第58話 国の境、人の境
■北緯43度20分、東経150度41分、太平洋上
夜が明け、太陽が水平線上に上り切った頃、A・W遊撃艦隊は北海道沖の洋上に展開、待機していた。
ここから北上すれば北方四島の一つである択捉島と、千島列島の一つである得撫島の間……択捉海峡を抜け、オホーツク海に入ることが出来る。千島列島から離れた洋上で待機しているのは、ロシアを徒に刺激しないためだ。
待機を命じられてはいるものの、艦隊のクルー達はA・Wとの戦闘に備え積み込んだ物資や装備のチェックを入念に行っている。駿河の格納庫でも、第一・第二DSCV小隊が、八式とインジェクション・パイルを含む各種装備のチェックに追われていた。
■ヘリ空母駿河、格納庫
四つん這いの状態で駐機された八式のコクピットで、恭司はメインモニターに映る機体各部のステータスを確認していた。抽象化して表された八式の絵文字……コクピットブロックである耐圧殻、それに接続されたフレームユニット。更に、フレームに接続されている頭部とバックパック、四肢と各種武装――――全てグリーンで表示され、問題が無い事を知らせている。
恭司は次にウォータージェットの確認を行う……そんな調子で所定のチェック項目をこなす彼の事を、イヴがじぃっと見つめていた。
彼女は搭乗用の脚立(アビスウォーカーならば機体の腕をよじ登って搭乗する訓練を行うのだが、整備員はその限りではない)に登り、開けっ放しのコクピットハッチから頭を突っ込んで、飽きもせずに恭司の作業を見続けていたのだが、恭司が作業の合間に『ふう』と息をつくと、口を開いた。
「ねぇキョージ、なんでみんな動かないの?」
『みんな』とはこの艦隊の事だ。A・Wが見つかったのに洋上で足止めを食っている事を疑問に思っているのだ。
「ああ、A・W-4はロシアっていう別の国の海に居るんだ。A・Wがロシアの海に居る限り、俺達はロシアの許可が無いとA・Wを倒しに行けないんだよ」
恭司の説明を聞き、イヴは『むぅ』と唇を尖らせた。やはり、ここで足止めを食っている事が不満なのだろう。
「早くしないといけないのに……」
「こればっかりは俺達じゃどうしようもない。偉い人が交渉してくれてるハズだから、今は待つんだ」
変わらず、イヴは不服そうにしてはいたが、それ以上不満を口にすることは無かった。もっと強硬にA・W打倒を迫るかと思っていた恭司は、比較的あっさり引き下がった彼女の態度を意外に思った。
しかし、当のイヴ自身が、かつてネーレイスは都市国家同士で戦争をしていたと語っていた事を思い出した。生まれた時代は違えども、国境を越える事がいかに大変かを、イヴもある程度は理解しているのだろう。
「…………早く何とかなればいいけどな」
恭司は誰にともなく呟いた。
■ヘリ空母駿河、戦闘指揮所
「交渉は決裂…………ですか」
薄暗いCICに木崎副長の渋い声が響いた。自席に座る津川艦長と、彼等の後ろに立つローザも一様に眉間に皺を寄せている。彼等の視線の先、大型ディスプレイには、ワシントンDCのマッケンジー補佐官と、画面を分割してエンタープライズのウェルズ司令、そしてジョンソン艦長が映っている。
「皆すまない、これは率直に私の力不足だ。ロシア政府があれほど強硬に出てくるとは……予測しきれなかった」
画面の中で頭を下げるマッケンジー補佐官。超大国の政府要人とは思えない実直さに関心はするものの、今はA・Wを倒す為、ロシア政府に領海立ち入りを認めさせなければならない。
そして、それは外交……政治の舞台の話であり、その頼みの綱が画面の中で頭を垂れる老紳士なのだ。
ローザが口を開く。
「何とかなりませんか? 優先すべきはA・Wの討伐です。互いに譲歩できる所があれば……」
しかし、マッケンジー補佐官は首を横に振った。
「モスクワの連中が要求してきたものがな、我々が保有するA・W細胞のサンプルとオムニトキシンの製造法なんだ。こればかりは飲む訳にはいかん」
「そ……れは…………」
老紳士の言葉に、ローザが声を詰まらせた。かつて、彼女自身が補佐官に要求した事を思い出す。
『A・W細胞の軍事転用の禁止。事態の収束後、オムニトキシン製造法の完全破棄』
A・W細胞は所謂万能細胞であり、更に強靭な生命力と圧倒的な成長スピードを誇る。これが軍事転用などされれば、ロクでもない事になるのは間違いない。それは、ローザが開発したオムニトキシンを見れば分かる。
オムニトキシンは現状唯一と言える対A・W用特殊酵素であるが、『A・Wのみ』に効果がある訳ではない。そんな都合の良いモノを、こんな短期間で作り出せるはずはない。
万能細胞を殺す毒――――それはつまり、あらゆる生物に効果があるという事だ。
更に、その毒性は強力無比。A・W-2とA・W-3を葬った事実が、その恐るべき毒性を証明している。500グラムで世界人口の致死量に匹敵するというボツリヌストキシンと同等か、それ以上の毒性があるのだ。
大気や水に触れれば急速に毒性を失う特性……弱点があるものの、オムニトキシンが兵器利用されれば、何千何万、いや何十万何百万という命が失われるだろう。
そんな事は、ローザも認めるわけにはいかなかった。
「資源不況でロシア経済も厳しいのは理解できる。しかし、だからと言って共産主義に回帰しようとする連中を信用する事は出来んのだ。それはロシアも同じだろう……A・W細胞とオムニトキシンという『兵器』を独占する我々を警戒するのは道理だ。我々を阻むのは国境だけではない、それは互いへの不信感だ。まるっきり冷戦時代の焼き写しだよ、笑えない話だ」
マッケンジー補佐官が自嘲するように力なく笑った。暗澹とした空気が漂う。そんな中、ウェルズ司令が口を開いた。
「しかし、そうなるとA・Wがロシア領海から出てくるのを待つしかない……か」
ウェルズ司令の言葉にジョンソン艦長が続く。
「或いは、ロシア海軍がA・Wを倒す幸運を期待する……ですか」
その言葉を口にしたジョンソン艦長自身、ロシア海軍とA・W-4が衝突し、その上でロシア海軍が勝利する確率は低いと見積もっていた。
津川艦長がマッケンジー補佐官に問う。
「今後どう転ぶにせよ……いや、分からないからこそ、ロシア海軍とA・W-4の動きは把握しておく必要があります。可能な限り情報が欲しい。偵察衛星などで情報を得る事は可能ですか?」
「勿論だ。偵察衛星だけではなく、あらゆる手段で情報を集め、極力リアルタイムで君達に提供しよう。今後しばらくの間、衛星回線と戦術データリンクによる連携を緊密にして欲しい。以上だ」
マッケンジー補佐官はそう言うと通信を切る。それを見届けた津川艦長は自身の傍らに立つ木崎副長とローザを交互に見ると、おもむろに口を開いた。
「『待つ』というのは時に過酷なものだ。だが、こんな時こそ焦りは禁物だよ。副長、乗員に半舷休息を発令。アニング博士、貴女も少し休むと良い」
そう言うと、老船乗りは椅子から立ち上がり『うぅん』と背筋を伸ばした。




