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第62話 記録しない日

 翌朝、リオはいつも通り完璧だった。


 朝食の時間。

 サイカの体調確認。

 桜夜の服薬。

 屋敷に届いた書簡の分類。

 玄武から回ってきた嫌味混じりの伝言の処理。

 ホムラが焦がしかけた鍋の救出。

 キイロが台所へ侵入しようとした経路の封鎖。


 すべて滞りなく終えたあと、リオは桜夜の前に立った。


「桜夜様」


「うん?」


「本日、わたくしとデートをしてください」


 桜夜は、湯呑みを持ったまま止まった。


 サイカがぱっと顔を上げる。

 ホムラが味噌汁を吹きかける。

 キイロが「ぴよ」と鳴く。


 桜夜はゆっくり瞬きした。


「……デート?」


「はい」


「誰と?」


「わたくしと」


「僕が?」


「はい」


「リオと?」


「はい」


「……今、僕は寝不足で聞き間違えたのかな」


「いいえ。発音は明瞭だったはずです」


「そうだね。明瞭だったね」


 桜夜は湯呑みを置いた。


「ええと」


「ご都合はいかがでしょうか」


「都合」


「本日の桜夜様の予定は、午前に服薬、午後に散歩、夕刻に休息となっております」


「それ、リオが組んだ予定だよね」


「はい」


「そこにデートを入れるの?」


「散歩の項目を拡張します」


「拡張」


「はい。デートへ」


 桜夜は額に手を当てた。


 あまりにも予想外だった。


 断る理由を探す前に、口が動いた。


「……うん。いいよ」


 リオの目が、ほんの少しだけ見開かれた。


「了承と記録いたしました」


「あ、待って。今のは」


「取り消しは受け付けません」


「仕事が早い」


 サイカが嬉しそうに笑った。


「リオちゃん、よかったね」


「ありがとうございます、サイカちゃん」


 ホムラは顔を赤くして叫んだ。


「お前ら、朝っぱらから何してんだよ!」


「意思表示です」


 リオは真面目に答えた。


「意思表示でデート申し込むやつがあるか!」


「一般的には、あるのでは?」


「知らねえよ!」


 サイカがにこにこしている。


「ホムラちゃんも誘えばいいのに」


「誰が!」


「では、ホムラちゃんの分は後日に」


「勝手に予定組むな!」


 キイロが胸を張った。


「ぴよ」


「お前も納得するな!」


 桜夜はそのやりとりを見て、少しだけ笑った。


 生き物の朝だった。


 少しうるさくて、少しあたたかい。


 まだ慣れない。


 けれど、悪くなかった。


 リオが用意したデート計画は、非常に精密だった。


 第一目的地、古書店。

 第二目的地、歴史的建造物。

 第三目的地、港の見える喫茶店。

 第四目的地、水辺の散策路。


 移動時間、休憩時間、服薬時間、食事内容、混雑回避経路、緊急時の離脱経路、近隣医療機関、四方院家の協力者の位置まで記されている。


 桜夜は紙面を見て、しばらく黙った。


「リオ」


「はい」


「これはデート?」


「はい」


「作戦行動じゃなくて?」


「安全なデートには作戦行動の要素が必要です」


「そうかな」


「はい」


「デートって、もっと雑でいいんじゃないかな」


「桜夜様」


「うん」


「わたくしは、雑なデートの実施経験がございません。というかデート自体がはじめてです」


「僕もデート自体の経験が怪しいから、偉そうなことは言えないんだけどね」


 リオの指が、予定表の端を少し強く押さえた。


「本日は、予定通りに進行できるよう努めます」


「うん」


 桜夜は微笑んだ。


「じゃあ、よろしくお願いします」


「はい」


 リオは一礼した。


 端末は持っていなかった。


 桜夜はそこに気づいた。


「リオ、端末は?」


「置いてきました」


「珍しいね」


「はい」


「記録しないの?」


「したいです」


「する?」


「しません」


「どうして?」


 リオは少しだけ視線を落とした。


「本日は、記録ではありませんので」


「じゃあ、何かな」


「デートです」


 桜夜は少し笑った。


「そっか」


「はい」


 横浜の街は、よく晴れていた。


 古い石造りの建物。

 坂道。

 硝子のビル。

 港の匂い。

 観光客の声。

 潮風。

 再開発された広場。

 裏通りの湿った暗がり。


 古いものと新しいものが、同じ街の中に混ざっている。


 光も影も、きれいなものも汚れたものも、横浜ではあまり分かれていない。

 ただ並んで、歩く者の視線次第で表情を変える。


 リオは目立った。


