リナ、始業式の小さな実験
**20xx年1月6日(月曜日) 高校1年生**
**朝**
目を開けた瞬間、
空気の匂いが、いつもと少し違っていた。
お正月の、あのだらっとした甘さが、
ほんの少しだけ薄まっている感じ。
(あ、今日から学校だ)
枕元の時計を見る。
「……七時二十分」
いつもより、
ほんの少しだけ遅め。
(大遅刻じゃないけど、
“余裕のある朝”とも言えないやつ)
布団の中で、
しばらく天井を見つめる。
『冬休みの、ゆるい計画』
机の上に置きっぱなしのノートが、
頭の中に浮かんだ。
三が日。
友達と初詣に行った日。
なんとなく一日中こたつにいた日。
◯がついている日もあれば、
△みたいな印だけの日もあって、
完全な空白も、正直ある。
(……見ないふりして
新学期スタート、っていう手もあるけど)
そう考えた瞬間、
胸の奥がきゅっとして、喉が渇いた。
「見るだけ見る」
布団を蹴って起き上がる。
足裏が冷たい床に触れた瞬間、
一気に目が覚めた。
ノートを開く。
年末のページのあとに、
三が日のところが続いている。
◯が二つの日。
△だけの日。
「初詣」とか「しろと散歩」とか、
細かい文字が書き込んである日。
そして、
何も書いていない一日。
(ここ、完全に“冬眠”してた日だ)
胸のあたりが、
じわっと熱くなる。
でも、
ペンを持って、
その空白のところに
小さく書き足す。
『ひたすら寝た日』
横に、
ゆるい波線みたいな印を描く。
「これはこれで、
体力チャージってことで…」
声に出してみると、
自分で言っておきながら
ちょっと笑ってしまった。
(◯じゃないけど、
ゼロでもない)
ノートを閉じて、
制服のスカートに着替える。
タイツを履こうとしたら、
廊下からお母さんの声。
「里奈ー、
始業式なんだから、
ちゃんと身だしなみ整えなさいよー」
(“始業式なんだから”って
なんだろう)
(別に、中身は昨日の私の続きなのに)
心の中でそんなことを思いながら、
スカートのシワを
手のひらで慌てて伸ばした。
**午前**
リビングに行くと、
お雑煮の匂いがまだ残っていた。
テーブルの端には、
開きっぱなしのお年玉袋。
太一とさくらは、
自分の袋を並べてニヤニヤしている。
「里奈は?
その年でお年玉もらえるだけ
ありがたいと思いなさいよ」
お母さんがそう言いながら、
私の分の袋を差し出してきた。
「高校生なんだから、
ちゃんと貯金しときなさいね。
女の子なんだから、
いざってときのためにも」
“女の子なんだから”が、
年明け早々、
また飛んできた。
(“いざってとき”って
どんなときなんだろ)
災害?
病気?
結婚?
よくわからない“いざ”。
胸の真ん中が
少しだけざわつく。
「とりあえず、
半分は貯金して、
半分は本と文房具と…」
「どうせ
ガチャガチャには使わないでよ」
お父さんが新聞から顔を上げて、
茶化すみたいに言う。
「使わないし」
即答してから、
(でも、本の代わりに
スマホ課金に使ってしまうパターンも
普通にあるな…)と思って、
自分で自分にツッコミを入れた。
トーストをかじりながら、
テレビの天気予報を見る。
「始業式は
全国的に寒さが厳しく…」
画面の中の
制服姿の高校生たち。
(みんな、
同じような気持ちなんだろうか)
(“あー学校だ”って思いながら、
でもちょっとだけ
友達に会うのが楽しみだったり)
マフラーを巻いて
玄関に立つと、
お母さんが言った。
「スカート短くしすぎないでよ。
女の子は冷やしちゃダメなんだから」
(また出た)
「男子だって
冷えたら風邪ひくと思うけど」
と言いかけて、
飲み込む。
喉の奥が
少しだけ苦くなった。
**昼**
始業式は、
毎年同じような話が続く。
「今年一年の目標を」
「高校生活を有意義に」
「スマホとの付き合い方」
言葉だけ聞くと、
前にもどこかで
そのまま聞いたような気がする。
体育館の冷たい床の上に座っていると、
足先からじわじわ冷えてきて、
意識がふわっと遠くなりそうになる。
(“最後まできちんと話を聞きなさい”って
たぶん言われるやつだ)
(でも、
これを最後まで集中して聞ける人って
どれくらいいるんだろ)
