第67話 あずさって女の話をしろ
「あずさって女の話をしろ」
桜夜の突然の口説きに頭を悩ませていたホムラは、図書室で退屈そうにしていた桜夜に、ずかずかと歩み寄ってそう言い放った。
その突然の発言に、書類整理をしていたリオは固まった。
廊下を通りかかったサイカは、思わず扉の陰に隠れた。
桜夜は、読んでいた本から顔を上げる。
少しだけ目を瞬かせ、それからいつものように笑った。
「ホムラちゃんって、過去の女が気になるタイプ?」
「茶化すな」
ホムラの目はすわっていた。
赤い瞳が、まっすぐ桜夜を射抜いている。
「オレは、死んだ女と張り合う気はねえ」
「……」
「けど、お前の中にいるなら話は別だ」
桜夜は黙った。
ホムラは一歩近づく。
「お前、昨日オレに好きだって言っただろ」
「言ったね」
「一生一緒にいてもらうとか、ふざけたことも言った」
「ふざけてはいないよ」
「だったら話せ」
ホムラは、桜夜の逃げ道を焼き払うように言った。
「お前と、あずさって女の話をしろ」
桜夜はしばらく何も言わなかった。
やがて、小さくため息をつく。
「君は本当に、逃げ道を潰すのが上手いね」
「お前ほどじゃねえ」
「痛いところを突く」
「お前が逃げるからだ」
桜夜は困ったように笑った。
そして、机の引き出しを開ける。
中から取り出されたのは、ピンク色の古ぼけた日記帳だった。
表紙には、丁寧な字で名前が書かれている。
如月あずさ。
リオの手が止まった。
サイカは、扉の陰で息を呑む。
「彼女には親族が少なくてね。遺品のほとんどは僕が受け取ることになった」
桜夜は、日記帳の最後の方のページを開いた。
「読む?」
「いい」
ホムラは即答した。
「お前が話せ」
桜夜は少しだけ目を細めた。
「わかった」
その指が、古い紙の上をなぞる。
「じゃあ、話そうか」
桜夜は穏やかに言った。
「最期まで野良犬のことを信じて、心配した馬鹿な女と、女ひとり救えなかった愚かな野良犬の話を」
◇◇◇
昔。
まだ明人先生がご存命だった頃の話だ。
先生に拾われたばかりの頃の僕は、病弱で、ひ弱だった。
先生は僕の心と身体を強くするために、剣や体術や、いろいろな訓練をしてくれた。けれど、身体がそれについてこないことも多かった。
僕はたびたび、四方院家が運営する総合病院に入院していた。
先生の家より、病院の個室の方が住み慣れていたくらいだ。
ある日、僕は病室の窓から外を眺めていた。
中庭のベンチに、ひとりの少女がいた。
長い黒髪を耳に流しながら、静かに文庫本を読んでいた。
見惚れてしまった。
胸が、はねた。
トクン、トクン、と。
不意に風が吹いた。
彼女が顔を上げる。
こちらを見た。
そして、僕に微笑んだ。
その頃の僕は、今みたいに捻くれていなかったから、その笑みを「近くに来ていい」という意味だと理解した。
今思えば、とんでもない勘違いだ。
でも、その勘違いがなければ、僕は彼女と出逢えなかった。
僕は病室を抜け出し、急いで彼女のもとへ向かった。
急がなければ、どこかに消えてしまいそうな少女だった。
如月あずさ。
僕が彼女と出逢ったのは、そんな僕の勘違いからだった。
それ以来、僕は彼女の病室へ通うようになった。
まさに野良犬らしい行動だと、今でも思う。
彼女はいつも本を読んでいた。
僕が行くと、少し呆れたように笑って、それでも相手をしてくれた。
ある日、僕は明人先生に言われた話を彼女にした。
心身共に強くなれ。
先生と、そう約束したのだと。
彼女は微笑みながら言った。
「そう。頑張ってね」
「うん、頑張る!」
僕は、本当にそう思っていた。
「それでね、お姉ちゃん。僕が心身共に強くなったら、僕と結婚してくれる……?」
あずさは少しだけ驚いたようだった。
