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第67話 あずさって女の話をしろ


「あずさって女の話をしろ」


 桜夜の突然の口説きに頭を悩ませていたホムラは、図書室で退屈そうにしていた桜夜に、ずかずかと歩み寄ってそう言い放った。


 その突然の発言に、書類整理をしていたリオは固まった。


 廊下を通りかかったサイカは、思わず扉の陰に隠れた。


 桜夜は、読んでいた本から顔を上げる。


 少しだけ目を瞬かせ、それからいつものように笑った。


「ホムラちゃんって、過去の女が気になるタイプ?」


「茶化すな」


 ホムラの目はすわっていた。


 赤い瞳が、まっすぐ桜夜を射抜いている。


「オレは、死んだ女と張り合う気はねえ」


「……」


「けど、お前の中にいるなら話は別だ」


 桜夜は黙った。


 ホムラは一歩近づく。


「お前、昨日オレに好きだって言っただろ」


「言ったね」


「一生一緒にいてもらうとか、ふざけたことも言った」


「ふざけてはいないよ」


「だったら話せ」


 ホムラは、桜夜の逃げ道を焼き払うように言った。


「お前と、あずさって女の話をしろ」


 桜夜はしばらく何も言わなかった。


 やがて、小さくため息をつく。


「君は本当に、逃げ道を潰すのが上手いね」


「お前ほどじゃねえ」


「痛いところを突く」


「お前が逃げるからだ」


 桜夜は困ったように笑った。


 そして、机の引き出しを開ける。


 中から取り出されたのは、ピンク色の古ぼけた日記帳だった。


 表紙には、丁寧な字で名前が書かれている。


 如月あずさ。


 リオの手が止まった。


 サイカは、扉の陰で息を呑む。


「彼女には親族が少なくてね。遺品のほとんどは僕が受け取ることになった」


 桜夜は、日記帳の最後の方のページを開いた。


「読む?」


「いい」


 ホムラは即答した。


「お前が話せ」


 桜夜は少しだけ目を細めた。


「わかった」


 その指が、古い紙の上をなぞる。


「じゃあ、話そうか」


 桜夜は穏やかに言った。


「最期まで野良犬のことを信じて、心配した馬鹿な女と、女ひとり救えなかった愚かな野良犬の話を」


     ◇◇◇


 昔。


 まだ明人先生がご存命だった頃の話だ。


 先生に拾われたばかりの頃の僕は、病弱で、ひ弱だった。


 先生は僕の心と身体を強くするために、剣や体術や、いろいろな訓練をしてくれた。けれど、身体がそれについてこないことも多かった。


 僕はたびたび、四方院家が運営する総合病院に入院していた。


 先生の家より、病院の個室の方が住み慣れていたくらいだ。


 ある日、僕は病室の窓から外を眺めていた。


 中庭のベンチに、ひとりの少女がいた。


 長い黒髪を耳に流しながら、静かに文庫本を読んでいた。


 見惚れてしまった。


 胸が、はねた。


 トクン、トクン、と。


 不意に風が吹いた。


 彼女が顔を上げる。


 こちらを見た。


 そして、僕に微笑んだ。


 その頃の僕は、今みたいに捻くれていなかったから、その笑みを「近くに来ていい」という意味だと理解した。


 今思えば、とんでもない勘違いだ。


 でも、その勘違いがなければ、僕は彼女と出逢えなかった。


 僕は病室を抜け出し、急いで彼女のもとへ向かった。


 急がなければ、どこかに消えてしまいそうな少女だった。


 如月あずさ。


 僕が彼女と出逢ったのは、そんな僕の勘違いからだった。


 それ以来、僕は彼女の病室へ通うようになった。


 まさに野良犬らしい行動だと、今でも思う。


 彼女はいつも本を読んでいた。


 僕が行くと、少し呆れたように笑って、それでも相手をしてくれた。


 ある日、僕は明人先生に言われた話を彼女にした。


