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七夕特別編 雨は船の水しぶき

奇跡のタイミングの悪さで、七夕に2回も心の傷をえぐられる主人公……

 七夕の今日、空はあいにくの雨模様だった。


 横浜の街に、細かな雨が降っている。


 星は見えない。


 天の川も見えない。


 それでも、屋敷の中はいつもよりにぎやかだった。


 巫女服から浴衣に着替えた小春と日和は、いつものお仕事モードではなく、年相応の少女としてはしゃいでいる。


 サイカが桜夜との子どもを妊娠していると聞いた二人は、


「お兄様の子ども、つまりわたしたちのいもーと!」


「いもーと!」


 と、しばらく騒ぎながら踊っていた。


「妹とは限らないんだけどね」


 桜夜が苦笑すると、小春と日和は同時に胸を張った。


「妹です」


「たぶん妹です」


「たぶんなんだ」


 そんなやり取りをしている間にも、二人はサイカたち三姉妹の浴衣の着付けを手伝っていた。


 サイカは淡い色の浴衣を着せられ、少し照れくさそうにしている。


 リオは落ち着いた柄を選び、帯の位置を几帳面に気にしている。


 ホムラは途中で何度か逃げようとしたが、小春と日和に両側から捕まえられていた。


「ホムラお姉様、動かないでください」


「火が出たら帯が焦げます」


「出さねえよ!」


 桜夜も、黒い浴衣姿だった。


 派手さはない。


 けれど、夜の色をまとっているようで、妙に似合っていた。


 小春が窓の外を見る。


「雨ですねえ」


 日和が笹飾りの短冊を整えながら言った。


「七夕の雨は、織姫様と彦星様が天の川を船で渡る時の水しぶき、という考えもあるそうです」


「へえ。雨でも会えるんだ」


 小春がぱっと笑う。


「じゃあ、かわいそうじゃないね」


 その言葉に、桜夜は少しだけ目を細めた。


 船。


 天の川を渡る船。


 会えない者たちを、会わせるための船。


 その響きが、胸の奥の古い傷を撫でた。


「平塚じゃ、今頃祭りか……」


 桜夜は、机の奥から一枚の写真を取り出した。


 どうにかこうにか外出許可をもらい、明人を保護者にして、平塚まで遊びに行った時の写真だ。


 写っているのは、浴衣姿のあずさと桜夜。


 二人は手をつないでいる。


 桜夜は少し顔を赤くしていた。


 同じ写真は、二枚ある。


 一枚の裏には、拙い文字でこう書かれていた。


『おねえちゃんだいすき』


 もう一枚の裏には、少し丸みのある字でこう書かれていた。


『楽しかった。また行けたらいいのに』


 写真の中のあずさは、笑っていた。


 病気の影はある。


 けれど、その日だけは、確かに少女らしく笑っていた。


 桜夜は写真を見つめる。


 雨の音が遠くなる。


 小春と日和の声も。


 三姉妹の笑い声も。


 笹飾りが揺れる音も。


 すべてが、雨の向こうへ溶けていく。


 めまいがした。


 意識が、ふっと落ちる。


     ◇◇◇


 目を開けると、桜夜は別の場所にいた。


 洋風のリビング。


 見覚えがあるようで、ない。


 自分の服も、浴衣ではなかった。


 白いワイシャツに、スラックス。


 少し気を抜いた、家の中の格好だった。


「大丈夫?」


「え?」


 隣から、心配そうに顔を覗き込まれる。


 声。


 息遣い。


 匂い。


 なにもかもが、懐かしかった。


 あまりにも懐かしすぎて、桜夜はしばらく言葉を忘れた。


「あ、ずさ?」


「そーだよ」


 あずさは眉を寄せた。


「どうしたの、本当に。顔、真っ青だよ?」


「あずさ」


 桜夜は、力いっぱい彼女に抱きついた。


「あずさ!」


「こら、ばかわんこ!」


 あずさが慌てる。


「またしつけするわよ! ほら、明人さんも子どもたちも呆れた顔してる!」


「え?」


 桜夜は、涙で滲む視界のまま、リビングの入口を見た。


 そこには、竹を担いだ明人が立っていた。


 その隣に、自分とあずさの面影を持つ双子がいる。


 男の子と女の子。


 まだ幼い。


 けれど、その顔を見た瞬間、桜夜は名前を知っている気がした。


 星夜。


 咲夜。


 そう呼びたいと思った。


 桜夜は、ますます泣いてしまった。


 涙が止まらなかった。


「明人、先生……」


 明人は呆れたように頭をかいた。


「なに、死人がよみがえったような顔で女に甘えてるんだ、この弟子は」


 けれど、その声は優しかった。


「ほれ、おまえさんたちは俺と一緒に庭に行こうな。笹を立てるぞ」


