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第61話 記録ではなく願い

 キイロは、朝からサイカのそばを離れなかった。


 食堂でも。


 廊下でも。


 庭に出ても。


 書斎の前を通っても。


 サイカが椅子に座ると、キイロはその足もとにちょこんと座り、丸い黒い目でサイカを見上げた。


「……キイロちゃん?」


 サイカが首を傾げる。


「今日はずっと一緒だね」


「ぴよ」


「うん。かわいい」


「ぴよ」


 会話になっているのか、なっていないのか。


 少なくともキイロは、何かを訴えているようだった。


 サイカが立ち上がると、キイロも立ち上がる。

 サイカが歩くと、キイロも歩く。

 サイカが少し足を止めると、キイロは慌てて戻り、また足もとに座る。


 その様子を、リオはしばらく黙って見ていた。


 ホムラは腕を組んで、眉をひそめる。


「なんだ、あいつ。サイカの護衛かよ」


「キイロちゃん、騎士になったのかも」


 サイカが笑う。


「騎士っていうより、ひよこだろ」


「ひよこの騎士、かわいいね」


「かわいいで全部通すな」


 ホムラが呆れたように言った。


 その時、キイロがサイカの前へ回り込んだ。


 そして、サイカの腹部に、そっと小さな頭を押しつけた。


「……キイロちゃん?」


「ぴよ」


 短い声だった。


 けれど、いつもの声とは少し違った。


 サイカは笑おうとして、止まった。


 リオの目が細くなる。


 ホムラも、冗談を飲み込んだ。


 キイロはもう一度、サイカのお腹に頭を寄せた。


「ぴよ」


 サイカは、自分のお腹に手を添えた。


 しばらく何も言わなかった。


 ただ、そこにあるはずのない温度を探すように、そっと手のひらを当てていた。


「……祈りが」


 サイカが小さく呟いた。


「いるの?」


 キイロは、返事をするように鳴いた。


「ぴよ」


 リオは、静かに息を呑んだ。


「サイカちゃん」


「うん」


 サイカは顔を上げた。


 まだ確信はない。

 けれど、何かを感じている顔だった。


 ホムラは困ったように頭をかく。


「おい、まさか」


「まだ、わからないよ」


 サイカはそう言った。


 でも、声が震えていた。


 嬉しさとも、不安ともつかない震えだった。


 その日の昼過ぎ、桜夜が書斎から出てきた。


 最近の桜夜は、以前より少しだけ食べるようになった。

 水も飲む。

 薬も、時々は自分から手を伸ばす。


 それだけで、屋敷の空気は少し変わっていた。


 けれど、桜夜はまだ完全に戻ってきたわけではない。


 どこか遠い場所を見ている時がある。

 ふとした瞬間に、音が消えたような顔をする。

 眠りも浅い。


 それでも、サイカが呼ぶと振り返る。


 キイロが見つめると薬を飲む。


 ホムラが怒ると、少しだけ笑う。


 リオが記録を読み上げると、嫌そうな顔をしながらも聞く。


 生き物に戻りかけている。


 まだ、途中だった。


「桜夜さん」


 サイカが呼ぶ。


 桜夜は足を止めた。


「うん?」


 サイカは少し迷った。


 それから、自分のお腹に手を添えた。


「たぶん、だけど」


 桜夜は、その手を見た。


 キイロがサイカの足もとで胸を張っている。


 リオは何も言わない。


 ホムラは視線を逸らしている。


 桜夜はしばらく黙った。


 空気が静かになる。


 サイカは、桜夜の反応を待った。


 驚くだろうか。

 困るだろうか。

 怖がるだろうか。


 責任を感じるだろうか。


 あるいは、自分のせいで、と思うだろうか。


 桜夜は、ゆっくりサイカの前まで歩いた。


 そして、膝をついた。


 サイカのお腹に手を伸ばしていいか迷うように、一度だけ指を止める。