 心身共に強くなれ。


 先生と、そう約束したのだと。


 彼女は微笑みながら言った。


「そう。頑張ってね」


「うん、頑張る!」


 僕は、本当にそう思っていた。


「それでね、お姉ちゃん。僕が心身共に強くなったら、僕と結婚してくれる……?」


 あずさは少しだけ驚いたようだった。


 それから、柔らかく笑った。


「そのとき、あたしが生きていたらね」


「大丈夫!」


 僕は何も知らなかった。


 彼女の病気のことも。


 残り時間のことも。


 命というものが、どれだけ簡単に終わるのかも。


「僕はすぐに強くなって、お姉ちゃんを迎えにいくよ! それに、ここの病院には世界でもすごいお医者さんが集まってるんだ。お姉ちゃんの病気だってすぐに治るよ!」


「そうね」


 あずさは、僕の頭を撫でてくれた。


「ありがとう」


 その感触を、今でも覚えている。


     ◆◆◆


 その次の日だった。


 僕は唐突に倒れ、四方院総合病院に担ぎ込まれた。


 原因不明のまま意識が戻らない日々が続いた。


 痛くも苦しくもなかった。


 ただ、ずっとふわふわしていた。


 ああ、死ぬんだなあ。


 ぼんやりと、そう思った。


 でもその時、不意に、あずさの泣く声を聞いた気がした。


 だから、戻らなきゃと思った。


 けれど戻れない。


 死が、僕を絡め取って離さない。


 そのとき、光が現れた。


《生きたいですか?》


 声が聞こえた。


 僕は答えた。


 生きたい、と。


《なぜ? あなたの身体は不完全です。今いのちをつないでも、すぐにいのち尽きるでしょう》


 約束があるから。


 生きなきゃ。


《生きることで、あなたはたくさん苦しむでしょう。それでも、ですか?》


 それでも、僕は。


《わかりました。あなたに私のいのちをあげましょう。ちょうどここで暇をしていたところです》


 そこで意識は途切れた。


 あとで知ったことだが、そのとき僕に話しかけてきたのは、この病院の守りとして奉じられていた鳳凰だったらしい。


 退屈しのぎの宿主を探していて、僕はお眼鏡に叶った。


 ずいぶんと迷惑な話だ。


 僕が意識を取り戻すと、泣きながらシーツを掴んでいるあずさの顔が見えた。


「……お姉ちゃん?」


 彼女は目を見開いた。


 それから、くしゃりと顔を歪めた。


「……ばか。心配させないで」


 あずさが僕の胸に顔を埋める。


 僕は慣れない手つきで、彼女の頭を撫でた。


「大丈夫。僕は大丈夫」


 鳳凰の力が、僕を満たしていく。


 弱かった身体が、少しずつ作り替えられていく。


 死にかけていたはずの僕は、強健な身体を手に入れた。


 でも、心は今も弱いままだった。


 空っぽの野良犬。


「僕は大丈夫。お姉ちゃんをお嫁さんにするんだから」


 あずさは、泣きながら笑った。


     ◇◇◇


 それ以来、僕が病に倒れることはなくなった。


 病院に行く理由は、もっぱらあずさに会うためになった。


 ある日、遅くまであずさと話していたとき、事件は起きた。


 不意に病院の電気が消えた。


 ざわざわという騒ぎ。


 ドタドタという足音。


 やがて、院内放送で占領宣言があった。


 後にわかったことだが、四方院家に恨みを持つ組織が、病院にいる患者を人質にしようと起こした事件だった。


 僕は、明人先生にいつも言われていたことを思い出していた。


 大切な人を守るために、どうすればいいかを考えろ。


 その時、あずさが咳をし始めた。


 容態はみるみる悪くなり、ぜえぜえと息をしながらベッドに倒れ込んだ。


 発作だった。


 主治医を呼ばなければならない。


 でも、ナースコールを押しても無駄だとすぐにわかった。


 病院は占拠されている。


 医師が動ける保証はない。


