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第65話 燃え残る名前

 洞窟の入口は、口を開けた獣のようだった。


 富士の樹海の奥。


 観光客が踏み込む場所ではない。

 地図に載る場所でもない。

 四方院家の術者であっても、許可なく近づけば帰ってこられる保証はない。


 そんな場所に、小さな洞窟があった。


 入口は狭い。


 岩肌は黒く、ところどころ赤茶けている。

 焦げたようにも見える。

 けれど、火事の痕ではない。


 もっと古い。


 山そのものが持つ熱の記憶だった。


 ホムラは、その前に立っていた。


 足元には、湿った落ち葉。

 背後には、青木ヶ原の樹々。

 頭上には、枝に切り取られた空。


 火の魔女であるホムラでさえ、その洞窟の奥から漂ってくる気配には、軽く喉を鳴らした。


「……ここかよ」


「うん」


 桜夜は、いつも通りの顔で頷いた。


 白いシャツに黒い上着。

 山に来る格好ではない。

 樹海に入る格好でもない。


 けれど、桜夜はどこへ行っても、だいたいそうだった。


「ここから入る」


「中で火は使えねえんだよな」


「使えない、というより、使わない方がいい」


「どう違うんだよ」


「使おうと思えば使えるよ。ただ、向こうに火を持ち込むことになる」


「火の精霊王に会いに行くのに、火を持ち込むなってか」


「王の前に刃物を抜いたまま謁見する人は、あまり歓迎されないでしょ」


「火は刃物じゃねえ」


「ホムラちゃんの火は、だいたい刃物だよ」


「うるせえ」


 ホムラは舌打ちした。


 だが、反論は続かなかった。


 自分の火が攻撃に寄りすぎていることは、すでに嫌というほど知らされている。


 桜夜は、洞窟の入口を見たまま言った。


「中に入ると、五感が少しずつ役に立たなくなる」


「少しずつ?」


「最初は暗いだけ。次に音が遠くなる。足の感覚が消える。手の感覚が消える。自分の身体の輪郭が曖昧になる」


「……」


「それから、魂だけになる」


「軽く言うな」


「軽く言ってるつもりはないよ」


 桜夜の声は、静かだった。


「そこから先は、火の側の領域だ。人間の身体で行く場所じゃない」


「じゃあ、てめえはなんなんだよ」


「僕はほら」


 桜夜は少しだけ笑った。


「我が強いから」


「説明になってねえ」


「わりと説明になってるよ」


 ホムラは眉を寄せた。


 火の精霊王。


 そんな存在に会える魔女は、ほとんどいない。


 少なくとも、ホムラの母でさえ、そう簡単には会えないはずだった。


 火の精霊を使役する。

 火の精霊と契約する。

 火の精霊に愛される。


 それと、火の精霊王に会うことは違う。


 火そのものに見られる。


 火そのものに問われる。


 そういうことだと、桜夜は言った。


「怖い?」


 桜夜が尋ねた。


 ホムラは即座に睨んだ。


「怖くねえ」


「そっか」


「怖くねえからな」


「うん」


「怖くねえって言ってんだろ」


「三回言うのは、だいたい怖い時だよ」


「殴るぞ」


「帰ってからにして」


 桜夜は洞窟へ一歩近づいた。


 その背中が、少しだけ細く見えた。


 鳳凰の火を持っている男。

 神獣の契約者。

 桜吹雪を握る、神殺しの剣士。


 それでも、桜夜は恐れている。


 ホムラには、それがわかった。


「……お前は」


「あ?」


「怖くねえのかよ」


 桜夜は振り返らなかった。


 少しだけ考えるように間を置いてから、答えた。


「怖いよ」


 あまりに普通の声だった。


「火を怖がれない術者は、いつか大切なものを焼く」


 ホムラは黙った。


「だから、怖がった方がいい」


「怖がったら、火なんか使えねえだろ」


「そうかな」


 桜夜は振り返った。


「怖いから、丁寧に触れるんだよ」


 ホムラは言葉を返せなかった。


 桜夜は柔らかく笑う。


「行こうか」


「……おう」


 二人は洞窟へ入った。


 中は暗かった。


 入口から差し込む光は、数歩進んだだけで背後へ消えた。


 懐中電灯は持っていない。

 持ってきてはいるが、桜夜が使わせなかった。


 火も使わない。

 光も使わない。


 暗闇の中、ホムラは桜夜の気配だけを頼りに歩いた。


 最初は、足元の石の感触があった。