「はーい」


「お父さん、泣き虫だね」


「ほんとだ」


「言うな。おまえたちの父親は昔からああだ」


 明人は気を利かせるように、双子を庭へ連れていった。


 リビングに、桜夜とあずさだけが残る。


 それでも桜夜は、子どものように泣きじゃくっていた。


「仕方ない旦那様だなあ」


 あずさは、やれやれと言いながら、桜夜の背中と頭を撫でてくれた。


「怖い夢でも見たのか?」


「うん……」


「そっか」


 あずさは、桜夜をぎゅっと抱きしめた。


「大丈夫。大丈夫だよ」


 その声は、あの頃と同じだった。


 病室で。


 伊豆で。


 泣き虫の男の子を撫でてくれた時と同じ声。


「結婚式で誓ったでしょ」


 あずさは笑った。


「あたしたちは、いつまでも一緒だよ」


 その言葉が。


 ぬくもりが。


 桜夜の壊れた心を、ありえないほど簡単に落ち着かせていく。


 どれほど求めても届かなかったものが、ここにはあった。


 涙がようやく引いた頃、桜夜とあずさは隣り合って座った。


 窓の外では、明人が双子と一緒に短冊を飾る準備をしている。


 雨は降っている。


 けれど、庭は明るかった。


 明人がいる。


 あずさがいる。


 子どもたちがいる。


 七夕の飾りがある。


 それだけで、世界は満ちていた。


 幸せだ。


 桜夜は、そう思った。


 あずさの隣で、明人に自分たちの子どもを見せることができた。


 こんなに幸せなことはない。


「ね、あずさ」


「ん、なあに?」


「幸せ?」


 あずさは、少し驚いた顔をした。


 それから、とても自然に笑った。


「とっても」


 桜夜は、彼女の手を握る。


「僕も、とっても幸せ」


 二人の指が絡む。


 この幸せが、いつまでも続けばいい。


 そう願った。


 その瞬間だった。


 庭にいた明人が、血相を変えて叫んだ。


「桜夜! 今すぐ結界を――」


 言葉の途中で、明人の身体が光の粒子になった。


 桜夜は凍りつく。


「先生?」


 明人が、消えていく。


 手を伸ばす間もなかった。


「明人先生!」


 桜夜はとっさに桜吹雪を探した。


 ない。


 身体の中に鳳凰の気配もない。


 桜夜は無力だった。


 次に、双子たちの身体が透明になっていく。


「パパ……」


「こわいよ……」


 二人が泣きながら桜夜にすがろうとする。


「星夜! 咲夜!」


 桜夜は抱きしめようと手を伸ばした。


 けれど、指先は何も掴めなかった。


 双子は、世界から消滅した。


「あずさ!」


 あずさだけでも助けたい。


 桜夜は振り返り、彼女を抱きしめた。


 あずさの身体も、すでに光の粒子になり始めている。


「いやだ」


 桜夜は震える声で言った。


「いやだ、あずさ。もう一度は、いやだ」


 あずさは、静かに桜夜を見た。


 消えていく身体で、微笑んだ。


「桜夜くん」


「やだ」


「ずっとずっと、愛している」


「言うな」


 桜夜は、あずさを抱きしめた。


「それを、最後の言葉にしないで」


 けれど、粒子化は止まらない。


 あずさのぬくもりが、腕の中から失われていく。


 最後に残ったのは、あずさの笑みだった。


 桜夜は、消えていく粒子を抱きしめながら、膝から崩れ落ちた。


 雨の音が、遠くで聞こえる。


 天の川を渡る船の水しぶき。


 そんな綺麗な言葉が、どうしようもなく残酷に思えた。


 遠くから、穏やかな声が聞こえた。


 キリストのように優しい声だった。


「救済は完了しました」


 桜夜は顔を上げる。


 そこに、白い衣をまとった存在が立っていた。


 光に包まれている。


 穏やかで。


 優しくて。


 慈悲深く見えた。


 けれど、桜夜の背筋は凍った。


「もう、苦しまなくていい」


 その存在は、消えた家族の痕跡を見渡した。


「おや?」


 そして、桜夜に気づく。


「なるほど。平行同位体ですか」


 キリストのような存在は、微笑んだ。


「大丈夫。あなたもすぐに休ませてあげます」


 桜夜の喉が、ひゅっと鳴った。


 怒りではなかった。


 恐怖だった。


 こんなにも優しく、こんなにも当然のように。


 幸せだった世界を消した。


 痛みが生まれる前に。


 喪失が訪れる前に。


 苦しみになる可能性ごと、すべてを消した。


 白い存在が、桜夜へ手をかざす。


 その瞬間。


 ちりん。


 鈴の音が響いた。


 ちりん、ちりん。


 いくつもの鈴の音が、雨を裂くように鳴る。


