↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/83

第70話 ミズキによる福音書

 フランスに到着した桜夜が最初にしたことは、穴場の喫茶店を見つけ、紅茶をポットで頼み、大量のマドレーヌを食べることだった。


 もちろん、その菓子こそ、彼がこれから調べるマグダラのマリアにゆかりのある菓子であることは確かだ。


 だが、だからといっていきなり店へ入り、店にあるだけ出してほしいと流暢なフランス語で頼む東洋人に、店員はかなり困惑していた。


 桜夜は気にしなかった。


 紅茶を注ぎ、マドレーヌをひとつ取る。


 貝殻の形をした焼き菓子。


 バターの香り。


 砂糖の甘さ。


 そこに、人の記憶や信仰がどれほど乗るのか。


 食べればわかる、とは思っていない。


 ただ、伝説を調べるなら、伝説に触れたものを口に入れるのも悪くないと思った。


「Bonjour, puis-je m'asseoir avec vous ?」


 突然、女性がフランス語で声をかけてきた。


 桜夜は顔を上げる。


 タンクトップに短パン。


 サングラス。


 金髪。


 そして、かなりの美人だった。


 フランスにも美人局というものはあるのだろうか。


 そんな失礼なことを考えながら、桜夜は空いている席を示した。


「Bonjour. Il y a d'autres places libres.」


「あら、あなたフランス語もできるのね」


 今度は日本語だった。


 女性は桜夜の返事を待たず、勝手に向かいの席へ座った。


 これがお国柄の違いなのだろうか。


 それとも、ただ単にこの女性が遠慮のない人間なのだろうか。


 桜夜は考えるのをやめ、無視してマドレーヌを食べ続けた。


 女性はコーヒーを頼むと、サングラスを外した。


 青い目が、楽しそうに桜夜を見る。


「おいしそうね。私も食べていいかしら」


 桜夜は答えなかった。


 答えなかったが、女性は当然のようにマドレーヌをひとつ取って食べ始めた。


「うん。バターがきいてておいしい」


 その言葉を聞いて、桜夜は少しだけ別のものも食べたくなった。


 店員を呼び、フランス語でクイニーアマンもあるだけ出してほしいと頼む。


 さすがの女性も、少し引いた顔をした。


「そんなに食べて大丈夫なの?」


「さあ?」


「さあ、って」


「毒でも入っていない限り、大丈夫でしょう」


「毒が入っていたら?」


「僕にはあまり効きません」


「……あなた、日常会話が物騒ね」


 桜夜は答えず、紅茶を飲んだ。


 フランスの甘いものを食べている。


 紅茶も悪くない。


 店の雰囲気も静かで、悪くない。


 それなのに、桜夜は少しも笑わなかった。


 女性は頬杖をつき、じっと桜夜を見る。


「あなた、ぜんぜん笑わないのね」


「突然相席され、食べ物を取られましたので」


「嘘」


 女性の声が、少しだけ変わった。


 軽さは残っている。


 けれど、その奥に、妙な確信があった。


「あなたは、もっと笑う子だった」


 桜夜の手が止まる。


 マドレーヌの欠片が、皿の上に落ちた。


「あなたに、何がわかるんですか?」


「わかるわよ」


 女性は、どこか懐かしそうに目を細めた。


「ずっと見てきたから」


 その言葉を聞いた瞬間、桜夜の中で警鐘が鳴った。


 知らない女性。


 勝手に相席。


 日本語。


 過去を知るような口ぶり。


 ずっと見てきた。


 危険度が高い。


 桜夜は多すぎるくらいの金をテーブルに置き、立ち上がった。


「ごちそうさまでした」


「あ、ちょっと」


 女性が手を伸ばす。


 だが、桜夜はすでに店の外へ出ていた。


 逃走。


 それが最適解だった。


