第7話 朝焼けの帰還。そしていつかのエピローグ。
朝焼けを見ていた。
桜夜は病院の庭にあるベンチで、ぼんやりと空を眺めていた。
夜と朝の境目。
黒が薄まり、青が滲み、遠くの雲の縁だけが淡い金色に染まっている。
それは夜明けだった。
世界が終わらなかった証。
誰かが死なずに済んだ証。
けれど桜夜にとっては、どうにも実感の薄い景色だった。
身体が重い。
鳳凰は胸の奥で、すっかりひよこのようになって眠っている。先ほどまで太陽の化身として庭園を照らしていた存在とは思えないほど、小さく、頼りなく、ぴよぴよと寝言のような神気を漏らしていた。
神降ろし、あるい、神格化。
奇蹟執行。
どちらも人間が気軽に扱っていい代物ではない。
そもそも桜夜は聖人でも神官でもない。
洗礼も受けていないし、特別熱心に信仰している神や教祖もいない。
なのに、なぜか大天使ガブリエルによって奇蹟執行官などという厄介な肩書きを勝手に押しつけられている。名ばかりではなく、本当に執行までさせられた。
「女って怖いなあ」
まあガブリエルは男だとか巨人だとかいろんな説があるのだが、桜夜の前に顕現するときは女性の姿か少女の姿で現れる。だから思う。あの女は天使ではない、魔性の女だと。
桜夜は空に向かって呟いていたが、「失礼ね」という返事はない。
ガブリエルはもういない。
最後まで言いたいことだけ言って消えた。こちらの都合など一切考えていないあたり、実に天使らしい。
悪魔は契約書を持ってくる。
天使は命令書を持ってくる。
そして悪魔も天使も言いなりになるまでしつこい。
桜夜は苦笑し、ベンチの背にもたれた。
自分の「使命」はいつ終わるのだろう。人間の誕生に意味などないと、リアリストな彼は思っている。生まれ持った役目などないと。だが先生は、出会った夜、桜が舞い散るの中で「子ども」に名前を与えた。名前も記憶もない子どもは「桜夜」になった。戸籍を作るとき、先生は桜夜を息子にしなかった。先生にはもう時間がなかった。だから繋がりのあった四方院家の中でも絶家になっていた「水希」の性をもらってくれた。子どもは「水希桜夜」になった。その「氏名」には、どんな「使命」が付随しているのか。先生に聞きたかった。だが代わりに、別の懐かしい声がした。
『ねえ、こんなとこで寝てたら風邪ひくよ?』
桜夜は目を開けなかった。
開けたら、消えてしまう気がしたからだ。
『でも、泣いてる女の子を見捨てなかった。えらいぞ。男の子!』
おねえさんぶった口調。
勝気で、少し偉そうで、だけど誰よりも優しかった声。
悪いことをしたら全力で叱ってくれた先生。
よいことをしたら、おもいきり褒めてくれた女の子。
もう二人はいない。
だから桜夜は、正しくある理由を失ってしまった。
助けたとて、どうせ寿命で死ぬいのちを救うことに、意義を見出せなくなった。
『ばかやろう。助けてやるのが人情だ』
誰よりも意義を見失っていた先生の口癖は「人情」だった。宮沢賢治も愛読していたっけ。
「雨ニモマケズ……」
ぼんやりと現実と夢のはざまでつぶやく。
先生はこの詩のような人だった。残り少ない命を、ほかの命のために燃やし尽くす。
先生は、人間の愚かしさを知っていた。それでも人間を愛していた。
だが僕は……。
「桜夜さん!」
現実の声が、朝焼けを破った。
桜夜は目を開ける。自分の頬に触れたが涙のあとはなかった。泣くことも、赦しを乞うことも、もうできないのだから。当たり前だった。
病院の庭の向こうから、サイカが走ってきていた。
その後ろにリオ。
さらに少し遅れてホムラ。
三人とも、顔がひどい。
泣いた跡が残っている。
髪も乱れている。
服も、魔女の庭園から戻ってきたときのままだった。
それでも、生きていた。
自分の足で走っていた。
「やあ」
桜夜はのんびりと小さく片手を上げた。
「おはよう」
「おはようじゃありません!」
リオのお叱りと、サイカの身体が勢いよく飛び込んできた。
避ける気力はなかった。
そのまま抱きしめられてしまう。
「はしたないよ?」
「知らない!」
サイカは泣いていた。
泣きながら、桜夜の胸に顔を押しつける。
言葉にならないサイカの代わりに、ホムラが桜夜の頬を殴った。力が入っていないのは、たぶん疲れているからだろう
「てめえ! ばばあ押し付けて先に逃げただろ! おかげでばばあ殴れなかったじゃねえか!」