それから、柔らかく笑った。
「そのとき、あたしが生きていたらね」
「大丈夫!」
僕は何も知らなかった。
彼女の病気のことも。
残り時間のことも。
命というものが、どれだけ簡単に終わるのかも。
「僕はすぐに強くなって、お姉ちゃんを迎えにいくよ! それに、ここの病院には世界でもすごいお医者さんが集まってるんだ。お姉ちゃんの病気だってすぐに治るよ!」
「そうね」
あずさは、僕の頭を撫でてくれた。
「ありがとう」
その感触を、今でも覚えている。
◆◆◆
その次の日だった。
僕は唐突に倒れ、四方院総合病院に担ぎ込まれた。
原因不明のまま意識が戻らない日々が続いた。
痛くも苦しくもなかった。
ただ、ずっとふわふわしていた。
ああ、死ぬんだなあ。
ぼんやりと、そう思った。
でもその時、不意に、あずさの泣く声を聞いた気がした。
だから、戻らなきゃと思った。
けれど戻れない。
死が、僕を絡め取って離さない。
そのとき、光が現れた。
《生きたいですか?》
声が聞こえた。
僕は答えた。
生きたい、と。
《なぜ? あなたの身体は不完全です。今いのちをつないでも、すぐにいのち尽きるでしょう》
約束があるから。
生きなきゃ。
《生きることで、あなたはたくさん苦しむでしょう。それでも、ですか?》
それでも、僕は。
《わかりました。あなたに私のいのちをあげましょう。ちょうどここで暇をしていたところです》
そこで意識は途切れた。
あとで知ったことだが、そのとき僕に話しかけてきたのは、この病院の守りとして奉じられていた鳳凰だったらしい。
退屈しのぎの宿主を探していて、僕はお眼鏡に叶った。
ずいぶんと迷惑な話だ。
僕が意識を取り戻すと、泣きながらシーツを掴んでいるあずさの顔が見えた。
「……お姉ちゃん?」
彼女は目を見開いた。
それから、くしゃりと顔を歪めた。
「……ばか。心配させないで」
あずさが僕の胸に顔を埋める。
僕は慣れない手つきで、彼女の頭を撫でた。
「大丈夫。僕は大丈夫」
鳳凰の力が、僕を満たしていく。
弱かった身体が、少しずつ作り替えられていく。
死にかけていたはずの僕は、強健な身体を手に入れた。
でも、心は今も弱いままだった。
空っぽの野良犬。
「僕は大丈夫。お姉ちゃんをお嫁さんにするんだから」
あずさは、泣きながら笑った。
◇◇◇
それ以来、僕が病に倒れることはなくなった。
病院に行く理由は、もっぱらあずさに会うためになった。
ある日、遅くまであずさと話していたとき、事件は起きた。
不意に病院の電気が消えた。
ざわざわという騒ぎ。
ドタドタという足音。
やがて、院内放送で占領宣言があった。
後にわかったことだが、四方院家に恨みを持つ組織が、病院にいる患者を人質にしようと起こした事件だった。
僕は、明人先生にいつも言われていたことを思い出していた。
大切な人を守るために、どうすればいいかを考えろ。
その時、あずさが咳をし始めた。
容態はみるみる悪くなり、ぜえぜえと息をしながらベッドに倒れ込んだ。
発作だった。
主治医を呼ばなければならない。
でも、ナースコールを押しても無駄だとすぐにわかった。
病院は占拠されている。
医師が動ける保証はない。
ならば、自分で連れてくるしかない。
僕は、永久の桜の花びらが入ったお守りを、あずさの手に握らせた。
明人先生が病弱だった僕のために用意したものだ。
でも、その時は、あずさを守ってほしかった。
訓練用の、鉄芯の入った竹刀を竹刀袋から取り出す。
そして、病室を出た。
廊下には、武装した男がいた。
僕は息を潜め、背後から近づき、後頭部を竹刀で叩いた。
男が倒れる。
音が響く。
すぐに見つかる。
でも、急がなければならなかった。
六階に、主治医の部屋がある。
長い入院生活で、僕は病院の構造をよく知っていた。
