第64話 火の王へ至る道
「さて、ホムラちゃん」
朱雀家の道場に、桜夜の声が響いた。
その道場は、普通の稽古場ではなかった。
床、柱、壁、天井。
すべてに特殊な火炎防御が施されている。
朱雀家の術者が全力で炎を放っても、道場そのものは燃えない。
ただし、燃えないだけだ。
熱は伝わる。
衝撃も伝わる。
火の扱いを誤れば、術者自身は焼ける。
だからこそ、朱雀家の火使いたちはここで火を学ぶ。
ホムラはその中央に立っていた。
顔には、隠しきれない期待が浮かんでいる。
「今日は君に、僕が編み出した二つの術を教えてあげる」
「おっ」
ホムラの目が輝いた。
「どんな術だ」
「焔返しと焔払い」
ホムラの顔が、一瞬で真っ赤になった。
「オレの名前つけるな!」
「いや、君に会う前につけたんだけど……」
「嘘つけ!」
「本当だよ。焔とホムラは字が違うでしょ」
「読みが同じなんだよ!」
「偶然だね」
「絶対わざとだろ!」
桜夜は困ったように笑った。
その顔が、いかにも白々しい。
「まあ、名前の話は置いておいて」
「置くな」
「まずは焔返し」
桜夜は、何の前触れもなくホムラに近づいた。
そして、ホムラの肩に触れた。
「おい」
次に、腕。
脇腹。
背中。
腰。
容赦がなかった。
術者の火脈を確認しているのだろう。
そう頭ではわかる。
だが、わかることと、許せることは違う。
「なにすんだ!」
「火の流れを見てる」
「口で言え!」
「言ったよ」
「触る前に言え!」
「今言った」
「遅え!」
ホムラの顔は真っ赤だった。
桜夜は真面目な顔で、さらに彼女の腹部近くへ手を伸ばした。
「ここは大事だね」
「大事でも触るな!」
次の瞬間、ホムラの火が爆ぜた。
全力だった。
怒り、照れ、羞恥、反射。
それらが全部まとめて炎になり、桜夜へ叩き込まれる。
朱雀家の道場が、赤く染まった。
普通の術者なら、骨まで炭になる火だった。
だが桜夜は、避けなかった。
炎は桜夜を包んだ。
そして、消えた。
いや、消えたのではない。
桜夜の中へ吸い込まれた。
「なっ……」
ホムラが目を見開く。
桜夜は、炎の中で立っていた。
髪一本、焦げていない。
服の端すら燃えていない。
「これが焔返し」
桜夜は静かに言った。
「相手の炎を受ける。奪う。火の精霊の支配権をこちらへ移す。そして――」
桜夜の足元に、白金色の火が走った。
それはホムラの炎だった。
だが、もうホムラの火ではなかった。
桜夜の意志を通り、鳳凰の気配を帯び、何倍にも増幅されている。
「お返しする」
炎が返った。
ホムラは動けなかった。
避ける暇もない。
白金色の炎が、ホムラを包む。
熱はあった。
だが、焼かれない。
髪も、肌も、服も、何一つ燃えない。
しかしホムラにはわかった。
桜夜がその気なら、自分は焼けていた。
火の魔女である自分でも。
フェニキアの契約者の娘である自分でも。
この炎なら、焼ける。
そういう火だった。
炎がほどける。
ホムラは、荒く息を吐いた。
「……てめえ」
「うん?」
「今の、殺す気なら殺せたろ」
「そうだね」
桜夜は否定しなかった。
「でも、殺すための術じゃない」
「どこがだよ」
「返すための術だよ」
桜夜は言った。
「相手が放った火を、そのまま相手に返す。怒りも、殺意も、火力も、全部ね」
「性格悪い術だな」
「防御術だよ」
「嘘つけ」
「防御の定義にもよるね」
桜夜は少し笑った。
「でも覚えておいて。火を返すということは、相手の火を理解するということでもある。雑に奪えば暴発する。怖がれば飲まれる。怒れば、ただの火力勝負になる」
「……」
「焔返しは、相手の火を壊す術じゃない。相手の火を、いったん受け止める術だ」
