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第66話 逃げ道のない言葉

 その日、桜夜は執務室ではなく、図書室にいた。


 仕事を放り出していたわけではない。


 少なくとも、本人はそう思っていた。


 ただ、「口説く」という行為が、いまいちわからなかった。


 わからないことは調べる。


 それは、水希桜夜にとってごく自然な手順だった。


 四方院本家の図書室には、歴史書、宗教書、古文書、魔術書、各国の機密資料の写し、そしてなぜか少女漫画があった。


 如月あずさの影響である。


 彼女が生きていた頃、病室や伊豆の部屋に置かれていたものが、いつの間にか本家にも入り込んでいた。表紙の絵柄があまりに華やかなものは桜夜が固まるため、男性でもとっつきやすい絵柄のものが中心だった。


 桜夜はそれらを数冊、机に並べた。


 紅茶も用意した。


 真剣だった。


「……なるほど」


 ページをめくる。


 壁際の本棚には、国家転覆の記録や、失われた王家の系譜や、封印指定の呪物目録が眠っている。


 その中央で、水希桜夜は少女漫画を読んでいた。


 口説くとは何か。


 言葉で気持ちを伝えることか。


 相手を褒めることか。


 距離を詰めることか。


 手を取ることか。


 あるいは、相手に自分を選ばせることか。


 桜夜は、ページから目を離した。


 自分の恋愛遍歴を思い返す。


 初恋は、如月あずさだった。


 ファーストキスも彼女だ。


 ただ、彼女を口説き落としたという感覚はない。


 むしろ、捨て犬が病室の周りをうろつき、情に訴え、いつの間にか拾われたようなものだった気がする。


 あるいは、傷のある者同士のなれ合いだったのかもしれない。


 明日を信じられない者たちが、今日だけを祈るように寄り添っていた。


 あれは恋だったのだろうか。


 きっと、恋だった。


 けれど、口説いたわけではない。


 それからも、美しい女性に出会わなかったわけではない。


 真っ先に頭に浮かんだのは、ガブリエルだった。


 桜夜は本を閉じかけた。


「あれは最悪の悪女だ」


 口説くというより、口説かれるふりをした捕獲だった。


 奇蹟をちらつかせ、キスを餌にし、救済と権能を混ぜて人間を道具にしようとする。美しいことは認めるが、あれを恋愛の参考にしたら人間として終わる。


 ハニートラップを仕掛けられたこともある。


 そういう店の近くを通ったこともある。


 見合いを勧められたこともある。


 しかし、桜夜にはハニートラップの悪意がよく見えた。見えてしまえば、興味は湧かなかった。


 訳ありの女性に金を渡して慰めを買う趣味もなかった。


 政略結婚の道具になる気もなかった。


 皇室や王室の血を引く女性との見合い話は、断るだけでそれなりに骨が折れた。断り方を間違えれば外交問題になりかねない。玄武は面白がっていた。一は胃を痛めた。桜夜は、ただ面倒だった。