階段を駆け上がる。
見回りの男たちがいた。
僕は、相手の指がトリガーにかかっていないことだけを見た。
動揺している。
こちらを子どもだと思っている。
だから叩いた。
何人倒したのかは覚えていない。
初めて人を怒鳴った。
初めて舌打ちをした。
初めて、血の匂いを間近に感じた。
主治医は、すでに死んでいた。
頭を撃ち抜かれて、床に倒れていた。
死体を生で見るのは初めてだった。
けれど、その時の僕には、あずさのことしかなかった。
他の医師は。
治療できる看護師は。
誰か、あずさを助けられる人間は。
返ってきた答えは、わからない、だった。
なら、ここから出るしかない。
そう思って、あずさの病室へ戻った。
「あずさ! 大丈夫!?」
焦っていた僕は、思わずそう叫んだ。
普段は彼女からの言いつけで、お姉ちゃんと呼んでいた。
けれど、その時はそんな余裕がなかった。
彼女は発作で苦しそうなままだった。
僕は、あずさを背負った。
自分より背の高い彼女を背負うのは難しかった。
でも、置いていくという選択肢はなかった。
階段へ向かう。
そのとき、革靴の音が聞こえた。
コツ、コツ、と。
階段を上ってきた男を見た瞬間、全身から冷や汗が流れた。
大柄な男だった。
筋骨隆々とした体格。
顔には皺がある。
それでも、目だけでわかった。
この男には勝てない。
明人先生には、相手と自分の力量差を見抜けと教えられてきた。
だから、わかってしまった。
恐らく、先生と同じか、それ以上。
今までの男たちのような油断はない。
隙がない。
僕は、あずさを抱く腕に力を込めた。
竹刀を握る。
どうする。
どうすれば、彼女を守り抜ける。
男が少しだけ口元を歪めた。
「良い目をするな、坊主。それにその血のついた竹刀。俺たちが到着する前に、何人か潰したようだな。その上、無傷か。面白い。実に面白い」
男の無線が鳴った。
『相談役。全階クリア。ただ不思議なことに、すでに倒れていた者が……』
「ああ、わかっている。今、その犯人と会ったよ。少し話したいから報告は待て」
相談役。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
「さて、まずその嬢ちゃん。ずいぶんと体調悪そうだが……」
男があずさに手を伸ばす。
僕は竹刀でその手を払おうとした。
けれど、竹刀は簡単に掴まれた。
「……彼女に触るな」
必死に力を込める。
けれど、動かない。
「落ち着け。俺は四方院家、この病院の経営者側の人間だ。お前たちに危害を加える気は……今のところはない」
「信用できない」
「いい判断だ」
男は笑った。
「とにかく医療班を呼ぶ。おとなしくしていろ」
すぐに白衣の人間たちが駆けつけてきた。
その中に、顔見知りの看護師がいた。
「あら、誰かと思えば桜夜ちゃんに、あずさちゃん」
「和美姉ちゃん、あずさが発作を起こして、それで……」
「わかった。先生!」
担架が用意される。
医師たちがあずさを診る。
それを見て、僕の目は霞んだ。
緊張の糸が切れた。
あずさを抱いたまま、竹刀を手放し、そのまま意識を失った。
◇◇◇
ようやく面会謝絶が解けた日。
僕は、あずさの病室に飛び込んだ。
泣いていた。
「あずさぁ……」
「また呼び捨てにして。ちゃんとお姉ちゃんと……って、もういいか」
「……?」
「ずいぶん、あたしのために頑張ったみたいだからね。暴漢相手に大立ち回りをしたらしいじゃない。あたしのために?」
あずさはそっぽを向いた。
顔が少し赤かった。
「これからは、あずさって呼んでいいの?」
「ま、ご褒美だからしかたないな」
「ありがとう、あずさ! 大好き!」
「ええい、抱きつくな! この犬っころ!」
