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第63話 燃やさない火

 サイカとリオの献身の甲斐もあって、桜夜の状態は少しずつ安定していった。


 眠れる夜が増えた。

 水を飲む回数が増えた。

 薬を飲み忘れた時、キイロに見つめられると、素直に飲むようになった。


 食事も、まだ少ないながら戻りつつあった。


 それは決して、奇跡的な回復ではなかった。


 朝になれば顔色が悪い日もある。

 夜になれば、眠ることを怖がる日もある。

 ふとした瞬間に、心だけがどこか遠くへ行ってしまうこともある。


 それでも、桜夜は水を飲んだ。

 粥を食べた。

 サイカの手を握った。

 リオの願いを拒まなかった。


 そして何より、子をなす能力がまだ自分に残っていたことに、桜夜自身がいちばん驚いていた。


「……僕、まだ生き物だったんだね」


 ある朝、そんなことを呟いて、サイカに泣かれ、リオに叱られ、ホムラに足を蹴られた。


「痛い」


「痛くしてんだよ」


 ホムラは顔をしかめて言った。


「そういうことを、さらっと言うな」


「ごめん」


「謝るくらいなら言うな」


「うん。努力する」


「信用ならねえ」


 キイロが、ぴよ、と鳴いた。


 だが、身体が少し戻っても、仕事は戻らなかった。


 要請は来ていた。


 地方の術者同士の衝突。

 海外からの照会。

 奇妙な病。

 祈りを名乗る詐欺。

 古い土地の封印に関する相談。

 四方院家相談役の判断を求める案件。


 だが、それらはほとんど宗主のところで握りつぶされた。


 玄武は実に楽しそうに言った。


「お前は、今は社内ニートじゃ」


「宗主」


「なんじゃ」


「それ、正式な役職ですか」


「わしが今決めた」


「最悪の人事ですね」


「安心せい。給料は出る」


「そこじゃないです」


「働きたいのか」


「……」


「働きたいのか」


 桜夜は目を逸らした。


 玄武はにやりと笑った。


「ほれ見ろ。働きたいわけでもないくせに、仕事がないと落ち着かん。厄介な孫じゃ」


「僕は孫ではありません」


「そういうことにしておこう」


 結局、桜夜にできることは少なかった。


 たまに、気まぐれにメールで助言を送る。

 あまりに放っておけない案件には、匿名で資料を足す。

 それでも、現場には出ない。出してもらえない。


 その日も、桜夜は縁側で暇そうにしていた。


 庭には午後の光が落ちている。


 サイカは奥の部屋で休んでいる。

 リオは書斎で資料を整理している。

 キイロはサイカのそばで丸くなっていた。


 ホムラは、朝から何かを考え込んでいた。


 何度か桜夜の方を見ては、目を逸らす。

 縁側の前を通りかかっては、また戻る。

 庭の石を蹴り、腕を組み、舌打ちをして、また桜夜を見る。


 桜夜は見ないふりをしていた。


 それは、見守りとも言えたし、からかいとも言えた。


 そしてついに、ホムラは決意したように桜夜の前へ歩いてきた。


「おい」


「うん?」


「お前の命を与える火を教えろ」


 桜夜は、少しだけ目を細めた。


 それから、からかうように笑った。


「僕は別に、神様のように神聖な火を使ってサイカちゃんを妊娠させたわけじゃないよ」


「わかってるよ!」


 ホムラの顔が一瞬で真っ赤になった。


「そういう意味で言ってねえ!」


「そう?」


「そうだよ!」


「ならよかった」


「よくねえ!」


 ホムラは拳を握った。


 怒鳴りながらも、逃げなかった。


 桜夜は、それを見て表情を少し変えた。


「んー」


「なんだよ」


「火はね、愛と似ているんだよ」


「はあ?」


 ホムラは心底気持ち悪そうな顔をした。


「急に何言い出してんだ、お前」


「急じゃないよ」


「急だろ」


「火はさ、寒さや恐怖を和らげてくれる。暗い場所で、そこにいていいって教えてくれる」


 桜夜は庭を見た。


「でも、使い方を誤れば、何もかも壊す」


 ホムラの表情が、少しだけ変わった。


 桜夜は笑っていなかった。


 そこにあったのは、知っている者の顔だった。


 愛する者を救おうとして、救えなかった者の顔。

 守ろうとする手で、相手を傷つける怖さを知っている者の顔。


「愛に似てない?」


「……知らねえよ」


「うん」


 桜夜は頷いた。


「僕も、あまり上手くない」


 それは軽い冗談のようで、冗談ではなかった。


「だから、コントロールが必要だ」


 桜夜はホムラを見た。


「ホムラちゃんは、今まで火を攻撃に使ってきた。燃やす。払う。壊す。守るために、先に焼く」


「悪いかよ」


「悪くないよ」


 桜夜は静かに言った。


「それで守れるものもある」


 ホムラは黙った。


「でも、君はフェニキアの契約者の娘だ。もっと違う炎も使える」


「違う炎」


「うん」


 桜夜は指先を上げた。


 小さな火が灯る。


 赤ではなかった。

 金でもなかった。

 白に近い、淡い炎。


 熱はある。

 だが、焼く熱ではない。


「今の君の火は、まだ常識の範囲内にある」


「常識?」


「魔術と科学は双子の兄弟だからね。現象を観察し、条件を整え、再現する。魔術は物理法則の外に見えるけれど、多くは物理法則の隣を歩いているだけだ」


「わかるように言え」


「普通の火は、燃えるものを燃やす」


「最初からそう言え」


「でも、フェニキアの炎なら、燃えないものも燃やせる」


 ホムラの目が細くなった。


「たとえば?」


「僕」


 桜夜はあっさり言った。


「フェニキアの炎なら、僕を焼ける」


 ホムラは息を止めた。


「焼けないものはない。そういう領域に届く可能性がある」


「……だったら」


「うん」


 桜夜は微笑んだ。


「大火事を起こすだけじゃ、だめだ」


 彼は指先の火を消した。


「キャンドルに火を灯すように。必要な場所にだけ、必要な熱を渡す。不必要なものを燃やさない。燃やせるから燃やすんじゃない。燃やさずに済むなら、燃やさない」


「守りの剣みたいなこと言いやがって」


「似ているからね」


 桜夜は立ち上がった。


 庭の方へ歩く。


 ホムラもついていった。


「ホムラちゃん」


「あ?」


「ステーキの焼き加減は、何が好き?」


 ホムラは怪訝な顔をした。


「なんだよ、急に」


「火の話」


「火の話でステーキ?」


「うん」


 桜夜は真面目な顔で頷いた。


「で、何が好き?」


「……レア」


「僕はミディアムかな」


「聞いといてなんだよ」


「好みの違いは大事だよ」


 桜夜は庭先に腰を下ろしたまま、指先に小さな火を灯した。


「一流のコックさんは、火加減の調整が上手いよね。表面だけを焼くこともできるし、中までじっくり火を通すこともできる。外側は香ばしく、中は柔らかく。肉汁を逃がさず、焦がさず、火を入れすぎない」