 ならば、自分で連れてくるしかない。


 僕は、永久の桜の花びらが入ったお守りを、あずさの手に握らせた。


 明人先生が病弱だった僕のために用意したものだ。


 でも、その時は、あずさを守ってほしかった。


 訓練用の、鉄芯の入った竹刀を竹刀袋から取り出す。


 そして、病室を出た。


 廊下には、武装した男がいた。


 僕は息を潜め、背後から近づき、後頭部を竹刀で叩いた。


 男が倒れる。


 音が響く。


 すぐに見つかる。


 でも、急がなければならなかった。


 六階に、主治医の部屋がある。


 長い入院生活で、僕は病院の構造をよく知っていた。


 階段を駆け上がる。


 見回りの男たちがいた。


 僕は、相手の指がトリガーにかかっていないことだけを見た。


 動揺している。


 こちらを子どもだと思っている。


 だから叩いた。


 何人倒したのかは覚えていない。


 初めて人を怒鳴った。


 初めて舌打ちをした。


 初めて、血の匂いを間近に感じた。


 主治医は、すでに死んでいた。


 頭を撃ち抜かれて、床に倒れていた。


 死体を生で見るのは初めてだった。


 けれど、その時の僕には、あずさのことしかなかった。


 他の医師は。


 治療できる看護師は。


 誰か、あずさを助けられる人間は。


 返ってきた答えは、わからない、だった。


 なら、ここから出るしかない。


 そう思って、あずさの病室へ戻った。


「あずさ! 大丈夫!?」


 焦っていた僕は、思わずそう叫んだ。


 普段は彼女からの言いつけで、お姉ちゃんと呼んでいた。


 けれど、その時はそんな余裕がなかった。


 彼女は発作で苦しそうなままだった。


 僕は、あずさを背負った。


 自分より背の高い彼女を背負うのは難しかった。


 でも、置いていくという選択肢はなかった。


 階段へ向かう。


 そのとき、革靴の音が聞こえた。


 コツ、コツ、と。


 階段を上ってきた男を見た瞬間、全身から冷や汗が流れた。


 大柄な男だった。


 筋骨隆々とした体格。


 顔には皺がある。


 それでも、目だけでわかった。


 この男には勝てない。


 明人先生には、相手と自分の力量差を見抜けと教えられてきた。


 だから、わかってしまった。


 恐らく、先生と同じか、それ以上。


 今までの男たちのような油断はない。


 隙がない。


 僕は、あずさを抱く腕に力を込めた。


 竹刀を握る。


 どうする。


 どうすれば、彼女を守り抜ける。


 男が少しだけ口元を歪めた。


「良い目をするな、坊主。それにその血のついた竹刀。俺たちが到着する前に、何人か潰したようだな。その上、無傷か。面白い。実に面白い」


 男の無線が鳴った。


『相談役。全階クリア。ただ不思議なことに、すでに倒れていた者が……』


「ああ、わかっている。今、その犯人と会ったよ。少し話したいから報告は待て」


 相談役。


 その言葉だけが、妙に耳に残った。


「さて、まずその嬢ちゃん。ずいぶんと体調悪そうだが……」


 男があずさに手を伸ばす。


 僕は竹刀でその手を払おうとした。


 けれど、竹刀は簡単に掴まれた。


「……彼女に触るな」


 必死に力を込める。


 けれど、動かない。


「落ち着け。俺は四方院家、この病院の経営者側の人間だ。お前たちに危害を加える気は……今のところはない」


「信用できない」


「いい判断だ」


 男は笑った。


「とにかく医療班を呼ぶ。おとなしくしていろ」


 すぐに白衣の人間たちが駆けつけてきた。


 その中に、顔見知りの看護師がいた。


「あら、誰かと思えば桜夜ちゃんに、あずさちゃん」


「和美姉ちゃん、あずさが発作を起こして、それで……」


「わかった。先生!」