 恋愛とは、面倒なものらしい。


 桜夜は、改めて少女漫画に視線を落とした。


 そこでは、整った顔の青年が、少女の逃げ道を少しずつ塞いでいた。


 言葉は甘い。


 表情も優しい。


 けれど、構造だけを見れば、かなり強引だった。


「弱みを握って言いなりにする方なら得意なんだが」


 桜夜は、ぼそりと呟いた。


 人心掌握は玄武の得意技だ。


 人たらしは一の方が上手い。


 だが、弱みを握って相手をコントロールするくらいなら、桜夜にもできる。


 あるいは、もっと直接的な力で黙らせることもできる。


 相手の逃げ道を塞ぎ、秘密を握り、選択肢を奪い、こちらの望む方向へ歩かせる。


 そうやって他者を支配するのは、一時的には気持ちいい。


 正確には、楽だった。


 不確定要素が減る。


 裏切られる可能性が減る。


 拒まれる恐怖が減る。


 相手が自分の思い通りに動く。


 それは一見、安心に似ている。


 けれど、ある時気づいた。


 そうして手に入れた相手は、もう自分が好きだった相手ではない。


 ただの言いなりの人形だ。


 笑顔も、怒りも、反抗も、選択も、すべて自分が奪ったものになる。


 そんなものを隣に置いて、何が嬉しいのだろう。


 桜夜は、ページを閉じた。


 ホムラの顔を思い浮かべる。


 すぐ怒る。


 すぐ睨む。


 すぐ殴ろうとする。


 口は悪い。


 遠慮はない。


 桜夜が間違えば、間違っていると言う。


 死にそうな顔をすれば、胸倉を掴んで引き戻す。


 優しい言葉は下手だ。


 けれど、その火はまっすぐだった。


 あれを支配しても意味がない。


 あれを黙らせても意味がない。


 あれを従わせても意味がない。


 ホムラがホムラでなくなったら、桜夜が欲しいと思ったものは、そこには残らない。


 だから。


 自分がホムラで遊ぶなら。


 あるいは、ホムラをほしいと思うなら。


 最適なのは、支配ではない。


 脅迫でもない。


 誘導でもない。


 桜夜は、少し困ったように笑った。


「口説くしかない、か」


 それは、桜夜にとってかなり厄介な結論だった。


 なぜなら、口説くということは、相手に選ばせるということだからだ。


 拒まれる可能性を残すということだからだ。


 ホムラが自分の意思で頷かなければ、意味がないということだからだ。


「……難易度が高い」


 桜夜は、少女漫画をもう一冊手に取った。


 そこには、主人公がまっすぐに「好き」と言っていた。


 逃げ道のない言葉だった。


 桜夜はしばらく、そのページを見つめた。


「好き、ね」


 口に出してみる。


 ひどく落ち着かない。


 剣を振るうより難しい。


 神に喧嘩を売る方が、まだ慣れている。


 桜夜は深くため息をついた。


 その時だった。


 ふいに、懐かしい声がした気がした。


『桜夜くん』


 桜夜は顔を上げた。


 図書室には誰もいない。


 けれど、声だけが、記憶の奥からそっと浮かび上がってくる。


 如月あずさの声だった。


『ちゃんと好きって言いなさい』


 桜夜は、何も言えなかった。


『冗談とか、師匠ごっことか、理屈とか、そういうのをつけないで』


「……難しいことを言うね」


『桜夜くんは、すぐ逃げ道を作るから』


 あずさは笑っていた。


 病室で。


 伊豆で。


 桜の下で。


 あの、明日を信じられなかった日々の中で。


『逃げ道のない言葉にしなさい』


 桜夜は、目を伏せた。


「逃げ道のない言葉」


『うん』


「言ったら、戻れないよ」


『戻る気がない時に言うの』


 桜夜は小さく笑った。


「ひどいな」


『桜夜くんの方がひどいよ』


 声は、やわらかかった。


『好きな子に、本気を見せない方がずっとひどい』


 その言葉を最後に、あずさの気配は遠のいた。


 図書室の静けさが戻る。


 桜夜は、閉じた少女漫画の表紙を指でなぞった。


 好き。


 逃げ道のない言葉。


 相手に選ばせる言葉。


 自分が逃げないための言葉。


 桜夜は立ち上がった。


「さて」


 少しだけ、頬を緩める。


「師匠らしく、最低なことをしに行きますか」


 火の修行にもっとも優れた朱雀家の道場で、ホムラはひとり練習をしていた。


 道場の中央に立ち、呼吸を整える。


 周囲には火の精霊たちがいた。


 赤い火。


 朱の火。


 橙の火。


 まだ名を持たない小さな火たちが、ホムラの周りを跳ねるように舞っている。


 以前とは違っていた。


 ただ燃やすための火ではない。


 触れるための火。


 命を奪うためではなく、命に届くための火。


