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第73話 何気ない日常と何もない救済

「ん……」


 なんだか久しぶりにベッドで寝た気がする。桜夜はそう思った。


 ベッドには誰かがいた形跡があった。落ちている髪の長さ的に、リオと話しているうちに寝ていたらしい。


 時計を確認すると、すでに午後一時を過ぎていた。


 特に空腹は感じなかったので、とりあえずサイカの部屋に向かった。


 ノックは三回。


 親愛を意味するとかしないとか、などと考えながら待つと、すぐに中から入室を許可する声がした。


「やあ、サイカ。体調どう?」


「最近、いつもそればっかり」


 サイカは楽しそうに笑い、桜夜は苦笑した。


「妊娠している女性への正しい対応がわからなくてね」


「普通でいいんだよ?」


「普通……」


「あはは、難しそうな顔してる」


 桜夜はサイカの隣に座ると肩を抱き、額にキスをした。


「ふふふ」


 サイカは嬉しそうに桜夜を抱きしめる。


 新たに生まれる命に、どんな苦難が待ち受けているかはわからない。


 でも、今は幸せだった。


◇◇◇


 サイカが眠ったのを確認して部屋を出ると、タンクトップに短パンというラフな格好のホムラが部屋の前で待っていた。


「修行」


「つけてほしいの?」


「別に……」


 目を逸らし、手をもじもじさせながら、桜夜をちらちらと見るホムラ。


 桜夜は思わず頭を撫でた。


「撫でんな!」


 しかし、振り払いはしなかった。


 もっと撫でろと言わんばかりに頭をこすりつけているのは、無意識なのだろうか。


「うん、だいぶコントロールできてるじゃないか」


「なにがだよ」


「撫でるたびに炎を出すようじゃ困るってことだよ。まあ、誰彼かまわず撫でさせる必要もないけどね」


 そんな桜夜の言葉に、ホムラが、


「誰がお前以外に……」


 と呟いたのは聞こえていたが、あえて何も言わずに頭を撫で続けた。


◇◇◇


 ホムラがいつかホノカグツチを抜くときが来てもいいように、倒れるまで素振りをさせた。


 西洋の剣と日本刀では、身体の使い方がまるで違う。


 桜夜も明人から、体調の良い日にはかなりハードな訓練をさせられたものだ。


 ホムラの火の魔術は強力だが、桜夜や朱雀家当主のような、より上位の「意思力」を持つ者が相手では使えない。


 だからホムラには、殴る蹴るだけでなく、刀の使い方も教えるつもりだった。


 荒い息をしながら木刀を落としたホムラにスポーツドリンクを渡しつつ、風の精霊に頼んで、ホムラの周囲の空気を少し整えてやる。


「今日はここまで」


 そう告げると、ホムラはもう反抗する元気もないらしい。


 近くにいたきいろに後を任せ、桜夜は執務室へ向かった。


 執務室に入ると、すでにリオが待っていた。


「お待ちしておりました」


 綺麗なお辞儀だった。


 まさか、ずっと立って待っていたのだろうか。


 そのことを尋ねると、リオはくすりと笑った。


 以前よりも、さらに大人びて見えた。


「さすがに仕事をしておりました。桜夜様の足音が聞こえましたので、お待ち申し上げておりました」


「うーん、そんなに畏まらなくてもいいんだよ」


「いえ、桜夜様はわたくしの主ですから」


「えっとね、下腹部を撫でながら言われると意味深だからやめてね」


「ふふふ」


 今度は無邪気な子どものような笑みだった。


 困ったなあと思いながらも、桜夜は仕事に取りかかった。


 リオが整理してくれたらしく、非常にやりやすかった。


 以前、執務室には桜夜が嫌がるため着信用の電話機は置かれていなかった。


 しかし今はリオが出てくれるので、なぜか黒電話が置かれている。


 桜夜が喉が渇いたと思うより早く、リオは紅茶を出してくる。


 必要な資料も先回りして用意してくれる。


 ありがたがればいいのか。


 怖がればいいのか。


 桜夜にもわからなかった。


◇◇◇


 夜。


 散歩にでも行くかのような自然さで、着流しに下駄を引っかけ、桜夜は歩き出した。


 向かう先は、和風建築に偽装されたデータセンター。


 指紋、虹彩、異常に長いパスワード。


 幾重もの認証を突破し、桜夜は秘密の部屋へ入る。


 そこには、一脚の白い椅子が置かれていた。


 顔を覆うヘッドセット。


 そこからあちこちへと伸びるケーブル。


 それはVR世界へ旅立つための装置にも見えた。


 同時に、記憶保存装置にも、平行世界へ渡るための装置にも見えた。


 桜夜が肘掛けに触れる。


 十三枚のモニターすべてに、親友の顔が映し出された。


『おっと相棒、まだ座るなよ』


 楽しげな親友に、桜夜は困ったような笑みを浮かべた。


「座らないよ」


『なんでだ? お前は誰よりも終わりたがっていたじゃないか』


「……僕は父親になるらしくてね」


『へえ、やっぱり犬だな。お前は子沢山になると思ってたよ』


「だからまあ、あと二十年は自分の救済は後回し、かな」


『なげえな』


「うん。長い」


『白い箱舟は待ってくれないぞ?』


「だろうね。……次が来る」


『そこまでわかってるならいいけどな』


 十二枚のモニターに、白い箱舟が崩壊し、その残骸がどこかの光へ向かっていく光景が映し出された。


『じゃあな、相棒』


「……またね。omega」


『……ああ。alpha』


 一枚、また一枚と、モニターから光が消えていく。


 やがて、データセンターのすべてのシステムがスリープした。


 桜夜は、心の中にまたひとつ穴が開いたのを感じた。


 如月あずさ。


 宮森明人。


 そして、omega《親友》。


「さよならだけが人生だ」


 そう呟いた桜夜は、ふと、データセンターには似つかわしくない一冊の聖書が置かれていることに気づいた。


 ドッグイヤーのついたページを何気なく開く。


 コヘレトの言葉、四章九節。


『一人より二人のほうが幸せだ。共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある』


 相棒と親友。


 彼氏と彼女。


 師匠と弟子。


 たしかに、二人でいたときは幸せだった。


 でも報いは、独りだ。

「一人より二人のほうが幸せだ。共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある」

コヘレトの言葉四章九節

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