 湿った空気。

 岩肌の匂い。

 土と火山の古い熱。


 けれど、しばらくすると、それらは薄れていった。


 足音が遠くなる。


 自分の足音なのか、桜夜の足音なのか、わからなくなる。


 次に、呼吸が遠くなった。


 胸が上下しているはずなのに、その感覚がない。


 手を握る。


 握ったはずなのに、指の感触がない。


「桜夜」


 呼んだ。


 声が出たのかどうかわからない。


 返事はなかった。


 いや、あったのかもしれない。


 けれど、それも遠かった。


 時間がわからない。


 一歩進んだのか、百歩進んだのか。

 一分なのか、一時間なのか。


 全部が曖昧になっていく。


 そのうち、ホムラは、自分が歩いているのかどうかもわからなくなった。


 身体がない。


 足もない。

 手もない。

 肺もない。

 心臓もない。


 ただ、熱だけがあった。


 赤い熱。


 怒りの熱。


 苛立ちの熱。


 怖さを隠すために燃やしてきた熱。


 それが、ホムラだった。


 なら、自分は火なのか。


 火でしかないのか。


 そう思った瞬間、世界が燃えた。


 洞窟は消えていた。


 足元も、天井も、岩肌もない。


 あるのは火だった。


 上も下もなく、前も後ろもなく、火だけがある。


 赤。

 朱。

 橙。

 白。

 金。

 黒に近い火花。


 あらゆる火が、世界そのもののように広がっていた。


 ホムラは、その中にいた。


 いや、違う。


 ホムラが、火だった。


 腕もない。

 足もない。

 髪もない。

 顔もない。


 それでも、燃えている。


 怒りだけがある。


 違う。


 怒りだけではない。


 サイカが泣いた時に、胸が焦げる感じ。

 リオが平然と無理をする時の、腹の底が熱くなる感じ。

 桜夜が死にそうな顔で笑うたびに、殴りたくなる衝動。


 守りたい。


 近づくな。


 触れるな。


 離れるな。


 全部が矛盾している。


 全部が火になっている。


 その火の海の奥から、何かがホムラを見た。


 巨大なもの。


 人ではない。

 獣でもない。

 鳥でもない。

 神でもない。


 火だった。


 火そのもの。


 精霊たちの王。


 それは声を持たない。


 けれど、問いは来た。


 燃やすのか。


 何を。


 守るのか。


 何を。


 残すのか。


 何を。


 ホムラは答えようとした。


 だが、口がない。


 叫ぼうとした。


 だが、喉がない。


 怒ろうとした。


 だが、怒りさえ火に溶けている。


 何を燃やしたい。


 敵。


 違う。


 何を燃やしたくない。


 サイカ。


 リオ。


 桜夜。


 違う。


 違わない。


 でも、それだけではない。


 燃やしたくないものがある。


 壊したくないものがある。


 自分の火で遠ざけたくないものがある。


 触れたいものがある。


 それを認めようとした瞬間、火が大きく揺れた。


 認めるな。


 怒りでいろ。


 燃やすものでいろ。


 火は、燃えるものだ。


 広がるものだ。


 焼き尽くすものだ。


 このまま、ただの火になる。


 そう思った。


 恐怖はなかった。


 火にとっては自然なことだからだ。


 燃える。

 広がる。

 焼く。

 灰にする。


 それでいい。


 火とは、そういうものだ。


 そう思いかけた時、別の火が混ざった。


 淡く、白く、金色で、どこか泣きそうな火。


 燃やすための火ではない。


 命を、消えないように灯す火。


 ホムラは、その火を知っていた。


 水希桜夜の火。


 腹立たしいほど優しくて、腹立たしいほど強くて、腹立たしいほど勝手な火。


 声がした。


 声ではない。


 それでも、ホムラにはわかった。


 ――ホムラちゃん。


 名前を呼ばれた。


 火ではなく。


 怒りではなく。


 魔女でもなく。


 赤でもなく。


 ホムラと呼ばれた。


 その瞬間、火の中に輪郭が戻った。


 手がある。


 足がある。


 胸がある。


 喉がある。


 叫べる。


 殴れる。


 怒れる。


 守れる。


 触れられる。


 ホムラは、火の中で歯を食いしばった。


「オレは」


 声が出た。


 火が震える。