ホムラは黙った。
さっき自分が撃った火を思い出す。
怒り。
照れ。
恥ずかしさ。
触られたことへの反発。
それを桜夜は、受け止めた。
そして、焼かずに返した。
腹立たしい。
腹立たしいが、少しだけわかった。
「次」
桜夜は振り返った。
朱雀家の術者が道場の奥に立っている。
その者は無言で頷き、封印された札へ手をかけた。
「おい」
ホムラが顔をしかめる。
「何する気だ」
「焔払いを見せる」
封印が解かれた。
道場の奥に、黒い裂け目が開く。
そこから、高位の妖魔が飛び出してきた。
獣にも、人にも、影にも見える。
形が定まらない。
濁った霊気が道場に広がり、床の防御術式が軋む。
「こんなところで出すな!」
「大丈夫」
桜夜は、腰のなまくらを抜いた。
切れ味の悪い、普通なら訓練用にもならない刀。
だが、その刃に鳳凰の火が乗る。
白金色の炎。
妖魔が吠えた。
桜夜は、一歩進んだ。
構えは軽い。
斬るというより、払う。
ただ、静かに凪いだ。
炎が走った。
妖魔は、一瞬で祓われた。
断末魔すらない。
黒い霊気がほどけ、汚れた形が消え、最後に小さな火の粉だけが残った。
道場の空気が澄む。
ホムラは息を忘れていた。
だが、桜夜の手元では、なまくらがかすかに震えていた。
いや、震えているように見えた。
勘弁してくれ。
そんな悲鳴が聞こえた気がした。
「……刀が嫌がってんぞ」
「うん」
桜夜は申し訳なさそうに刃を見た。
「この子には負担が大きい」
「なら使うなよ」
「桜吹雪を出すほどではなかったから」
「刀の方は出してほしそうだったけどな」
「そうかもしれない」
桜夜は刀を納めた。
「これが焔払い」
「焔払い」
「あらゆる魔を払いのける浄化の火だよ」
「燃やすんじゃねえのか」
「燃やすこともある。でも、本質は祓うこと」
桜夜は、妖魔がいた場所を見た。
「魔として歪んだものを、魔である形からほどく。穢れを焼き、呪いをほどき、残ったものがあるべき場所へ行けるようにする」
「殺してんのと違うのか」
「違うよ」
「どう違う」
「殺すのは、終わらせること。祓うのは、戻すこと」
ホムラは眉をひそめた。
「戻す?」
「うん。全部が戻れるわけじゃない。でも、ただ消すのと、ほどいて返すのは違う」
桜夜はホムラを見た。
「ホムラちゃん。不動明王様の火も、護摩の火も、焔払いも、根は同じだよ」
「何が」
「何を焼き、何を残すか」
道場の空気は、まだ少し熱を含んでいた。
けれど、濁りは消えている。
「ただ強い火なら、君はもう持っている」
桜夜は言った。
「でも、強いだけの火では、焔返しも焔払いもできない。相手の火を受け止めることも、魔を祓うことも、命を灯すこともできない」
「……」
「だから、次は火そのものに会いに行く」
ホムラは嫌な予感がした。
「お前、まさか」
「うん」
桜夜はにこりと笑った。
「火の精霊王に会おう」
「やっぱりふざけてんだろ!」
「本気だよ」
「常識を超えろ、だよ」
「っ」
ホムラの言葉が詰まった。
桜夜は静かに笑っていた。
からかっているようで、目は真面目だった。
「焔返しは、相手の火を受け止める術」
桜夜は言った。
「焔払いは、魔を祓う術」
そして、ホムラの胸元を軽く指さす。
「でも君が知るべきなのは、術じゃない」
「じゃあ、何だよ」
「火の声」
桜夜は答えた。
「火が何を焼きたがっているのか。火が何を守りたがっているのか。火が君に、何をしてほしいのか」
ホムラは、道場の奥を見た。
さっきまで妖魔がいた場所。
炎が走り、穢れがほどけた場所。
焼いたのに、消しただけではない。
火が、何かを返した。
そんな気がした。
「……面倒くせえ」
「うん」
「でも」
