第78話 生まれ変わり
世界でもトップクラスの人間が仕事から外され、少女たちに振り回されるという日々は驚くほど長く続いた。ただ四方院あずさには、桜夜が時折自分に向ける表情に不思議なものを感じていた。
その理由を探ろうと図書室を漁っているときだった。彼女は一枚の写真を見つけた。それ自体は、別に珍しいことではなかった。桜夜の家には、写真が多い。
サイカ、ホムラ、リオ。
四方院家の人々。
教皇ヨハネ・パウロ三世。
見たこともない外国の王族や政治家までいる。
若い頃の桜夜が、今よりずっと険しい顔で写っているものもあった。
だから、最初は気にも留めなかった。
写真に写っているのは、まだ少年と呼べる頃の桜夜。
その隣に、一人の少女がいた。
「……え?」
あずさは写真を手に取った。
もう一度、少女を見る。
髪型が違う。
服も違う。
もちろん、自分がこんな写真を撮った記憶などない。
けれど。
「……私?」
鏡を見るようだった。
少なくとも、他人の空似では済ませられないほどには似ている。
写真の中の桜夜は、今のあずさが知らない顔で笑っていた。
あずさはその写真から目を離せなくなった。
「何を見ているの?」
「わっ!」
突然後ろから声をかけられ、あずさは写真を落としかけた。
「ガブリエルさん……驚かさないでよ」
「ごめんなさい」
ガブリエルは微笑んだ。
しかし、あずさが持っている写真を見た瞬間、その笑顔が消えた。
「あずさ。それは……」
「ねえ、この人、誰?」
「……」
「私にそっくりなんだけど」
ガブリエルは答えなかった。
その沈黙だけで、何かがあるのだと分かってしまう。
「桜夜の昔の写真だよね?」
「ええ」
「この女の人は?」
しばらくして、ガブリエルは小さく息を吐いた。
「如月あずさ」
「……あずさ?」
「ええ」
「私と同じ名前?」
「そうね」
同じ顔。
同じ名前。
偶然だと言われても、信じられない。
「桜夜の……何?」
ガブリエルはまた黙った。
「ガブリエルさん?」
「私からはなにも。でも、桜夜には何も聞かないであげて。お願い」
「なんで?」
「……」
「なんで聞いちゃいけないの?」
「今は、それしか言えません」
納得できるはずがなかった。
だが、ガブリエルがこんな顔――どうすればいいのかわからないという表情――をするのを、あずさはほとんど見たことがない。
それ以上聞くこともできず、あずさはもう一度写真へ視線を落とした。
如月あずさ。
自分と同じ名前で、自分と同じ顔をした少女。
そして、隣にいる桜夜。
桜夜は、彼女を見て笑っていた。
『知りたいか?』
「え?」
声がした。
ガブリエルが振り返る。
「誰!」
『私は、その問いに答えられる』
空間が歪んだ。
あずさには何が起きたのか分からなかった。
ただ、ガブリエルが自分を庇うように前へ出たことで、友好的な相手ではないことだけは理解できた。
「ルシフェル……!」
ガブリエルと同じく白い衣に白い翼を持った天使は、穏やかに微笑んだ。ガブリエルは怒鳴る!
「何をしに来たのです!」
「何も。私はただ、その娘が知りたがっていることを教えてやろうと思っただけだ」
「必要ありません!」
「それを決めるのはお前ではないだろう」
ルシフェルはガブリエルではなく、あずさを見た。
「知りたいのだろう? 自分と同じ顔、同じ名前を持つ少女が何者なのか」
「……知ってるの?」
「ああ」
「あずさ!」
ガブリエルが振り返る。
あずさは写真を握りしめた。
「教えて」
「いけません!」
「ガブリエルさんは教えてくれないんでしょ?」
「それは……」
「だったら、この人に聞く」
ルシフェルが笑った。
「簡単なことだ」
そして、あまりにも簡単に告げた。
「君は、如月あずさの生まれ変わりだ」
「……え?」
意味が分からなかった。
「生まれ……変わり?」
「ああ。四方院玄武が泰山府君祭を行った。如月あずさの魂を、この世へ呼び戻すためにな」
「玄武のおじいちゃんが……?」
「やめなさい、ルシフェル!」
「何を怒る? 私は事実を教えているだけだ」
「あなたはいつも、事実に悪意を混ぜる!」
「事実が人を傷つけるなら、それは私の責任ではない」
あずさは二人の声を遠くに聞いていた。
生まれ変わり。
自分が。
写真の中の、この少女の。
「じゃあ……」
口の中が乾いていた。
「桜夜は、知ってるの?」
「もちろん」
即答だった。
「君が生まれたときからな」
胸の奥が痛んだ。
幼い頃から、桜夜は自分を見ると妙な顔をすることがあった。
優しい。