それから、僕はゆっくり眠ることができた。
不意に、誰かに頭を撫でられる感触で目を覚ました。
重い瞼を開けると、そこには大好きな少女の笑顔があった。
「やっと起きた」
「あずさ……」
しばらくは、平穏な日々が続いた。
けれど、明人先生が亡くなった。
その葬式に、あの男が来た。
「よう、坊主。久しぶりだな」
渋々振り返ると、そこには紋付袴を着た、あの相談役がいた。
◆◆◆
「いやあ、あれからずっとお前さんと話してみたかったんだが、何かと忙しくてな」
「はあ……」
夜の公園。
ワンカップ片手に笑う、おっさんとも爺さんともつかない紋付姿の男。
そして喪服姿の少年。
今思えば、ひどく目立つ組み合わせだった。
周囲に人気がなかったとはいえ、早く帰りたくて仕方がなかった。
「しかしお前、ずいぶんと腕が立つと思ったら、あのじじいの弟子なんだってな」
「なんでそんなこと……」
「お前のことはだいたい調べさせてもらったからな。今日はスカウトに来た」
「スカウト……?」
「ああ。お前、俺の下で働けよ。今なら最初から相談役補佐官に――」
「お断りします。僕は忙しいので。それでは」
矢継ぎ早に言って、僕は男に背を向けた。
その背中に、飲み終わったワンカップが投げつけられる。
僕は反射的に、それを左手で受け止めた。
「お見事。やっぱり惜しいなあ。なら、取引しようじゃないか」
「取引?」
「ああ。俺は今、世界でいくつもの原因不明の難病を治療してきた若き名医、武藤静馬という男に、四方院の専属になるよう交渉中だ」
「それと僕に何の関係が……」
「お前さんにもいるだろ」
男は笑った。
「治ってほしい女が」
僕は奥歯を噛んだ。
「明日、俺は静馬とオンラインで取引をする。その場にお前も招待してやる。明日、お前の家に車を寄越すから、俺の下で働くつもりがあるなら乗るといい」
じゃあな、と男は後ろ手に手を振って去っていった。
気に入らない。
心からそう思った。
でも、わずかでも可能性があるなら。
結局、次の日、僕は黒塗りのいかにも怪しげな車に自ら乗り込んだ。
横浜の外れにある鷹司の屋敷へ向かった。
屋敷の相談役執務室で、僕はあの男の隣に座らされた。
なるべく距離を取りながら。
しばらくすると、スクリーンが下りた。
そこに白衣の若い男性が映る。
武藤静馬。
小学生の頃に四方院家から奨学金を受け、アメリカへ留学し、飛び級を繰り返して医師になった天才。
当時は二十歳前後にしか見えなかった。
実際、そうだった。
「静馬先生。お忙しいところ毎度すまんね」
『いえ、四方院家には奨学金を出していただいた恩義がありますから。ですが、以前も述べたように、私はアメリカで最先端の研究に従事したい。奨学金の返済が必要なら一括でしますので、もう私を日本に呼び戻そうとするのはやめていただけませんか』
「いや、今回は別の頼みがしたくてな。この坊主の女の診察と治療をお願いしたいんだ」
男は、僕の頭に無駄に大きな手を置いた。
『論外です。私の診察を希望する人間はいくらでもいます。そんな縁もゆかりもない少年の――』
「あの!」
僕は会話に割って入った。
「先生は、難病の研究をしているんですよね?」
『そうだが、それが……』
「もし先生が日本に来て、あずさを助けてくれるなら、僕の血を研究させてあげます。きっと役に立つと思います」
『血? 君の血に何が……』
静馬くんは訝しそうだった。
この頃は、まだ静馬くんなんて呼べる関係ではなかったけれど。
相談役が、いくつかのデータを送った。
しばらくして、静馬くんの目の色が変わった。
『これは……一体……』
「さあな。神獣と契約した人間はいろいろおかしくなる」
鳳凰の夢を見てから、僕は一度だけ血液検査を受けたことがあった。
