第79話 「僕の愛は生きているよ」
その日、水希桜夜は、嫌な予感がしていた。
「ねえ、どこ行くの?」
「着いたらわかるよ」
「それ、だいたいろくでもないところに連れていかれるときの台詞なんだけど」
「大丈夫、大丈夫」
「その大丈夫が信用できないんだよ」
隣を歩く四方院あずさは、妙に機嫌がいい。
いや、正確には機嫌がいいふりをしている。
時折こちらを盗み見るし、目が合えば不自然に前を向く。
何か企んでいる。
それくらいは桜夜にも分かった。
問題は。
「……なんでみんないるの?」
振り返る。
少し後ろをサイカ、ホムラ、リオが歩いている。
「お散歩だよ?」
サイカがにこにこと笑う。
「絶対嘘だよね」
「なんでだよ。オレたちが一緒じゃ不満か?」
「そういうわけじゃないけど……」
「でしたら問題ありませんね」
「リオちゃんまで……」
誰も答える気がないらしい。
桜夜は小さくため息をついた。
まあいい。
こんな日も悪くない。
世界を滅ぼしかねない何かと戦うわけでもない。
政治家の弱みを探る必要もない。
四方院家の揉め事を仲裁する必要もない。
ただ少女たちに連れ回されるだけ。
かつてなら考えられなかったほど平和な一日だった。
そう思っていた。
しばらく歩くまでは。
「……あれ?」
見覚えがあった。
道そのものではない。
もっと遠く。
山の形。
建物。
空気。
何度も遠くから見たことがある。
近づこうとして。
そのたびに引き返した場所。
桜夜の足が止まった。
「あずさ」
「なに?」
「ここ……」
四方院あずさは答えない。
ただ、桜夜の手を取った。
「行こ」
「……」
「桜夜?」
動けない。
どれだけの敵を前にしても、こんなことはなかった。
殺意を向けられても。
銃口を向けられても。
神を名乗る存在を前にしても。
身体は勝手に動いた。
どう戦う。
どう逃がす。
どう守る。
考えるより先に答えが出た。
なのに。
ここから先へ進む方法だけが分からない。
「……誰に聞いたの?」
「ガブリエルさん」
「そっか」
桜夜は笑った。
うまく笑えているか、自分でも分からなかった。
「ガブリエルも余計なことするなあ」
「私が教えてって言ったの」
「……そっか」
「あと、ルシフェルにも会った」
桜夜の顔から表情が消えた。
「……は?」
今まで動かなかった身体が、一瞬で動いた。
あずさの肩をつかむ。
「何かされた!?」
「されてないよ!」
「本当に!? 身体は? 変なもの入れられてない? 記憶は? どこか痛くない?」
「大丈夫だって!」
「でも、あいつは――」
「おい」
後ろからホムラの声が飛んだ。
「落ち着け」
「……」
「まず話を聞け」
「……うん」
桜夜はあずさから手を離した。
「ごめん」
「別にいいけど」
あずさは少し迷ってから言った。
「聞いたよ」
「……何を?」
「如月あずさのこと」
その名前だけで。
桜夜の呼吸が止まった。
「私が、その人の生まれ変わりだってことも」
「……」
「玄武のおじいちゃんが、泰山府君祭っていうのをしたことも」
「……そっか」
否定しない。
言い訳もしない。
ただ、それだけだった。
「桜夜は知ってたんだよね?」
「うん」
「私が生まれたときから?」
「うん」
「なんで教えてくれなかったの?」
「……」
答えは、なかなか出なかった。
「分からなかったから」
「何が?」
「君に教えていいことなのか」
桜夜は目を伏せた。
「君は君の人生を生きてたから」
「……」
「僕が昔のことを話したら、君はそれに引っ張られるかもしれない。僕の知ってるあずさになろうとするかもしれない。だから……僕から言うことじゃないと思ってた」
「じゃあ」
あずさが桜夜を見る。
「私を見るとき、如月あずさを見てた?」
「……」
答えられない。
それだけで答えになってしまった。
「やっぱり」
「ごめん」
「謝ってほしいんじゃない」
「でも……見てたことはある」
桜夜は正直に認めた。
「特に君が大きくなってから。似てきたから」
「そんなに?」
「……うん」
桜夜は少しだけ笑った。
「びっくりするくらい」
「じゃあ私は」
あずさは唇を噛んだ。
「如月あずさの代わり?」
「違う」
今度だけは即答だった。
あずさが目を見開く。
「それだけは違う」
「でも」
「似てるよ。魂も……たぶん、つながってる」
桜夜自身にも、それ以上は分からない。
泰山府君が何をしたのか。
人の魂とは何なのか。
どこまでが同じなら同じ人間なのか。
神でもない自分に答えられる問いではなかった。
「でも、僕が君と会ったのは、君が生まれてからだよ」
「……」
「君が僕を『おーや』って呼んだのも。僕の庭でカーネーションを見つけたのも。僕の家に遊びに来たのも。全部、君の思い出だ」
「……うん」
「だから、代わりじゃない」
四方院あずさはしばらく黙っていた。
やがて桜夜の手を握り直す。
「じゃあ行こ」
「……え?」
「如月あずさに会いに行こ」
桜夜の足が再び止まった。
「僕は……」
「行けない?」
「……」
あずさは後ろを振り返った。
三姉妹がいる。
サイカは心配そうに桜夜を見ていた。
リオは何も言わない。
ホムラだけが、桜夜と目を合わせた。
「行ってこいよ」
「ホムラちゃん……」
「オレたちはここにいるから」
「……」
「逃げたくなったら戻ってこい」
桜夜は苦笑した。
「それ、行けって言ってるのか逃げていいって言ってるのか、どっち?」