 担架が用意される。


 医師たちがあずさを診る。


 それを見て、僕の目は霞んだ。


 緊張の糸が切れた。


 あずさを抱いたまま、竹刀を手放し、そのまま意識を失った。


     ◇◇◇


 ようやく面会謝絶が解けた日。


 僕は、あずさの病室に飛び込んだ。


 泣いていた。


「あずさぁ……」


「また呼び捨てにして。ちゃんとお姉ちゃんと……って、もういいか」


「……?」


「ずいぶん、あたしのために頑張ったみたいだからね。暴漢相手に大立ち回りをしたらしいじゃない。あたしのために?」


 あずさはそっぽを向いた。


 顔が少し赤かった。


「これからは、あずさって呼んでいいの?」


「ま、ご褒美だからしかたないな」


「ありがとう、あずさ! 大好き!」


「ええい、抱きつくな! この犬っころ!」


 それから、僕はゆっくり眠ることができた。


 不意に、誰かに頭を撫でられる感触で目を覚ました。


 重い瞼を開けると、そこには大好きな少女の笑顔があった。


「やっと起きた」


「あずさ……」


 しばらくは、平穏な日々が続いた。


 けれど、明人先生が亡くなった。


 その葬式に、あの男が来た。


「よう、坊主。久しぶりだな」


 渋々振り返ると、そこには紋付袴を着た、あの相談役がいた。


     ◆◆◆


「いやあ、あれからずっとお前さんと話してみたかったんだが、何かと忙しくてな」


「はあ……」


 夜の公園。


 ワンカップ片手に笑う、おっさんとも爺さんともつかない紋付姿の男。


 そして喪服姿の少年。


 今思えば、ひどく目立つ組み合わせだった。


 周囲に人気がなかったとはいえ、早く帰りたくて仕方がなかった。


「しかしお前、ずいぶんと腕が立つと思ったら、あのじじいの弟子なんだってな」


「なんでそんなこと……」


「お前のことはだいたい調べさせてもらったからな。今日はスカウトに来た」


「スカウト……?」


「ああ。お前、俺の下で働けよ。今なら最初から相談役補佐官に――」


「お断りします。僕は忙しいので。それでは」


 矢継ぎ早に言って、僕は男に背を向けた。


 その背中に、飲み終わったワンカップが投げつけられる。


 僕は反射的に、それを左手で受け止めた。


「お見事。やっぱり惜しいなあ。なら、取引しようじゃないか」


「取引?」


「ああ。俺は今、世界でいくつもの原因不明の難病を治療してきた若き名医、武藤静馬という男に、四方院の専属になるよう交渉中だ」


「それと僕に何の関係が……」


「お前さんにもいるだろ」


 男は笑った。


「治ってほしい女が」


 僕は奥歯を噛んだ。


「明日、俺は静馬とオンラインで取引をする。その場にお前も招待してやる。明日、お前の家に車を寄越すから、俺の下で働くつもりがあるなら乗るといい」


 じゃあな、と男は後ろ手に手を振って去っていった。


 気に入らない。


 心からそう思った。


 でも、わずかでも可能性があるなら。


 結局、次の日、僕は黒塗りのいかにも怪しげな車に自ら乗り込んだ。


 横浜の外れにある鷹司の屋敷へ向かった。


 屋敷の相談役執務室で、僕はあの男の隣に座らされた。


 なるべく距離を取りながら。


 しばらくすると、スクリーンが下りた。


 そこに白衣の若い男性が映る。


 武藤静馬。


 小学生の頃に四方院家から奨学金を受け、アメリカへ留学し、飛び級を繰り返して医師になった天才。


 当時は二十歳前後にしか見えなかった。


 実際、そうだった。


「静馬先生。お忙しいところ毎度すまんね」


『いえ、四方院家には奨学金を出していただいた恩義がありますから。ですが、以前も述べたように、私はアメリカで最先端の研究に従事したい。奨学金の返済が必要なら一括でしますので、もう私を日本に呼び戻そうとするのはやめていただけませんか』


