第72話 桶狭間
そのファイルには、何の装飾も施されていなかった。
四方院家の紋章も、水希桜夜の署名もない。
白い画面の中央に、ただ三文字だけが表示されている。
《桶狭間》
リオは、その名を声に出さなかった。
口にすれば、何かが始まってしまうような気がしたからだ。
名前そのものは知っていた。
四方院家の一部では、酒の席における与太話のように語られている。
水希桜夜は、四方院家を一晩で滅ぼす方法を知っている。
日本という国を、国家として機能しなくする計画を持っている。
世界中の軍隊、政府、秘密結社、宗教組織を敵に回しても戦い続けられるように、何十年も前から準備している。
そこまで話した者は、最後には必ず笑った。
そんなものが本当にあるはずがない、と。
特別相談役を恐れる者が作り上げた、出来の悪い怪談にすぎない。
リオも、これまではそう考えていた。
だが今、彼女の目の前には、その怪談が存在している。
「開かないの?」
執務机の向こうから、穏やかな声がした。
桜夜は、いつもと変わらない様子で紅茶を飲んでいた。
窓から差し込む午後の光が、黒い髪の輪郭を柔らかく照らしている。
世界を滅ぼせるかもしれないファイルを少女に見せておきながら、その態度には緊張感のかけらもなかった。
「桜夜様」
「なに?」
「こちらを、わたくしが閲覧してもよろしいのですか」
「そのためにメールしたんだよ?」
「玄武様や一様も、内容をご存じなのでしょうか」
「玄武様は、あると確信している。一兄さんは、噂だけ知っていると思う」
「閲覧権限は?」
「ないよ」
あまりにも軽い返答だった。
リオは画面から顔を上げた。
「宗主である玄武様にも、次期宗主の最有力候補である一様にもですか」
「うん」
「なぜでしょう」
桜夜は、カップを受け皿へ戻した。
「二人を倒すためにも必要なものだから」
冗談を言っている声ではなかった。
「玄武様が、本当に悪い皇帝になった時。あるいは一兄さんが、宗主として取り返しのつかない間違いをした時。本人の許可がなければ使えない計画では、意味がないでしょう?」
「玄武様は、そのことを」
「分かっているよ。だから見せろと言わない」
「一様は?」
「一兄さんは、僕を信じているから見せろと言わない」
「お二人とも、ずいぶん異なる理由なのですね」
「そうだね」
玄武は、自分が倒される可能性を残すために見ない。
一は、弟分を疑わないために見ない。
そして桜夜は、そのどちらに対しても、必要なら刃を向ける準備をしている。
それは裏切りなのだろうか。
あるいは、誰よりも深い信頼なのだろうか。
リオには、まだ判断できなかった。
「開いてごらん」
桜夜に促され、リオはファイルへ触れた。
認証画面が開いた。
《閲覧者――リオ》
《権限――全項目閲覧》
《ただし遺言領域を除く》
《閲覧記録は作成者へ即時通知される》
リオは、最後の一文を見て桜夜へ目を向けた。
「即時通知されるのであれば、桜夜様の部屋にきた意味はなかったかもしれないですね」
「驚いた時の顔を見られると僕はうれしいな」
「閉じてもよろしいでしょうか」
「冗談だよ」
「どの部分がでしょう」
「……半分くらいかな?」
リオは小さく息を吐き、認証を進めた。
最初に現れたのは、作戦書ではなかった。
長大な目次だった。
《第一部 目的および基本原則》
《第二部 人的資源》
《第三部 物的資源》
《第四部 資金および信用》
《第五部 情報収集・保全・公開》
《第六部 外交および国外支援》
《第七部 四方院家敵性化》
《第八部 日本国敵性化》
《第九部 複数国家・国際機関敵性化》
《第十部 宗教・魔術組織敵性化》
《第十一部 世界意思または同等存在への対抗》
《第十二部 水希桜夜敵性化》
《第十三部 家族・非戦闘員の避難》
《第十四部 作成者の失職、意識喪失、死亡》