 それは、本人が望んでいるかどうかとは関係なかった。


 背筋の伸びた歩き方。

 白い肌。

 整った横顔。

 静かに揺れる髪。

 視線を受けても乱れない表情。


 モデルか、女優か。

 あるいは、どこかの古い家の令嬢か。


 そう思われているのが、桜夜にもわかった。


 リオは美しかった。


 サイカのように、柔らかく人を安心させる美しさではない。

 ホムラのように、燃えるように目を奪う美しさでもない。


 もっと冷たく、澄んでいて、近づけば深みに足を取られるような美しさだった。


 不死身の魔女の血。


 その魔性を、最も端正な形で受け継いでいるのは、たぶんリオなのだろう。


 桜夜は、その隣を歩いていた。


 堂々と。


 少なくとも、外からはそう見えたはずだ。


 背を丸めることも、距離を取ることもしない。

 リオの半歩横を歩き、歩幅を合わせ、車道側に自然に立つ。


 けれど、心の奥に、まったく思わないわけではなかった。


 もっと釣り合う男がいるだろうに。


 そういう考えは、どうしても残る。


 だが、それを口にするのは違った。


 リオは、記録者としてではなく、自分の願いとして桜夜を誘った。

 ならば、桜夜が勝手に卑屈になって逃げるのは、リオの願いを雑に扱うことになる。


 だから、隣を歩いた。


 逃げずに。


 その日、横浜の裏通りは異常に平和だった。


 客引きは声を潜め、違法賭場は昼から看板を下ろし、密売人は持ち場を捨てた。

 揉め事の火種になりそうな連中は、誰に言われるでもなく姿を消している。


「おい、今日どうなってんだ」


「知らねえのか」


「何を」


「水希が歩いてる」


 その一言で、男の顔色が変わった。


「水希って、あの」


「四方院の狂犬だよ」


「なんでだよ」


「知らねえよ。女連れてる」


「女?」


「青い髪の、えらい美人だ」


「任務か」


「デートに見える」


「デートで裏通り歩くやつがあるか!」


「水希だぞ」


「……あるか」


 短い沈黙が落ちた。


 その場にいた全員が、同じ結論に至った。


「今日は何もするな」


「何も?」


「息もするな」


「それは死ぬだろ」


「死ぬよりマシだ」


 横浜の裏の人間は、水希桜夜をよく知っている。


 利用価値があるうちは、滅ぼさない。

 役に立つなら、多少の汚れには目をつぶる。

 四方院家は清廉潔白な正義の味方ではない。


 だが、踏んではならない線がある。


 子ども。

 祈り。

 死者への冒涜。

 救いを餌にした搾取。

 そして、本人にも説明できない、いくつかの地雷。


 それを踏んだ組織は、消える。


 壊滅、ではない。


 消える。


 資金源も、拠点も、術式も、名簿も、後ろ盾も、逃げ道も。

 ある朝、すべてが燃え尽きたあとで、ようやく横浜の裏社会は知る。


 ああ、水希の機嫌を損ねたのだ、と。


 だからその日、横浜は平和だった。


 四方院家の狂犬が、縄張りを歩いている。


 しかも、笑っている。


 誰も、その笑顔の意味を確認したくなかった。


 その日、横浜のある交番では、若い巡査が首を傾げていた。


「今日、暇ですね」


 向かいの机で書類を整理していた先輩巡査は、手を止めなかった。


「いいことだろ」


「まあ、そうなんですけど。妙じゃないですか。休日で、人も多いのに。スリも、喧嘩も、客引きのトラブルも、通報がほとんどない」


「いいことだ」


「いや、いいことなんですけど」


 若い巡査は、窓の外を見た。


 観光客が歩いている。

 子どもが風船を持っている。

 老人がベンチで鳩を見ている。

 街は平和だった。


 平和すぎた。


「なんででしょう」


 先輩巡査は、ようやく顔を上げた。


 そして、遠い目をした。


「知らない方が幸せなこともある」


「え」


「今日は、そういう日だ」


「何か知ってるんですか」


「知らない」


「今の顔、絶対知ってる人の顔でしたよ」


「知らない」


 先輩巡査は書類に目を戻した。


「ただ、昔な」


「はい」


「パワーバランスという言葉を、いっさい考えない男がいた」


「はい?」


「いや、今もいる」


「いるんですか」


「いる」


 先輩巡査は、ひどく疲れた声で言った。


「そいつが横浜の裏の組織を壊す。追い出す。別の組織に吸収させる。後ろ盾を引っこ抜く。資金源を燃やす。人だけ残して看板を消す」


「え、事件じゃないですか」


「事件だ」


「逮捕は」


「できると思うか」


「誰なんですか、その人」


 先輩巡査は黙った。


 それから、交番の外を見た。