「だからって僕を殴らないで」
さらにリオが隣に座ってきた
彼女はサイカほど取り乱してはいなかった。
だが、目元は赤かった。
「桜夜様」
「ん?」
「お説教してもよろしいでしょうか」
「いや、いらないよ。日曜日に教会にいくから」
「今、わたくしが、桜夜様に、お説教を、しても、いいですか」
リオが圧力を強める。しかし桜夜には暖簾に腕押しだった。
「それよりベッドの中で愛をささやいてほしいかな」
「では病室に参りましょう。日が沈むまではお説教いたします」
「お説教は愛の言葉じゃないよ」
「愛の言葉です」
リオはそう言って、桜夜の手を取った。
冷たい指先だった。桜夜もリオも。
桜夜の手は死体のように微動だにしなかったが、リオの手は少し震えていた。
「……ご無事で、よかったです」
その声は小さかった。
桜夜は冗談で返そうとして、やめた。
「ありがとう」
「わたくしたちこそ、ありがとうございました」
リオは手を握る力を強めた。
ホムラはいつの間にか少し離れ、腕を組んで立っていた。
怒っている。
誰が見てもわかるほど怒っている。
だが、足元の炎の精霊たちは、心配そうに桜夜の方へ寄ってきていた。
「ホムラちゃん」
「なんだよ」
「怒っている?」
「怒ってねえ」
「嘘が下手だね」
「うるせえ」
ホムラはずかずかと近づいてきた。
そして、桜夜の頬をまた殴った
さっきより痛かった。
いやかなり痛い。
鳳凰ひよこモードでは防御力が足りないようだ。
「てめえ」
「ん?」
「また死んだみたいな顔してやがるぞ」
「そっか」
「なんで嬉しそうなんだよ!」
ホムラの声が震えた。
「てめえは、すぐそういう顔をする。終わってもいいみたいな顔をする。もう十分だって顔をする。ふざけんな!」
桜夜は何も言わなかった。
ホムラは歯を食いしばった。
「ばばあは、死にたいって言ってた。でも、最後は生きて話した。サイカねえもリオねえも、ばばあと話してた。オレも、少しだけ話した」
「うん」
「だから、次はてめえの番だ」
「僕の?」
「そうだ」
ホムラは自分の胸を拳で軽く叩いた。
「てめえも、生きて話せ。死んだみたいな顔で笑うな。死にたいとか終わりたいとか、勝手に決めんな」
「……難しいことを言うね」
「難しくねえよ」
ホムラは泣きそうな顔で笑った。
「オレたちのそばにいろ。それだけだ」
桜夜は、三人を見た。
サイカはまだ彼に抱きついたまま泣いている。
リオは彼の手を離さない。
ホムラは怒りながら、今にもまた殴りそうな顔をしている。
不思議だった。
ひどく騒がしい。
ひどく面倒だ。
ひどく温かい。
そして、たぶん。
また、喪う。
魔女は長命だ。四方院家の人間も長命だ。だが鳳凰と契約した自分と同じ時間を生きられるのは、奇しくも不死身の魔女だけだったのだ。彼女に夫がいなければ一緒に傷のなめ合いをしただろうか。同性ならよき友人になれただろうか。
でも彼女はもういない。不死身の魔女はただの母親になってしまった。自分が奇蹟をそう執行した。魔女の子どもたちは、もしかしたら永い時間一緒にいてくれるかもしれない。そんな予感はする。だが、幸せな時間が長くなればなるほど、喪失の痛みは増す。先生やあの子と生きたわずかな時間だけで、桜夜の心は壊れてしまったのだから。
『自分を知り、執着を捨てよ』
先生の教えを守れる気はしなかった。執着し、喪うことを恐れ、喪失に絶望する。それが、出来損ないの野良犬だ。野良犬は自分のこと、を何も知らない。
◇◇◇
少女たちを振り切り、逃げ込んだ診察室で、長髪の医者の問診を受けていた。医者の名前は静馬、苗字は忘れた。しずくんと呼ぶと怒る楽しい青年だと桜夜は思っていた。
静馬もまた「天才」だった。不治の病の母を救うため世界最年少で医師免許を取得した。だが母は救えなかった。壊れた彼は桜夜と同じく不老不死や死者蘇生に興味をもった。外道の研究をし始めた。
ある日鳳凰と契約した少年で人体実験しないかと四方院家に誘われ四方院家御抱えの医師の一人になった。だが少年は条件を出した、静馬の母と同じ病にかかった少女の命を救うことだった。
静馬は了承した。そして桜夜の血液の中に特殊な抗体を発見した。フェニックス因子――P因子――そう名付けた。あらゆる毒も、ウイルスもがん細胞も、P因子は倒してしまう。P因子はあらゆる細胞に変化し、スペアの臓器すら造り出せた。