校長先生の声が、
スピーカー越しに
少しだけ割れて聞こえる。
「みなさんの中には、
将来、研究者になりたい人、
教師になりたい人、
看護師になりたい人、
立派な社会人になりたい人…」
“看護師”のところで、
女子の列が
少しざわっとした。
(女子=看護師、
みたいなセットで
考えてる感じ、あるよなあ)
隣に座っていた
咲希ちゃんが、
小声でささやく。
「ねえ、
“女子は看護師、男子はエンジニア”
的なやつ、
まだ令和でも続くんだね」
「しーっ」
と言いながらも、
私の口元もゆるんでしまう。
(こういう瞬間に
一緒にモヤっとしてくれる人が
いるだけで、
ちょっと救われる)
教室に戻ると、
新年最初のホームルーム。
「今日は席替えはしないけど、
冬休みどうだったか
ひとことずつ言ってもらおうかな」
担任の先生の提案に、
教室の空気が
微妙なざわつきを見せる。
(来た、“ひとこと”タイム)
一人ずつ、
前の席から順番に。
「初詣行きましたー」
「寝正月でした」
「スノボ行きました」
まるで、
テンプレ回答の見本市みたいだ。
私の前の席の男子。
理科でよく隣になる、
佐伯くんが立ち上がる。
「えーと、
冬休みは…
理科の自由研究の続きと、
ゲームと…
あと、図書館でわりと
勉強してました」
クラスの何人かが
「まじめ〜」と笑う。
でも、
その声のトーンは、
半分からかいで
半分本気の尊敬が混じっている感じだった。
(図書館…
私も脚本書いてたし、
創作デーとかしてたけど、
“勉強してました”って
スパッと言えるの、
ちょっとかっこいいな)
佐伯くんが
座るとき、
一瞬目が合った気がした。
(……気のせいかも)
自分の番が来る。
「田中さん」
「はい」
立ち上がると、
心臓が急に早くなる。
(無難に行くか、
ちょっとだけ
“本当のこと”寄りにするか)
「えっと…
冬休みは、
演劇部の脚本を
ちょっと進めたのと、
図書館で
友達と“創作デー”しました。
あとは、
思ったより
スマホに負けた日もありました」
最後の一言を足した瞬間、
教室の空気が
ふっとゆるんだ気がした。
「それ、ある〜!」
女子の列から
共感の声が上がる。
前の方の席からも、
「俺も」「わかる」の声。
先生が笑いながら言う。
「正直でよろしい」
(あ、
言ってよかったのかもしれない)
少しだけ、
肩の力が抜けた。
**午後**
久しぶりの昼休み。
窓側の列をくっつけて、
いつもの女子グループで
輪になった。
「初詣どうだったー?」
「恋みくじ、大吉だった」
「インスタで見た
縁結びの神社行ってきた」
恋バナと
おみくじと
お年玉の使い道。
テーブルの上を、
話題がくるくる回る。
「里奈は?」
卵焼きを口に入れたばかりで、
また慌てて飲み込む。
「えっと…
初詣行って、
おみくじは中吉で、
あとは、
図書館で脚本書いてたかな」
「やっぱり〜
脚本ガチ勢〜」
茶化す声に、
くすくす笑いが混ざる。
咲希ちゃんが、
お茶のパックをいじりながら
言った。
「でもさ、
里奈の“脚本ガチ勢”って、
なんかちゃんと
恋愛要素も入ってそうだよね」
「え、なんで」
「ほら、
文化祭の『二人の季節』もさ、
あれ、
あの後絶対なんかあるでしょって
先輩たち言ってたじゃん」
急に心臓がドクンと鳴る。
(そういえば、
“あの後”のこと、
まだちゃんとは
書けてない)
「そ、そうかな」
「てかさー」
別の子が、
スマホの画面を見せながら言う。
「二組のあのカップル、
年末もずっと一緒にいたらしいよ。
男の方が、
彼女のために
朝から駅前で行列並んで
グッズ買ってたって」
「尊〜」
「彼氏、
そういうのやってくれる人がいい〜」
きゃーきゃー言いながら、
盛り上がる。
(“そういうのやってくれる人”か…)
(私がもし誰かに
何かしてもらったとして、
素直に喜べるのかな)
(それとも、
“悪いな”って
変に気をつかっちゃうのかな)
自分の反応を想像してみるけど、
いまいちイメージがつかめない。
ふと、
目の前の廊下を
誰かが通り過ぎた。
教室のドアのところで、
佐伯くんが
男子にプリントを渡している。
「はい、これ生活委員のやつ」
