覗いていた少年だった。
少年は驚いたように目を見開き、一歩後ずさる。
手には、木製の皿と水の入った瓶が抱えられていた。
「……あんた、昨日の」
アリスの言葉には答えず、少年はおずおずと皿と瓶を差し出す。
皿には、黒パンとチーズ、それに木の実が数個乗っていた。
「……これ、あたしに?」
少年はアリスの目を真っ直ぐ見つめる。
アリスは戸惑いながらも、皿と瓶を受け取った。
「……ありがとう」
戸惑いながら礼を言うアリスを見て、少年の顔がぱっと明るくなった。
そして、ぺこりと頭を下げ、くるりと振り返る。
「ちょっと待って」
アリスが慌てて声をかけるが、少年は足を止めることなく、さっさと走り去ってしまった。
「……変な子」
扉を閉めて小屋に戻ると、受け取ったものを机に置き、チーズをかじりながら窓の外に目をやった。
白い靄が、視界いっぱいに広がる。
先ほどは少年の存在に気を取られ気づかなかったが、いつのまにか霧が出ていたらしい。
(やけに薄暗いのはこれのせいか……)
アリスは杖を手に取り、小屋の外へと出た。
「これは――」
それは、想像以上に濃い霧だった。
まるで集落全体を飲み込むように包み込み、近くの家屋の輪郭さえ、ぼんやりとしか見えなくなっている。
霧の向こうから、近づいてくる人の足音が聞こえた。
土を踏む音の感覚から、先ほどの子供でなさそうだ。
やがて霧のなかから浮かびあがったのは、エトヴィンの姿だった。
「おや、もうお目覚めでしたか」
エトヴィンは穏やかに微笑んだ。
「おはようございます。あの、この霧……」
「ああ、この季節は、よく霧が出るのです」
エトヴィンは、霧に覆われた森の方角を見やった。
「この森は、霧が出ると、慣れた者でも道を見失います。迂闊に森へ入れば、二度と戻れないこともある」
そう言って、アリスに向き直る。
「先を急ぐのでなければ、この霧が晴れるまではここに足をとどめるのがよろしかろう」
アリスは、森の方角へ目をやった。
森は、霧のなかに沈み込んでしまったように、その色を失っている。
(確かに、この霧の中で森に入るのは危険ね)
それに――
(……もう少し、この集落を探ってみるのも悪くない)
「わかりました。しばらくお世話になります」
アリスの言葉に、エトヴィンは満足そうに頷いた。
「では、ごゆっくり。なにか必要なものがあれば、遠慮なくお申し付けください」
そう言って、エトヴィンは霧の向こうへと消えていった。
アリスは小屋へと戻り、窓から霧に沈む集落を眺めた。
(……さて、どうしたものか)
そう思ったとき、再び扉を叩く音がした。
扉を開けると、そこには先ほどの少年が立っていた。
今度は、薪を抱えている。
「……また、あんたなの」
少年は、にこにこと笑いながら、薪を差し出した。
アリスは、ため息をつきながら薪を受け取る。
「……どうも」
少年は満足そうに頷くと、また駆けていった。
アリスは、薪を抱えたまま、小さく首を振った。
「……本当に変な子」
二日目の昼過ぎ、アリスは集落の中を歩いていた。
霧は相変わらず濃く、視界は悪い。
住民たちはアリスを見ると、ちらちらと視線を送りながら、なにやらひそひそと話をしていた。
(……まるで腫物に触るみたい)
そんなことをちらりと思いもしたが、慣れきった扱いに、不愉快という感情すらわいてこない。
アリスは、歩きながら、集落の様子を観察する。
質素な家屋に畑や家畜小屋と、なんの変哲もない集落に見える。
ただひとつ、集落の中央には、小さな広場があった。
その中心に、石で組まれた祭壇のようなものがある。
その上には、何かの骨――おそらく動物の頭骨が置かれ、その周囲には花や木の実が供えられていた。
(……祭壇、かしら)
アリスは祭壇と思しきものに近づき、しげしげと眺めた。
供え物はまだ新しく、おそらく、定期的に供えられているのだろう。
そのとき、背後で何かが動く気配がした。
振り返ると、昨日の少年が立っていた。
今度は、水の入った瓶を抱えている。
「……あんた、またなの?」
少年は、にこにこしながら瓶を差し出す。
自身に向けられる無垢な善意に、アリスは苛立ちを隠せなかった。