《第十五部 戦闘終了後の再建》
《第十六部 退役後生活計画》
リオは、そこで指を止めた。
「最後の項目だけ、内容が異なって見えます」
「気のせいじゃないかな」
「世界意思への対抗策と、退役後生活計画が同じ階層に並んでおります」
「どっちも大事だよ」
「同程度に?」
「世界を守ったあと、住む場所がなかったら困るでしょう?」
桜夜は真顔だった。
リオは、まず第一部を開いた。
《本計画は、既存秩序の掌握を目的としない》
《本計画は、作成者および保護対象者が既存秩序の庇護を失った場合にも、生存、抵抗、交渉および再建を可能とするためのものである》
《敵を殲滅することを勝利条件としない》
《敵が敵として成立する条件を失わせることを基本方針とする》
《大軍と正面から戦わない》
《大軍が大軍でいられない場所と時間を選ぶ》
桶狭間。
その名の意味が、少しだけ見えた。
巨大な相手を、巨大なまま倒すための計画ではない。
巨大さを支えている一点を探し、そこを切る。
軍隊なら命令系統。
国家なら信用と行政。
名家なら血統と合意。
宗教なら信仰と正統性。
世界なら、それを世界としてつないでいる何か。
具体的な記述の大半には、さらに深い暗号化が施されていた。リオの閲覧権限では項目名と基本原則までしか表示されない箇所も多い。
それでも、規模を理解するには十分だった。
第二部には、協力を要請できる人間が分類されていた。
《自発的協力者》
《利害一致による協力者》
《対価を必要とする協力者》
《説得可能な敵対者》
《圧力により協力を得られる対象》
《脅迫対象》
《接触禁止対象》
人物名の隣には、能力や地位だけではなく、家族構成、信条、譲れない条件、協力を拒む状況まで記載されている。
だが、単なる弱点一覧ではなかった。
《本人の家族へ危害が及ぶ方法は禁止》
《過去の恩義のみを理由とした強要を禁止》
《未成年者を戦力または交渉材料として扱わない》
《協力者が撤退を希望した場合、代替要員確保後に離脱を認める》
冷酷な計画の中に、奇妙なほど細かな制限があった。
「桜夜様は、人を信用していらっしゃらないのですか」
「信用しているよ」
「では、なぜ裏切った場合の記録まで」
「信用できる人が、ずっと味方でいるとは限らないから」
「それは信用と呼べるのでしょうか」
桜夜は少し考えた。
「味方でなくなっても、その人が悪い人になったとは限らないでしょう?」
「状況や守るものが変われば、敵対する可能性があると」
「うん。だから、味方でいることと、人として信用できることは分けている」
リオは人物一覧を進めた。
その中に、見覚えのある姓があった。
《四方院誠司》
《所属――青龍家》
《協力要請優先度――高》
《実務能力――高》
《青龍家内影響力――上昇中》
《一への個人的信頼――高》
《宗主命令への服従――条件付き》
《四方院宗家と青龍家の利害衝突時――青龍家を優先する可能性が高い》
《敵性化時危険度――高》
《対応方針――排除ではなく交渉を優先》
「誠司様は、一様の弟君でしたね」
「腹違いだけどね」
「協力要請優先度が高く、敵性化時危険度も高いのですね」
「能力があるから。味方なら頼りになるし、敵なら怖い」
「一様を嫌っておられるのでしょうか」
「嫌いなら、もっと簡単なんだけどね」
桜夜は、それ以上を語らなかった。
リオも追及せず、次の項目へ進んだ。
物的資源の一覧には、秘密基地や巨大兵器が並んでいるわけではなかった。
医療施設。
避難先。
交通手段。
通信設備。
四方院家の規格に依存しない武器。
神器や霊的装備を修復できる技術者。
都市ごとに現地調達できる食料、医薬品、燃料。
第一候補が利用不能の場合の第二候補。
第二候補まで敵に回った場合の第三候補。