「ただの火じゃねえ」


 巨大な火が、それを聞いていた。


「オレは、ホムラだ」


 その名を言った瞬間、世界が反転した。


 空気が戻った。


 重さが戻った。


 喉が焼けるように痛い。


 肺に空気が流れ込む。


「っ、は……!」


 ホムラは洞窟の入口に倒れていた。


 地面は冷たかった。


 頬に落ち葉が貼りついている。


 指が震える。


 身体が重い。


 立てない。


「おかえり」


 桜夜の声がした。


 ホムラは顔を上げようとして、失敗した。


 視界の端に、差し出されたペットボトルが見える。


「飲める?」


「……キャップ」


「うん?」


「開けろ……」


「はいはい」


 桜夜は笑いながらキャップを開けた。


 ホムラは受け取ろうとしたが、指に力が入らなかった。


 結局、桜夜が支える形になった。


「無理しないで」


「お前が言うな」


「僕はほら、無理するのが仕事だから」


「辞めろ、その仕事」


「相談役を?」


「人生をだよ」


「ひどいな」


 桜夜は困ったように笑った。


 ホムラは水を飲んだ。


 冷たい。


 喉を通る。


 胃に落ちる。


 身体がある。


 自分はまだ、火ではない。


 ホムラだ。


 それがわかるだけで、腹が立つくらい安心した。


 しばらくして、ホムラはようやく上体を起こした。


 樹海の空気は静かだった。


 木々はいつも通りそこにある。


 鳥の声がする。


 どこかで、小さな火の精霊が踊っていた。


 見える。


 前より近い。


 手を伸ばせば届きそうなほどに。


 けれど、掴めるわけではない。


 命令できるわけでもない。


 ただ、向こうがこちらを見ている。


 ホムラが息を呑むと、桜夜が言った。


「火が近くなったね」


「……わかるのかよ」


「うん」


「なんなんだよ、お前」


「美少女に火を教えるのが得意な近所のお兄さん」


「殺すぞ」


「元気になってよかった」


 ホムラは睨んだ。


 だが、火は出なかった。


 いつものように感情に引きずられて、勝手に燃えることはない。


 それが少しだけ、奇妙だった。


 桜夜は数歩離れて立った。


「じゃあ」


「あ?」


「僕を焼いてみて」


 ホムラは水を吹きそうになった。


「はあ?」


「今ならできると思うよ」


「何をだよ」


「燃やさずに、燃やすこと」


 桜夜は、冗談を言っている顔ではなかった。


 ホムラは、ペットボトルを地面に置いた。


 立ち上がる。


 膝が少し震えたが、踏ん張る。


 火を呼ぶ。


 いつものように、力任せに引きずり出すのではない。


 命令しない。


 怒りで殴らない。


 ただ、頼む。


 あいつを焼くな。


 でも、触れてくれ。


 ホムラの指先に、小さな火が灯った。


 赤い火だった。


 けれど、いつもの赤ではない。


 鋭くない。

 荒くない。

 相手を食い破ろうとしない。


 桜夜の周囲へ、炎が広がる。


 火は彼の髪を包んだ。


 頬を撫でた。


 袖を舐めた。


 胸の上で揺れた。


 けれど、燃えない。


 髪一本焦げない。


 服の繊維も傷まない。


 桜夜は、目を閉じていた。


 鳳凰の火で奪い返している様子はない。


 術式をねじ伏せてもいない。


 ただ、ホムラの火を受けている。


「……燃えてねえ」


 ホムラは呟いた。


「うん」


「なんでだよ」


「君が、燃やさないって決めたから」


「そんなので」


「そんなので、火は変わる」


 桜夜は目を開けた。


「ホムラちゃんは、火にお願いできるようになった」


「お願い、かよ」


「命令より難しいでしょ」


「……そうだな」


 ホムラは、自分の指先を見た。


 火はそこにある。


 でも、勝手に暴れない。


 怒りに引きずられて、すべてを焼こうとしない。


 ただ、揺れている。


 生き物のように。


 桜夜は少し笑った。


「じゃあ、今度は僕の番」


 白金色の火が灯った。


 ホムラは一瞬、身構えた。


 だが、その火は襲ってこなかった。


 桜夜の火が、ホムラの火に触れる。


 赤と白金。


 二つの火が、空気の中で混ざった。


 普通なら、樹海は燃える。


 乾いた枝も、落ち葉も、苔も、木の幹も、すべて火の海になっていいはずだった。