「触れてもいい?」


「うん」


 サイカは頷いた。


 桜夜の手が、サイカのお腹に触れた。


 ほんのりとした、白金の火が灯る。


 燃やす火ではない。


 治す火でもない。


 祝福に近い、静かな火だった。


 鳳凰の火。


 けれど、その火はいつものように遠く高いものではなく、ひどく柔らかかった。


「無事に生まれておいで」


 桜夜は言った。


 声は静かだった。


「君が来たいなら、ちゃんと迎えるから」


 サイカの目に涙が浮かんだ。


「桜夜さん」


 桜夜は顔を上げた。


 少しだけ困ったように笑う。


「嬉しいんだ」


 自分でその言葉を言ってから、桜夜は少し驚いた顔をした。


「……そんな感情が、まだ僕の中にあったらしい」


 サイカは泣きながら笑った。


「あるよ」


「そうかな」


「あるよ。ずっと」


 キイロが大きく鳴いた。


「ぴよ」


 ホムラは鼻の頭をこすった。


「……なんだよ、これ」


「ホムラちゃん、泣いてる?」


「泣いてねえ」


「赤いよ」


「火のせいだ」


 リオは、そっと端末を取り出しかけた。


 けれど、サイカが首を横に振った。


「リオちゃん」


「はい」


「今日は、記録じゃなくて」


 サイカは言った。


「お祝いして」


 リオは端末を見た。


 それから、ゆっくり閉じた。


「承知いたしました」


 彼女は微笑んだ。


「記録は後ほど。今は、お祝いを優先いたします」


「結局、記録するんだ」


 ホムラが呟く。


「歴史ですので」


 リオはいつものように答えた。


 けれど、その声はいつもより柔らかかった。


 その夜、リオは図書室にいた。


 サイカの身体について調べるためだった。


 魔女の妊娠。


 フェニキアの血。


 鳳凰の火。


 P因子。


 水希桜夜という存在。


 相反するものが、どう結びつくのか。


 リオは棚から棚へと移動し、古い資料を開き、目録を照らし合わせた。


 四方院家の資料は膨大だった。


 神獣。

 魔女。

 血統。

 術式。

 妊娠と魔力反応。

 神性を帯びた身体の記録。


 どれも重要だった。


 だが、リオが探していたものは、それだけではなかった。


 桜夜様について、まだ知らないことがある。


 その感覚があった。


 サイカの中に宿った命は、桜夜の未来でもある。

 未来を記録するためには、過去を知らなければならない。


 そう考えるのは、リオにとって自然なことだった。


 図書室の奥、鍵のかかった古い書架があった。


 リオは管理台帳を確認する。


 そこには、簡素な文字でこう記されていた。


 水希明人私記。


 リオの指が止まった。


 明人。


 桜夜が先生と呼ぶ人。


 守りの剣を教えた人。


 置いていった人。


 リオはしばらくその背表紙を見つめていた。


 読むべきか。


 これは、桜夜様の私的な過去だ。


 しかし、ここにサイカちゃんと胎児の安全に関わる情報があるかもしれない。


 記録者として、読む理由はある。


 歴史として、読む意味もある。


 リオは鍵を開けた。


 革張りの古い日記を取り出す。


 表紙には、題名らしい題名はなかった。


 ただ、小さく。


 桜夜。


 そう記されていた。


 リオは椅子に座り、日記を開いた。


 達筆な日本語で、びっしりと文字が書かれていた。


 行は整っている。


 だが、文章は端正というより、どこか乱暴だった。


 読み進めるうちに、リオは気づいた。


 この文字には、愛情がある。


 美しい言葉ではない。

 甘い言葉でもない。

 むしろ、本人が読めば確実に嫌な顔をするような言葉ばかりだった。


 変なガキ。

 病弱。

 危うい。

 面倒。