平時から莫大な費用を投じて維持されているものは、ほとんどない。
維持されているのは、所在、連絡経路、交換条件、代替案だった。
《本計画のためだけに、平時の継続的支出を行わない》
《現在救える者への資源を、発生確率の低い危機のために減らさない》
《設備ではなく経路を、現金ではなく信用を、所有物ではなく選択肢を維持する》
第四部には、資金援助者の候補が並んでいた。
企業家。
財団。
旧家。
国外の王族。
宗教組織。
桜夜に命を救われた者。
桜夜の知識や戦力を必要とする者。
桜夜を好ましく思ってはいないが、世界の崩壊よりは共闘を選ぶ者。
中には、リオでも名前を知る国王や枢機卿が含まれていた。
各人には、《要請》《取引》《圧力》《脅迫》の可否が記されている。
「国王を脅迫するおつもりなのですか」
「必要なら」
「簡単におっしゃいますね」
「簡単じゃないから、方法を考えてあるんだよ」
「実行なさったことは?」
「まだない」
「“まだ”なのですね」
「使わないで済むなら、それが一番だよ」
リオは、桜夜の横顔を見た。
そこに野心はなかった。
国王や教皇を従わせたいのではない。
必要になった時に、誰へ何を差し出せば家族を守れるのか。
誰に何を見せれば、兵を止められるのか。
誰の弱みを握れば、逃げ道を作れるのか。
桜夜が蓄えているのは富ではなかった。
世界中へ伸ばした、無数の細い糸だった。
第五部には、さらに恐ろしいものが並んでいた。
各組織の指揮系統。
表向きの責任者と、実際の意思決定者。
資金源。
内部対立。
公表すれば組織が崩れる秘密。
公開すれば社会を正せる情報。
公開すれば混乱だけを招く情報。
誰にも渡してはならない情報。
そして一部には、《作成者単独閲覧禁止》と書かれていた。
「桜夜様にも閲覧できない情報があるのですか」
「あるよ」
「なぜです?」
「僕が知ったら、使いたくなるかもしれないから」
「ご自身を信用なさっていないのですね」
「信用しているから、信用できなくなる時のことも考えている」
その論理を、リオはすぐには理解できなかった。
だが第十二部の題名を見れば、意味は分かった。
《水希桜夜敵性化》
桜夜自身が、四方院家や世界の敵となった場合の対処。
封印。
能力の切断。
協力者の退避。
桜夜へ渡してはならない情報。
交渉を試みる順番。
それでも止まらない場合の最終処分。
具体的な方法は表示されなかった。
ただ、その項目が存在している。
「これを、どなたが実行するのですか」
「その時、僕を止められる人」
「曖昧です」
「だから今日、考えてもらっている」
リオの指が止まった。
「考える?」
「続けて」
桜夜はそれ以上説明しなかった。
リオは第十三部を開いた。
家族の避難計画。
保護対象者ごとに、移動を拒む場合、負傷している場合、記憶を失っている場合、桜夜を敵と認識している場合まで想定されていた。
退避先は一つではない。
伊豆。
ヴェネチア。
魔女の森。
ロンドン。
それぞれに利点と危険が記されている。
《伊豆》
《家族生活への適性――高》
《国内医療・教育への接続――高》
《四方院家から仕事を持ち込まれる可能性――極めて高》
《長期隠居には不適》
《ヴェネチア》
《教会勢力による保護――高》
《宗教外交への巻き込まれ――中》
《教皇本人が存命の場合、安全性上昇》
《魔女の森》
《侵入難度――極めて高》
《魔術的脅威への耐性――高》
《子どもの教育および社会生活――要検討》
《ロンドン》
《英国王による庇護――高》
《国際的安全保障――高》
《政治利用の可能性――高》
《リチャードの“仕事はさせない”という発言は信用しない》
リオは思わず桜夜を見た。
「最後の一文は、正式な評価なのでしょうか」
「経験に基づく評価だよ」
「リチャード陛下は、そのようなことを」