 ちょうど、通りの向こうを若い男と美しい女が歩いていくところだった。


 男は穏やかに笑っている。

 女は、きれいな横顔で予定表を見ている。


 先輩巡査は、目を逸らした。


「知らない方が幸せだ」


 若い巡査は、さらに首を傾げた。


「悪い人なんですか」


 若い巡査が尋ねた。


 先輩は少し考えた。


「悪人ではない」


「じゃあ、正義の味方ですか」


「それも違う」


「じゃあ何なんですか」


「災害に近い」


「災害」


「ただし、だいたい悪いところにだけ落ちる災害だ」


「いいことでは?」


「落ちた後の片づけをする側に回ってから言え」


 第一目的地の古書店は、臨時休業だった。


 リオは店先で固まった。


 木の扉には、手書きの紙が貼られている。


 本日臨時休業。


 リオは予定表を見た。


 店を見た。


 もう一度、予定表を見た。


「第一目的地が消失しました」


「休業だね」


「予定では、営業中のはずでした」


「予定にも限界があるんだね」


「再計算します」


「うん」


 リオは落ち着いていた。


 少なくとも、外見上は。


 第二目的地の歴史的建造物は、団体客でひどく混雑していた。


 リオは予定滞在時間を半分に短縮した。


 第三目的地の喫茶店では、予約確認に手違いがあり、席が取れていなかった。


 リオは再び固まった。


「申し訳ありません」


「うん?」


「本日の行程は、著しく失敗しております」


 桜夜は、少しだけ首を傾げた。


「そうかな」


「第一目的地は消失、第二目的地は滞在時間を短縮、第三目的地は利用不能です」


「消失って言い方、やっぱり物騒だね」


「事実ですので」


「歴史じゃなくて?」


「失敗記録です」


 リオは真面目な顔で言った。


 けれど、その声はわずかに沈んでいた。


 桜夜はそれを聞いて、少し困ったように笑った。


「リオ」


「はい」


「ちょっと待ってて」


「桜夜様?」


 リオが呼び止める前に、桜夜は雑踏の方へ歩いていった。


 長くはかからなかった。


 戻ってきた桜夜の手には、ソフトクリームが二つあった。


 白いクリームが、少し傾いている。


「はい」


 桜夜は片方をリオに差し出した。


 リオは受け取ったまま、瞬きした。


「これは」


「ソフトクリーム」


「それは存じております」


「うん」


「予定にはありません」


「そうだね」


「食事予定にも、休憩予定にも、摂取予定品目にも含まれておりません」


「含まれてないね」


 桜夜は自分のソフトクリームを見た。


「でも、溶けるよ」


 リオは、しばらくソフトクリームを見つめていた。


 それから、おそるおそる一口食べた。


 冷たい。


 甘い。


 少しだけ、指先が慌てる。


 桜夜はその様子を見て、微笑んだ。


「知ってる?」


「何をでしょうか」


「アイスクリームの日本初は、横浜なんだって」


 リオは顔を上げた。


「横浜が、ですか」


「うん。少なくとも、そういう話が残ってる」


 桜夜は通りの向こうを見た。


 古い石造りの建物の奥に、新しいガラスのビルが立っている。

 観光客の笑い声。

 車の音。

 潮の匂い。

 路地裏に残る、湿った暗がり。


 きれいなものと、汚れたもの。

 古いものと、新しいもの。

 光と影。


 それらが、同じ町の中で混ざっていた。


「ここには、色んな『はじめて』がある」


 桜夜は言った。


「予定通りのはじめてばかりじゃないだろうけど」


 リオは、手の中のソフトクリームを見つめた。


「……本日のデートは、失敗ではないのでしょうか」


「僕に聞く?」


「はい」


「僕、デート自体が初めてかもしれないよ」


 リオは目を丸くした。


「如月あずさ様とは」


「うん。出かけたよ。海にも行った。別荘にも行った。手もつないだ」


 桜夜は少し考えた。


「でも、あれはデートって言葉とは少し違うかな」


「なぜですか」


「デートって、次がある人たちの言葉みたいでしょ」


 リオは何も言えなかった。


 桜夜はソフトクリームを一口食べた。


「僕とあずさの時間は、祈りに近かった」


「祈り」


「うん。終わらないでくれっていう祈り」


 冷たい甘さが、少しだけ沈黙をやわらげた。


 リオは手の中のソフトクリームをもう一口食べた。


 予定にはなかった味だった。


 記録にも残さない味だった。


 けれど、消えない気がした。


「では」


 リオは静かに言った。


「本日は、デートです」


 桜夜がリオを見る。


「次を作るための、デートですので」