 女は、名乗る暇もくれなかったなあ、と思いながら、テーブルの上に残されたマドレーヌとクイニーアマンを見た。


 山のようにある。


「……仕方ない」


 女性はため息をついた。


 店員に頼み、残った菓子を包んでもらう。


 そして、近くの孤児院へ寄付することにした。


 桜夜が置いていった紅茶の香りが、まだかすかに残っている。


「ほんと、逃げ足だけは昔から速いんだから」


 女性はそう呟くと、楽しそうに笑った。


     ◇◇◇


 桜夜がフランスに来た理由は、菓子を食べるためではない。


 もちろん、マドレーヌもクイニーアマンも大変おいしかった。


 しかし本来の目的は、明人の言葉だった。


『オレは聖杯に会ったことがある』


 明人は、そう言った。


 見た、ではない。


 会った。


 ならば聖杯とは、杯ではない。


 人か。


 あるいは、人として語られる何かなのか。


 桜夜はその言葉を追って、南仏を回った。


 まず向かったのは、海辺の町だった。


 聖女たちが、舵も帆もない船で流れ着いたとされる場所。


 サント=マリー=ド=ラ=メール。


 観光客向けの土産物屋が並び、巡礼者らしき者たちが教会へ向かっている。


 桜夜は海を見た。


 舵も帆もない船。


 行き先を自分で選べない船。


 それでも神の導きによって岸へ着いた、と語られる船。


「……着けなかった船は、どうなるんでしょうね」


 誰に言うでもなく、桜夜は呟いた。


 神に導かれた漂着と、ただの漂流。


 救済と遭難。


 その違いは、後から物語にされるかどうかだけなのかもしれない。


 桜夜は、教会で古い伝承を聞いた。


 地元の司祭は親切だったが、桜夜がやけに細かく質問するので、途中から少し困った顔をしていた。


 マリアたちは本当にここへ来たのか。


 船は何を意味するのか。


 なぜ女たちは、これほど多くの伝承に運ばれ、語り替えられるのか。


 司祭は困った末に、こう答えた。


「信じる者にとって、伝承は道しるべです」


「信じない者にとっては?」


「問い、でしょうか」


 その答えは、悪くなかった。


 桜夜は礼を言い、次の場所へ向かった。


     ◇◇◇


 サント=ボームの洞窟は、静かだった。


 マグダラのマリアが晩年を祈りと悔悛の中で過ごしたとされる場所。


 岩と影。


 湿った空気。


 巡礼者の足音。


 祈りの気配。


 桜夜は洞窟の奥で、しばらく立ち尽くした。


 彼女は、主を失ったあと、ここで祈ったという。


 それが本当かどうかはわからない。


 けれど、人々はそう信じた。


 そして信じられた物語は、場所に染み込む。


 桜夜は、自分の手のひらを見た。


 あずさを失ったあと、自分は祈らなかった。


 祈る代わりに、火を使った。


 涙の代わりに、誰かを焼いた。


 悔悛の洞窟ではなく、戦場と記録の中へ逃げた。


「祈れる人間は、強いですね」


 桜夜は小さく言った。


 その声は、岩に吸われて消えた。


 洞窟を出ると、遠くに金髪の女の姿が見えた気がした。


 タンクトップに短パン。


 サングラス。


 喫茶店で相席してきた女。


 桜夜が足を止めると、女はひらひらと手を振った。


 桜夜は即座に別の道へ進んだ。


 逃走。


 やはり最適解だった。


     ◇◇◇


 サン=マクシマンでは、墓と聖遺物の話を聞いた。


 ここにマグダラのマリアの遺骸がある、と人々は信じた。


 信じたから、巡礼地になった。


 信じたから、祈りが集まった。


 信じたから、歴史になった。


 桜夜は棺の前で、ひどく冷めたことを考えていた。


 墓は、死者のためにあるのか。


 それとも、残された者が死者の不在に耐えるためにあるのか。


 骨があれば、その人がいることになるのか。