けれど、寂しそうな。
自分を見ているはずなのに、自分ではない誰かを見ているような。
ずっと分からなかった。
「桜夜は……この人のことが好きだったの?」
ルシフェルの笑みが深くなった。
「見せてやろう」
景色が変わった。
◆◆◆
病院だった。
知らない場所。
知らない時間。
けれど、そこにいる二人だけは分かった。
若い桜夜。
そして、自分と同じ顔をした少女。
桜夜は十二本の白いカーネーションを抱えていた。
「……あたし、あんたの死んだ母犬じゃないんだけど」
「知ってるよ」
桜夜は笑った。
「これはね。僕のあずさへの愛はずっとずーと生きているって意味。お花が十二本の意味、あずさならわかるでしょ?」
「十二本……」
少女はしばらく花を見つめていた。
そして、その意味に気づいたのだろう。
顔が赤くなった。
「……!」
「えへへ」
「バカ!」
あずさは何も言えなかった。
自分は、この桜夜を知らない。
こんなふうに笑う桜夜を知らない。
そして何より。
桜夜がこの少女を見る目を、知っていた。
自分を見るときにも、時折見せる目だった。
◆◆◆
元の場所へ戻った。
「……桜夜は」
あずさは写真を見つめたまま尋ねた。
「私を、この人の代わりにしたいの?」
「あずさ、違います!」
ガブリエルが叫んだ。
しかし、ルシフェルの方が早かった。
「どうだろうな」
「……」
「本人に聞いてみればいい」
「ルシフェル!」
「君が望むなら、如月あずさの代わりになってやればいい。あの男は喜ぶかもしれないぞ」
「……」
「あるいは」
ルシフェルは楽しそうに続けた。
「そんなものは嫌だと突きつけてもいい」
「私は……」
「君は四方院あずさなのか。それとも如月あずさなのか。自分で確かめればいい」
ガブリエルがあずさの耳をふさいだ。
「聞かないで」
「でも……」
あずさは写真の中の少女を見た。
桜夜は、今でも彼女を愛している。
それだけは、ルシフェルに教えられなくても分かった。
幼い頃。
桜夜の庭で見た白いカーネーション。
『このお花なに?』
『カーネーションだよ』
『お花言葉は!?』
『私の愛は生きている』
あのときは何も知らなかった。
ただ、桜夜は何でも知っているのだと思った。
「……この人、死んじゃったんだよね」
「ええ」
ガブリエルが答えた。
「お墓は?」
「……」
また答えない。
ルシフェルが代わりに答えた。
「ある」
「桜夜は行ってるの?」
沈黙。
今度はルシフェルさえ、すぐには答えなかった。
やがて。
「いいや」
「……え?」
「近くまでは行ったことがある。だが、あの男は未だに墓の前へ立てていない」
あずさは顔を上げた。
「一度も?」
「ああ」
信じられなかった。
あれほど彼女を愛しているのに。
今でも白いカーネーションを育てているのに。
何年経っても、墓の前に立てない。
ルシフェルが笑う。
「だから、君が連れていけばいい」
「私が?」
「君ならできるだろう」
その言葉に、あずさは眉を寄せた。
「……なんで?」
「何?」
「なんで私ならできるの?」
「君が如月あずさの生まれ変わりだからだ」
「……」
あずさは写真を見る。
同じ顔。
同じ名前。
同じ魂だと言われた。
それでも。
「それは、関係ないんじゃない?」
ルシフェルの笑みが、ほんの少し止まった。
「私は、この人のこと知らないし」
「あずさ……」
「桜夜が困ってるなら、私が連れていく。それだけでしょ?」
「……ほう」
「桜夜は、私が小さい頃からいっぱい助けてくれたから」
あずさは写真を元の場所へ戻した。
「今度は私が引っ張っていく」
ルシフェルはしばらく彼女を見ていた。
やがて、つまらなそうに鼻を鳴らす。
「好きにしろ」
空間が再び歪む。
「待ちなさい!」
ガブリエルの声にも応じず、ルシフェルは消えた。
静寂が戻った。
あずさは写真の中の少女をもう一度見た。
「如月あずさ……」
自分と同じ魂を持っていたという少女。
では、自分はこの少女なのだろうか。
分からない。
まだ、何も分からない。
「ガブリエルさん」
「……はい」
「お墓の場所、教えて」
「あずさ」
「桜夜には聞かないよ」
そして、少しだけ笑った。
「私が連れていくから」
ガブリエルは長いあいだ答えなかった。
やがて目を閉じ、小さく息を吐いた。
「……あなたも、頑固ね」
「誰に似たんだろうね」
「それを私に聞きますか?」
二人は少しだけ笑った。
けれど、あずさはまだ知らなかった。
墓前に立ったとき。
桜夜がどんな顔をするのかを。