「あ、サンキュー」
横顔が一瞬だけ見える。
(別に、
“そういうのやってくれる人”って
グッズの行列だけじゃなくて、
こういう、
ちょっとした雑用を
さらっとやってくれる人も
入るのかもしれない)
胸のあたりが、
少しだけそわそわした。
**放課後**
冬の教室。
窓の外は、
もう薄いオレンジに染まりかけている。
演劇部の今年最初の集まりは、
短めの顔合わせだった。
「みなさん、
あけましておめでとうございます」
川田先生が
いつもの柔らかい笑顔で挨拶する。
「今年は、
春の公演に向けて
今から少しずつ動いていきます。
台本班は、
引き続き田中さんの『二人の季節』を
ベースに進めましょう」
心臓が一瞬止まりかける。
(“ベースに”って、
つまり、
ちゃんと最後まで
書かなきゃいけないやつ)
「まだ冬休みモード抜けてない人も
多いと思うので、
今日は軽めに。
“今年の創作でやってみたい実験”を
一人ひとこと書いてもらいます」
“実験”の文字に、
少しだけワクワクする。
A4の白い紙に、
ペンを走らせる。
> ・脚本を書くとき、
> “完璧な一行”を目指さない。
> とにかく一回最後まで書いて、
> 直す前提で進める実験。
>
> ・スマホをそばに置くんじゃなくて、
> あえて“誰かに預けて書く”日を
> 作る実験。
>
> ・自分の実体験の中の
> モヤモヤ(女の子だから〜とか)を
> 台詞に混ぜてみる実験。
書きながら、
胸の奥が少しだけ熱くなる。
(“実験”って言い方、
便利だな)
(失敗しても、
「やってみたけど合わなかった」で
済む感じがする)
紙を前に出すとき、
隣の咲希ちゃんが
ちらっと覗き込んだ。
「お、
“誰かにスマホ預ける実験”
今度私が預かろうか?」
「……それ、
思ったより
ガチで効きそうだから怖い」
そう言いながら、
笑い合う。
**夕方**
部室を出て、
昇降口で靴を履き替える。
下駄箱の前が、
少し混雑していた。
「あ、ごめん」
ぶつかりかけた相手が、
佐伯くんだった。
「あ、田中」
名前を呼ばれると、
心臓が変なリズムを刻み始める。
「冬休み、
図書館よくいたよね」
(見られてたんだ)
一瞬、
頭の中が真っ白になる。
「え…
あ、まあ、
脚本書きに」
「なんかさ、
俺、
理科の問題集やってたら、
向かい側の席で
すごい集中して書いてる人いるなって思って。
あれ田中だったんだって、
途中で気づいた」
「へ、へえ…」
(どんな顔して
書いてたんだろ、私)
(変な顔してなかったかな)
耳のあたりが熱くなる。
「始業式のひとこと、
おもろかった」
「え?」
「“スマホに負けた日もありました”ってやつ。
正直でいいなって思った」
そう言って、
少し笑う。
その笑い方が、
バカにする感じじゃなくて、
本当に“いいな”って
言っているように聞こえて、
胸の奥がじんわりした。
「さ、
寒いから早く帰ろうぜ」
そう言って、
先に外に出ていく。
(“ぜ”って、
ちょっと男子っぽい言い方)
(でも、
なんか嫌じゃないな)
自分でもよくわからない感想が
頭に浮かんで、
思わず一人で笑ってしまった。
**夜**
家に帰ると、
テーブルの上に
今日配られたプリント類を並べる。
「新年の目標を書きましょう」
「冬休み明け課題チェック表」
紙の束を見ていると、
少しだけ息苦しくなる。
(“目標”って言葉、
便利だけど重いなあ)
夕食のあと、
自分の部屋に戻る。
机の上に、
冬休みのノートと、
今日もらったプリントを並べる。
スマホは――
引き出しの中に入れようとして、
一瞬手を止めた。
(今日は、
新しい実験、やってみよう)
机の上の付箋に、
太字で書く。
『22時までは通知オフ実験』
スマホの設定画面を開いて、
通知をまとめてオフにする。
「……はい、実験開始」
声に出すと、
少しだけ気合が入った。
『二人の季節』のノートを開く。
今日は、
転校生の女の子が
「冬休み明けって苦手」と
ぼそっと言うところから始める。
> 「なんかさ、
> みんな“今年の目標”とか
> キラキラ言えるの、
> ちょっとすごいよね」
>
> 「言えてるだけえらくない?