ホムラは拳を握った。
「行くんだろ」
「いいの?」
「ここで引いたら、あの変な名前の術だけ覚えさせられたみたいでむかつく」
「焔返しと焔払い?」
「名前を言うな!」
桜夜は笑った。
道場の火炎防御が、静かに光っている。
ホムラの中にも、熱が残っていた。
怒りではない。
照れでもない。
恐怖でもない。
たぶん、火の先を見たいという願いだった。
◇◇◇
翌日、富士の樹海を、桜夜は庭のように歩いていた。
迷いがない。
苔むした根。
不意に沈む足元。
似たような木々。
どこまでも続く緑の影。
どれも、初めて来た者には同じ景色に見える。
だが、桜夜は迷わなかった。
道らしい道などない。
目印らしい目印もない。
それでも桜夜は、まるで何度も歩いた廊下を進むように、樹海の奥へ進んでいく。
ホムラは、その背中を追った。
「……慣れてんな」
「うん」
「庭かよ」
「庭ではないかな」
「似たようなもんだろ」
「庭なら、もう少し草刈りが入るね」
「そういう意味じゃねえ」
ホムラは舌打ちした。
だが、言葉とは裏腹に、桜夜の背中から目を離せなかった。
樹海の中には、亡霊がいた。
普通の人間には見えない。
見えても、見えないふりをするしかないようなものたち。
影のようなもの。
声にならない声。
誰かを待つ形。
帰る場所を失った祈り。
それらが、桜夜に縋り付こうとしていた。
助けて。
見つけて。
忘れないで。
連れていって。
声はない。
けれど、ホムラにはわかった。
亡霊たちは、桜夜に触れようとしている。
だが、触れる前に、淡い炎が揺れた。
鳳凰の火だった。
亡霊たちは焼かれなかった。
裁かれたのでも、消されたのでもなかった。
淡い火に包まれ、少しだけ目を見開き、それから安らかな顔をした。
あるべき場所へ逝く。
そんな言葉が、ホムラの頭に浮かんだ。
ホムラの近くには、亡霊は寄ってこなかった。
遠巻きに見ている。
近づきたがらない。
魔女の血に恐れをなしているようだった。
それが、少しだけ気に食わなかった。
「オレには寄ってこねえな」
「怖いんだよ」
「オレが?」
「魔女の血が」
桜夜は振り返らずに言った。
「特に、君の火は強い。亡霊にとっては、近づくだけで自分の輪郭を失いかねない」
「……お前には寄ってくるのにか」
「僕は、たぶんちょうどいいんだろうね」
「何が」
「死に近くて、生にも残っている」
ホムラは眉をひそめた。
「嫌な言い方すんな」
「事実だよ」
「なお嫌だ」
桜夜は少しだけ笑った。
樹海の空気は冷たい。
だが、地面の奥には熱がある。
富士山。
美しい山。
信仰の山。
火山。
死者の影を抱く森。
そのすべてが、同じ場所にあった。
「富士山には、いろんな伝説が残っている」
桜夜が言った。
「不死の妙薬を捨てたから、富士山だとかね」
「なんだよ、それ」
「竹取物語」
「竹?」
「かぐや姫の話」
「ああ。月に帰るやつか」
「そう」
桜夜は、木々の間を歩きながら話した。
竹から生まれた美しい姫。
多くの男に求婚され、帝にも愛された姫。
けれど、月からの迎えが来て、人の世を去る姫。
そして、姫が残した不死の薬。
「帝はそれを焼かせたと言われている。姫のいない世界で永遠に生きても意味がないから」
「……ふうん」
「僕は、この物語が好きなんだ」
桜夜は静かに言った。
「でも、帝はなぜ不死身になって、姫に再会できる可能性を残さなかったのか。それだけは、いまだにわからない」
軽い話のようだった。
だが、軽くはなかった。
ホムラにはわかった。
永遠の命に近づいてしまった男が、それを言っている。
不死に近い身体を持ち、愛する者を失い、それでも生き残ってしまった男が。
