二十四作
4月21日、何事もなく二条城に到着していた直孝は城門に立ち、姿勢を正して待っていた。
江戸から来た兵や途中で合流してきた大名達にも頭を下げて、その人が通るのを待つ。
警備の面からどの辺りにおられるのかをふせられていたので最初からお待ちするしかなかった。
「おお、直孝ではないか。」
視線を落とした瞬間に声をかけられて顔を上げる。
そこには待ちわびた人が馬上で笑顔を浮かべている。
「お待ちしておりました秀忠様。」
「おぬし、もう少し10万石を超える大名である自覚を持てよ。おぬしより石高の低い者が馬からおりるべきかとざわめいておったぞ。」
「私のような若輩者にそのような配慮は要らぬかと。」
「父上は息災か?」
「義直様のご婚儀の様子がとても良かったので、上機嫌ですね。」
馬の歩みにあわせて直孝は秀忠に並走する形で話をしていた。
「毛利と長宗我部は向こうに付いたようだ。
真田信繁もな。」
秀忠は悲しそうに言った。
四国、中国地方の有力な武将である毛利と長宗我部が敵に回ると言うことはそれだけ幕府に対する支配が西国に及んでいないという印象を与える。
毛利、長宗我部が味方するならと西国の大名が離反しないとも言いきれない。
そうなると軍の編成や戦場の様子に気を配り続けないといけない。総大将として秀忠様も大変なのだろう。
更に冬の陣でも活躍を見せていた真田信繁がいる。
真田は武田信玄公に仕え、武田氏滅亡後も有力な武将として戦場を駆けた。関ヶ原の合戦では石田三成と親交の深かった弟の信繁が西軍に、勢いがあり勝利する可能性が高い事に加えて徳川の領地の関東の近くに領土を持つ兄の信之が東軍に付いた。
結果として関ヶ原で敗北した側の信繁は兄の嘆願により領地を減らしてでも命を助けられ幽閉された。
そこから逃げ出してまで参戦した冬の陣において戦国武将としての勇猛さを見せつけたが、これも敗戦。
これ以上の徳川への反発が兄の信之への迷惑になると考えられなかったのかと秀忠は嘆いていたのだ。
前回は信之も裏切られた側として処罰は何もなかった。
それを甘いという者達が少なからずいた事も聞いている。
「心に決めた槍というものなのでしょうね。
福島正則殿もそうなのでしょうか。」
直孝が言うと秀忠は笑いながら
「固いだけではすぐに折れてしまう。しなりがあって始めて強さが出るものだ。
年齢か、それとも誓いか……曲げられないのではなく、曲げたくないという執念やもしれなんな。」
「そうですね。ああ、大事な事をお伝えしてませんでした。
家康様から明日、軍議を行うので本日は休めとの事です。」
「承知した。」
翌日4月22日
家康、秀忠、本多正信・正信父子、土井利勝、藤堂高虎らが軍議を行い、15万5千人の徳川軍を河内路と大和路の二手に分けて進軍する事が決まった。
また紀伊の浅野も南から進軍するようにと命令を出して本格的に大阪への進行が始まった。