「いい加減にしてちょうだい! あたし、あんたに世話して欲しいなんて頼んでないわ!」
思わず荒らげた声が、霧に沈む集落に殷々と響く。
だが、少年は笑顔を曇らせながら、それでも瓶を差し出し続ける。
はっと我に返ったアリスは、ばつが悪そうに少年に向かって頭を下げた。
「……ご、ごめん」
そう言って少年の手から瓶を受け取る。
「……あんた、名前は?」
アリスの問いに、少年は首をかしげるだけで答えない。
「あんた、もしかして耳が聞こえないの?」
アリスはくしゃくしゃと頭をかきながら、その場にしゃがみ込み、指先で地面をなぞり始めた。
「あたしの名前はアリス。わかる? ア・リ・ス」
地面に書いた名前と自分を交互に指さしながら、少年に向かってゆっくりと口を動かす。
それを見た少年は、顔をぱっとほころばせ、同じように地面をなぞった。
「フーゴ? あんた、フーゴっていうの?」
フーゴはにこにこしながらアリスをまっすぐ見つめた。
「そう。よろしくね、フーゴ」
アリスもまた、穏やかな笑みをフーゴに返した。
フーゴは立ち上がったアリスの服の裾を掴むと、くいくいと引っ張った。
「なに? どうしたの?」
アリスはフーゴに引っ張られるままに、霧の森へと踏み込んでいく。
通い慣れた道なのだろう、フーゴは迷う様子もなく、視界を遮る白い靄のなかを、木にぶつかることもなくするすると進んでいった。
木の根を踏み、段差を越え、やがてたどり着いたのは、森の途切れた小高い丘の縁だった。
「うわあ……」
眼下には、霧に沈む集落が見える。
フーゴは丘の縁に立つとアリスへと向き直り、得意げな顔をして、両手を広げた。
「特別な場所、っていうこと?」
頬を緩めるアリスに、フーゴも笑顔で応える。
頬を撫でる風が心地よい。
空を見上げるとアリスの袖を、フーゴがくいと引っ張った。
アリスが視線をやると、どこから摘んできたのか、フーゴが小さな白い花をアリスに差し出してきた。
「あたしに、くれるの?」
自身と花を交互に指差すと、フーゴは嬉しそうに頷く。
「ありがとう」
そう言って花を受け取ったアリスは、指先を、そっと自分の頬に触れた。
(……あたし、笑ってる)
自分でも気づかぬほど自然に笑みが溢れるなど、いったいいつぶりのことだろうか。
そんなことを考える自分が滑稽で、アリスは小さく
「ふふっ」
と笑った。
フーゴは口許を緩めたまま小首を傾げると、集落を見渡せる場所に腰を下ろし、アリスを手招きする。
アリスはフーゴの隣に腰を下ろし、しばらくの間、時間を忘れ、霧の集落を眺めていた。
アリスが集落に来て五日が過ぎた。
相変わらず霧は晴れず、集落全体が、どこか異様な雰囲気を醸し出していた。
あの日以来、フーゴはアリスの小屋に、足繁く通うようになっていた。
先日フーゴの秘密の場所から集落へ戻ったとき、エトヴィンからフーゴのことを聞かされた。
「フーゴは両親を病で亡くしましてな。それ以来、叔父夫婦に引き取られ、暮らしております」
耳が聞こえず、口も聞けず、小柄で非力なため力仕事もできない。
叔父夫婦からは半ば厄介者として見られ、他の子供とも馴染めない。
だが、フーゴ自身はそんなことはどこ吹く風と、いつもにこにこと笑顔を絶やさない。
「心の優しい子なのです」
エトヴィンはそう言ってアリスにフーゴと仲良くしてやってください、と頭を下げた。
いまもフーゴはアリスの小屋に遊びに来ていた。
アリスは自身の足元にしゃがみ込むフーゴの背を見ながら、親を亡くしたというエトヴィンの言葉を思い出す。
(あたしと一緒……)
そのフーゴは、なにやら木の枝を手に、地面をなぞっている。
不器用な線で描き出されたのは、どうやら人物画らしい。
髪が長く、目が大きい。
「それ、あたし?」
後ろから覗き込んだアリスが、地面に描かれた絵を指差し、次いで自分を指差しながら、小首をかしげる。
フーゴは満面の笑みで答えると、手に持った枝で絵の人物の目を指し示したあと、煌めくような目でアリスを真っ直ぐに見つめた。
「あたしの目、好きっていってくれてるの?」
照れたように笑うフーゴに、アリスもまた、おもはゆい気持ちになる。
自分に向けられるまっすぐな好意に、胸の奥がくすぐったくなる。