「腹減る話か?」


「術理の話」


「余計わかんねえよ」


「火は、強ければいいわけじゃない。どこに、どの深さまで、どの性質で通すか。それを決めるのが術者の仕事なんだ」


 桜夜は小さな炎を見つめた。


「僕も、先代を焼いた時は、表面はかりっと、臓器はレアになるよう、鳳凰を通じて火の精霊に頼んだ」


「食欲なくなる話すんなよ!」


 ホムラが本気で顔をしかめた。


「ステーキの話してたんじゃねえのかよ!」


「火加減の話だよ」


「人間で例えるな!」


「人間でやったことだから」


「最悪だなお前!」


 桜夜は少しだけ笑った。


 悪びれているようには見えなかった。


 けれど、自慢しているわけでもなかった。


「朱雀様が唖然としてたよ」


「そりゃするだろ」


「本来、鳳凰は朱雀から火を分けてもらった存在なんだ。だから朱雀家の当主は、火の精霊に対して鳳凰や僕より強い権限を持っている」


「……だろうな」


「でも、あの時は火の精霊が、朱雀様ではなく、鳳凰と僕のお願いを優先した」


 ホムラの表情が変わった。


「朱雀を無視したのか」


「うん」


「火の精霊が?」


「うん」


「……そんなこと、できんのかよ」


「普通はできない」


 桜夜は、指先の火を消した。


「だから、ホムラちゃん。火の精霊に命令するだけじゃだめなんだ」


「命令じゃねえなら、何すんだよ」


「お願いする」


「は?」


「聴く。伝える。納得してもらう」


 ホムラは眉をひそめた。


「火にか?」


「火に」


「精霊に?」


「精霊に」


「面倒くせえ」


「うん。面倒だよ」


 桜夜は穏やかに言った。


「でも、雑な指示では火事になる。繊細なお願いなら、命を灯せる。でも精霊は、好き嫌いが激しいんだよねえ」


 桜夜は、庭木を見ながら言った。


「好き嫌い?」


「うん。火の精霊は、ホムラちゃんみたいなまっすぐな子が好きだ」


「……まっすぐ?」


「怒る時は怒る。守る時は守る。燃やす時は燃やす。迷いが少ない」


「褒めてんのか、それ」


「褒めてるよ」


「信用ならねえ」


「だから、君の雑な命令でも火は従う」


 桜夜は指先を上げた。


 小さな炎が、彼の爪の先でゆらりと揺れた。


「でも、たぶん君のお母様が同時に命令したら、火はお母様に従う」


 ホムラの顔が少し変わった。


「……母さんに?」


「うん。君より深く火を知っていて、君より長く火と付き合っている。火の精霊にとって、どちらの声が強いかは明らかだ」


「強い声」


「怒鳴るって意味じゃないよ」


「わかってるよ」


「命令で支配するにしろ、お願いでコントロールするにしろ、最後は意思がものを言う」


 桜夜の声は穏やかだった。


 だが、軽くはなかった。


「自信のある方が勝つ。迷わない方が通る。火に、世界に、こう在れと言い切れる方が、物理法則を少しだけ捻じ曲げる」


「物理法則を」


「うん」


 桜夜は、淡い炎をホムラの前に差し出した。


「一人の術者の意思で、物理法則を捻じ曲げる。そのくらい強い意志がいる」


 ホムラは黙った。


 火を使うことは、怒ることに似ていると思っていた。

 守ることに似ていると思っていた。

 敵へ叩きつけるものだと思っていた。


 だが、桜夜が言っている火は違った。


 世界に向かって、こうあってほしいと願う力。

 それを火に聴かせ、火から返事をもらう力。


「まあ」


 桜夜は急に、いつもの調子に戻った。


「魔力のない人間が、燃えろーって独りでやっても無駄なんだけどね」


「台無しだよ!」


「大事な補足だよ」


「今の流れで言うことじゃねえだろ!」


「誤解はよくないから」


 ホムラは大きく舌打ちした。


 けれど、目は炎から離れなかった。


 桜夜は庭の木の前で足を止めた。


「じゃあ、見せるね」


「何を」


「命を与える火」


 彼の口角が、少しだけ上がった。


 次の瞬間、庭の木が炎に包まれた。