 聖遺物があれば、喪失は管理できるのか。


 答えは出ない。


 けれど、桜夜にはひとつだけわかることがあった。


 どれほど立派な墓があっても。


 どれほど美しい伝承があっても。


 死んだ人間は、返事をしてくれない。


「……会った、か」


 明人は、聖杯に会ったと言った。


 では、聖杯とは何だったのか。


 女か。


 器か。


 血か。


 子か。


 救済の証か。


 人々は、マグダラのマリアを聖女として語る。


 罪深い女として語る。


 主の証人として語る。


 香油を捧げた女として語る。


 あるいは、血統を運ぶ器として語る。


 桜夜は、その最後の語り口が嫌いだった。


 女を器と呼ぶ。


 子を証拠と呼ぶ。


 血筋を救済と呼ぶ。


 人を、人として見ていない。


 彼は、そういう思想をよく知っていた。


 世界には、人間を素材として扱う者がいる。


 血統、才能、魂、記憶、器。


 もっともらしい言葉で飾っても、やっていることは同じだ。


 人を、人として扱っていない。


 桜夜は、その匂いを嗅ぎ分けるのが妙に得意だった。


     ◇◇◇


 南仏の古書店を回っているうちに、桜夜は胡散臭い小冊子をいくつか手に入れた。


 聖杯。


 失われた血統。


 マグダラの花嫁。


 選ばれし子ども。


 新しい契約。


 読むだけで頭が痛くなるような言葉が並んでいる。


 観光客向けの疑似歴史なら、まだよかった。


 痛い商売だが、人が死なないなら見逃せる。


 だが、ある古書店の店主が、桜夜にだけ声を潜めて言った。


「そういうものを本気で信じている連中もいる」


「どこに?」


「聞かない方がいい」


「聞きたいですね」


「あなた、警察か?」


「まさか」


 桜夜は微笑んだ。


「ただの国外追放中の相談役です」


「何だそれは」


「僕もよくわかりません」


 店主は心底嫌そうな顔をしたが、最終的には紙片を一枚渡してくれた。


 そこには、山間の小さな村の名前が書かれていた。


     ◇◇◇


 その村には、古い礼拝堂があった。


 観光案内には載っていない。


 地元の人間もあまり近づかない。


 けれど夜になると、遠方から車が集まる。


 桜夜は数日かけて周囲を調べた。


 表向きは、古代キリスト教異端の研究会。


 実態は、聖杯伝説と血統思想を混ぜた狂信者集団だった。


 彼らは、マグダラのマリアを聖女としてではなく、血を運ぶ器として崇めていた。


 そして「器」となる子どもを集めていた。


 孤児。


 移民の子。


 行方不明になっても大きく報じられない子。


 金で買われた子。


 記録上は死んだことにされた子。


 桜夜は、その地下室を見た時、しばらく何も言わなかった。


 子どもたちは、粗末な寝台に寝かされていた。


 薬でぼんやりしている者もいる。


 泣く力も残っていない者もいる。


 壁には、聖杯を模した紋章。


 祭壇には、香油と血を混ぜたような匂い。


 儀式の準備がされていた。


 桜夜の中で、何かが静かに切れた。


 怒鳴らなかった。


 泣きもしなかった。


 ただ、火の精霊たちがざわめいた。


 赤黒い火が、足元に集まる。


「……あずさを」


 小さく呟く。


「こんな言葉で、呼ぶな」


 その夜、教団の本部は燃えた。


 正確には、燃えるべきものだけが燃えた。


 書類。


 祭具。


 隠し扉。


 地下の拘束具。


 信者たちの武器。


 逃走用の車。


 金庫の中の名簿。


 そして、教団幹部の心の余裕。


 子どもたちのいる部屋には、火の粉ひとつ届かなかった。


 桜夜は、火の中を歩いた。


 黒い髪が揺れ、目だけが冷えていた。


 逃げようとした男の足元に火が走る。