 桜夜は少し驚いたように目を細めた。


 それから、困ったように笑った。


「リオは、時々すごいことを言うね」


「記録いたしますか」


「今日は記録しないんじゃなかった?」


「はい」


 リオは、ほんの少しだけ笑った。


「では、覚えておきます」


 二人は、予定にはなかった道を歩いた。


 観光客で賑わう大通りから、少しだけ外れた路地。

 古い看板。

 閉じたシャッター。

 新しいビルのガラスに映る、古い街並み。


 桜夜の視線は、時折、自然に路地の奥へ動いた。


 屋上。

 監視カメラの死角。

 人の流れ。

 歩く速度。

 立ち止まる者の呼吸。


 デート中でも、身体が勝手に街を見ていた。


「桜夜様」


「うん?」


「今、デート中ですか。それとも巡回中ですか」


 桜夜は少しだけ目を逸らした。


「……デート中のつもり」


「視線が完全に巡回です」


「ごめん。癖で」


 リオは少し考えた。


「では、本日はわたくしも巡回対象に含めてください」


「リオを?」


「はい。見落とされると困りますので」


 桜夜は少し笑った。


「それは大変だ」


「大変なのですか」


「うん」


 桜夜はリオを見る。


「見落としたくないからね」


 リオは、少しだけ足を止めた。


「……桜夜様」


「うん?」


「その発言は、予定外です」


「今日、予定外ばかりだね」


「はい」


 リオは小さく息を吐いた。


「悪くありません」


 その時だった。


「ねえ」


 横から声がかかった。


 若い男だった。


 身なりは悪くない。

 軽薄だが、悪意があるというほどでもない。


 ただ、リオだけを見ていた。


「モデルさん? 撮影とか? よかったら――」


 リオは足を止めなかった。


 だが、桜夜は止まった。


 リオも、それに合わせて止まる。


 桜夜は男を見た。


 微笑んでいた。


「ごめんね」


 声は優しかった。


「僕たち、デート中なんだ」


 男は、一瞬きょとんとした。


 桜夜は笑顔のまま続けた。


「邪魔しないでくれるかな」


 静かな声だった。


 怒鳴ってはいない。

 脅してもいない。

 手も出していない。


 けれど、男の顔色が変わった。


 桜夜の目を見たからだ。


 その目には、街の午後も、ソフトクリームの甘さも、初めてのデートの浮つきもなかった。


 そこにあったのは、人の死を知っている目だった。


 人が壊れる瞬間を見た目。

 人を壊せることを知っている目。

 そして、今は壊さないと決めている目。


 男は一歩下がった。


「あ、すみません」


「うん」


 桜夜はにこりと笑った。


「ありがとう」


 男はそのまま人混みに消えた。


 遠くの路地の影で、複数の男たちが一斉に息を吐いた。


「助かった……」


「今日は機嫌がいい……」


「いや、あれは機嫌がいい顔じゃねえ」


「じゃあ何だよ」


「殺さないと決めてる顔だ」


「どっちでもいい。撤収だ」


 リオは、しばらく桜夜を見ていた。


「桜夜様」


「うん?」


「今の目は、デート向きではありません」


「そうかな」


「はい」


「ごめん」


「ですが」


 リオは少しだけ目を伏せた。


「悪くありませんでした」


 桜夜は瞬きした。


「悪くないんだ」


「はい」


「怖くなかった?」


「怖かったです」


 リオは正直に答えた。


「けれど、不快ではありません」


「難しいね」


「わたくしも、現在処理中です」


 桜夜は少し笑った。


「リオでも処理に困ることがあるんだ」


「本日は予定外の連続ですので」


「そっか」


 桜夜はまた歩き出した。


 リオも隣を歩く。


 今度は、ほんの少しだけ距離が近かった。


 夕暮れの港に、観覧車の灯りがともっていた。


 青。

 白。

 赤。

 緑。


 ゆっくりと回る光が、暮れていく横浜の空に浮かんでいる。


 リオはそれを見上げた。


「桜夜様」


「うん」


「あれは、予定には入れておりません」


「うん。そうだと思った」


「高所であり、密室であり、非常時の離脱経路が限定されます」


「デートの感想としては硬いね」


「事実ですので」


 桜夜は少し笑った。


「最後に乗る?」


 リオは瞬きした。


「観覧車に、ですか」


「うん」


「予定にはありません」


「今日、予定通りにいったことの方が少ないでしょ」


 リオは黙った。


 古書店は閉まっていた。

 喫茶店には入れなかった。

 道には迷った。

 ソフトクリームは予定外だった。