「いや、今回は別の頼みがしたくてな。この坊主の女の診察と治療をお願いしたいんだ」


 男は、僕の頭に無駄に大きな手を置いた。


『論外です。私の診察を希望する人間はいくらでもいます。そんな縁もゆかりもない少年の――』


「あの!」


 僕は会話に割って入った。


「先生は、難病の研究をしているんですよね?」


『そうだが、それが……』


「もし先生が日本に来て、あずさを助けてくれるなら、僕の血を研究させてあげます。きっと役に立つと思います」


『血? 君の血に何が……』


 静馬くんは訝しそうだった。


 この頃は、まだ静馬くんなんて呼べる関係ではなかったけれど。


 相談役が、いくつかのデータを送った。


 しばらくして、静馬くんの目の色が変わった。


『これは……一体……』


「さあな。神獣と契約した人間はいろいろおかしくなる」


 鳳凰の夢を見てから、僕は一度だけ血液検査を受けたことがあった。


 その時に発見されたのが、今ではP因子と呼ばれるものだった。


 強力な免疫として働き、ウイルス、毒物、がん細胞などを駆逐し、常に身体のホメオスタシスを正常化させる機能を持つ因子。


 僕にとっては、自分の身体がまたひとつ人間から遠ざかった証だった。


 でも、あずさを助ける役に立つなら何でもよかった。


「静馬先生。あなたが日本に来てくれるなら、本人の同意の下で研究できますよ。なあ、桜夜?」


 相談役はにやりと笑った。


 思い通りに動かされている。


 利用されている。


 そのことに、不快感を覚えた。


 野良犬は野良犬であって、飼い犬ではない。


 けれど、僕は黙って頷いた。


『……いいでしょう。すぐに日本へ戻る準備をします』


     ◆◆◆


 それから三日後、静馬くんは日本に帰国した。


 まず、あずさの診察が行われた。


 その後、僕の身体は徹底的に調べ上げられた。


 そんな非日常から三か月後。


 四方院総合病院に設けられた静馬の診察室兼研究室に、僕は呼ばれた。


「まず、君のP因子をいろいろな実験に使ってみたが、あずさくんの治療には役に立たないだろう」


「そう、ですか……」


 落胆した。


 世界でもトップクラスの名医が、自分の身体を調べれば、何かヒントくらいは見つかるのではないかと思っていた。


 今思えば、子どもの願いだ。


 ちなみに静馬くんは、誰の許可も取らず、あずさにもすでにP因子を投与していた。


 効果はなかったらしい。


 それを後で聞いた時、僕は静馬くんを力いっぱい殴った。


 静馬くんは殴られた頬を押さえながら、「当然だな」と言った。


 あの頃から、彼は少しおかしかった。


「ただ、あずさくんに関しては、いくつか治療方針を変えた。薬も変えた。最近は容体も安定しているし、転地療養をしてみてはどうだろうか」


「それ、なんで僕に聞くんですか?」


「本人の了承は得ている。そもそも、私を雇っているのは実質君だろう」


「はあ」


 静馬くんにお金を払っていたのは四方院家だ。


 けれど、彼があずさの治療を日本でしてくれているのは、僕の身体を研究する見返りからだった。


 この頃はまだ、研究者とモルモットくらいの関係だった。


 けれど、僕の身体に詳しくなるにつれ、静馬くんは僕の唯一の主治医であり、友人になっていく。


 彼は冷徹な研究者ではなく、あずさと僕のことを気にかけてくれる、優しいお医者さんだったからだ。


「それと、転地療養中はなるべく君がそばにいるように」


「え?」


「私はあまりオカルトを信じないことにしているが、君が生命力に溢れているのは事実だ。強い生命力は、時に他者に影響を与える」


 静馬くんは淡々と言った。


「転地療養先は、鷹司相談役が別荘を用意してくれている。あとは患者と相談して決めてくれ。外出許可を書く」


 話は終わりだと、静馬くんはパソコンに向かった。


 僕は一礼し、部屋を出た。


 部屋の前で少しだけぼんやりしていると、静馬くんと助手のあかりさんの声が聞こえた。


『ねえ、静馬。転地療養だなんて、最期の思い出でも作らせたいの?』


『別に。ただ、少しでも可能性がある方法を選んでみただけだ』


『逆に言えば、あなたにももうそれしかできないほどってことよね』


 沈黙。


 それ以上、盗み聞きしていても仕方がなかった。


 僕は病院の廊下を歩き出した。


 もう、残り時間は少ない。


     ◆◆◆