姫のいない世界で永遠に生きるのは意味がない。
帝はそう思ったのかもしれない。
だが、桜夜は違う。
桜夜は、可能性があるなら残す。
たとえ苦しくても、再会できるかもしれないなら、永遠に近い時間でも抱えてしまう。
それは優しさなのか。
執着なのか。
傲慢なのか。
ホムラには、まだわからなかった。
母である不死身の魔女なら、この物語をどう思うだろう。
姫のいない永遠を拒む帝を、愚かと言うのか。
それとも、優しいと言うのか。
「……お前なら飲むのか」
「不死の妙薬?」
「そうだよ」
「うん」
桜夜は即答した。
「たぶん飲む」
「迷わねえのかよ」
「迷うよ」
「即答しただろ」
「迷いながら飲む」
「面倒くせえな」
「うん」
桜夜は少しだけ笑った。
「でも、もう一度会える可能性がほんの少しでもあるなら、僕は手放せないと思う」
「それが地獄でもか」
「地獄でも」
ホムラは黙った。
桜夜はさらに奥へ進む。
樹海の空気が、少しずつ変わっていった。
死者の気配が薄くなる。
代わりに、地の底から伝わる熱が強くなる。
「ここに来る前に、浅間神社に寄ったよね」
「寄ったな」
「なんの神様かわかった?」
「わかんねえけど」
ホムラは少し考えた。
「火山を鎮める炎か、水の神じゃねーのか」
「違う」
桜夜は言った。
「祀られているのは、木花咲耶姫様だ」
「このはな……?」
「木花咲耶姫。桜のように美しく、儚い神様。天皇家の祖先神の一柱でもある」
「桜の神かよ」
「桜そのものの神様というより、花のような美しさと儚さを持つ神様かな」
桜夜は少しだけ遠くを見る目をした。
「それと、伊豆にはその姉の磐長姫様が祀られた山がある」
「姉?」
「うん。木花咲耶姫様と一緒に嫁ぐはずだった姉神」
「なんで姉だけ別なんだよ」
「追い返されたから」
「は?」
「磐長姫様は、長命や不変を象徴する神様だった。もし木花咲耶姫様だけでなく磐長姫様も娶っていれば、天皇家は花のように栄えるだけでなく、岩のように長く命を保つ一族になったと言われている」
ホムラは眉をひそめた。
「なら、なんで娶らなかったんだよ」
「なんでだと思う?」
「一夫一妻制の話か?」
それは、ホムラが知る西洋社会の倫理だった。
魔女たちの感覚は、もう少し緩い。
だが、外の社会のルールは知っている。
桜夜は首を横に振った。
「外れ」
「じゃあ、なんだよ」
「磐長姫様が醜女だったからだよ」
ホムラは一瞬、意味がわからなかった。
桜夜は淡々と続けた。
「天皇家のご先祖様は、簡単に言えば『美しくない方はいらない』と追い返した」
「この国、最悪じゃねえか」
「そうかもね」
桜夜は否定しなかった。
「でも、その結果、人の命は花のように短くなった」
ホムラは黙った。
木花咲耶姫。
桜のように美しく、儚い神。
磐長姫。
岩のように長く、不変をもたらす神。
美しい方だけを選び、長命を捨てた。
昔話のようで、ただの昔話ではない。
「美しいものを選んだ結果、永遠を失った」
桜夜は言った。
「そういう話でもある」
「……嫌な話だな」
「うん」
樹海の奥で、亡霊がまた一体、桜夜へ手を伸ばした。
鳳凰の火が静かに灯る。
亡霊は安らかな顔で消えた。
ホムラはそれを見た。
「だから」
桜夜は、振り返った。
「ホムラちゃんには、見た目ですべてを判断しない魔女になってほしい」
「なんでそこでオレなんだよ」
「君は火の魔女だから」
「意味わかんねえ」
「火は、見た目に騙されやすい」
桜夜は言った。
「乾いたものは燃えやすそうに見える。濡れたものは燃えにくそうに見える。けれど、内部に油を含んでいるものもあるし、外側だけ濡れていて中が燃えるものもある。逆に、炎に包まれているのに燃えていないものもある」