「おい!」


 ホムラが反射的に叫ぶ。


 だが、木は燃えていなかった。


 葉は焦げない。

 幹は炭にならない。

 枝に止まっていた鳥たちも逃げなかった。


 むしろ、鳥たちは羽を膨らませ、心地よさそうに鳴いた。


 炎は木を包んでいる。

 しかし、奪っていない。


 熱はある。

 光もある。

 けれど、破壊がない。


 それどころか、庭の木はわずかに葉を震わせ、深く息をするように枝を揺らした。


 生命力をもらって、喜んでいる。


 ホムラは言葉を失った。


「……なんだよ、それ」


「命を灯す火」


 桜夜は言った。


「焼く火じゃない。焦がす火でもない。相手の中にある生きようとする力に、ほんの少し火を貸す」


「そんなの」


 ホムラは拳を握った。


「反則だろ」


「うん」


 桜夜は静かに笑った。


「僕も、そう思うよ」


 炎はやがて、静かにほどけた。


 木は燃えなかった。

 鳥たちも逃げなかった。

 庭には、ただ午後の光が戻った。


 ホムラは桜夜を見た。


 今まで、自分は火を知っていると思っていた。


 熱。

 怒り。

 破壊。

 防衛。

 敵を焼き、道を開き、大切なものへ近づく者を退ける力。


 それが火だと思っていた。


 だが、目の前の男は、火で命を撫でた。


 焼けるはずのものを焼かず、壊せるはずのものを壊さず、ただ生きる力だけを灯した。


「教えろ」


 ホムラは、もう一度言った。


 今度は、声が低かった。


「オレに、それを教えろ」


 桜夜はホムラを見た。


「簡単じゃないよ」


「知ってる」


「たぶん、すごく怖い」


「知るか」


「怒ったら焼く。焦ったら燃やしすぎる。怖がったら消える。助けたい気持ちが強すぎても、相手を壊す」


「面倒くせえな」


「うん。すごく面倒だよ」


 桜夜は、ほんの少しだけ優しく笑った。


「じゃあ、最初の稽古だ」


「何すんだよ」


「燃やさないこと」


「は?」


「君が今、僕を燃やさずに触れられるなら」


 桜夜は、ホムラへ手を差し出した。


「そこから始めよう」


 ホムラは、その手を見た。


 細く、白い手だった。


 人を壊せる手。

 人を救えなかった手。

 それでも、命を灯す火を知っている手。


 ホムラは舌打ちした。


「……変な稽古だな」


「たぶんね」


「燃えたらどうすんだよ」


「僕が頑張る」


「信用ならねえ」


「じゃあ、君も頑張って」


 ホムラは、真っ赤な顔で桜夜を睨んだ。


 それでも、逃げなかった。


 ゆっくりと手を伸ばす。


 指先が触れる。


 火は出なかった。


 ほんの少しだけ、熱が生まれた。


 それは攻撃ではなかった。

 怒りでもなかった。


 まだ名前のない火だった。


◇◇◇


 次に桜夜はホムラを仏間へ連れていった。


「ホムラちゃんって、不動明王様って知ってる?」


 桜夜は仏間の襖を開けながら尋ねた。


「あ?」


 ホムラは露骨に眉をひそめた。


「なんだよ、それ」


「大日如来様の化身。煩悩を焼く火を持っている」


「だいにち……?」


「細かい説明はあとで」


 桜夜は仏壇の奥を指さした。


「ほら、この像も不動明王様だよ」


 仏壇の中に祀られていたのは、木造の不動明王像だった。


 怖い顔。

 剣。

 縄。

 そして、背中に燃え上がる火炎。


 怒りそのもののような姿だった。


 ホムラはしばらく像を見つめた。


「……怖え顔してんな」


「うん」


 桜夜は少し笑った。


「これが、ホノカグツチを抜いたホムラちゃんだよ」


「オレ、こんな顔怖くねーぞ!」


「あはは。たしかに、ホムラちゃんはかわいいね」


「かわっ……!」


 ホムラの顔が真っ赤になった。


「てめえ、真面目に話す気あんのか!」


「あるよ」


「今のどこがだよ!」


「大事な話だよ。怖い顔をしているから怖い神様、というわけじゃない。怒りを持っているから悪い神様、というわけでもない」


