第76話 小さなあずさ
四方院あずさは、とにかく僕から離れることを拒んだ。
食事中も僕の膝の上に座り、食べさせてくれと口を開ける。青龍家の人々がいくら説得しても、頑として降りようとしない。
まあ、食事くらいならいい。
問題はそのあとだった。
「おうや、おしっこ」
「うん。いってらっしゃい」
「いっしょ」
「それは一人で行こうね?」
「や!」
どうやら僕にも同行を求めているらしい。
青龍家の使用人が迎えに来ると、あずさは僕の服をつかんだまま首を横に振った。
結局、僕はトイレの前まで連れていかれた。
さらに風呂の時間になると、今度は一緒に入ると言い出した。
「それは駄目だよ?」
「なんで?」
「なんでと言われても……」
困った。
どう説明すればいいんだろう。
幸い、青龍家の女性たちがあずさを引き受けてくれたので、僕はようやく解放された。
と思ったのだが。
「おうやぁ!」
脱衣所の向こうから、たいへん元気な声が聞こえてきた。
どうやら解放されたのは僕だけだったらしい。
青龍家の皆様には申し訳ないことをした。
そんなこんなで夜になり、あずさはようやく眠った。
もっとも、僕の服をがっちりと握ったままである。
小さな手にしてはなかなかの握力だ。
しかし、所詮は子どもの力である。僕がその気になれば簡単に抜け出せる。
そっと指を一本ずつ外す。
「んぅ……」
あずさが寝返りを打った。
僕はしばらくその寝顔を眺めたあと、彼女の首から下がっている鳳凰の羽根に目を向けた。
生まれたときに贈ったものだ。
小さな手を取り、代わりにその羽根を握らせてやる。
「おやすみ、あずさ」
今度こそ起こさないように、そっと部屋を出た。
やれやれ。
ようやく帰れる。
そう思いながら青龍の屋敷を出たところで、見慣れた少女が門の前に立っていることに気づいた。
ホムラだった。
腕を組み、たいへん機嫌の悪そうな顔をしている。
「やっ、ホムラちゃん」
いつものように声をかけてみる。
返事はなかった。
代わりに、ひどく冷たい目を向けられた。
「てめえのロリコン趣味は……しかたねえから受け入れようと思ってやってたが……まさかペド野郎だったとはな」
「違うよ?」
「何が違うんだよ!」
朝から元気だなあ。
「青龍から連絡が来たんだよ。てめえが小せえガキを一日中膝に乗せて、挙げ句の果てに泊まったってな!」
「ああ、あずさのこと?」
「ほかに誰がいんだよ!」
「いやあ、なかなか離れてくれなくてね」
「飯食ってるときもか?」
「うん」
「トイレまでついてこさせようとしたって?」
「うん」
「風呂は?」
「それは断ったよ?」
「当たり前だろうが!」
なんだろう。
正しいことをしたのに怒られている。
「いいか。オレはな、お前がロリコンなのはもう諦めてんだよ」
「諦めないでほしいなあ」
「オレみてえなのにちょっかい出して、サイカまで孕ませやがって。どう考えたってそうだろうが!」
「いや、僕は守備範囲が広いだけで……」
「今それ言うんじゃねえ!」
ホムラの拳に炎が灯った。
しまった。
どうやら弁明を間違えたらしい。
「だいたい、リオみてえな女がずっと隣にいるくせに、なんでサイカが先なんだよ!」
「それは成り行きというか……」
「ほら見ろ!」
「何を?」
「てめえの趣味だよ!」
理不尽である。
リオは綺麗だと思うし、サイカもかわいい。もちろんホムラちゃんだってかわいい。
そう説明しようとしたところで、ホムラが一歩近づいてきた。
「……いいか、桜夜」
声が低くなった。
「オレやサイカの話と、あのガキの話は別だぞ」
「うん?」