ホムラは、庭の木を思い出した。
炎に包まれていたのに、燃えなかった木。
火を喜んでいた鳥たち。
「人も同じだよ」
桜夜は続けた。
「美しいものが、必ず正しいわけじゃない。醜く見えるものが、必ず不要なわけじゃない。怖い顔をした不動明王様が、救うために怒っているように」
「……」
「火を使うなら、表面だけを見ると危ない」
桜夜の声は静かだった。
「誰を焼くのか。何を焼くのか。何を残すのか。それを間違えれば、火は祈りではなく暴力になる」
ホムラは、奥歯を噛んだ。
「磐長姫は」
「うん?」
「怒らなかったのかよ」
「怒ったとも言われているね」
「そりゃ怒るだろ」
「うん」
「美しくないからいらねえって、勝手すぎるだろ」
「そうだね」
「……でも」
ホムラは樹海の奥を見た。
「もし、その姉の方も受け入れてたら」
「うん」
「人は、もっと長く生きたのか」
「そういう神話だね」
「じゃあ、選び間違えたってことか」
「かもしれない」
桜夜は言った。
「でも、人はたぶん、今でも同じ間違いをするよ」
「見た目で選ぶってことか」
「見た目だけじゃない。わかりやすいもの。美しいもの。すぐに好きになれるもの。都合のいいもの。自分を傷つけないもの。そういうものばかり選んで、面倒で、怖くて、醜く見えるものを遠ざける」
「……耳が痛えな」
「僕もだよ」
桜夜は苦笑した。
「僕も、ずっと見たくないものを避けている」
「墓のことか」
言ってから、ホムラはしまったと思った。
桜夜は足を止めなかった。
けれど、空気が少しだけ冷えた。
「そうだね」
桜夜は小さく言った。
「たぶん、それもある」
ホムラは何も言えなくなった。
亡霊たちは桜夜に縋ろうとする。
鳳凰がそれを浄化する。
桜夜は安らかに逝く者たちを見送りながら、自分が最も会いに行くべき死者の墓には行けない。
美しいものだけを選ぶな。
そう言いながら、桜夜自身も、自分の醜い部分を見られずにいる。
ホムラは、それを責める気にはなれなかった。
ただ、腹が立った。
桜夜にも。
神話にも。
美しくないというだけで追い返された姉神にも。
そして、そういう話をこんな静かな顔で話す世界にも。
「ホムラちゃん」
「なんだよ」
「火の精霊王に会う前に、もう一つ覚えておいて」
「またかよ」
「うん」
桜夜は微笑んだ。
「強い火ほど、見た目で燃やしてはいけない」
「……」
「炎に見えるものが、救いかもしれない。醜く見えるものが、長命の祝福かもしれない。怖い顔が、慈悲かもしれない。欲望が、祈りに変わるかもしれない」
「面倒くせえな」
「うん」
「でも」
ホムラは、拳を握った。
「覚えとく」
「ありがとう」
「礼言うな。気持ち悪い」
「ひどいなあ」
桜夜は笑った。
その時、木々の間の空気が変わった。
亡霊の気配が、完全に途切れた。
代わりに、地面の奥から熱が立ち上がる。
火の匂い。
岩の匂い。
まだ見えない炎の気配。
樹海の奥に、小さな洞窟が口を開けていた。
狭い。
暗い。
そんな場所だった。
桜夜は立ち止まった。
「ここから入る」
ホムラは、洞窟の闇を見た。
入口は、まるで口のようだった。
火山の奥へ続く、火のない口。
桜夜は静かに言った。
「中は暗い。でも、火は使えない」
「……火は使えない」
「うん。僕たちは一度、五感を捨てる。身体を捨てる。術式も、血筋も、契約も、名前も、役割も、全部脱いでいく」
ホムラは息を呑んだ。
「魂だけになる。そして、火の精霊王に会う」
「会って、どうする」
「生まれ変わる」
その言葉は、洞窟の中へ吸い込まれていった。
ホムラは、急に自分の足元が頼りなくなった気がした。