 桜夜は不動明王像を見た。


「怒りを、何のために使うかなんだ」


 ホムラは黙った。


「ホムラちゃん」


「なんだよ」


「煩悩だけ焼ける?」


「そもそも煩悩ってなんだよ」


「人の際限ない欲望かな」


 桜夜は指を折った。


「おいしいものを食べたい。もっとお金がほしい。あいつの彼氏がほしい。楽をしたい。認められたい。支配したい。愛されたい。自分だけ救われたい」


「……最後の方、重くねえか」


「そうだね」


 桜夜は少しだけ笑った。


「欲望そのものが悪いわけじゃない。でも際限がなくなると、人を焼く」


「だったら」


 ホムラは不動明王像を見た。


「それを焼くのが、この火ってことか」


「うん」


「そんなもの、焼けるわけないだろ」


「なんで?」


「いや、だって……欲望だろ。形がねえじゃねえか」


「前にも言ったでしょ」


 桜夜はホムラを見た。


「火の術者は、物理法則を超える」


 ホムラの表情が変わった。


「身体は焼かずに、内側の煩悩だけを焼くこともできる。肉ではなく、執着を。骨ではなく、迷いを。命ではなく、破滅へ向かう欲だけを」


「……そんな都合よくいくのかよ」


「都合よくはいかない」


 桜夜は静かに言った。


「だから、難しい」


 そして、ホムラの手を握った。


「お、おい!」


「不動明王様の炎を見せてあげる」


「待て、どこ行くんだよ!」


「お寺」


「説明しろよ!」


「見た方が早い」


「お前、そういうところあるよな!」


 桜夜がホムラを連れていったのは、四方院家とゆかりの深い寺だった。


 境内には、古い石段と黒ずんだ木の門があった。

 観光客向けの華やかさはない。

 けれど、長い時間祈りを受け止めてきた場所の重みがあった。


 本堂の奥では、不動明王が祀られていた。


 熱そうな火の前で、僧侶が真言を唱えている。


 炎が揺れる。


 ただ燃えているだけではなかった。


 火の中に、声があった。


 祈り。

 怒り。

 願い。

 戒め。

 救いを求める人間の、どうしようもない弱さ。


 それらが、真言に合わせて火へ流れ込んでいく。


 ホムラは、無意識に息を止めた。


「……なんだ、これ」


「護摩」


 桜夜が小さく言った。


「人は、火に願いを預けてきた。燃やして終わりじゃない。燃やすことで、変えようとしてきた」


「変える」


「うん」


 桜夜は、炎を見つめた。


「執着を、祈りに。怒りを、守る力に。欲望を、誰かを生かす熱に」


 ホムラは火を見た。


 熱い。


 怖い。


 けれど、ただ壊す火ではない。


 その火は、何かを飲み込みながら、何かを返している。


「ホムラちゃん」


「……なんだよ」


「君の火は、怒りだけじゃない」


 桜夜の声は静かだった。


「怒りは悪くない。怒らなければ守れないものもある。でも、怒りだけで火を使うと、いつか守りたいものまで焼く」


「……」


「不動明王様は怖い顔をしている。けれど、あれは憎しみの顔じゃない」


 僧侶の真言が続いていた。


 炎が、ぼう、と音を立てる。


「救うために怒っている顔だ」


 ホムラは、不動明王像を見上げた。


 怖い顔。

 剣。

 縄。

 背中の炎。


 さっきまで、ただ怖いだけに見えた像が、少し違って見えた。


「……オレに、そんな火が使えると思ってんのか」


「思ってるよ」


「軽く言うな」


「軽くは言ってない」


 桜夜はホムラを見た。


「ホムラちゃんは、燃やすために怒ってるんじゃない。守れなかったら怖いから、先に燃やそうとする」


 ホムラの肩が、わずかに動いた。


「だから、君は学べる」


「何を」


「燃やさずに守る火」


 ホムラは何も言わなかった。


 炎の音だけが、本堂に響いている。


 桜夜は静かに続けた。


「ホノカグツチを抜くなら、たぶん君はもっと強い火を持つ。何でも焼ける火に近づく」