その時に発見されたのが、今ではP因子と呼ばれるものだった。
強力な免疫として働き、ウイルス、毒物、がん細胞などを駆逐し、常に身体のホメオスタシスを正常化させる機能を持つ因子。
僕にとっては、自分の身体がまたひとつ人間から遠ざかった証だった。
でも、あずさを助ける役に立つなら何でもよかった。
「静馬先生。あなたが日本に来てくれるなら、本人の同意の下で研究できますよ。なあ、桜夜?」
相談役はにやりと笑った。
思い通りに動かされている。
利用されている。
そのことに、不快感を覚えた。
野良犬は野良犬であって、飼い犬ではない。
けれど、僕は黙って頷いた。
『……いいでしょう。すぐに日本へ戻る準備をします』
◆◆◆
それから三日後、静馬くんは日本に帰国した。
まず、あずさの診察が行われた。
その後、僕の身体は徹底的に調べ上げられた。
そんな非日常から三か月後。
四方院総合病院に設けられた静馬の診察室兼研究室に、僕は呼ばれた。
「まず、君のP因子をいろいろな実験に使ってみたが、あずさくんの治療には役に立たないだろう」
「そう、ですか……」
落胆した。
世界でもトップクラスの名医が、自分の身体を調べれば、何かヒントくらいは見つかるのではないかと思っていた。
今思えば、子どもの願いだ。
ちなみに静馬くんは、誰の許可も取らず、あずさにもすでにP因子を投与していた。
効果はなかったらしい。
それを後で聞いた時、僕は静馬くんを力いっぱい殴った。
静馬くんは殴られた頬を押さえながら、「当然だな」と言った。
あの頃から、彼は少しおかしかった。
「ただ、あずさくんに関しては、いくつか治療方針を変えた。薬も変えた。最近は容体も安定しているし、転地療養をしてみてはどうだろうか」
「それ、なんで僕に聞くんですか?」
「本人の了承は得ている。そもそも、私を雇っているのは実質君だろう」
「はあ」
静馬くんにお金を払っていたのは四方院家だ。
けれど、彼があずさの治療を日本でしてくれているのは、僕の身体を研究する見返りからだった。
この頃はまだ、研究者とモルモットくらいの関係だった。
けれど、僕の身体に詳しくなるにつれ、静馬くんは僕の唯一の主治医であり、友人になっていく。
彼は冷徹な研究者ではなく、あずさと僕のことを気にかけてくれる、優しいお医者さんだったからだ。
「それと、転地療養中はなるべく君がそばにいるように」
「え?」
「私はあまりオカルトを信じないことにしているが、君が生命力に溢れているのは事実だ。強い生命力は、時に他者に影響を与える」
静馬くんは淡々と言った。
「転地療養先は、鷹司相談役が別荘を用意してくれている。あとは患者と相談して決めてくれ。外出許可を書く」
話は終わりだと、静馬くんはパソコンに向かった。
僕は一礼し、部屋を出た。
部屋の前で少しだけぼんやりしていると、静馬くんと助手のあかりさんの声が聞こえた。
『ねえ、静馬。転地療養だなんて、最期の思い出でも作らせたいの?』
『別に。ただ、少しでも可能性がある方法を選んでみただけだ』
『逆に言えば、あなたにももうそれしかできないほどってことよね』
沈黙。
それ以上、盗み聞きしていても仕方がなかった。
僕は病院の廊下を歩き出した。
もう、残り時間は少ない。
◆◆◆
向かったのは、鷹司相談役が所有する伊豆の別荘だった。
別荘まで送ってくれたのは、静馬くんだった。
万が一に備えて、彼は別の別荘で控えることになっていた。
その手配をしたのは、すべて鷹司相談役。
今だからわかるが、同情ではない。
彼は、僕を支配下に置きたかったのだろう。
確かに、鷹司相談役は僕より遥かに義理人情に厚い人だった。
だが、相談役という仕事は、それだけで務まるものではない。
僕はあずさを少し休ませたあと、近くの浜辺に誘った。