「最初の一週間は休ませるって言っていた」
「一週間後は?」
「働かせる気だと思う」
「適切な評価ですね」
退役後生活計画には、さらに場違いな項目が続いた。
必要生活費。
子どもの教育。
医療機関。
家庭菜園に適した土地。
来客用寝室。
一や玄武が訪問した場合の部屋割り。
魔女たちがそれぞれ別室を要求した場合の増築案。
アヒルの飼育環境。
世界を壊す計画の最後に、家族と暮らす家の間取りが置かれている。
リオはしばらく何も言えなかった。
「桜夜様は、引退なさりたいのですか」
「したいよ」
「では、なぜなさらないのです」
「世界が平和じゃないから」
「世界が完全に平和になる日は、訪れないかもしれません」
「うん。困っている」
桜夜は、本当に困ったように笑った。
「僕と家族が笑っている時にも、どこかで泣いている人がいる。その人を僕なら助けられるかもしれないって分かっていると、なかなか眠れないんだ」
「すべての方を救うことはできません」
「分かっているよ」
「分かっておられる方の計画には見えません」
「だから、君に見せたのかもしれないね」
リオは更新履歴を開いた。
ほとんどの更新時刻が、深夜から明け方に集中していた。
午前二時十三分。
午前三時四十一分。
午前四時十二分。
午前四時五十八分。
何年にもわたり、同じような時刻が並んでいる。
「昨夜も更新なさっていますね」
「眠れなかったから」
「眠れないたびに、国家や組織の潰し方を考えておられるのですか」
「潰さなくて済む方法も考えているよ」
「どちらにせよ、眠るための方法としては不健全です」
「そうかな」
「そうです」
リオは断言した。
桜夜は反論しなかった。
「ここまで読んだなら、質問してもいい?」
「すでに多くの質問をされている気がいたします」
「今度は僕から」
桜夜はカップを置き、リオをまっすぐ見た。
「僕が特別相談役を解任されたら、《桶狭間》を使う?」
リオは少し考えた。
「解任されたという理由だけでは、使用いたしません」
「どうして?」
「人事上の決定へ報復するための計画ではないからです」
「僕が納得していなくても?」
「桜夜様が納得していないことと、四方院家が敵であることは同義ではありません」
「じゃあ、解任された僕が、使いたいと言ったら?」
「理由を確認します。桜夜様やご家族の生命、自由、人格が侵害されている。あるいは四方院家が世界へ重大な危険を及ぼしているのであれば、発動を検討します」
「誰の同意で?」
「桜夜様と、秘書官または補佐官です」
「宗主の許可は?」
「四方院家そのものが敵であれば、敵対対象へ拒否権を与えることになります。求めません」
「玄武様が止めろと言っても?」
「玄武様が宗主として正当な判断をなさっているのであれば、まず対話を試みます。しかし、悪の皇帝となられた場合には従いません」
「一兄さんなら?」
「一様だからこそ、お止めします」
桜夜の目が、わずかに細くなった。
「どういう意味?」
「桜夜様が、一兄さんを間違ったまま放置されるとは思えません。家族であることは、過ちを見逃す理由ではなく、止める理由になります」
「うん。そうだね」
短い返事だった。
だがどこか嬉しそうだった。
「じゃあ、敵が四方院家じゃなかったら?」
「桜夜様に加え、宗主または大御所の承認を求めます」
「どちらか一人でいい?」
「はい。《桶狭間》は速度を必要とします。両者の一致を待つことで機会を失うべきではありません」
「宗主と大御所の意見が違ったら?」
「先に承認した方の判断で始動します。ただし、反対した方へ理由を説明し、停止または修正の権限を残します」
「対イグドラシルみたいな相手なら?」
「玄武様がご存命なら、玄武様へ承認を求める可能性が高いと考えます」
「宗主じゃなくても?」