「……」


「でも、何でも焼ける火を持つなら、何を焼かないかを決められないといけない」


 桜夜の表情には、実感があった。


 燃やせるものを燃やしたことのある者の顔だった。

 燃やさずに済ませられなかったものを、今も覚えている者の顔だった。


「不動明王様の火は、ただの炎じゃない」


 桜夜は言った。


「焼くものを選ぶ火だ」


 ホムラは、ぎゅっと拳を握った。


「……面倒くせえな」


「うん」


「でも」


 ホムラは炎を見た。


「嫌いじゃねえ」


 桜夜は少し笑った。


「なら、最初の一歩だね」


 真言が終わった。


 僧侶たちの声が静かに収まり、護摩の火だけがまだ揺れている。


 その時、桜夜が何でもないことのように言った。


「ホムラちゃんが煩悩を焼けるようになったら、まずは僕の煩悩を焼いてね」


「はあ?」


 ホムラは、心底意味がわからないという顔をした。


 桜夜は涼しい顔で続ける。


「いやあ、僕、かわいい女の子が好きだからねえ。手を出さないようにするのがたいへんでたいへんで」


「なっ……!」


 ホムラの顔が一瞬で赤くなった。


「て、てめえ、寺で何言ってんだ!」


「煩悩の話だよ」


「そういう煩悩をここで言うな!」


「不動明王様の前だからこそ、正直に」


「もっと恥を知れ!」


「恥はあるよ」


 桜夜は、少しだけ笑った。


「だから焼いてほしいんじゃないかな」


 その声には、ほんのわずかに真面目な響きが混ざっていた。


 ホムラは言い返そうとして、言葉を失った。


 桜夜の軽口は、いつもそうだった。


 ふざけている。

 からかっている。

 相手を困らせている。


 けれど、その奥に、ときどき本当の傷や本当の欲が見える。


 かわいい女の子が好き。


 それは冗談のようで、たぶん冗談だけではない。


 手を出さないようにするのがたいへん。


 それも、ふざけた言い方をしているだけで、桜夜なりの制御なのだろう。


 欲しい。

 触れたい。

 抱きしめたい。

 けれど、傷つけたくない。

 壊したくない。

 利用したくない。


 その全部を、桜夜は「煩悩」と呼んで、笑っていた。


「……面倒くせえやつ」


 ホムラは小さく呟いた。


「うん?」


「なんでもねえよ」


 桜夜はにこりと笑った。


 そして、何事もなかったように、真言を唱え終えた僧侶の方へ歩いていった。


 ホムラは、まだ赤い顔のまま、その背中を見ていた。


 僧侶は桜夜を見ると、静かに頭を下げた。


「水希様」


「ご無沙汰しております」


 桜夜も、さっきまでの軽薄さを消して、丁寧に頭を下げた。


 声が変わっていた。


 姿勢も変わっていた。


 寺にいる者へ向ける、礼を尽くした声。


 ホムラは少しだけ目を細めた。


 そういう切り替わり方が、気に入らなかった。


 さっきまで、あんなことを言っていたくせに。

 自分だけ赤くさせておいて。

 もう、何事もなかったような顔をしている。


 僧侶と桜夜は、火の前で静かに言葉を交わしていた。


「本日の火は、よく通っていました」


「ありがたいことです。迷われた方も、少しは楽になられたでしょう」


「ええ。ですが、火が強ければよいというものでもありません」


「承知しております」


 桜夜は頷いた。


「焼くべきものと、焼いてはならないものを取り違えれば、祈りはただの暴力になりますから」


 僧侶は、静かに目を伏せた。


「その通りです」


 ホムラは、その言葉を聞いていた。


 焼くべきもの。

 焼いてはならないもの。


 さっきまでの軽口が、急に別の意味を持ちはじめる。


 桜夜は、自分の煩悩を焼けと言った。


 けれど、たぶん本当に焼きたいのは、欲そのものではない。


 欲に任せて誰かを傷つける弱さ。

 愛していると言いながら、相手を自分の痛みに巻き込もうとする執着。

 救いたいと言いながら、相手の自由を奪う傲慢。