伝えたいことがあった。
誰もいない夕暮れの砂浜。
二人の足跡が続いては、波に消えていく。
僕らは無言だった。
嫌な無言ではなかった。
けれど僕は、いつ想いを伝えようか考えていた。
だから、先を歩くあずさが足を止め、僕の方を振り返っていることに気づくのが遅れた。
「おっと。どうしたの?」
あずさは、儚げに笑っていた。
「……ねえ、知ってる?」
「何を?」
「あたしたち、もうすぐお別れなんだよ」
僕は苦笑した。
「知ってるよ」
「知っててこんなとこまで来ちゃうなんて、ばかなわんこだなあ。青春を無駄遣いしてるよ?」
「なら、あずさは知ってる?」
「何を?」
「僕が、あずさを大好きなこと」
「うん。知ってるよ」
あずさはそう言った。
当たり前みたいに。
だから僕も、逃げなかった。
「あずさの時間が残り少ないのはわかってる。だけど、その時間を僕にくれないかな」
「なにそれ」
あずさは僕に背を向けた。
「僕と、付き合ってほしい」
「……後悔するかもよ」
「後悔しないために、言ってる」
僕は、あずさの前に出た。
あずさは泣いていた。
夕陽に照らされた泣き顔を、美しいと思った。
「キス、してもいい?」
あずさは何も言わなかった。
ただ、目を閉じた。
だから僕は、彼女の唇に自分の唇を重ねた。
ファーストキスは、苦い涙の味だった。
◇◇◇
それから僕とあずさは、みんなが作ってくれた時間を精一杯生きた。
一分でも、一秒でも長く一緒にいた。
朝、一緒に起きた。
慣れない料理に挑戦した。
観光地へ送ってもらって、デートもした。
縁結びのお守りを、お揃いでもらった。
おいしいものを食べた。
たくさん笑った。
お風呂も、寝るときも一緒だった。
少しでも一緒にいたくて、夜更かしもした。
そんなある夜、ベッドに二人並んで横になり、手をつなぎながらガラス張りの天井を眺めていた。
星に、この幸せが少しでも長く続くように願っていると、あずさが話しかけてきた。
「ねえ」
「ん?」
「本当に、初めての恋人があたしでよかったの?」
「なんでそんなこと聞くの?」
「だってあたし、桜夜くんの子、産んであげられないよ?」
それは、いつか彼女自身が提案したことの否定だった。
あずさはもう、僕と結婚し、僕の子どもを産むという夢を、諦めてしまっていた。
だから僕は、つとめて明るく言った。
「いいんだよ。別に。野良犬の血は一代限りでいい」
あずさは星から僕へ視線を移した。
「でも、あたしは見てみたかったな」
「何を?」
「桜夜くんとの子。きっとかわいいんだろうなあ」
「そうかな?」
「そうよ。だって今でも覚えてるもん。初めて逢った日のこと。ずいぶんかわいらしい子犬がじゃれついてきたなって思った」
「あの頃は、人との適切な距離感がよくわからなかったからなあ」
「今でもそうじゃない」
あずさは笑った。
「うん。でも、だからこそ、あたしたちは今こうしてるんだよね」
不意に、あずさが僕にキスをした。
優しいキスだった。
「おやすみ、桜夜くん」
「うん。おやすみ」
その翌日、あずさの容体は急変した。
一週間、彼女は死の淵をさまよった。
どうにか持ち直してくれたけれど、もう残された時間は、本当に少なかった。
病室で横になる彼女の手を握りながら、たわいもない話をしていると、あずさは作り物のような笑顔を浮かべた。
「もし、あたしが死んだら、あたしのことなんてすっぱり忘れて、恋人作って、いつか結婚しなね」
僕は困ったように笑った。
「前にも言ったけど、あたし、あんたの子どもを見てみたいんだから」
「あずさは、うそをつくのが下手だね」
あずさはそっぽを向いた。
「しょうがないじゃん。嘘をつく相手があんまいないんだから……」
