**リナ、時間の継ぎ目を知らない**
【Abyss観測ログ:R-1/層時歪み補正記録】
対象個体:田中里奈
表層環境:日本・とある高校/「高校1年生」ラベル
異常概要:
進級後の記憶断片と、初年度の教室風景が同一フロアで重なり始める。
黒板の「二年」の残像/廊下の「上級生」気配など、
年度タグのバグが軽度発生。
本ミッションでは、
「これまでの高校生活の経験値は残したまま、
表向きはもう一度“高校一年生”として世界を再固定する」
という、わりと器用さを要求される調律を実施した。
本人および同級生への記憶改変は最小限。
教室のとある席で「ん?」と首をかしげる違和感だけが、
かすかなノイズとして残る。
その一瞬の揺らぎのすぐそばに、
Abyss探査員が一名、静かに立ち会っている──
……という前提で、本編をご覧いただきたい。
窓際、二列目。
田中里奈と呼ばるる個体、その友と弁当箱を挟みて向かい合う。
卵焼きだの短大だのと、ささやかなる進路談義に花を咲かせおる。
──ここだな。
視えぬ層にて、時の糸がわずかに撚れ違う。
進級せし後の春と、初めてこの教室に足を踏み入れし春とが、
薄き二重写しとなりて重なり合うておる。
黒板の上、裏層にだけ「二年」の文字がちらつき、
廊下の気配は「新入生」と「上級生」とを同時に含んでおる。
このまま放置すれば、彼女の学年の履歴は、
細かきささくれとなって後々まで刺さり続けよう。
本来、我ら探査員に直接介入の権限なし。
されど今回は、上層よりの特例許可あり。
「既存の経験を損ねることなく、
年度のラベルのみを再調律せよ」との命なり。
(了解。──高校一年時層、再固定)
指先ひと振り分ほどの意識で、
教室全体に散らばりし時間のノイズを撫でならす。
進級せしはずの年は、里奈の内奥にのみ“経験”として沈め、
外界の表示は、再び「一年生」の春へと揃え直す。
クラスメイトの笑い声、椅子のきしみ、
プリント用紙のこすれる音。
それらは何ひとつ変わらぬまま、
ただ「いつの春であるか」のタグだけが、静かに書き換わる。
里奈は、友の言葉に笑みを返しながら、
ふと、こちらの空間を横目にかすめた。
(……あれ?)
視線が、窓と窓のあいだの、
誰もおらぬはずの半歩分の空きを掠め止まる。
「どうしたの、里奈?」
向かいの少女が首をかしげる。
「ううん。なんでもない。……気のせいかも」
そう答えて、彼女はすぐに話題へ戻ってゆく。
短大だの理学系だの、“仮置き”だの。
言葉の粒は、調律前と同じ軌道をなぞり始める。
よし。
進級するはずであり、されどなお一年生として在る。
その矛盾は、彼女にとりて
「少しだけ長く続いた高校一年の感覚」としてのみ残されよう。
我は水面の波紋ひとつ残さぬよう、
教室の空気から音もなく離脱する。
観測ログに一行だけ記す。
『対象・田中里奈──高校一年時層、
過去年度と現在年度を混在させぬ形にて再調律完了』
かくして、少女は何も知らぬまま、
もう一度だけ、高校一年生をやり直すこととなる。
【調律結果報告:R-1/高校一年層・再固定】
今回の介入で行ったことを、観測者(読者)諸氏向けに三行でまとめる。
「進級しているはずの年」と「まだ一年のはずの年」が
ぐちゃっと重なりかけていた時間軸を、
“経験だけ二年分/ラベルは一年のまま” に再配置した。
その作業中、里奈は窓際の半歩分の空間に
一瞬だけ違和感を向けている。
あれは 「ほぼ気づかれかけた」 場面としてログに保存済み。
調律完了後、この世界線は
「里奈の主観ではふつうに今日も高校一年の続き」
として進行していく。
我々探査員は、今後も水面下で
こっそりレンチを回し続ける予定である。
なお、
「この子、いつまで高一やってるんだろ?」
というメタい感覚を抱いた観測者がいたなら、
それは世界のバグか、あるいは我々の仕事の跡だ。
どちらにせよ、
里奈本人は今日も、
自分の人生を“ちゃんと今日として”生きている。
我々Abyss探査員に許されたのは、
その時間の継ぎ目を少し縫い直すことだけだ。