 そういうものを、桜夜は恐れている。


 ホムラは、火を見た。


 護摩の炎は、まだ揺れていた。


 ただ熱いだけではない。

 ただ明るいだけでもない。


 その火は、何かを焼くためにありながら、何かを守るために燃えていた。


「……煩悩だけ焼く、か」


 ホムラは小さく呟いた。


 できるわけがないと思った。


 けれど、できないままでいたくないとも思った。


 その後、二人は寺の奥で精進料理をふるまわれた。


 膳の上には、胡麻豆腐、煮物、青菜のおひたし、味噌汁、漬物が並んでいる。

 丁寧で、美しい料理だった。


 だが、肉がない。


 ホムラは明らかに物足りなさそうな顔をしていた。


「日本の歴史の中では、寺ですら焼かれたことがある」


 精進料理を食べながら、桜夜はそう言った。


「逆に、千年近く消えないように守られてきた火もある」


「飯食ってる時まで火の話かよ」


「今、火を学びに来てるからね」


「だったら肉焼けよ」


「精進料理に対する冒涜だよ」


「腹減ってんだよ」


「ちゃんと食べてるでしょ」


「肉がねえ」


「煩悩だね」


「焼くぞ」


「ほら、すぐ火に頼る」


 桜夜は楽しそうに笑った。


 ホムラはたくあんを噛み砕いた。


「火は奥が深い。さっきのお坊さんたちだって、長い間修行している。でも、火をコントロールできる法力なんて身についていない」


「じゃあ、てめえはなんなんだよ」


 ホムラはたくあんを噛みながら言った。


 桜夜の見た目は若い。

 若すぎる。


 長い修行の果てに火を極めた老人には見えない。

 朱雀家の当主よりも、火の精霊に強く声を通せる存在には、とても見えなかった。


「僕?」


 桜夜は味噌汁の椀を置いた。


「僕はほら、我が強いから」


「よくわかんねえ」


「うん。たぶん、わかりにくい」


 桜夜は困ったように笑った。


「普通の修行は、自分を薄くしていく。余計なものを削って、整えて、流れに合わせる。神仏に近づくとか、自然に近づくとか、そういう方向に行く」


「お前は違うのか」


「違うね」


 桜夜はあっさり言った。


「僕は、自分を薄くできない」


 ホムラは箸を止めた。


「我を捨てられない。執着も捨てられない。忘れられないし、諦められない。救えなかったものを、救えなかったまま持っている」


 桜夜の声は穏やかだった。


 けれど、軽くはなかった。


「だから、火に合わせるんじゃなくて、火に僕の方を見てもらう」


「……火に?」


「うん」


 桜夜は、自分の指先を見た。


「僕はこうしたい。こう燃えてほしい。ここは焼かないでほしい。これは残してほしい。これは壊さないでほしい。これは、どうしても助けたい」


 その指に、小さな火が灯った。


「その意思が、たぶん人より強い」


「我が強いって、そういう意味かよ」


「そう」


 桜夜は微笑んだ。


「たちが悪いでしょ」


「悪いな」


「でしょう」


 ホムラは、火を見た。


 小さな火だった。

 けれど、ただの火ではない。


 そこには熱より先に、意志があった。


 燃えろ、ではない。

 焼け、でもない。


 こう在れ。


 そう告げるような火だった。


「……それ、修行でどうにかなるもんなのかよ」


「少しはね」


「全部じゃねえのか」


「全部じゃない」


 桜夜は火を消した。


「だから、ホムラちゃんに僕と同じことをしろとは言わない。君には君の火がある」


「オレの火」


「うん」


 桜夜はホムラを見た。


「君はまっすぐだ。怒る時は怒る。守る時は守る。迷いが少ない。火の精霊は、そういう子が好きだ」


「……さっきも言ってたな」


「でも、まっすぐな火は、曲がれない」


 ホムラの目が細くなった。


「曲がれない?」


「うん。前に進むのは得意。でも、相手を包むのは苦手。敵を焼くのは得意。でも、傷口のまわりだけを温めるのは苦手。大火事は起こせる。でも、濡れた蝋燭の芯にだけ火を入れるのは難しい」


