第74話 変わりゆく世界
桜夜はデータセンターの大量のモニターを眺めながら、考え事をしていた。
親友が完全に姿を消したので、この施設の管理者という役目も桜夜が引き継いだのだ。
自分が相談役を務めるようになって、何年経ったのかよく覚えていない。
桜夜には誕生日がない。正確には、身分を偽装するために設定されたものしかない。そのためか、いまいち時間の流れというものを実感できないのだ。
だが、一つだけわかっていることがある。
この三年、妙に「奇跡」と呼ばれる事象が増えた。
十倍、百倍、千倍。
毎日、たくさんの人間が救われた。
キリストを見たという者も、世界各地に現れた。
だが桜夜は、夢を通して未来の危機を伝えてきた咲夜の言葉を思い出す。
「オメガ」
そして、いつも悪魔のような笑みで嫌な仕事を持ってくる天使も言っていた。
《いい、桜夜。天使の笑みで近づいてくる者に気をつけなさい。それ、悪魔だから》
『桜夜。あなたはこの奇跡騒動を、“世界意思”なる存在の仕業と考えているのですね』
モニターの一枚から、教皇ヨハネ・パウロ三世が問いかけてくる。
「ええ。たしかに人々は救われている。その代わり、明らかに空席が増えている」
職場や教室で、「誰かほかにもいたような気がする」という違和感を訴える者が増えている。
これは、オメガが《無の無》を引き起こすための前段階ではないか。
桜夜はそう考えていた。
『マタイによる福音書には、こうあります。「偽預言者に注意しなさい。彼らは羊の衣を着てあなたがたのところに来るが、その内側は強欲な狼である」。また、「偽預言者が大勢現れ、多くの人を惑わす」「偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとする」とも。まさに今の状況です。枢機卿の中にも、キリスト再臨を噂する者が出てきております』
「仕方ありませんよ、聖下。見ないで信じるのが幸いなのでしょう?」
『友よ。彼らは奇跡を見たからキリストだと思ったのです。それが偽キリストである証です。それに、見えないことと、そこにいないことは同じではありません』
「……僕、その手の慰めは嫌いなんですよ」
『知っています。だから、今はそれで構いません』
「ふむ……しかし、それにしても人手が足りませんね」
『まったくです。老体にはだいぶつらい』
「若くてもしんどいですよ。でも聖下には、孫でも抱いて過ごしている方がお似合いだと、失礼ながら思っています」
『あなたこそ、女性のお尻に敷かれて平和に過ごしているのがお似合いですよ』
「お互い、面倒な役割を押しつけられたものです」
『さすがにそれを、私が大きな声で言うことはできませんね』
二人は穏やかに微笑んだ。
親子にも、孫と祖父にも見えたかもしれない。
『友よ。約束を覚えていますか?』
「はい。桜を見るんですよね。しかし、本当に先生の屋敷にある一本の桜でよろしいのですか?」
『ええ。あなたが見たものを、私も見たい』
「承知いたしました。引き続き、日本政府には四方院を通じて招待の準備を進めてもらいます」
『ありがとう、友よ。主のやすらぎがあらんことを』
「あなたにも」
通信が終わっても、複数のモニターには奇跡の報告、キリストと出会ったという報告、誰かがいなくなったような気がするという報告が、雪崩のように流れ続けていた。
桜夜はそれらを読み解きながら、かつて夢の中で咲夜から告げられた言葉を反芻する。
オメガは倒せない。
(なら、どうする?)
倒せるものを、あえて倒さないことはできる。
しかし、倒せないものを、人間はどうすればいいのだ。
唯一の希望は桜吹雪だ。
この神殺しなら、あるいは。
このときの桜夜はおろかにもそう思っていた。
やがて静かに自動扉が開いた。
「桜夜様。定例会議のお時間です」
「了解。リオちゃん」
データセンターに入る権限があるのは、桜夜と三姉妹、玄武と一に限定している。
朱雀家は、この人選を四方院と相談役による相互監視体制の現れと理解し、文句を言わなかった。
しかし白虎家と鷹司家は、自分たちを締め出していると反感を持った。
もちろん桜夜は、わざと両家を締め出している。
このデータセンターには、《桶狭間》をはじめとして、外へ出せば四方院家そのものを揺るがしかねない情報が眠っている。
四方院家の倒し方。
水希桜夜の倒し方。
そして、それ以外にも桜夜自身が存在すら知らなかった世界の秘密。
守るための情報であると同時に、使い方を間違えれば四方院家にも桜夜自身にも刃を向けることのできる情報だった。
だからこそ、誰に見せるかは慎重に選ばなければならない。
少なくとも桜夜は、白虎家と鷹司家を信用していなかった。
そんなこととは関係なく、自分の権限で入ってきたリオは、桜夜の着替えを持っていた。
時々、定例会議くらいならと適当な格好で出席する桜夜を見かねて、リオが強制的に着替えさせたのが始まりだ。
今も桜夜はリオに介護されるようにして、新品のワイシャツに袖を通し、紺のスラックスを穿いた。
四方院家の紋章が入ったカフスとループタイをつけ、最後にスラックスと同色のダブルのジャケットを羽織る。ジャケットのボタンにも四方院の紋章が入っている。
この過剰なまでの「自分は四方院の人間である」というアピールは、白虎家や鷹司家への牽制であり、同時に挑発だった。
これで両家が黙ればよし。
攻撃してくるなら、四方院の敵として潰す。