> 私なんか“今年も生き延びる”で
> 精一杯なんだけど」
書いているうちに、
自分のことを書いているんだか、
彼女たちのことを書いているんだか
わからなくなる。
でも、
ペンは止まらない。
気づいたら、
時計は二十二時少し前。
(通知オフ実験、
一応成功…かな)
ノートを閉じて、
今日のページの横に
小さな◯をつけた。
完璧じゃない。
けど、
一週間前の私よりは
少しだけ“実験”の数が増えている気がした。
## 後書き
**日記**
**20xx年1月6日(月曜日) 高校1年生 田中里奈**
今日は、
“始業式と小さな実験の日”だった。
---
**今日できたこと**
1. 冬休みのノートの「空白の日」に、
『ひたすら寝た日』と書き足して、
ゼロじゃない印をつけられた。
2. 始業式あとのひとこと発表で、
「スマホに負けた日もありました」と
正直に言えた。
3. 夜、スマホの通知を22時までオフにする
「通知オフ実験」をやって、
その間に『二人の季節』を
数ページ分進められた。
---
**今日できなかったこと**
1. 朝、ほんとは七時前に起きるつもりが、
結局七時二十分まで布団から出られなかった。
2. 昼休み、
「恋愛の話あんまり得意じゃないかも」と
言ってみたかったけど、
空気を壊しそうで言えなかった。
3. 佐伯くんと下駄箱で会ったとき、
「図書館で勉強してるのすごいね」と
素直に言えず、
変な相づちで終わらせてしまった。
---
**障害とその分析**
1. 朝起きるのが遅れたのは、
冬休み中に
「夜ちょっとだけスマホ→就寝時間がずれる」が
習慣になっていて、
体内時計がまだ冬休み仕様のままだからだと思う。
あと、「始業式くらいだし」という
油断も正直あった。
2. 恋バナに乗り切れなかったのは、
「盛り下げたくない」という気持ちと同時に、
自分の恋愛観を出したときに
変に見られるのが怖い、というのが大きい。
“女の子なら恋バナ好きでしょ”という空気に
自分も縛られている感じがする。
3. 佐伯くんとの会話で素直になれなかったのは、
相手をほめること=
「変に意識してますと思われるんじゃないか」という
変な被害妄想があるから。
それと、
中学のときに
ちょっと男子をほめただけで
「えー好きなのー?」と
からかわれた記憶が
まだ体に残っている気がする。
---
**明日以降の具体的な対策(小さな実験)**
1. 朝起きる時間については、
いきなり「六時半起床」とかに戻すんじゃなくて、
まずは“アラーム一個増やす実験”をしてみる。
・七時〇五分
・七時二十分
みたいに二段階にして、
「二回目で起きた自分も◯に入れる」ことにする。
2. 恋バナの場では、
いきなり
「恋愛あんまり興味ないかも」とか
大きいことは言わずに、
「そういうのもいいよね〜。
私はまだよくわかんないけど」
くらいの“グレーな一言”を
次のチャンスで実験してみる。
それで場の空気が
どれくらい変わるのかを観察したい。
3. 誰かをほめることへの怖さに対しては、
「直接」じゃなくて
ワンクッション入れる実験をする。
例えば、
友達との会話で
「佐伯くん、
冬休みも図書館で勉強してたんだって。
ふつうにすごくない?」
みたいに、
本人に聞こえるか聞こえないかくらいの距離で
まず言ってみる。
それがもし本人の耳に入っても、
そんなに重くならない形を探したい。
---
**繰り返しの意識**
たぶん、
明日も明後日も、
スマホに負ける日もあれば、
勝てる日もある。
朝も、
一発でシャキッと起きられる日は
そんなに多くないと思う。
恋バナの輪の中で、
自分のテンションを
みんなに合わせられなくて
モヤモヤする日も、
まだまだ続くはずだ。
でも、
・空白のマスに
「ひたすら寝た日」と書けるようになったこと。
・「スマホに負けました」と
人前で言っても
世界は終わらなかったこと。
・通知をオフにしている間に
ちゃんと脚本が進んだこと。
こういう“うまくいった小さい実験”を
一個ずつ増やしていけば、
先週より、
来月の私の方が
少しだけ“諦めるのが遅い人”に
なっているかもしれない。
失敗は、
今日もうしろから追いかけてきたし、
たぶん明日も追いかけてくる。
それでも、
逃げ道をちょっと変えたり、
振り向くタイミングを少し遅らせたりしながら、
何度も何度も
条件を変えて
実験していきたい。
「どんな時でも笑顔で」
今日は、
完璧じゃない一日と、
うまく言えなかった言葉と、
それでもノートに増えた
◯と△を眺めながら、
ちょっとだけ
実験に成功した研究者みたいな、
そんな気持ちで笑ってみた。