 その気配を、ホムラは少しずつ掴み始めていた。


 そこへ、桜夜がにこにこ顔でやってきた。


 その時点で、ホムラは警戒した。


「……なんだよ、その顔」


「ひどいな。せっかく会いに来たのに」


「お前がそういう顔してる時は、だいたいろくでもねえ」


「信用がない」


「日頃の行いだろ」


 桜夜は否定しなかった。


 ゆったりと歩み寄る。


 ホムラは半歩下がった。


 だが、桜夜はそこで突然、片膝をついた。


「は?」


 ホムラが固まる。


 桜夜は、彼女の手を取った。


 そして、その手の甲にそっと口づけた。


「なっ――」


 瞬間、ホムラの顔が耳まで真っ赤になった。


 道場の空気が跳ねる。


 火の精霊たちが、一斉にざわめいた。


「おやま」


「おま、お前っ、何して――!」


 ホムラの声が裏返る。


 次の瞬間、炎が暴れた。


 彼女の周囲で、赤い火が渦を巻く。


 ホムラ自身が焦った。


「まずっ……!」


 制御しようとするが、混乱が火に乗った。


 炎はさらに大きくなる。


 けれど、桜夜は怯まなかった。


 自分を焼こうとする火を見ても、いつもの困ったような笑みを浮かべたまま立ち上がる。


「ホムラ」


「来んな! 今、制御が――」


「うん」


 桜夜は、火の中へ入った。


 そして、喧嘩っ早いわりに小さな身体を、優しく抱きしめた。


 ホムラが息を呑む。


「ばか、燃えるぞ」


「燃やしてもいいよ」


「よくねえ!」


「じゃあ、落ち着いて」


「誰のせいだと思ってんだよ!」


「僕かな」


「わかってんなら離れろ!」


「嫌だ」


 桜夜は、ホムラの頭に手を置いた。


 背中を撫でる。


 炎はまだ暴れていた。


 けれど、桜夜の腕の中で、ホムラの呼吸が少しずつ戻っていく。


 火の精霊たちも、戸惑いながら彼の周囲を回っていた。


 桜夜は、ホムラの耳元で囁いた。


「すきだよ」


「っ」


 炎が跳ねた。


 今度はさらに大きく。


「お前、そういうことを、今、言うな!」


「今じゃないと逃げそうだから」


「逃げるに決まってんだろ!」


「じゃあ、逃げ道のない言葉にする」


 桜夜は少しだけ身を離した。


 ホムラの顔を見た。


 真っ赤で、怒っていて、混乱していて、それでも目を逸らしていなかった。


「ホムラ」


「……なんだよ」


「君が好きだ」


 ホムラの喉が鳴った。


「サイカやリオへの好きと、同じじゃない」


「……」


「君の火が好きだ。怒るところも、乱暴なところも、泣きそうな顔を怒りで隠すところも。僕が間違った時に、ちゃんと殴ってくれるところも」


「殴るぞ」


「うん」


 桜夜は微笑んだ。


「それでも、好きだよ」


 ホムラの炎が、また揺れた。


 だが、今度は暴走ではなかった。


 燃え盛りながら、二人を避けるように回っている。


 桜夜は、少しだけ顔を近づけた。


 ホムラの肩が跳ねる。


「嫌なら燃やして」


「……てめえ」


「うん」


「そういう言い方、ずるいんだよ」


「ごめん」


「謝るな。腹立つ」


 ホムラは、桜夜の服を掴んだ。


 逃げなかった。


 だから桜夜は、ゆっくりと唇を重ねた。


 ほんの一瞬だった。


 触れるだけのキス。


 けれど、ホムラの炎が道場中で爆ぜた。


 次の瞬間。


 バシン、と音が響いた。


 ホムラの平手が、桜夜の頬を打っていた。


 桜夜は、打たれたまま微笑んだ。


「てめえ、魔女とのキスの意味、知ってて……!」


「知ってる」


「知っててやったのかよ!」


「うん」


 桜夜は、もう一度ホムラを抱きしめた。


 今度は、少し強く。


「一生一緒にいてもらうからね? 火の魔女様」


 ホムラは言葉を失った。


 怒りも、混乱も、恥ずかしさも、火になって揺れている。


 やがて、彼女は桜夜の胸に額を押しつけた。


「……ばか」


「うん」


「最低」


「うん」


「逃げんなよ」


 その一言で、桜夜の笑みが少しだけ消えた。


 ホムラは顔を上げなかった。


 ただ、桜夜の服を握りしめていた。


「好きとか、一生とか、そういうこと言うなら」


「うん」


「逃げんな」


 炎が、静かに二人の周囲を回っている。


 もう暴れてはいない。


 けれど、消えてもいない。


「オレを置いて、自分だけ勝手に消えようとすんな」


 桜夜は、しばらく答えられなかった。


 逃げ道のない言葉を言いに来たはずだった。


 けれど、逃げ道を塞がれたのは自分の方だった。


 ホムラの火は、桜夜を責めていなかった。


 焼いてもいなかった。