「一様は宗主になられても最後まで対話を試みるでしょう。それは必要です。しかし対話が失敗した後の責任を引き受ける役割は、玄武様の方が適任です」
「ひどい評価だね」
「信頼しております」
「玄武様を?」
「一様と玄武様の両方をです」
桜夜は少し笑った。
「じゃあ、僕が意識不明になったら?」
リオの表情が止まった。
先ほどまで迷いなく答えていた唇が閉じる。
桜夜は急かさなかった。
リオは膝の上で指を組み、わずかに視線を落とした。
「……そもそも、桜夜様を意識不明にさせないことを前提といたします」
「前提を突破されたら?」
「救出、治療、原因の排除を最優先します」
「《桶狭間》は?」
「家族の避難、情報の保全、資産および連絡網の確保、協力者への警戒通知。元へ戻すことのできる措置までを、わたくしの判断で開始します」
「攻撃は?」
「いたしません。意識不明が一時的なものである可能性があります。桜夜様の回復前に、取り返しのつかない判断を下すべきではありません」
「その間に敵が動いたら?」
「動きを記録し、逃げ道を確保し、必要であれば抑止のための情報を限定的に提示します。それでも不可逆的な発動は避けます」
「時間がないかもしれないよ」
「時間がないことを、誰か一人へ桜夜様と同じ権限を与える理由にはいたしません」
桜夜は静かにうなずいた。
「じゃあ、僕が死んだら?」
リオは、今度こそ露骨に嫌そうな顔をした。
眉がわずかに寄り、口元が固くなる。
「桜夜様」
「仮定だよ」
「その仮定を採用する必要があるのでしょうか」
「あるよ」
「……長生きしていただくことを前提として、お答えいたします」
「その前置き、必要?」
「わたくしには必要です」
「そっか。続けて」
「まず、死亡の確認を疑います」
「どうして?」
「桜夜様を死亡したことにしたい者は、多いでしょうから」
「なるほど」
「そもそも、桜夜様は殺されたくらいでは死にません」
桜夜が目を瞬いた。
「僕を何だと思っているの?」
「桜夜様です」
「答えになっていないよ」
「静馬様などに偽の死亡診断書を書かせ、死亡を偽装なされた回数は、両手の指で足りましたでしょうか」
「……足りたと思う」
「即答できない時点で信用できません」
「死んだふりは、死んでいないから死亡回数には入らないんじゃないかな」
「死亡偽装の回数を伺っております」
「昔はいろいろあったんだよ」
「現在もいろいろなさっております」
「否定はしない」
「したがって、遺体、魂、記録、因果関係を複数系統で確認するまで、死亡とは認定いたしません」
「厳しいね」
「長生きしていただくためです」
桜夜は、少しだけ困ったように笑った。
「本当に死んでいたら?」
リオの顔から、わずかな笑みが消えた。
「……わたくしが《桶狭間》の管理を引き継ぎます」
「すぐ使う?」
「いいえ。発動の必要性を、現在の状況に基づいて判断します」
「僕の遺言に、使えと書いてあったら?」
「従うとは限りません」
「どうして?」
「死者の命令によって、生者の未来を決めてはならないからです」
桜夜は黙った。
リオは続けた。
「桜夜様が死亡された時点で、《桶狭間》は桜夜様のものではなくなります。残された者が、残された者を守るために使うものとなります」
「誰の許可を取る?」
「四方院家外の組織が敵であれば、宗主または大御所の承認を求めます」
「四方院家が敵なら?」
「外部信託者へ承認を求めます」
「誰?」
「ヴァチカン、英国、日本の三系統です」
リオは画面へ、仮の承認経路を表示した。
「ヴァチカン側は、日本人の枢機卿または大司教。教皇庁から信任を受け、四方院家と直接の利害関係を持たない人物」
「英国は?」
「英国王が認証した、駐日外交使節の最高責任者。原則として大使です」
「日本は?」