こんなふうに、誰かに無邪気に懐かれるのは、いつ以来だろう。
フーゴは地面にしゃがみ込んだまま、まだ枝を手にしていた。
何かを思いついたように、今度はアリスの絵の横に、さらさらと新しい線を描きはじめる。
「……まだ描くの?」
覗き込むと、四角い台のような形。
その上に、丸いものがいくつか並んでいる。
それは、集落の中央にある、あの祭壇に似ていた。
「これ、広場のやつ?」
アリスが広場の方角を指さしながら聞くと、フーゴはこくこくと何度も頷く。
そしてさらに、祭壇の奥――森のほうに、一本、大きな影を描き足した。
細長い胴体に、やけに長い腕。
二本足で立ち、頭からは、枝のように幾本も分かれた角が伸びている。
それは、鹿の角によく似ていた。
子供の拙い線なのに、それだけが妙に生々しく見える。
「……なに、これ」
フーゴは答えない。
ただ、にこにこと笑ったまま、その影を指差した。
アリスは胸の奥がざわついていくのを感じた。
「フーゴ、これはなに? なにを描いたの?」
アリスの声音にまじる僅かな緊張を敏感に感じ取ったのか、フーゴは固まったまま目を丸くした。
「ねえ、これ――」
アリスはフーゴの両肩を掴み、まるで詰問するように問い詰めた。
フーゴの両肩を掴む手に、知らぬ間に力が込められる。
フーゴが、痛みに顔を歪める。
「――ご、ごめん!」
アリスは慌てて両手を離し、フーゴの両肩を優しく撫でてやった。
「ごめんね、驚かせちゃったね……」
アリスは大きく深呼吸をすると、空を見上げた。
陽は、すでに傾き始めていた。
「……じきに日が暮れるわ。今日はもうおかえり」
不安そうな表情で見つめるフーゴに、アリスは無理やり笑顔を作った。
「大丈夫、また明日ね」
そう言ってフーゴを帰すと、アリスもまた、小屋へと戻っていった。
アリスは寝台に腰を下ろし、改めてフーゴが描いたものについて考えてみた。
森の奥に立つ、鹿の頭をした二本足で立つなにか。
それは、フーゴの空想と片付けるには、あまりにも違和感のある絵に、アリスは、胸が奇妙にざわつくのを感じた。
(やっぱり明日、フーゴにちゃんと聞いてみよう)
そんなことを考えながら、アリスは寝台に身体を横たえた。
いつのまにか眠ってしまったのか、気がついたときにはすでに日はとっぷりと暮れ、部屋はすっかり闇に支配されていた。
ふと、窓の外に奇妙な気配を感じ、アリスは外をのぞいた。
集落の中央、祭壇のあった広場のあたりに、うっすら淡い灯りが滲んでいるのが見える。
アリスは外套を羽織り、外へと出た。
――確かな人の気配。
アリスは気取られぬよう家屋の影に隠れながら、慎重に広場へと近づいていく。
そして、そっと広場を覗いた。
そこには、集落の住民たちが集まっていた。
老人、若者、子供。
みな、祭壇の前に整然と並んでいる。
その中心に、エトヴィンが立っていた。
エトヴィンは、祭壇の前で、両手を高く掲げた。
そして、森の方角へと向き直る。
住民たちもまた、エトヴィンに倣い、森へと向き直った。
エトヴィンが、なにか祈りの言葉のようなものを唱えている。
なにかの儀式のようだが、アリスのいる場所からは、はっきりと聞き取ることができなかった。
ただひとつ、エトヴィンが唱える祈りの言葉のなかに、レイシーという言葉が聞こえた。
(……確か、古い民話に登場する精霊だかなんだかの名前、だったかしら)
やがて儀式を終えたのか、エトヴィンをはじめ、集まっていた住民たちはそれぞれの家へと帰っていった。
アリスもまた、見つからぬよう、闇と霧に紛れて小屋へと帰った。
翌朝、それまでが嘘だったかのように、集落に立ち込めていた霧は綺麗に晴れあがっていた。
霧が晴れたのなら、集落に居座り続ける理由はない。
身支度を整えたアリスは、エトヴィンのもとに向かうべく、小屋をでた。
いつもより寝過ごしてしまったらしく、太陽がすっかり顔を出している。
不意に違和感に気づく。
いつもなら、すでにフーゴが来ている頃合いではなかったか。
周囲を見回せば、動き始めた住民の姿がちらほら見える。
胸の奥に、黒いものがじわじわと広がっていく。
「ようやく霧が晴れましたな」
