第81話 「さようなら、ミケ」
最初に異変に気付いたのは玄武だった。
「おい、桜夜はいつ伊豆から戻る?」
近くに控えた者に何気なく聞いたことだった。しかしその側近は首をかしげるばかりだった。
「宗主。申し訳ございません。どなたのことを?」
「桜夜じゃ。水希桜夜。相談役の」
「……? 特別相談役は長らく空席だったと記憶しておりますが」
「なに……?」
玄武は長年の経験から直観的に“危機”と判断し、仕込み杖も持たずに自分の屋敷を飛び出した。
(まったくあのバカ、今度は何に巻き込まれよった……!)
玄武の屋敷と桜夜の屋敷は意外と近い。それでも老体での全力疾走は堪えた。だが車でのんびり行く余裕はないと玄武は直観していた。桜夜の屋敷の庭では、あずさ、サイカ、ホムラ、リオがお茶会の準備をしていた。突然現れた宗主に全員ぽかんとしたが、あずさが最初に立ちなおった。
「玄武のおじいちゃん、どうしたの……」
「お前たち! 水希桜夜はどうした!」
「え? もうすぐ伊豆から帰ってくると思うけど。ねえ……?」
あずさが振り返ってサイカたちに同意を求める。三姉妹は一様にうなずいた。
「お前たち! 急いで伊豆に行け! 何かがおきておる!」
玄武が追いかけて来た側近に車でこの子たちを伊豆まで送れと怒鳴ると、今度は青龍家を目指して走り出した。
◆◆◆
そのころ、目覚めた桜夜は自分の中を確認していた。鳳凰はもういない。代わりにルシフェルの悪意とガブリエルの愛情が残っていた。桜夜は少しだけ笑ってからベッドから起き上がった。いつものように機敏ではない。老人のように身体が言う事をきかなくなっていた。
それでも机までいくと、引き出しを開く。そこにはかつて如月あずさにあてて書いたラブレターがあった。それを机の上に出すと、黒いジャケットのポケットからもう一枚のラブレターを取り出す。それは如月あずさ宛のラブレターと同時に書いた、まだ見ぬ四方院あずさにあてたラブレターだった。
やがて桜夜は歩き出す。伊豆には最期に挨拶をしないといけない、大事な“友達”がいる。
◆◆◆
「いらっしゃい」
いつものひものや、変わらぬ声を聞きながら桜夜が椅子に座る。ミケが早速出てきて、桜夜を見て首をかしげた。
「……忘れちゃった?」
桜夜がさみしそうに聞くと、ミケは否定するように小さく鳴き、桜夜の膝に飛び乗って丸くなる。桜夜はその背中を大切そうに撫でながら、注文をした。いつもなら大きな干物と大盛のご飯を頼むのだが、もう食欲はなくなっていた。代わりに日本酒とミケの餌を頼んだ。
しばらくして注文した品が届くと、桜夜はミケに餌をあげながら日本酒を少しずつ飲んだ。鳳凰がいたころは水のようにごくごく飲めたが、今は少しずつでも喉や内臓が悲鳴を上げた。それでもやがて酒も餌もなくなる。桜夜はミケの頭を撫でた。その顔は終わりを悟った男の顔だった。
「もうお別れだよ。ミケ」
ミケは拒否するように鳴いた。桜夜が膝から降ろそうとすると暴れ、桜夜の服に噛みつき、爪を立てた。慌てて店主が引き離したがミケは大声で鳴き続けた。
桜夜はゆっくりと立ち上がってミケに手を振った。
「さようなら、ミケ」
そして次の目的地に向けて歩き始めた。その足取りは、重かった。
◆◆◆
「桜夜の馬鹿はどこだ!」
ホムラが別荘のドアを蹴破る勢いで開ける。
「ベッドが少しだけ温かい……まだ近くにいるかもしれません!」
「いくぞリオねえ!」
「ええ!」
慌てて外に飛び出すホムラとリオ。あずさは机の上の二枚の手紙に目を落としていた。そのことに、サイカが気付く。
「これ……なに」
「宛名、見て」
「これは……」
「手紙を書くのが嫌いな桜夜さんが、わざわざ書いたんだよ」
「……へたくそな字」
『如月あずさへ』
『未来の君へ』
あずさは如月あずさ宛の手紙を開いた。
『君が好きだった「あしあと」の詩を思い出した』
「『あしあと』……」
桜夜はよく暗唱してくれた。「いつかサイカちゃんとの子にも聞かせたいなあ」なんてのんきに笑いながら。それだけであずさの瞳から涙が落ちて手紙のインクを濁らせていった。
『君を忘れない』
そう手紙と墓前で誓った男に、今何かが起きている。車のなかで電話越しに聞いた玄武の話によれば、四方院家の人間の大半から桜夜の記憶が消えているという。
「あんたが、忘れられないようにしなさいよ……バカ」
きっと如月あずさも同じことを言う。そしてあいつは困ったように笑う。
そしてもう一通の手紙を開く。
『拝啓 四方院あずさ様』
『いや、君があずさと名付けられるのかは、まだわからないけれど』
「あたし……?」
『僕は、できれば君の隣にいたい』
あずさはそこまで読んで手紙を握りつぶした。
「だったら、さっさと帰ってきなさい。……いや」
――探しに行こう、サイカちゃん!
「うん」
あずさの言葉は、どこか桜夜と似ていた。
◆◆◆
そのころ玄武は夜を徹して初代タオの遺した膨大な資料を引っ搔き回していた。
「奪われた記憶を取り戻す手段を探すんじゃ!」
玄武は青龍家でまだ桜夜を覚えていた一と京子にそう大声で命令した。術者の家系としての強い耐性を持つ四方院家の人間が一斉に桜夜の記憶を失っていく。より強大なナニカの介入を玄武は想定していた。しかしタオなら、五大神獣と契約し、異世界を旅し、神を娶ったタオなら、対抗できたかもしれない。そしてタオは未来の危機に関する文書を多数遺している。そう、本能寺の予言も当たっていた。だから……。必死に資料と格闘する玄武を不意に、京子が不思議そうに見た。
「ねえ、何で宗主様はあんなに必死なの?」
「それは……あれ、何か、大切なことを……」
桜夜を「弟」と呼んだ一すら記憶を保てなくなった。玄武の心に絶望が広がっていった。




