五作
直孝は出世を続けていた。
慶長13年(1608年)に書院番頭になり上野刈宿5000石、慶長15年(1608年)に大番頭になると同時に上野白井藩一万石の大名になった。
父の直政の領地は兄の直継が継いでいたため、直孝は自身の領地を自らの実力で受けた。
当然のように『秀忠の近習だったから』や『直政の子だから』特別に扱われている等と言う声も聞こえてきた。
戦が起こる事はなく、武働きで評価を得て領地を貰う次代が終わりつつある中で、家柄や誰を主人とするかによって出世が決まるのはこの国の歴史からも繰り返されてきた事だから、そう思われても何の不満もない。
「直孝様、ご不満に思われる事もありましょうが、お顔に出されない方がよろしいかと思いますよ。」
家臣の一人に言われて驚いて聞く。
「顔に出ていたか?」
「感情的になりやすいと聞いてますので、どれほどかと思っていたら顔に出るほどとは。
お気をつけください。」
「そうだな。」
「ところで兄上の領地のお話は聞かれましたか?」
「あまり関心はないな。
そもそもがあまりに会った事がないから兄上と表では呼ぶがそう思った事もあまりないのだ。
私は薄情者か?」
「致し方ない事かと。
直継様にご関心がなくとも領地には気を配るべきかと。」
「それはなぜだ?」
「お父上が家康公から賜った近江の北東部は朝廷や大阪に目を光らせる重要な地です。お父上が亡くなられた頃から築城が進んでいる彦根山の城も豊臣の反意に対処するためかなり堅牢に作られているとか。」
「秀頼殿がそこまでの器か?」
「問題は淀殿でしょうな。」
「それで、なぜ豊臣の事も含めて私に関係する?」
「まだ先かも知れませぬが、秀頼様が大人になれば政権を返せと淀殿がわめくでしょう。
外様と呼ばれるようになった大名方の中には未だに豊臣に忠誠を持つものもいるでしょう。
戦になった時、直継様に井伊家を率いる度量はおありですか?」
「やってみねばわからんだろう。
それを言うなら私も戦働きはたいしてないしな。」
「家康公は直継様を愚鈍と評しているとか。
井伊家の大将の座と彦根藩の藩主の座の双方が直孝様に与えられる可能性は高くあると思います。」
「余計な争いなど起こさねば、そこそこの人生がおくれように。まぁ、準備は致すが何もないことを私は願うよ。」
戦が終わり江戸幕府が平和に世を治める。
それで良いのではないか。わざわざ死を選ばずとも生きていけるのならそれが一番良いと直孝は思った。
その後、直孝の出世はまだ止まらず慶長18年(1613年)に伏見城番役となった。
この翌年、直孝は生涯忘れぬ戦へと駆け出す事になる。