 男は悲鳴を上げて転んだ。


「教祖はどこですか?」


「し、知らない!」


「そうですか」


 桜夜は微笑んだ。


 男の指先に、火が灯る。


 小さな火だった。


 けれど、消えない。


「もう一度聞きます。教祖はどこですか?」


「知らない、知らない、本当に――」


「火加減はしますよ」


 桜夜は優しく言った。


「死なない程度に」


 男は泣き叫んだ。


 数分後、桜夜は目的地を知った。


 モンサンミッシェル。


 海に浮かぶ聖なる島。


 かつて大天使ミカエルが降りたとされる場所。


 そこに、教祖がいる。


 儀式の本体も。


 さらわれた子どもたちの一部も。


 桜夜は、燃え残った礼拝堂の前に立った。


 救出した子どもたちは、すでに地元警察と協力者に引き渡してある。


 国家警察への連絡も済ませた。


 鷹司の嫡男には、短いメッセージを送った。


『モンサンミッシェルへ行きます』


 すぐに返信が来た。


『待て』


 桜夜は、その返信を見なかったことにした。


 鳳凰の火が背に広がる。


 翼のように。


 あるいは、裁きの炎のように。


 夜空が赤く染まった。


「待てと言われて待つなら、僕は国外追放などされていませんよ」


 そう言って、桜夜は飛んだ。


     ◇◇◇


 モンサンミッシェルは、夜の海に浮かんでいた。


 潮の匂い。


 石畳。


 修道院の影。


 観光客の消えた聖地は、美しく、冷たかった。


 その美しさが、桜夜には癇に障った。


 聖なる島。


 祈りの場所。


 天使の名を冠する場所。


 そんな場所に、子どもを器と呼ぶ連中がいる。


 冗談にしても、出来が悪い。


 教団の残党は、島の奥に潜んでいた。


 隠し通路。


 古い地下室。


 捨てられた倉庫。


 彼らは聖地の歴史を利用していた。


 桜夜は、ひとりずつ捕まえた。


 逃がさなかった。


 質問は短い。


「子どもはどこですか?」


 答えなければ、火が灯る。


 殺さない。


 けれど、二度と忘れられない痛みを刻む。


 やがて、最後の部屋にたどり着いた。


 教祖と呼ばれる男は、豪奢な祭服をまとっていた。


 白い髭。


 穏やかな声。


 善人のような目。


 そして、吐き気のするような言葉を使った。


「彼らは器です。新しい聖杯となる子どもたちです」


 桜夜は、しばらく黙っていた。


「もう一度言ってみてください」


「彼らは選ばれた――」


 言い終える前に、男の祭服が燃えた。


 皮膚は焼かない。


 だが恐怖は焼きつける。


「人間を器と呼ぶな」


 桜夜の声は静かだった。


「女を聖杯と呼ぶな」


 火の精霊たちが、島全体に広がっていく。


「子どもを血統の箱にするな」


 教祖が震えた。


「あなたは、何者だ」


「ただの相談役です」


 桜夜は微笑んだ。


「そして、今日だけは少し、裁きの火に近い」


 鳳凰の火が、夜空へ立ち上がった。


 島が赤く染まる。


 石壁が熱を帯びる。


 海霧が火に照らされ、血のように揺れた。


 桜夜は、本気で考えていた。


 この島ごと、焼いてしまえばいい。


 人を器と呼ぶ思想ごと。


 聖地に巣食った腐敗ごと。


 祈りを汚した者たちごと。


 全部。


 焼いてしまえばいい。


 その時だった。


「やめておきなさい」


 声が降ってきた。


 桜夜は顔を上げる。


 修道院の尖塔の上に、女が立っていた。


 金髪。


 青い目。


 タンクトップでも短パンでもない。


 白い光をまとい、背には翼があった。


 喫茶店でマドレーヌを勝手に食べた女。


 サント=ボームで遠くから手を振っていた女。


 ストーカー疑惑のある女。