 向かったのは、鷹司相談役が所有する伊豆の別荘だった。


 別荘まで送ってくれたのは、静馬くんだった。


 万が一に備えて、彼は別の別荘で控えることになっていた。


 その手配をしたのは、すべて鷹司相談役。


 今だからわかるが、同情ではない。


 彼は、僕を支配下に置きたかったのだろう。


 確かに、鷹司相談役は僕より遥かに義理人情に厚い人だった。


 だが、相談役という仕事は、それだけで務まるものではない。


 僕はあずさを少し休ませたあと、近くの浜辺に誘った。


 伝えたいことがあった。


 誰もいない夕暮れの砂浜。


 二人の足跡が続いては、波に消えていく。


 僕らは無言だった。


 嫌な無言ではなかった。


 けれど僕は、いつ想いを伝えようか考えていた。


 だから、先を歩くあずさが足を止め、僕の方を振り返っていることに気づくのが遅れた。


「おっと。どうしたの?」


 あずさは、儚げに笑っていた。


「……ねえ、知ってる?」


「何を?」


「あたしたち、もうすぐお別れなんだよ」


 僕は苦笑した。


「知ってるよ」


「知っててこんなとこまで来ちゃうなんて、ばかなわんこだなあ。青春を無駄遣いしてるよ?」


「なら、あずさは知ってる?」


「何を?」


「僕が、あずさを大好きなこと」


「うん。知ってるよ」


 あずさはそう言った。


 当たり前みたいに。


 だから僕も、逃げなかった。


「あずさの時間が残り少ないのはわかってる。だけど、その時間を僕にくれないかな」


「なにそれ」


 あずさは僕に背を向けた。


「僕と、付き合ってほしい」


「……後悔するかもよ」


「後悔しないために、言ってる」


 僕は、あずさの前に出た。


 あずさは泣いていた。


 夕陽に照らされた泣き顔を、美しいと思った。


「キス、してもいい?」


 あずさは何も言わなかった。


 ただ、目を閉じた。


 だから僕は、彼女の唇に自分の唇を重ねた。


 ファーストキスは、苦い涙の味だった。


     ◇◇◇


 それから僕とあずさは、みんなが作ってくれた時間を精一杯生きた。


 一分でも、一秒でも長く一緒にいた。


 朝、一緒に起きた。


 慣れない料理に挑戦した。


 観光地へ送ってもらって、デートもした。


 縁結びのお守りを、お揃いでもらった。


 おいしいものを食べた。


 たくさん笑った。


 お風呂も、寝るときも一緒だった。


 少しでも一緒にいたくて、夜更かしもした。


 そんなある夜、ベッドに二人並んで横になり、手をつなぎながらガラス張りの天井を眺めていた。


 星に、この幸せが少しでも長く続くように願っていると、あずさが話しかけてきた。


「ねえ」


「ん?」


「本当に、初めての恋人があたしでよかったの?」


「なんでそんなこと聞くの?」


「だってあたし、桜夜くんの子、産んであげられないよ?」


 それは、いつか彼女自身が提案したことの否定だった。


 あずさはもう、僕と結婚し、僕の子どもを産むという夢を、諦めてしまっていた。


 だから僕は、つとめて明るく言った。


「いいんだよ。別に。野良犬の血は一代限りでいい」


 あずさは星から僕へ視線を移した。


「でも、あたしは見てみたかったな」


「何を?」


「桜夜くんとの子。きっとかわいいんだろうなあ」


「そうかな?」


「そうよ。だって今でも覚えてるもん。初めて逢った日のこと。ずいぶんかわいらしい子犬がじゃれついてきたなって思った」


「あの頃は、人との適切な距離感がよくわからなかったからなあ」


「今でもそうじゃない」


 あずさは笑った。


「うん。でも、だからこそ、あたしたちは今こうしてるんだよね」


 不意に、あずさが僕にキスをした。


 優しいキスだった。


「おやすみ、桜夜くん」


「うん。おやすみ」


 その翌日、あずさの容体は急変した。


 一週間、彼女は死の淵をさまよった。


 どうにか持ち直してくれたけれど、もう残された時間は、本当に少なかった。


 病室で横になる彼女の手を握りながら、たわいもない話をしていると、あずさは作り物のような笑顔を浮かべた。


「もし、あたしが死んだら、あたしのことなんてすっぱり忘れて、恋人作って、いつか結婚しなね」


 僕は困ったように笑った。


「前にも言ったけど、あたし、あんたの子どもを見てみたいんだから」


「あずさは、うそをつくのが下手だね」