 ただ、そこにあった。


 逃げるな、と言うように。


 生きていろ、と言うように。


 桜夜は、ホムラの頭にそっと頬を寄せた。


「逃げない」


「嘘ついたら燃やす」


「うん」


「骨までだ」


「できれば、少し残してくれると助かる」


「知るか」


 ホムラはそう言って、桜夜の服をさらに強く握りしめた。


 火の精霊たちは、二人の周りをくるくると回った。


 燃やすための火ではない。


 触れるための火。


 奪うためではなく、つなぎ止めるための火。


 ホムラは、まだ顔を上げない。


 桜夜も、離れなかった。


 道場の外では、朱雀家の者たちが異変に気づいて走ってきていた。


 だが、扉を開けようとした瞬間、中から漏れる火の気配に足を止めた。


 それは、暴走ではなかった。


 祈りに近い火だった。


 ホムラの中で、何かが変わり始めていた。


 桜夜は、それに気づいていた。


 ホムラ自身も、気づいていた。


 けれど、今は何も言わなかった。


 ただ、彼女は小さく呟いた。


「……もう一回言え」


「好きだよ」


「軽い」


「君が好きだ」


「……まだ軽い」


「ホムラ」


 桜夜は、真面目な声で言った。


「君がいないと、僕はたぶん、またひとりで燃え尽きる」


 ホムラの指が震えた。


「君が怒ってくれないと、僕は自分が間違っていることに気づけない」


「……」


「君が殴ってくれないと、僕は逃げる」


「最悪だな」


「うん」


「ほんとに最悪だ」


「うん」


 桜夜は、目を閉じた。


「だから、そばにいてほしい」


 逃げ道のない言葉だった。


 支配でもない。


 命令でもない。


 誘導でもない。


 ただ、桜夜が、ホムラに選ばせるための言葉だった。


 ホムラは長い間、黙っていた。


 やがて、低い声で言う。


「……考えとく」


「うん」


「今すぐ返事しろって言ったら燃やす」


「言わない」


「でも、逃げたら燃やす」


「うん」


「あと、さっきのキスは許してねえ」


「はい」


「でも」


 ホムラは、ようやく顔を上げた。


 目元まで赤かった。


 怒っている。


 恥ずかしがっている。


 それでも、桜夜を見ている。


「忘れんな」


「何を?」


「オレは、言いなりの人形じゃねえ」


 桜夜は微笑んだ。


「知ってる」


「お前が好き勝手に抱えて、好き勝手に死んで、好き勝手に綺麗な思い出にする相手でもねえ」


「うん」


「オレは、オレの意思で、お前を殴る」


「うん」


「オレの意思で、お前のそばにいるか決める」


「うん」


「だから」


 ホムラは、少しだけ目を伏せた。


「ちゃんと待て」


 桜夜は、静かに頷いた。


「待つよ」


「本当だな」


「本当」


「なら、今日は離せ」


「嫌だな」


「燃やすぞ」


「少しだけ」


「……少しだけだぞ」


 ホムラはそう言った。


 桜夜は、少しだけ抱きしめる腕を緩めた。


 けれど、完全には離さなかった。


 ホムラも、完全には離れなかった。


 火は、まだ燃えている。


 誰も焼かずに。


 ただ、二人の間で。


 その日、ホムラは新しい火を知った。


 怒りの火でもない。


 破壊の火でもない。


 命を与える火とも、少し違う。


 誰かをこの世につなぎ止める火。


 逃げようとする者の背中を、乱暴に掴む火。


 まだ名前のない火だった。


 けれど、桜夜は思った。


 これは、ホムラの火だ。


 ホムラ自身が、いつか名前をつける火だ。


 そして、いつかその火に、自分は何度も救われるのだろう。


 ホムラは、桜夜の胸元で小さく言った。


「……ほんと、最低な口説き方だな」


「勉強不足で」


「少女漫画でも読んだのかよ」


 桜夜は黙った。


 ホムラが顔を上げる。


「読んだのかよ」


「資料として」


「ばかじゃねえの」


「否定はしない」


 ホムラは、呆れたように笑った。


 それは怒りと照れと、少しの嬉しさが混ざった笑みだった。


「次からは、オレに直接聞け」


「口説き方を?」


「違う」


 ホムラは、また桜夜の胸に額を押しつけた。


「オレが、何されたら嬉しいかだよ」


 桜夜は、少しだけ目を見開いた。


 それから、静かに笑った。


「うん」


 逃げ道のない言葉は、まだ少し下手だった。


 けれど、届いた。


 届いてしまった。


 だから、ホムラの火はまだ消えなかった。


 燃やすためではなく。


 照らすために。


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