 桜夜の身体に、無数の糸が絡みついた。


 細く、けれど強い糸。


 縁の糸。


 小春。


 日和。


 サイカ。


 リオ。


 ホムラ。


 そして、まだ生まれていない命。


 たくさんの縁の糸が、桜夜を元の世界へ引っ張っていく。


 白い存在は、感心したように目を細めた。


「縁の糸」


 穏やかな声。


「これは、なかなか難儀な十字架を背負われた方だ」


 桜夜の身体が、光の中へ引き戻される。


 それでも、白い存在の声は追ってきた。


「でも大丈夫です」


 微笑みながら。


 救い主のように。


 その存在は言った。


「あなたもすぐに、救ってあげますよ」


     ◇◇◇


「お兄様!」


「やっと起きた!」


 小春と日和の声が、耳元で弾けた。


 二人の腕についた鈴が、ちりんちりんと鳴っている。


 桜夜は意識が戻ると同時に、椅子を蹴倒す勢いで立ち上がった。


「あずさは!?」


 声が裏返る。


「明人先生は!? 子どもたちは!?」


 小春と日和が息を呑む。


「星夜は、咲夜は……!」


 桜夜は、机に手をついた。


「さっきまで、ここに……!」


「お兄様……」


「あずさお姉ちゃんも、明人先生も、もう」


 日和が苦しそうに言う。


「そんな」


 桜夜は首を横に振った。


「だって、あのぬくもりは本物だった。あずさは、確かにそこにいて、先生もいて、子どもたちも――」


 珍しく、桜夜は錯乱していた。


 不敵な笑みも。


 相談役としての仮面も。


 世界一の騎士としての振る舞いも。


 何も残っていなかった。


 小春と日和は、両側から桜夜を抱きしめた。


 強く。


 小さな身体で、必死に。


「お兄様はたぶん、平行世界の可能性を見たんだよ」


 小春が言う。


「でも今、すべての平行世界に危機が迫っています」


 日和の声は、巫女としてのものだった。


 けれど、次の瞬間、二人は少女の声に戻る。


「だから、お兄様」


「今日という日を」


 二人は顔を見合わせる。


 そして、同時に言った。


「楽しみましょう」


 桜夜は、しばらく何も言えなかった。


 雨の音が戻ってくる。


 笹飾りの揺れる音が戻ってくる。


 遠くで、ホムラが浴衣の帯について文句を言う声がした。


 リオがそれをたしなめる声がした。


 サイカが笑う声がした。


 ここにも、世界はあった。


 ここにも、まだ帰る場所があった。


「そう、だね」


 桜夜は、かすかに笑った。


「短冊を書いたら、庭先に行くから。先に行ってて」


「はい」


「逃げちゃだめですよ」


「逃げないよ」


 小春と日和は少し心配そうにしながらも、部屋を出ていった。


 二人の鈴の音が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。


 桜夜は、机の上に置かれた短冊を一枚取った。


 筆を持つ。


 少しの迷いもなく、さらさらと書いた。


《あずさとまた会えますように》


 書き終えると、桜夜はその短冊をじっと見つめた。


 毎年、同じ願いを書いている。


 そして毎年、誰にも見せずに机へしまっている。


 引き出しを開けると、そこには何枚もの短冊が入っていた。


《あずさとまた会えますように》


《あずさとまた会えますように》


《あずさとまた会えますように》


 まるで呪いのように。


 祈りのように。


 桜夜は今年の短冊も、そこへそっとしまった。


 そして、別の短冊を取る。


 少しだけ考えてから、筆を動かした。


《大切な人の傍にいられますように》


 それを持って、桜夜は立ち上がった。


 外はまだ雨だった。


 どこかの誰かが、天の川を渡る船の水しぶきを浴びているのかもしれない。


 けれど桜夜は、今はまだ、その船には乗らなかった。


 庭先では、小春と日和が手を振っている。


 サイカが、優しく笑っている。


 リオが、短冊を記録に残そうとしている。


 ホムラが、「見るなよ」と言いながら、なぜか短冊を後ろに隠している。


 桜夜は、雨の中へ歩き出した。


 星は見えない。


 天の川も見えない。


 それでも、願いごとはそこにあった。


七夕特別編を読んでくださり、ありがとうございます。

次回から本編に戻り、第七章「奇跡と救済者」へ入っていきます。

桜夜の傷と、三姉妹の祈りに触れる重要回が続きます。


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