だがそこまでだった。動物実験の段階では、どの動物に投与してもなんの変化もなかった。寿命が延びることも縮むこともなかった。静馬と四方院家は人体実験に手を出した。犯罪者の病人に投与していった。100人死んだ時点で人体実験は終了した。P因子は動物には無害だが、人間には劇薬だった。犯罪者は皆焼け死んだ。しかし静馬は悪人に投与したのがいけないのではと考えた。だから見るからに善人そうな、桜夜が助けたがった少女にも投与した。その結果は四方院家のデータベースから削除されている。静馬は桜夜をモルモットくらいにしか思っていない。なのに桜夜は静馬を、からかうと楽しい友達だと思っていた。
「また死んだらしいな」
「そろそろギネスブックに載れるかな?」
「その前に火葬場に送ってやる」
「じゃあ不死鳥のごとく火葬場で蘇る必要があるね」
静馬はため息をついた。
「鳥は?」
「ひよこになってるよ」
「なら血液検査の結果も納得だな。P因子がほとんどない。今のお前なら軽い毒でも、いや風邪でも死ねる」
「わーい、やったね」
「まだ死ぬな。お前より便利なモルモットはいないんだ」
医師の声が低くなる。
桜夜は肩をすくめた。
「努力しまーす」
「命令だ。努力ではなく実行しろ」
「パターナリズム反対!」
「お前は患者ではなくてモルモットだ」
静馬はカルテを閉じた。
「魔女の死体も解剖したいのだが……」
静馬の言葉に、桜夜の目が鋭くなる。医学の発展には必要なことだが、永劫の時をさまよった魔女にようやく訪れた安息を穢させるわけにはいかなかった。静馬はため息をつく。
「冗談だ」
桜夜は病室の扉を振り返る。ガンガン叩き「出てこい! 似非騎士!」とホムラが叫んでいた。リオとサイカがなだめているようだが効果は薄いようである。桜夜は秘密の抜け道から脱出した。
◇◇◇
夕方には、横浜にある四方院本邸に桜夜はいた。この地は霊的に特殊な場所らしく、弱った鳳凰を休ませるにはちょうどいい。桜夜の肩にはひよこ姿の鳳凰が乗っている。神の威厳などかけらもない。まずは宗主に謁見し、報告をせねば。広大な敷地の外れで禊を行い、近くにある自分の屋敷でスーツに着替えた。
庭に出て桜の木を見る。“永久の桜”だ。先生の家の庭には一年中花を咲かせる桜の大木があった。そのクローンが今見ている木だが、花は咲いていなかった。
「ただいま」
なんとなく木に挨拶をすると宗主の屋敷に向かった。
◇◇◇
宗主の御前で平伏する桜夜に小柄で優し気な老人が優しい声で言う。
「面を上げよ」
「はい」
「足もくずせ」
正座が嫌いな桜夜は喜んであぐらをかいた。老人――四方院家宗主は、にかっと笑った。
「報告をせよ」
桜夜は今回の「物語」を面白おかしく話した。宗主は子どものように楽しんだ。
「なるほど。今ならおぬしを殺せるのじゃな?」
ひよこが宗主を威嚇するが、宗主の中の神獣の気配に桜夜の中に逃げ帰ってしまった。たよりにならないひよこだ。今夜は焼き鳥かなと桜夜は思った。
「焼き鳥か。そいつはよいの。酒も用意させよう」
宗主は他人の心を簡単に見透かす。そして人心掌握が得意だ。外に控えていた側近が、焼き鳥と日本酒の準備のため音もなく動き出した。
鳳凰ひよこは震えていた「鳥を食べるなんて、こいつら人間じゃねえぴよ!」。しゃべれたらそう言ったかもしれない。
◇◇◇
深夜まで宗主とサシで飲んだがP因子が減った分、彼は酔っていた。自分の屋敷に引き返して浴衣に着替えると、適当な羽織を羽織って庭先で夜空を見上げていた。
ふいに彼は咳をした。はげしい咳だ。口を押えた手にはべったりと血がついていた。
血を見て桜夜は嗤っていた。懐かしんでいた。あの子を思い出す。いつもどっちかが血を吐いていたっけなと。
ふいに四方院家を守る結界が揺れた。侵入者だ。魔力が三つ。空から桜夜を目指して飛んでくる。
「魔女って本当に箒で飛ぶんだね」
庭に下り立った三人の魔女、サイカ、リオ、ホムラは白いローブを着ていた。何となく花嫁衣裳を思わせる。桜夜は吐いた血を見せないようにしながら、そんなことを考えていた。三人の中心にいたサイカが一歩前に出て、言った。
「わたしたちをお嫁さんにしてください!」
投下された爆弾発言に、桜夜の胸の奥でひよこが笑い転げていた。