 横浜は異常に平和だった。


 そして、桜夜は一度もそれを失敗とは言わなかった。


「……そうですね」


 リオは小さく頷いた。


「では、乗ります」


 観覧車の中は、思ったより静かだった。


 扉が閉まり、ゴンドラがゆっくりと上がっていく。


 足もとから、街が少しずつ離れていった。


 昼間歩いた通り。

 閉まっていた古書店のあたり。

 混んでいた洋館の坂。

 ソフトクリームを食べた場所。

 裏通り。

 交番。

 港。


 横浜の古いものと新しいものが、夜の光の中で混ざっていた。


 きれいなものも、汚れたものも。

 表の街も、裏の街も。

 全部、同じ灯りの中にあった。


「桜夜様」


「うん」


「本日の横浜は、異常に平和でした」


「平和ならよかった」


「平和すぎました」


「そうかな」


「裏通りの客引きが消え、違法な露店も畳まれ、警察官の方々は安堵と諦観の混じった表情をされていました」


「よく見てるね」


「デート中ですので」


「デート中って、そういうものを見るんだっけ」


「わたくしの場合は、見ます」


「そっか」


 桜夜は少し笑った。


 リオは、じっと桜夜を見た。


「桜夜様が歩いていたからですね」


「……僕、そんなに怖いかな」


「はい」


「即答だね」


「横浜の平和に貢献しておられます」


「褒めてる?」


「半分は」


「もう半分は?」


「後始末をする方々への同情です」


 桜夜は目を逸らした。


「……若いころの話だよ」


「今もお若く見えます」


「そういう意味じゃなくて」


 リオは少しだけ微笑んだ。


「ですが、わたくしは本日、その方の隣を歩きました」


 桜夜は黙った。


「怖くなかった?」


「怖かったです」


「そっか」


「けれど、隣にいたかったです」


 桜夜は、しばらく言葉を探した。


 結局、何も上手いことは言えなかった。


「……ありがとう」


「はい」


 観覧車は、ゆっくりと頂点へ近づいていく。


 街の灯りが、二人の下に広がっていた。


「本日のデートは、予定通りには進みませんでした」


 リオは言った。


「古書店は閉店しており、喫茶店の予約にも失敗し、移動経路も修正を余儀なくされました」


「うん」


「途中、桜夜様はソフトクリームを購入されました」


「それも失敗記録?」


「いいえ」


 リオは窓の外を見た。


「それは、思い出です」


 桜夜はリオを見た。


 リオは、端末を持っていなかった。


 記録するための道具を、今日は屋敷に置いてきていた。


「本日の記録は、作成いたしません」


「いいの?」


「はい」


「歴史じゃないの?」


「歴史です」


「なら、残さなくていいの?」


 リオは少しだけ考えた。


 それから、自分の胸に手を当てた。


「残します」


「どこに?」


「わたくしの中に」


 桜夜は黙った。


「記録媒体としては、不完全です」


 リオは続けた。


「改竄も、欠落も、忘却も起こります」


「うん」


「けれど、本日はそれでよいと思いました」


 桜夜は、少し困ったように笑った。


「リオがそう言うなら、すごいことだね」


「はい」


 リオは頷いた。


「すごいことです」


 ゴンドラが、頂点に達した。


 港の向こうに、夜の海が見えた。


 リオは、そっと桜夜の手に触れた。


「桜夜様」


「うん」


「本日は、ありがとうございました」


「こちらこそ」


「次も、ありますか」


 桜夜は一瞬、言葉を失った。


 次。


 次がある人たちの言葉。


 昼間、自分でそう言った。


 如月あずさとの時間は、祈りだった。


 終わらないでくれと願う時間だった。


 でも、今。


 観覧車の中で、リオは次を尋ねている。


 明日も、明後日も、予定通りにはいかないだろう。

 失敗することもある。

 傷つけることもある。

 怖がらせることもある。

 逃げたくなることも、きっとある。


 それでも。


 桜夜は窓の外を見た。


 そして、ゆっくり頷いた。


「うん」


 声は小さかった。


「次も、あるよ」


 リオの指が、桜夜の手を少し強く握った。


「では」


 彼女は静かに微笑んだ。


「本日のデートは、成功です」


 観覧車は、ゆっくりと降り始めた。


 横浜の灯りが、少しずつ近づいてくる。


 記録しない日。


 それでも、消えない日。


 リオはその夜を、紙ではなく、自分の中に残すことにした。


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