「どっちでもいいんだよ」
「そっか」
桜夜はもう一度前を向いた。
あずさが手を握っている。
小さかった手は、いつの間にか大きくなっていた。
それでも。
桜夜から見れば、まだ小さな手だった。
「行こ」
「……うん」
二人で歩いた。
一歩。
また一歩。
たったそれだけのことが、ひどく難しかった。
そして。
そこに。
彼女の名前があった。
如月あずさ。
「……」
桜夜は動かなくなった。
何年も。
何年も来られなかった。
近くまで来たことならある。
ここへ向かおうとしたことも、一度や二度ではない。
けれど、そのたびに引き返した。
墓を見てしまえば。
本当に死んだことを認めなければならない気がした。
あずさは死んだ。
もういない。
何年経っても、その事実だけは認めたくなかった。
「桜夜?」
四方院あずさが見上げる。
桜夜は笑った。
「……えへへ、来ちゃった」
目は笑わなかった。
口元が震えた。
それでも笑った。
ゆっくり墓前へ進む。
そして、片膝をついた。
「久しぶり」
返事はない。
「……っていうのも変だよね。僕、ここに来るの初めてだし」
笑う。
「怒ってる?」
風が吹いた。
「怒ってるよね。ごめんね」
何に対する謝罪なのか。
桜夜自身にも分からなかった。
来なかったこと。
生き残ったこと。
他の誰かを好きになったこと。
幸せになったこと。
忘れてしまったこと。
まだ覚えていること。
全部なのかもしれない。
声が震えた。
「君の好きだった食べ物、思い出せなくなってた」
四方院あずさが黙って聞いている。
「怖かった」
桜夜は墓石に触れなかった。
触れれば、そこに彼女がいることを認めてしまいそうだった。
「君の声も、いつか忘れるのかな」
返事はない。
「怒った顔も」
返事はない。
「僕のこと、バカって言った声も」
返事はない。
「……いやだなあ」
涙は出なかった。
もう、ずっと出なかった。
だから笑った。
「僕の愛は生きているよ」
四方院あずさが息を呑んだ。
「ずっと」
桜夜は墓石を見つめた。
「たぶん、これからも」
それは四方院あずさの前で言っていい言葉なのか。
サイカたちの前で言っていい言葉なのか。
分からなかった。
でも。
ここで嘘をつくことだけはできなかった。
「……ごめん」
「なんで謝るの?」
四方院あずさだった。
桜夜が振り返る。
「だって……」
「私がいるから?」
「……」
「サイカさんたちがいるから?」
「……うん」
「変なの」
「変?」
「死んだ人を好きだったら、今いる人を好きになっちゃいけないの?」
「……」
答えられない。
「私には分かんないよ。私、本当にこの人の生まれ変わりなのかもしれないし」
あずさは墓を見る。
「でも、この人のこと覚えてない」
「うん」
「桜夜とここに来たことも、この人にはないんでしょ?」
「……うん」
「だったら、今ここにいる私は私じゃん」
桜夜は目を見開いた。
「少なくとも今は、それでよくない?」
「……あずさ」
「難しいことは、あとで考える」
それはあまりにも単純な答えだった。
魂とは何か。
人格とは何か。
転生した人間を同一人物と呼べるのか。
そんな問いを全部後回しにした。
「桜夜は考えすぎなんだよ」
「……よく言われる」
「知ってる」
二人は少しだけ笑った。
しばらくして。
足音が聞こえた。
三姉妹だった。
「もういいか?」
ホムラが聞く。
「うん」
「……ごめんね」
桜夜は三人を見る。
「何が?」
サイカが首を傾げた。
「その……みんなの前で」
「うん?」
「僕、あずさのこと……」
「大好きだったんでしょ?」
サイカは笑った。
「……うん」
「じゃあ、よかったね」
「え?」
「ちゃんと言えて」
「……」
「ずっと言えなかったんでしょ?」
「うん」
「なら、よかった」
あまりにも簡単だった。
桜夜は困ったように笑う。
「サイカはすごいね」
「そう?」
「うん」
「えへへ」
「サイカお姉様らしいですね」
リオが墓前へ進んだ。
リオは墓石に刻まれた名前と、隣に立つ四方院あずさを見比べた。
同じ名前。
似た顔。
同じ魂だという。
だが。
今、桜夜の隣に立っている少女は。
自分の意思でここへ桜夜を連れてきた。
「リオ?」
「いいえ」
リオは微笑んだ。
「なんでもありません」
「そう?」
「はい」
ホムラは最後まで墓から少し離れていた。
「ホムラちゃんは来ないの?」
「オレはいい」
「そっか」
「……」
「……」
「なんだよ」
「いや」
桜夜は少し迷った。
「ありがとう」
「何がだよ」
「いつも」
「……」
「僕、逃げようとしてたから」
ホムラは頭を掻いた。
「別にいいだろ」
「え?」
「逃げても」
桜夜が目を瞬く。
「逃げたって、また来りゃいいだろ」
「……」
「一回で全部なんとかしようとすんな」
「ホムラちゃんに言われるとは思わなかった」
「ぶん殴るぞ」
「ごめん」
桜夜は笑った。
今度は少しだけ。
本当に笑えた。
もう一度、墓を見る。
「あずさ」
返事はない。
「また来てもいい?」
風が吹いた。
「……なんてね」
桜夜は立ち上がった。
帰ろうとする。
けれど、数歩進んだところで振り返った。
如月あずさ。
名前はそこにある。
死んだという事実も変わらない。
忘れてしまったことも戻らない。
それでも。
「またね」
今度は。
さよならとは言わなかった。