しかも、そのとき桜夜は天皇から正式に賜った、菊の御紋を戴く品々まで身につけるつもりだった。
それらを身につけた四方院家相談役へ公然と弓を引けば、四方院家だけでなく皇室にまで敵意を向けた、と解釈できる余地が生まれる。
少なくとも、そう世間に解釈させるための材料にはなる。
三年で桜夜は、敵を潰すにも正統性がいることを学び始めていた。
敵より強いだけでは足りない。
敵がこちらへ手を出した瞬間、相手の側がすべてを失う盤面を先に作っておく。
やるからには徹底的に。
それが、このころの桜夜の信条だった。
◇◇◇
四方院家宗主の間
上座に座った玄武が、扇子をもてあそびながら報告を聴いていく。
上座から順に朱雀、白虎、青龍と続き、末席には桜夜と、オブザーバーとして鷹司家の先代相談役がいた。
青龍家の席次が以前より下座に近づいたのは、年若い一がその座を継承したからだった。
桜夜と鷹司は対面に座り、お互いに目を閉じ、腕を組み、あぐらをかいていた。
一には、先代相談役と弟分が無言で威圧し合っているように見えた。
実際には違う。
鷹司は瞑想をしていた。
桜夜は、普段眠れない分、話を聞いているふりをして真剣な顔で居眠りをしていた。
玄武だけは、そのことに気づいていた。
鷹司は水希桜夜という野良犬に首輪をつけ、四方院家の道具にしようとした。
玄武は、その野良犬が鷹司を焼いたのを口実に強権を発動し、相談役という別の首輪を無理やりつけた。
以来、鷹司と玄武は、水希桜夜という危険な男を誰が、どのように使うのかを巡って、水面下で争い続けている。
鷹司は理解していた。
玄武は最初から、自分を切る機会を待っていたのだ。
歴代の相談役を何人も輩出し、いつしか「相談役家」とまで呼ばれるようになった鷹司家を、玄武は決して好ましく思っていない。
本来、相談役とは宗主を支えるだけの役職ではない。
宗主が間違えば異を唱え、必要なら四方院家そのものに刃を向ける外部監査役でなければならない。
その意味では、玄武へ平然と意見し、四方院家の倒し方まで考え、自分自身の倒し方まで《桶狭間》に残している水希桜夜は、あまりにも都合のいい野良犬だった。
もっとも、玄武にも悩みはある。
桜夜はいずれ、一を支えることになる。
だが、一が桜夜に頼りきるようになれば、それもまた相談役という制度の本来あるべき姿ではない。
そして当の桜夜は、そんな二人の思惑にはほとんど興味がなかった。
相談役を辞めたい。
この三年間、何度申し出ても、玄武から返ってくる言葉は同じだった。
もう少し待て。
桜夜の希望もまた、この三年間、一貫して変わっていなかった。
もちろん、「四方院あずさ」の件がある以上、完全に四方院家と縁を切ることはできない。
だが正直、今は相談役を引退してしばし休暇を取り、すぐそこまで迫っているオメガの脅威に備えたかった。
omega
親友のコードネームと同じ名を持つ存在が敵に回る。
皮肉なものだ。
桜夜が小さく笑った。
その変化を、玄武は見逃さなかった。
「水希桜夜。なにか気になることでもあるか」
「はい。この収支報告書は偽造されたものです。ここの押印がいつもと五ミリ違います。また、サインも不自然です。まるで脅迫されながら書いたように見えます」
居眠りしていたとは思えない桜夜の指摘。
さらに玄武を含む四家の代表から視線を向けられ、分家の当主代行は畳に頭がめり込むのではないかという勢いで平伏した。
「寝ていたわりには、ずいぶんと指摘が上手いじゃないか」
鷹司が片目を開ける。
「もったいなきお言葉。釈迦に説法ですが、睡眠、食事、排泄、入浴、男女の交わり。暗殺の機会になり得るものは心得ております。ねえ、白虎様?」
「……なぜ、わしに振る」
「いえ、なんとなく」
桜夜は目だけで、
白虎様が暗殺者を差し向けてくれたおかげです。
と伝えた。
白虎は青筋を浮かべ、朱雀は広げた扇子の陰で笑みを浮かべた。
玄武も意地悪そうに笑っている。
この場でただ一人、比較的まともな青龍、一だけが事情を理解できずにいた。
やがて定例会議は終わり、青龍と玄武だけを残して、皆が退出した。
桜夜がこのあとどうするかと考えていると、遠くから声が聞こえてきた。
幼い声。
だが、どこか懐かしい声。
「パパどこー?」
「お嬢様! 今、青龍様は大事な会議が……ああ、桜夜様! お嬢様を止めてください!」
若い家政婦が半泣きになりながら追いかけている少女は、まっすぐこちらへ向かってきていた。
桜夜は少女の前で両膝をつき、その小さな目と視線を合わせた。
それだけで、泣きそうになった。
涙はもう枯れた。
そう、自分に言い聞かせた。
「お嬢様。あなたのパパは今、こわーいおじいちゃんと話しているから、もう少し待ってね」
「うーん?」
「これをどうぞ」
桜夜は手品で、白いカーネーションの造花を一輪取り出してみせた。
少女に差し出すと、彼女は目を輝かせる。
「すごーい。どうやったの?」
「マジシャンは、どうやったか教えないものです」
「むー。そのしゃべり方、やだ」
「はい?」
「もっと普通にしゃべって!」
「しかし、お嬢様……」
「お嬢様きんしー! あずさか、おねーちゃんとよびなさい!」
ズキリと、古傷が痛んだ。
心に開いたままの空白を、幼い指で無邪気にえぐられたようだった。
それでも桜夜は、困ったように笑った。
「わかったよ。あずさ」
あずさは満足そうに胸を張った。
※聖書引用
『聖書 聖書協会共同訳』
マタイによる福音書7章15節、24章11節・24節