「オレは自分でお前を好きになった。お前がちょっかい出してくんのも、ムカつくけど……まあ、オレが許してんだからいい」
「へえ」
「そこだけ嬉しそうな顔すんな!」
「してないよ?」
「してんだよ!」
ホムラは一度大きく息を吐いた。
「でも、あのガキは違うだろ。まだ何にもわかんねえ歳じゃねえか。懐かれたからって、お前が何してもいいわけじゃねえんだぞ」
なるほど。
ようやく彼女が何を怒っているのかわかった。
僕は少しだけ姿勢を正した。
「大丈夫だよ。あずさにそういう感情は持ってない」
「……本当だろうな」
「当たり前でしょう。僕は子守をしていただけだよ」
「じゃあ、なんで泊まったんだよ」
「帰らせてくれなかったから」
「世界一の騎士がガキ一人から逃げられねえのかよ」
「だから、寝てから逃げてきたんでしょ?」
「威張るな!」
また怒られた。
しかし、先ほどまでとは違って、ホムラの拳から炎は消えていた。
どうやら納得してくれたらしい。
「まったく……。青龍の連中も困ってたぞ」
「そうだろうねえ。僕も困ったよ」
「困ってるようには見えねえんだよ、お前は」
「そう?」
「ああ。妙に嬉しそうだったって聞いたぞ」
僕は首を傾げた。
嬉しかった、のだろうか。
あずさはずっと僕にしがみついていた。
何をするにも僕を呼び、姿が見えなくなるだけで泣きそうになる。
困った子だと思う。
それでも、嫌ではなかった。
「……まあ、かわいい子だからね」
「またそれかよ」
「ホムラちゃんもかわいいよ?」
「今オレの話はしてねえ!」
「じゃあ、もうかわいいって言わない方がいい?」
「は?」
「ちょっかい出すのもやめようか?」
「…………」
ホムラが黙った。
どうしたんだろう。
「嫌なんでしょう?」
「そういうこと言ってんじゃねえよ」
「じゃあ、いいの?」
「……節度を守れって言ってんだよ!」
「なるほど。やめなくていいんだ」
「燃やすぞ!」
うん。
いつものホムラちゃんである。
僕が歩き出すと、彼女も隣に並んだ。
「で、あのガキ、なんでそんなにお前に懐いてんだ?」
「さあ?」
「さあ、じゃねえだろ」
「僕にもよくわからないんだよね」
「……ふうん」
ホムラはそれ以上追及してこなかった。
しばらく歩いていると、彼女が僕の袖を引いた。
「なんだい?」
「……別に」
そう言いながら、袖をつかんだ手を離そうとしない。
「ホムラちゃんも抱っこしてほしい?」
「殺すぞ!」
「冗談だよ?」
「てめえの冗談は冗談に聞こえねえんだよ!」
僕は笑った。
彼女はますます不機嫌そうな顔になったが、それでも袖を離さなかった。
今日は帰ったら、サイカとリオにも青龍家での出来事を話そう。
きっとリオは呆れるだろうし、サイカは笑うだろう。
ホムラちゃんは……。
「余計なこと言ったら燃やすからな」
「まだ何も言ってないよ?」
「顔に書いてあんだよ!」
やれやれ。
今日も賑やかな一日になりそうだ。
◆◆◆
四方院あずさが目を覚ましたのは、桜夜が屋敷を出てからしばらく経った頃だった。
小さな手を動かす。
昨夜まで握っていた服の感触がない。
「……おうや?」
返事はなかった。
隣にも、部屋のどこにも、桜夜はいない。
あずさは身体を起こしかけた。
そのとき、握りしめていた手の中に何かがあることに気づいた。
そっと指を開く。
鳳凰の羽根だった。
生まれたとき、桜夜が贈ってくれたもの。
いつも首から下げている、大切な宝物。
あずさはしばらくそれを見つめていた。
そして、もう一度ぎゅっと握りしめる。
「……おうや」
小さく名前を呼んで、羽根を胸に抱いた。
窓の外には、穏やかな朝の光が差し込んでいた。