「かつて桜夜様とともに天皇の御代を守られた男性皇族。ただし、その方が天皇へ即位された場合は、時の天皇が日本人の中から一名を指名します」
「総理大臣は?」
「除外します」
「即答だね」
「在任期間が短く、政党政治の利害から独立できません。《桶狭間》の秘密を、内閣改造のたびに引き継がせるわけにはまいりません」
「怒られそうだね」
「怒る方へは預けません」
「三人全員の承認?」
「いいえ。三系統へ同時に連絡し、最初に承認した一名で足ります」
「危険じゃない?」
「内部では、すでにわたくしが必要性を判断しております。外部信託者へ求めるのは、作戦立案ではありません。わたくしが独善に陥っていないか、四方院家が本当に敵性化しているかを、外部の視点から確認していただくことです」
「誰も返事をしなかったら?」
「理由を確認します」
「時間がない時は?」
「三系統すべてとの連絡が、同一の敵対行為によって遮断されていると確認できた場合に限り、緊急規定へ移行します」
「今は、君しかいないよ」
「ですから、全面発動はいたしません」
「世界が滅びそうでも?」
リオは、しばらく考えた。
「その時点で利用可能な補佐官、原初の騎士団、魔女のお茶会、外部協力者を招集します。それでもわたくし一人しか残っていないのであれば」
「うん」
「その時は、わたくしが決めます」
声は震えていなかった。
だが、覚悟を軽く扱ってもいなかった。
「ただし、桜夜様の代わりとしてではありません。わたくし自身の責任として決めます」
「怖くない?」
「怖いです」
「それで任せられる?」
「迷わず《桶狭間》を使える者に預ける方が、危険です」
桜夜は、少し長くリオを見つめた。
「将来、僕の子どもがある程度成長したら?」
「自動的には継承させません」
「僕の子なのに?」
「桜夜様のお子様であることは、《桶狭間》を背負う義務の根拠にはなりません」
「じゃあ、どうする?」
「満十五歳に達し、本人が存在を知ることへ同意し、当時の管理者が適性を認めた場合にのみ、閲覧または監査権限への追加を検討します」
「断ったら?」
「二度と勧めません。それによる不利益も認めません」
「どうして十五歳?」
「桜夜様が、ご自身で世界を背負い始めた年齢よりは遅くしたいからです」
桜夜は、少しだけ視線を伏せた。
「本当は、もっと遅くてもいいんだけどね」
「でしたら成人後に変更しますか」
「本人が知りたいと思った時に、止めるのも違う気がする」
「では十五歳は、閲覧を許可する年齢ではなく、本人の意思を確認し始められる最低年齢とします」
「うん。それがいい」
リオは回答を書き込み、画面を閉じようとした。
その時、目次の最下部に、鍵のかかった項目があることへ気づいた。
《遺言状》
《閲覧権限――なし》
《公開条件――作成者の死亡が、肉体・魂・記録・因果の複数系統で確認された場合》
「桜夜様」
「なに?」
「遺言状がございます」
「あるね」
「わたくしにも閲覧権限がありません」
「うん」
「遺産管理を委任される可能性があるのであれば、事前に内容を確認する必要があるのではありませんか」
「財産の管理方法は別に書いてある。これは最後の挨拶だから」
「なぜ、今は読めないのでしょう」
「僕が生きているうちに読むものじゃないから」
「死後であれば、読んでよいと?」
「その時は、止めても僕はいないでしょう?」
リオは、また嫌そうな顔をした。
「そのような言い方をなさらないでください」
「ごめん」
桜夜は素直に謝った。
リオの画面には、なおも《閲覧権限なし》と表示されている。
彼女には見えない。
桜夜も、この場では語らない。
けれど、封印された領域には、すでに短い言葉が残されていた。
――僕の遺産の管理は、リオに委任する。
金銭、土地、権利、記録については、別紙の指示に従ってほしい。
ここには、僕から最後に伝えたいことだけを残す。