「細けえな」


「命を灯す火は、細かいんだよ」


 桜夜はたくあんを一切れ口に運んだ。


「それに、我が強ければいいというものでもない」


「違うのかよ」


「我が強いだけだと、ただの迷惑な人だよ」


「お前じゃねえか」


「ひどいな」


「自分で言ったんだろ」


「まあね」


 桜夜は笑った。


 ホムラは味噌汁を飲んだ。


 肉はない。

 だが、腹の奥が少しだけ温まった。


「じゃあ、オレは何をすればいいんだよ」


「まずは、火に自分の怒り以外のものを伝える」


「怒り以外」


「守りたい。怖い。触れたい。壊したくない。置いていかれたくない」


「……」


「そういうものを、怒鳴らずに火へ渡す」


 ホムラは、箸を握る手に力を込めた。


「それ、火の修行かよ」


「うん」


 桜夜は穏やかに言った。


「火の修行だよ」


 ホムラは黙った。


 火というのは、もっと単純なものだと思っていた。


 燃やす。

 焼く。

 払う。

 守る。


 けれど桜夜の火は、面倒くさかった。


 まるで感情みたいに。

 まるで愛みたいに。

 まるで、言葉にできないものを言葉にしろと迫ってくるみたいに。


「……やっぱり面倒くせえ」


「うん」


「でも」


 ホムラは、もう一度たくあんを噛んだ。


「肉よりは、ちょっと腹にたまる話だな」


 桜夜は一瞬きょとんとして、それから笑った。


「それはよかった」


 寺を出たのは、日が傾きはじめた頃だった。


 帰り道、ホムラはいつもより静かだった。


 桜夜は隣を歩きながら、空を見上げた。


 雲の縁が赤く燃えている。


「それで修行だけど」


「おう!」


 ホムラは、妙にやる気に満ちた顔で身を乗り出した。


「護摩行とかにしてみる?」


「なんだよ、それ」


「不動明王様の前で、ひたすらお経を読む。真言を唱える。火の前に座る。己の煩悩と向き合う」


「やだよ!」


 ホムラは即答した。


「なんでだよ!」


「座ってるだけとか無理だろ!」


「座ってるだけじゃないよ。祈るんだよ」


「もっと無理だろ!」


「真言も覚えられるよ」


「覚えねえよ!」


「ホムラちゃんなら似合うと思うんだけどな。不動明王様の前で、火に照らされながら真言を唱える美少女」


「び……っ、変な言い方すんな!」


「じゃあ、別のルートから行こうか」


 桜夜はあっさり言った。


「あん?」


「火の精霊王に会おう」


 ホムラは固まった。


 数秒、音が消えた。


 それから、ホムラは低い声で言った。


「おまえ、ふざけてんのか」


「本気だよ」


「会えるわけねえだろ! 精霊王だぞ!」


「うん」


「うん、じゃねえよ!」


 ホムラは思わず立ち上がった。


「火の精霊王ってのはな、そこらの火の精霊とは違うんだよ! 火そのものの王だぞ! 魔女が会いたいから会えるような相手じゃねえ!」


「それは魔女の常識?」


「そうだ!」


「常識を超えろって言わなかったっけ?」


「っ」


 ホムラの言葉が詰まった。


 桜夜は静かに笑っていた。


 からかっているようで、目は真面目だった。


「ホムラちゃん。君が目指す火は、魔女の常識の中にない」


「……」


「君のお母様の火は、たぶんとても強い。朱雀家の火も強い。不死身の魔女の血も、フェニキアの契約も、普通の術者から見れば反則みたいなものだ」


 桜夜は続けた。


「でも、ホノカグツチはその先にある」


 ホムラの喉が、小さく鳴った。


「何でも焼ける火に近づくなら、何を焼かないかを決めるだけじゃ足りない」


「じゃあ、何がいるんだよ」


「火そのものに、君を見てもらう」


 桜夜の声は穏やかだった。


「火に命令する術者ではなく、火に選ばれる者として」


 ホムラは、拳を握った。


「……そんなの」


「無理?」


「無理だろ」


「本当に?」


 桜夜は、軽く首を傾げた。


「ホムラちゃんは、火に好かれてるよ」