 だが、燃えない。


 木々は燃えなかった。


 葉は焦げなかった。


 鳥は逃げなかった。


 風だけが、火の中を通っていく。


 二つの炎は、互いを食い合わなかった。


 混ざり、揺れ、樹海の中で静かに光った。


 ホムラは、呆然とそれを見ていた。


「これが」


 桜夜が言った。


「触れるための火だよ」


 ホムラは言葉を失った。


 火は、焼くものだと思っていた。


 燃やすものだと思っていた。


 敵を倒すためのもの。


 怒りをぶつけるためのもの。


 近づく者を遠ざけるためのもの。


 けれど、火は触れられる。


 壊さずに、包める。


 燃やさずに、そばにいられる。


 ホムラは、拳を握った。


 その拳にも、もう余計な火は立たなかった。


「……師匠」


 小さく、そう言った。


 桜夜の目が、ぱっと輝いた。


「今、師匠って言った?」


「言ってねえ」


「言ったよね」


「言ってねえ!」


「ホムラちゃんが僕を師匠って」


「聞き間違いだ!」


「いやあ、ついに僕にも弟子が」


「調子に乗るな」


 桜夜はにこにこと笑った。


「弟子かあ。いいね。弟子には、ちょっとくらいセクハラしても許されるかな」


 次の瞬間、ホムラの拳が桜夜の腹に入った。


「許されるわけねえだろ!」


 桜夜は膝をついた。


 ホムラは真っ赤な顔で見下ろした。


「弟子に手ぇ出す師匠は、燃やすぞ」


「燃やさない火を覚えたばかりなのに」


「殴る方は覚える前からできる」


「それはそうだね」


「あと、弟子じゃねえ」


「えー」


「師匠でもねえ」


「今言ったのに」


「うるせえ」


 ホムラはそっぽを向いた。


 だが、火は荒れなかった。


 照れも、怒りも、恥ずかしさも、全部そこにある。


 それでも、燃えない。


 桜夜は腹を押さえたまま、少しだけ笑った。


「じゃあ、セクハラがだめなら……」


「あ?」


「本気で口説いてみようかな」


 冗談みたいな声だった。


 いつものように、最低で、軽くて、逃げ道だらけの言い方だった。


 けれど、目が笑っていなかった。


 ホムラは、それに気づいてしまった。


 気づかなければよかった。


 怒ればよかった。


 殴ればよかった。


 いつも通り「馬鹿じゃねえのか」と吐き捨てれば、それで済んだ。


 なのに、言葉が出ない。


 火よりも熱いものが、頬に上った。


「……下手だったら殴る」


「口説くのが?」


「全部だよ」


「手厳しいな」


「弟子を口説く師匠なんざ、そのくらいでちょうどいいだろ」


「弟子って認めてる」


「今のなし!」


 ホムラが叫んでも、火は荒れなかった。


 赤い炎と白金の炎は、樹海の中で静かに混ざっている。


 木々は燃えない。


 葉は焦げない。


 鳥は逃げない。


 ただ二つの火だけが、命のように揺れていた。


 桜夜はゆっくり立ち上がった。


 まだ少し腹を押さえている。


 ホムラはそれを見て、ほんの少しだけ気まずそうにした。


「……痛かったか」


「すごく」


「ざまあみろ」


「心配してくれたのかと思った」


「してねえ」


「そっか」


「してねえからな」


「うん」


「……少しは、した」


 小さく言った。


 桜夜は、笑わなかった。


 それが、かえってホムラを困らせた。


「ホムラちゃん」


「なんだよ」


「帰ろっか」


 ホムラは振り返らなかった。


 赤い火が、指先で小さく揺れている。


 白金の火が、それに寄り添うように揺れた。


 二つは混ざっている。


 けれど、どちらも相手を食わない。


 樹海は燃えない。


 世界は壊れない。


 火は、触れるためにも在れる。


 ホムラは、長く息を吐いた。


「……おう」


 その声は、怒っていた。


 照れていた。


 そして、ほんの少しだけ嬉しそうだった。


 火の中で、ホムラは名前を失わなかった。


 赤い魔女は、ただの火にはならなかった。


 燃やすものと、燃やさないものを選ぶための最初の扉が、ようやく開いた。


 樹海の木々は、静かに揺れていた。


 火はそこにある。


 けれど、何も燃えない。


 ただ、二人の間で、命のように揺れていた。

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