第82話 十字架を背負って
熱海駅から東海道線に乗った桜夜は、平塚駅で降りた。最期に想い出の地を巡るならどこがいいか、桜夜は考えながら、平塚の町を歩いていた。
その姿は、十字架を背負ってゴルゴダの丘を登るキリストのようだった。
ただし桜夜の背には、十字架などない。
彼が背負っているのは、自分という人間が世界から忘れられていくという、目には見えない十字架だった。
それでも彼は前を向いていた。キリストがそうだったかはわからない。でも桜夜は、自分の最期を神への恨み言で終わらせたくなかった。
「エリエリレマサバクタニ」
磔刑に処されたキリストの言葉。神に見捨てられた苦しみを叫ぶ言葉。それでいて、神への呼びかけをやめなかった言葉。不意にヨハネ・パウロ三世と幼い頃彼に祈り方を教えてくれた神父様の顔が浮かんだ。
「聖下、桜を一緒に見るという約束、果たせそうもありません」
そうつぶやいた桜夜は打ち捨てられた教会に入り、その椅子に腰かけた。かつてはここでも祈りが捧げられていたのだろうか。
桜夜は疲れていたのか、少しウトウトとしてしまった。夢の中で、ヨハネ・パウロ三世は友人のために祈っていた。玄武は忙しなく何かを探していた。あずさとサイカとホムラとリオは、誰かを探しているようだった。
眠る桜夜の口元に笑みが浮かんだ。
◆◆◆
どれくらい寝たのかわからないが、桜夜は目を覚ました。椅子から立ち上がり、十字架に架けられたキリストを見た。そして久しぶりにその前に跪いた。
「愛の源なる天主……」
あの日、幼い自分が教わった祈り。
「人をもわが身の如く愛することを努め奉る」
アーメンとは言わなかった。そのままゆっくり立ち上がる。この誓いを立てるのも、これが最後になるかと思うと、いつもは唱えないのに不意に名残惜しく感じる。
未練を絶つように桜夜は教会を出た。そして町をゆったりと歩く。今が昼なのか夜なのかすらわからなくなってきたけれど、最後まで自分の足で歩いた。
「この町であずさと七夕デートしたんだっけ。あの頃は明人先生もご存命で……」
幸せだったなあと思うと同時に、鎌倉には行くまいと心に誓った。鎌倉には世話になった人が多すぎる。もし忘れられていたら、さみしいと思った。
そして平塚八幡宮のアヒルに会いに行くのもやめた。あの皇帝を自称するアヒルが自分を蹴るのはわかっていたからだ。
桜夜はゆっくりと駅に戻った。横浜と鎌倉の堺である大船にある四方院家の経営する病院。如月あずさと出逢った場所。鳳凰と契約した場所。主治医の静馬はもうあの病院にはいないから会うことはない。そう思いながら、電車を待った。
◆◆◆
相談役の特権が有効かわからないから、如月あずさと過ごした特別室に入れろとは言わなかった。ただ病院の中庭のベンチでぼんやりしていた。そうこのベンチで如月あずさは文庫本を読んでいた。それを自分が見つけ、微笑んでもらい、仔犬のようにすり寄った。
「……なつかしいなあ」
入院患者でない桜夜の姿を看護師たちが遠巻きで見ていた。一部の看護師が「見たことあるような……」とつぶやくのを聞き、桜夜は病院からも立ち去ることにした。
◆◆◆
横浜に戻った桜夜は、丘の上の如月あずさの墓を目指していた。
「まったく、横浜はどうして坂が多いのかな。これじゃあゴルゴダの丘をのぼるキリスト様だよ……」
そう愚痴る。自分の背中にはどんな十字架があるのだろうか。ふと思った。何が乗っかっているかはわからないけれど……。
「重いなあ……」
病人にはつらいよと言いながら、一所懸命に丘を登り切り、あずさの墓を見つけるとへたり込んだ。
「やあ、あずさ……」
息を整え、汗臭くないか確認してから、桜夜は這いずるようにあずさの墓に近づき、その墓石に背中を預けながら空を見上げた。そこでようやく今が夜だと気付いた。
「もうすぐそっちに……いけないのかな」
ガブリエルはいつも死後の再会は約束してくれなかった。そもそも自分は普通に死ぬのとは違う。あの男……そう、あのキリストのような男こそオメガだったのだろう。ならば自分は無の無へ導かれる。
「そういえば、ガブリエル、どうしてるんだろう」
大天使、聖天使と呼ばれた彼女くらい、自分を覚えていてくれないだろうか。ふとそんな思いに駆られ、自嘲気味に桜夜は嗤った。