世界を平和にするのは、意外と簡単だ。
友達や家族を大切にすること。
大切な人が大切にしている人も、大事にすること。
そのために、対話を諦めないこと。
僕は、そんな当たり前のことを、魔女とアヒルに教えてもらった。
できなかったことも多い。
守れなかった人もいる。
正しくなかったことも、きっとある。
それでも、最後まで願うことだけはやめなかった。
世界が平和でありますように。
いつか、原初の祈りが叶う日を夢見て。
リオは、その文章を知らない。
ただ、鍵のかかった項目をしばらく見つめていた。
「桜夜様」
「うん」
「このファイルを、今後もお一人で更新なさるおつもりですか」
「そのつもりだけど」
「認められません」
「どうして?」
「眠れない夜に作成した計画を、眠れない方お一人へ管理させることはできません」
「厳しいね」
「秘書官として当然です」
桜夜が首を傾げた。
「秘書官?」
「正式には、まだ任命されておりませんが」
「じゃあ、今から正式に任命するよ」
あまりにもあっさりした言葉だった。
リオは数秒、反応できなかった。
「……何とおっしゃいましたか」
「合格。今日から、僕の正式な秘書官」
「合格?」
「今のは秘書官の試験だったんだ」
「試験であるとは伺っておりません」
「言ったら、僕が喜ぶ答えを探すでしょう?」
「桜夜様が望まれる答えを探すことが、秘書官の務めではないのですか」
「普段はね。でも、僕が世界を壊そうとした時まで、僕の望みを叶えられたら困る」
「では、秘書官とは何をする者なのでしょう」
「僕の手が届かないものを取る。僕が見落としたものを見る。僕が間違った時は、間違っていると言う」
「最後の職務は、非常に多くなりそうです」
「そうだね。だから君に頼む」
桜夜は端末へ触れた。
《閲覧者――リオ》
《地位――水希桜夜付き正式秘書官》
《権限――全項目閲覧》
《緊急保全措置の単独実行》
《発動審査の招集》
《作成者への異議申し立て》
《作成者の敵性化時、停止手続への移行》
《遺言領域――閲覧不可》
最後の一項だけは変わらなかった。
「桜夜様」
「なに?」
「正式な秘書官として、最初の職務を申し上げます」
「うん」
「長生きしてください」
「努力するよ」
「努力ではなく、職務命令です」
「秘書官になったばかりなのに、もう命令するの?」
「はい」
リオは、真剣な顔でうなずいた。
「また、死亡偽装をなさる場合は、事前にわたくしへ報告してください」
「それは偽装にならないんじゃないかな」
「却下します」
「厳しいなあ」
「桜夜様が、殺されたくらいでは死なないことは信じております」
「うん」
「ですが、死んだふりをしてわたくしたちを心配させないことまでは、信用しておりません」
「気をつけるよ」
「確約を」
「……約束する」
リオはようやく、小さく微笑んだ。
桜夜も笑った。
画面の中では、《桶狭間》が静かに存在している。
四方院家を倒す方法。
国家を崩す方法。
世界を敵に回しても戦い続ける方法。
そして、戦いが終わった後、家族と暮らすための小さな家。
それは世界を支配するための計画ではなかった。
眠っている間に、もう二度と何も奪われないための保険だった。
その日、《桶狭間》に初めて、作成者ではない管理者が加わった。
桜夜の命令に従うためではない。
桜夜が間違えた時に、止めるために。
そして、桜夜がいなくなった後にも、誰か一人を次の桜夜にしないために。
リオはファイルを閉じた。
この計画が使われる日を、彼女は望まなかった。
使わせるつもりもなかった。
まずは桜夜を眠らせる。
桜夜が眠っている間も、自分たちは消えない。
朝になれば、変わらずそこにいる。
その当たり前を信じさせることが、《桶狭間》を使わずに済ませる最初の仕事なのかもしれなかった。