「それは、さっき聞いた」


「まっすぐだからね」


「それも聞いた」


「でも、まっすぐな火は、王の前では折れる」


 ホムラの目が鋭くなった。


「折れる?」


「うん。火の精霊王は、たぶん君を試す。燃やせるかじゃない。燃やさずにいられるかを」


「じゃあ、どうしろってんだよ」


「会いに行って、お願いする」


「またお願いかよ」


「うん」


 桜夜は笑った。


「命を灯す火を知りたい。燃やすためじゃなく、生かすために火を使いたい。だから、あなたに会いに来ましたって」


「……そんなことで会えるのかよ」


「会えるかは知らない」


「おい」


「でも、会いに行かないと会えない」


 ホムラは何も言えなかった。


 無茶苦茶だった。


 いつものことだ。

 桜夜の言うことは、大体どこか無茶苦茶だった。


 でも、その無茶苦茶の先に、本当に道があることをホムラはもう知っていた。


「……場所は」


 ホムラは低く聞いた。


「どこにいるんだよ、その火の精霊王ってやつは」


 桜夜は、少しだけ楽しそうに目を細めた。


「火山」


「帰る」


「早いなあ」


「帰るに決まってんだろ!」


「大丈夫。噴火口に飛び込めとは言わないよ」


「当たり前だ!」


「今回は、入口まで」


「入口?」


「火の精霊が集まる場所がある。火山の奥、地脈と火脈が重なるところ。昔、朱雀家も祈りを捧げた場所だ」


 ホムラは黙った。


「たぶん、君のお母様も知っている」


「……母さんが」


「うん」


 桜夜は、静かに言った。


「だから、これは君がお母様を超える修行でもある」


 ホムラの目が揺れた。


「超えるって」


「倒すって意味じゃないよ」


 桜夜は穏やかに首を振った。


「君のお母様が届いた火の先へ行く。君自身の火で」


 ホムラは、ゆっくりと息を吐いた。


 怖い。


 そう思った。


 火の精霊王。

 火山。

 母の火の先。


 どれも、軽く口にしていいものではなかった。


 それでも。


 桜夜は言った。


 君には君の火がある、と。


 燃やすだけではない火を学べる、と。


「……面倒くせえ」


「うん」


「危ねえだろ、それ」


「危ないね」


「死ぬかもしれねえだろ」


「だから、僕が一緒に行く」


 ホムラは、桜夜を見た。


 桜夜はいつものように、少し頼りなく笑っていた。


 けれど、その目は逃げていなかった。


「ホムラちゃんを、火に食べさせたりはしないよ」


「信用ならねえ」


「じゃあ、自分でも踏ん張って」


「言われなくても踏ん張るよ」


 ホムラは、乱暴に歩き出した。


「行くぞ」


「今日は行かないよ」


「あ?」


「準備がいる」


「なんだよ、それ」


「火に会う準備」


 桜夜は夕焼けの空を見た。


「それと、帰ってくる準備」


 ホムラは少しだけ黙った。


「帰ってくる準備なんて、いるのかよ」


「いるよ」


 桜夜は言った。


「火に会うより、火から帰ってくる方が難しいこともある」


 ホムラは、洞窟も火山もまだ見ていない。


 それでも、その言葉だけで少しだけわかった。


 これは、強くなるためだけの修行ではない。


 燃えるためではなく、戻るための修行だ。


 ホムラは、小さく舌打ちした。


「……なら、ちゃんと帰るぞ」


「うん」


「お前もだ」


 桜夜は少し驚いたように瞬きをした。


 それから、柔らかく笑った。


「うん。約束する」


 夕暮れの道に、二人の影が伸びていた。


 ホムラの胸の奥では、まだ名前のない火が燃えていた。


 怒りではない。

 恐怖でもない。

 照れでもない。


 たぶん、願いに近い火だった。


 燃やすためではなく。

 生き直すための火。


 その火はまだ小さかった。


 けれど、確かに消えなかった。


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