「僕はいつも本音でぶつかってくるあずさが好きだよ」
僕は、彼女の手を握った。
「だから、君の本音を聞かせてよ」
あずさはしばらく肩を震わせていた。
やがて、不意に僕の胸に飛び込んできた。
「死にたくない!」
彼女は泣いていた。
「死にたくないよ……もっと一緒にいたい。桜夜と、あたしの子どもにも会いたい。どうして、どうして、もう時間切れなの?」
僕は何も言えなかった。
ただ、彼女を抱きしめた。
しばらく僕の胸で泣いた彼女は、泣き疲れてベッドに戻った。
長い沈黙が流れる。
やがて、あずさは小さく言った。
「……ねえ」
「うん?」
「ひどいお願い、していい?」
「なんでもいいよ」
あずさは、僕を見た。
「あたしを、忘れないで」
声が震えていた。
「ずっとずっと、忘れないで。いつか生まれ変わるから、またあたしを見つけて」
僕は笑った。
笑うしかなかった。
「もちろん。僕のお姫様」
「……ありがとう」
あずさは安心したように目を閉じた。
「あたしのナイトわんこ」
最後までわんこなんだな、と思った。
彼女は、そのまま眠りについた。
夕焼けが病室を照らした。
やがて、夜の漆黒が訪れた。
その頃、彼女はそのまま息を引き取った。
僕は、彼女の手をずっと握っていた。
◇◇◇
桜夜の声が止まった。
図書室には、重い沈黙が落ちていた。
ホムラは何も言えなかった。
リオは書類の上に置いた手を動かせずにいる。
サイカは扉の陰で、お腹に手を当てていた。
桜夜は、静かにピンク色の日記帳を閉じた。
「いつか、竹取物語の話をしたね」
ホムラが顔を上げる。
「なぜ帝は永遠の命を手に入れて、姫を待つ道を選ばなかったのかって」
「……っ」
ホムラは気づいた。
桜夜は、永遠の命を得た帝なのだ。
けれど、姫は月ではなく、あの世へ逝ってしまった。
再会の可能性などない。
それでも待ち続けている。
永遠に。
馬鹿な野良犬のまま。
「お前……っ」
ホムラは、ようやく声を絞り出した。
「つらくねえのかよ」
桜夜は、いつものように笑おうとした。
けれど、それは失敗した。
「そりゃあ……」
桜夜は、あの日のあずさが浮かべたのと同じ、作り物のような笑顔を浮かべた。
それは、まるで大切な人を殺し、もう奪われないと喜びながら泣く、ピエロのようだった。
「つらいさ」
ホムラは、一歩後ずさった。
その顔を見てしまったからだ。
終わった者の顔だった。
不死身の魔女と呼ばれた母よりも、その伴侶を務めた父よりも、壊れているように見えた。
昨日、自分に「好きだ」と言った男。
一生一緒にいてもらうと笑った男。
その奥にいたのは、こんな顔をした人間だったのか。
「僕が怖い?」
桜夜は優しい声で言った。
「君も――」
逃げるのかい。
その言葉が最後まで届く前に、ホムラは走り出していた。
逃げた。
自分でも、それがわかった。
それでも足は止まらなかった。
図書室の扉が乱暴に開き、ホムラの足音が遠ざかる。
サイカは、隠れたまま動けなかった。
ただ、お腹の中のイノリに触れた。
リオは、震える指を握りしめる。
桜夜は、何事もなかったように机へ向き直った。
「リオちゃん」
「えっ、あっ、あの……」
「今の話も、記録する?」
リオは答えられなかった。
桜夜は、机の引き出しからもう一冊、黒い日記帳を取り出した。
そして、ピンク色の日記帳の上に重ねる。
「記録したいなら、使ってね」
静かな声だった。
リオは唇を震わせた。
「桜夜様……」
「大丈夫」
桜夜は笑った。
いつものように。
いつものように見えるように。
「ただの昔話だよ」
そして、桜夜は静かに図書室をあとにした。
サイカが隠れていることには気づいていた。
けれど、気づかないふりをした。
今の顔を、これ以上、誰かに見せたくなかった。