 けれど、今の彼女は、明らかに人ではなかった。


 翼のある存在は、少し困ったように微笑んだ。


「聖地を島ごと焼くのは、さすがに後始末が面倒なのよ」


「あなたは」


「ようやくちゃんと会えたわね」


 女は、軽く片手を上げた。


「私はガブリエル」


 その名を聞いて、桜夜の目が細くなる。


 大天使。


 神の使い。


 受胎告知の天使。


 そして今、桜夜の前に立ちはだかる者。


「なるほど」


 桜夜は言った。


「ストーカーではなく、不法監視者でしたか」


「第一声がそれ?」


「ずっと見ていたんでしょう?」


「まあね」


「なら、同じです」


 ガブリエルは頬を膨らませた。


「ほんと可愛くないわね」


「可愛がられる年齢ではありませんので」


「昔はもう少し可愛かったわよ」


 桜夜の手が、桜吹雪の柄へ伸びる。


 ガブリエルは慌てて両手を上げた。


「待って待って。今日は斬られに来たんじゃないの」


「では、何をしに?」


「止めに来たの」


 ガブリエルは、夜のモンサンミッシェルを見下ろした。


「あなたが裁きの火になる前に」


 桜夜は黙った。


 火はまだ消えない。


 鳳凰の火が、島を包み込もうとしている。


 ガブリエルは、いつもの軽さを少しだけ消した。


「あなたは怒っていい。あの子たちを助けるために戦っていい。あの連中を裁きに渡すのもいい」


「では、なぜ止めるんですか?」


「あなたが、世界を焼く側に行きかけているから」


 桜夜の表情が消えた。


 ガブリエルは続ける。


「人を器と呼ぶ連中が嫌いなんでしょう?」


「ええ」


「なら、あなたも人を罪の塊としてだけ見ちゃだめ」


「……」


「焼いて終わらせるのは簡単よ。でも、それは裁きじゃない。あなたの傷の延長」


 その言葉に、火が揺れた。


 桜夜は低く言う。


「あなたに何がわかるんですか」


「わかるわよ」


 ガブリエルは、少しだけ悲しそうに笑った。


「ずっと見てきたから」


 その言葉は、喫茶店で聞いた時よりも重かった。


 桜夜は、火を消さなかった。


 ただ、島を焼くほどには広げなかった。


 代わりに、教祖と残党たちの周囲に火の輪を作る。


 逃げ道を奪う火。


 殺さない火。


 ただし、罪から逃げることを許さない火。


「国家警察に引き渡します」


「そうして」


「ただし」


 桜夜は教祖を見る。


 優しく微笑んだ。


「逃げようとした者は、手足の先から焼きます」


「悪魔みたいなこと言わないの」


「火加減はします」


「火加減の問題じゃないのよ」


 ガブリエルは頭を抱えた。


     ◇◇◇


「それで、ずっと見ていたというのは?」


 事件の後、桜夜はガブリエルと海岸を歩いていた。


 海岸を大天使と歩くというのは、非常に詩的だった。


 ただし、この天使にはストーカー疑惑がある。


「そのままの意味よ」


 ガブリエルは悪びれもせずに言った。


「ミカエルのやつが見とけってうるさいのよー。てめえでやれっての」


 ミカエルが降臨したとされる場所で、ミカエルをディするガブリエル。


 最悪の絵面だった。


「大天使が、そういう言葉遣いでいいんですか」


「勤務時間外だからいいの」


「天使に勤務時間という概念があるんですね」


「あるわよ。たぶん」


「たぶん」


 桜夜は少しだけ遠い目をした。


 ガブリエルはくるりと回る。


「この姿でお見舞いしたこともあるわよ」


 そう言うと、彼女は少女の姿になった。


 桜夜は目を細める。


 病院。


 白い廊下。


 窓辺。


 知らない少女。


 一度だけ、遊んだ気がする。


 すぐにいなくなった少女。


「……あれは、あなたでしたか」


「そう。かわいかったでしょ」


「不法侵入ですね」