声をかけてきたのはエトヴィンだった。
「あの……エトヴィン様、フーゴを……フーゴを見かけませんでしたか?」
「フーゴ? いいえ、見ておりませんな」
まだ家にいるのでは、とエトヴィンはフーゴを引き取った叔父夫婦の家を指差した。
アリスはエトヴィンに礼を言うと、足早に教えられた家へと向かう。
心臓の鼓動が、耳の奥で鳴っているような気がした。
やがて叔父夫婦の家へと着くと、アリスは乱暴に扉を叩いた。
しばらくして、開いた扉から顔を出したのは、小太りの中年男だった。
これがフーゴの叔父だろうか。
「なんだこんな朝っぱらからから。何か用か?」
眉間に皺を寄せ、胡乱なものを見るその目つきは、あからさまなほどにアリスを疎ましがっているのがわかる。
だが、いまのアリスにそれを気にかける余裕はなかった。
「フーゴ、いる?」
アリスの問いに、男の顔が、わずかに歪んだ。
「あの子なら、昨日の昼前に出ていったきり、まだ戻っていない」
「――え?」
アリスの心臓が、大きく跳ねた。
「あの子は、よく勝手にどこかへ行く。お前のところに行ったんじゃないのか?」
男の声に、わずかな苛立ちが混じる。
「確かに……あたしのところにいたけれど、日が暮れる前には家に帰したわ……」
アリスの声が、震えた。
「そうか。まあ、腹が減ったら、そのうち戻ってくるだろう」
そう言って、男は扉を閉めようとした。
「待って! 探さなくていいの!?」
アリスの叫びに、男は面倒くさそうに顔をしかめた。
「あの子は、よく勝手にどこかへ行く。放っておけば、そのうち戻ってくる」
「でも――」
「これ以上、騒ぎ立てないでくれ。迷惑だ」
そう言って、男はことさら強く扉を閉めた。
アリスは、閉ざされた扉の前で、呆然と立ち尽くす。
(……フーゴが、いない)
昨晩、出ていったきり戻っていない。
だが、アリスの小屋には来ていない。
では、フーゴはどこへいったのか。
アリスの脳裏に、昨日フーゴが描いた絵が浮かんだ。
――祭壇。
――森。
――鹿頭のなにか。
「まさか……」
背筋を、ぞくりとなにかが這った。
(フーゴ――!)
気がついたときには、アリスはすでに、森へ向かって駆け出していた。
森にはまだ霧が残っており、それが、木々の間を薄く揺蕩っていた。
そのなかを、アリスは、息を切らしながら走る。
「フーゴ! フーゴ!」
叫んでも、フーゴには聞こえるはずがない。
それでも、アリスは叫ばずにはいられなかった。
木々をかき分け、草を踏みしだきながら、森の奥へ、さらに奥へと進んでいく。
やがて不意に視界が開け、アリスは足を止めた。
そこは、以前見つけた、大量の血痕が残されていた場所だった。
その奥に、横たわる小さな影がある。
「……フーゴ?」
声が震える。
早く行かねばと気持ちは逸るが、踏み出す足が、まるで泥濘にはまっているかのように重たかった。
アリスは喘ぐように一歩、また一歩と踏み出していった。
そうして近づくたび、小さな影は、その輪郭を徐々に鮮明に現していく。
ボサボサの髪。
小さな身体。
そして――血に染まった服。
「――フーゴ!」
アリスは転ぶように駆け寄ると、横たわるフーゴを抱き上げる。
――まだ助かるかも知れない。
そう思った瞬間、抱き上げたフーゴの身体が、異様に軽いことに気がついた。
アリスは恐る恐る、血に染まったフーゴの腹部に目をやった。
「……あ、ああ。そんな……嘘……」
血に染まったフーゴの腹は、空っぽだった。
力まかせに開かれた腹のなかには、内臓がひとつもなくなっていた。
アリスはその場に崩れ落ちた。
「なんで……? どうして夜の森に……」
そう呟いたとき、フーゴの手に握られている、白い花が目に入った。
それは、フーゴが秘密の場所に案内してくれたときにくれた、小さな白い花だった。
昨日の別れ際のやり取りを思い出し、アリスははっと息を飲んだ。
「もしかして、あたしを元気づけるようと……?」
家に帰らずそのまま森に入り、花を摘んだ帰りに――
「ごめん……フーゴ。ごめんね……」
アリスの目から、大粒の涙がとめどなく零れ落ちる。
薄暗い森のなかで、アリスの嗚咽だけが静かに響いていた。