桜夜は薄い笑みを浮かべた。
「まあ、僕は我が強いから」
その笑みは、軽い冗談の形をしていた。
けれど、目は笑っていなかった。
「火の精霊王が焼こうが、風の精霊王に切り刻まれようが、水にほどかれようが、土に押し潰されようが、だいたい元の姿に戻れる」
「だいたいってなんだよ」
「たまに時間がかかる」
「ふざけんな」
「本当だよ」
桜夜はホムラを見た。
「でも、失敗した術者は」
そこで一度、言葉を切った。
「ただの火になった」
ホムラは息を呑んだ。
洞窟の奥から、熱が来る。
火は見えない。
炎もない。
なのに、そこには確かに火があった。
人の形を奪い、名前を奪い、怒りも願いも燃料に変えてしまうような、根源の火。
「……ただの火って」
「そのままの意味だよ」
桜夜は言った。
「身体を失い、魂の輪郭を失い、意思を失って、火脈の一部になる。燃え続ける。誰だったかも、何を願っていたかも、たぶんわからなくなる」
「そんな修行に連れてくんのかよ」
「嫌ならやめていい」
桜夜の声は優しかった。
だからこそ、ホムラは腹が立った。
「ここで帰っても、僕は怒らない。ホムラちゃんが弱いとも思わない。むしろ、怖いものを怖いとわかるのは大事だよ」
「……」
「火を怖がれない術者は、いつか大切なものを焼く」
ホムラは奥歯を噛んだ。
火が怖いと思ったことはある。
自分の火が、誰かに向かう瞬間。
怒りで視界が赤くなる瞬間。
守りたいものの近くで、火が大きくなりすぎる瞬間。
怖いと思った。
でも、怖いと言うのは嫌だった。
自分が火の魔女であることまで、折れてしまう気がしたから。
「……お前は」
ホムラは低く言った。
「怖くねえのかよ」
「怖いよ」
桜夜は即答した。
ホムラは少しだけ目を見開いた。
「僕は、火が怖い」
桜夜は自分の手を見た。
「救えると思った火で、救えなかった命を思い出す。守れると思った火で、人を焼いたことを思い出す。命を灯す火を使うたびに、あの時どうして届かなかったんだろうって思う」
ホムラは何も言えなかった。
「だから、怖い」
桜夜は言った。
「でも、怖いまま使う。怖くなくなったら、たぶん僕は終わりだから」
洞窟の闇が、黙って二人を見ている。
ホムラは、ゆっくりと息を吸った。
「……火は使えないんだな」
「うん」
「中は暗い」
「うん」
「身体を捨てる」
「うん」
「失敗したら、ただの火になる」
「うん」
「最悪だな」
「そうだね」
ホムラは舌打ちした。
それから、桜夜の横に並んだ。
「行く」
桜夜は少しだけ目を細めた。
「いいの?」
「よくねえよ」
ホムラは洞窟を睨んだ。
「でも、ここで帰ったら、たぶん一生むかつく」
「ホムラちゃんらしいね」
「うるせえ」
桜夜は静かに頷いた。
「じゃあ、ひとつだけ覚えておいて」
「なんだよ」
「火の精霊王の前で、強がらないこと」
ホムラは顔をしかめた。
「無理だろ」
「うん。難しいね」
「おい」
「でも、やって」
桜夜は穏やかに言った。
「怒りも、怖さも、欲も、全部持っていっていい。ただ、それを火で隠さない」
「……」
「火は嘘を燃やす。火の王は、嘘で作った鎧を一番嫌う」
ホムラは黙って聞いていた。
「だから、ホムラちゃん」
桜夜は、洞窟の闇へ一歩踏み出した。
「燃やすためじゃなく、生き直すために行こう」
ホムラは拳を握った。
火は使えない。
それでも胸の奥に、熱はあった。
「……わかったよ、師匠」
桜夜が振り返った。
「今、師匠って言った?」
「言ってねえ」
「言ったよね」
「言ってねえ!」
「記録しておきたいな」
「リオねえ呼ぶぞ」
「それは困るね」
桜夜は笑った。
そして、二人は火のない闇へ入っていった。