「言い方!」


 ガブリエルは咳払いをした。


 少女の姿のまま、なぜか尊大に胸を張る。


「さて、今回の狂信者集団の壊滅、大儀であった!」


「その言い方はやめてください」


「褒美として、あなたを《奇蹟執行官》に任命します!」


「お断りします」


 小さく頭を下げ、桜夜はガブリエルに背を向けた。


 即答だった。


 ガブリエルが慌てて腰にしがみつく。


「なんでよ! やりなさい! 今なら、あなたにも奇蹟をプレゼントしてあげるから!」


 奇蹟。


 その言葉に、桜夜の足が止まった。


 ガブリエルは、悪戯っぽく笑った。


 その笑みは、天使というより悪魔に近かった。


「そう、奇蹟」


 彼女は囁く。


「イエス様がラザロを復活させたような奇蹟よ」


 桜夜の指が震えた。


「ほしいでしょ?」


 奥歯が砕けそうなほど、桜夜は歯を噛みしめた。


 自分がほしいと言えば。


 そしてイエス・キリストが、目覚めなさい、と言ってくれたなら。


 如月あずさは、よみがえるのだろうか。


 彼女の手を、もう一度握れるのだろうか。


 彼女の声を、もう一度聞けるのだろうか。


 けれど。


 言ってはいけない。


 あずさは、きっと悲しむ。


 自分の復活の代わりに、桜夜が天使の手先になったと知ったら。


 きっと、怒る。


 きっと、泣く。


 そしてきっと、こう言う。


 あたしを言い訳にするな、と。


「……わ、ちょ」


 桜吹雪を抜いた桜夜が、ガブリエルに斬りかかった。


 戦場では、女も子どもも天使も悪魔も差別するな。


 それが明人先生の教えだった。


 ゆえに、この悪女は斬ってよし。


 殺意のこもった太刀筋を、ガブリエルはどうにか回避する。


 最初は笑っていた。


 だが、刃が翼の光をかすめた瞬間、彼女の顔色が変わった。


「ちょっと待って、それ本当に洒落にならないやつ!」


「知っています」


「知ってて振るな!」


 ガブリエルは真剣白刃取りでどうにか耐えながら、涙目で叫んだ。


「ごめんなさい! ごめんなさい! 今のは踏み込みすぎた! その武器は本当に危ないから、ね!?」


「奇蹟を餌にする天使は、悪魔よりたちが悪いですね」


「だから謝ってるでしょ!」


「謝れば済むと?」


「済まないかもだけど、まず刃を下ろして!」


 ガブリエルは必死だった。


 それでも口は止まらない。


「そんなに怒んないでよー。ほっぺになら、ちゅーしてあげ――」


 桜夜が無言で力を込めた。


「やめてやめて力入れないで!」


 ガブリエルは光で桜夜の目を眩ませ、刀の届かない空中へ逃げた。


 そして、あっかんべーをする。


「絶対に、あたしのものにしてやるんだから覚悟してなさいよ!」


 桜夜は無言で桜吹雪をぶん投げた。


「投げるな!」


 ガブリエルは悲鳴を上げ、ようやく天界へ帰っていった。


 海岸には、波の音だけが残った。


 桜夜は桜吹雪を拾い上げる。


 そして、ぽつりと呟いた。


「……聖杯には、会えませんでしたね」


 だが彼はまだ知らなかった。


 この旅で出会った大天使が、後に彼のために泣きながら祈ることを。


 そして、奇蹟という言葉が、いつか彼をもっと深い絶望へ誘うことを。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


第70話では、桜夜が「奇蹟」という言葉に触れる話でした。

彼にとって、死者の復活はただの伝承ではありません。


次回「神々の国を歩く」では、桜夜が日本各地を巡り、あずさにもう一度会う道を探して失敗し続けた記録へ入ります。


続きが気になる方は、ブックマークや評価で応援していただけると、とても励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。