 あずさはそっぽを向いた。


「しょうがないじゃん。嘘をつく相手があんまいないんだから……」


「僕はいつも本音でぶつかってくるあずさが好きだよ」


 僕は、彼女の手を握った。


「だから、君の本音を聞かせてよ」


 あずさはしばらく肩を震わせていた。


 やがて、不意に僕の胸に飛び込んできた。


「死にたくない!」


 彼女は泣いていた。


「死にたくないよ……もっと一緒にいたい。桜夜と、あたしの子どもにも会いたい。どうして、どうして、もう時間切れなの?」


 僕は何も言えなかった。


 ただ、彼女を抱きしめた。


 しばらく僕の胸で泣いた彼女は、泣き疲れてベッドに戻った。


 長い沈黙が流れる。


 やがて、あずさは小さく言った。


「……ねえ」


「うん?」


「ひどいお願い、していい?」


「なんでもいいよ」


 あずさは、僕を見た。


「あたしを、忘れないで」


 声が震えていた。


「ずっとずっと、忘れないで。いつか生まれ変わるから、またあたしを見つけて」


 僕は笑った。


 笑うしかなかった。


「もちろん。僕のお姫様」


「……ありがとう」


 あずさは安心したように目を閉じた。


「あたしのナイトわんこ」


 最後までわんこなんだな、と思った。


 彼女は、そのまま眠りについた。


 夕焼けが病室を照らした。


 やがて、夜の漆黒が訪れた。


 その頃、彼女はそのまま息を引き取った。


 僕は、彼女の手をずっと握っていた。


     ◇◇◇


 桜夜の声が止まった。


 図書室には、重い沈黙が落ちていた。


 ホムラは何も言えなかった。


 リオは書類の上に置いた手を動かせずにいる。


 サイカは扉の陰で、お腹に手を当てていた。


 桜夜は、静かにピンク色の日記帳を閉じた。


「いつか、竹取物語の話をしたね」


 ホムラが顔を上げる。


「なぜ帝は永遠の命を手に入れて、姫を待つ道を選ばなかったのかって」


「……っ」


 ホムラは気づいた。


 桜夜は、永遠の命を得た帝なのだ。


 けれど、姫は月ではなく、あの世へ逝ってしまった。


 再会の可能性などない。


 それでも待ち続けている。


 永遠に。


 馬鹿な野良犬のまま。


「お前……っ」


 ホムラは、ようやく声を絞り出した。


「つらくねえのかよ」


 桜夜は、いつものように笑おうとした。


 けれど、それは失敗した。


「そりゃあ……」


 桜夜は、あの日のあずさが浮かべたのと同じ、作り物のような笑顔を浮かべた。


 それは、まるで大切な人を殺し、もう奪われないと喜びながら泣く、ピエロのようだった。


「つらいさ」


 ホムラは、一歩後ずさった。


 その顔を見てしまったからだ。


 終わった者の顔だった。


 不死身の魔女と呼ばれた母よりも、その伴侶を務めた父よりも、壊れているように見えた。


 昨日、自分に「好きだ」と言った男。


 一生一緒にいてもらうと笑った男。


 その奥にいたのは、こんな顔をした人間だったのか。


「僕が怖い?」


 桜夜は優しい声で言った。


「君も――」


 逃げるのかい。


 その言葉が最後まで届く前に、ホムラは走り出していた。


 逃げた。


 自分でも、それがわかった。


 それでも足は止まらなかった。


 図書室の扉が乱暴に開き、ホムラの足音が遠ざかる。


 サイカは、隠れたまま動けなかった。


 ただ、お腹の中のイノリに触れた。


 リオは、震える指を握りしめる。


 桜夜は、何事もなかったように机へ向き直った。


「リオちゃん」


「えっ、あっ、あの……」


「今の話も、記録する?」


 リオは答えられなかった。


 桜夜は、机の引き出しからもう一冊、黒い日記帳を取り出した。


 そして、ピンク色の日記帳の上に重ねる。


「記録したいなら、使ってね」


 静かな声だった。


 リオは唇を震わせた。


「桜夜様……」


「大丈夫」


 桜夜は笑った。


 いつものように。


 いつものように見えるように。


「ただの昔話だよ」


 そして、桜夜は静かに図書室をあとにした。


 サイカが隠れていることには気づいていた。


 けれど、気づかないふりをした。


 今の顔を、これ以上、誰かに見せたくなかった。


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