 腹立たしい。


 それでも、ある。


 見ている。


 ずっと、見ている。


 拾った夜から、眠れない夜まで。

 飯を食べた量から、剣を握った指先まで。

 怯えた目から、好奇心の光まで。


 明人は、桜夜を見ていた。


 リオは、最初の頁を読んだ。


 夜桜のきれいな夜に、変なガキに出会った。


 戦時中でも見ないほど、ぼろぼろのなりをしている。

 靴は片方しかなく、服は泥と血で固まっていた。

 目だけが妙に醒めている。


 そのガキが、俺の落とした財布を返してきた。


 中身は確認しなかった。


 このガキは、中身だけ抜いて返すようなことはしない。

 なぜか、そう思った。


 理由はわからない。


 ただ、誰かに似ているような気がした。


 だから警察ではなく、自分の家に連れ帰った。


 もう妻もいない。

 息子夫婦もいない。

 広いだけの家だ。


 ガキが一人増えても、そう変わらない。


 リオは頁をめくった。


 次の頁には、名前のことが書かれていた。


 桜夜と名づけたあと、さて、これからどうするかを考えた。


 まず、こいつは病弱だった。


 すぐに風邪をひく。

 熱を出す。

 飯を食わない。

 眠りが浅い。

 小さな怪我の治りも悪い。


 拾った時のぼろぼろ具合を考えれば当然とも言えるが、それだけでは説明がつかない弱り方だった。


 昔の伝手で、四方院家のばあさんを頼った。


 宗主の妹で、教育者だった女だ。

 口は悪い。

 目はもっと悪い。

 だが、人を見る目だけは確かだった。


 ばあさんは桜夜を見るなり、すぐに入院させろと言った。


 医者を手配し、戸籍を調べ、親を探した。

 だが、何も出てこなかった。


 出生の記録もない。

 失踪届もない。

 親族らしい者もいない。


 あの夜桜の下に、突然落ちていたとでも言うしかない。


 ばあさんは、桜夜の目をじっと見て、こう言った。


「あの子の目の奥には、化け物がいる」


 俺は笑い飛ばした。


 化け物なら、俺もたくさん見てきた。

 戦場でも見た。

 神域でも見た。

 人の皮をかぶったものも、化け物の皮をかぶった人間も見た。


 だが、病弱なガキの姿をした化け物なんぞ、俺は知らん。


 そう言うと、ばあさんは怒らなかった。


 ただ、ひどく嫌な顔をした。


「化け物の余地があるからといって、処分する理由にはならない」


 ばあさんはそう言った。


「むしろ、名前と居場所が必要だ」


 それで、戸籍を作ることになった。


 最初、ばあさんは俺の養子にすると言った。


 だが、それはやめた。


 俺には確信があった。


 俺の命は、あと五年ほどだ。


 根拠はあるようでない。

 ないようである。


 そういう種類の確信だった。


 五年で親になって、五年で置いていくくらいなら、最初から別の形にした方がいい。


 結局、四方院家の分家の中でも絶家していた「水希」の氏を与えることで決着した。


 水希桜夜。


 そう書くと、少しだけ人間らしく見えた。


 リオは、そこで指を止めた。


 水希桜夜。


 その名は、最初から自然に存在していたものではなかった。


 与えられた名。

 与えられた氏。

 与えられた戸籍。


 けれど、偽物ではない。


 誰かが、この子には名前と居場所が必要だと決めた。


 誰かが、処分ではなく戸籍を選んだ。


 リオは胸の奥が静かに痛むのを感じた。


 さらに頁を進める。


 桜夜は、心も身体も弱かった。


 怖い夢を見る。

 音に怯える。

 人の顔色を読む。

 命令されれば従う。

 役に立てば、少し安心した顔をする。


 危ういガキだった。


 だが、俺は生涯で唯一の弟子をこいつに決めた。


 あと五年で教えられることは多くない。

 剣も、心も、生き方も、半端にしか渡せないだろう。


 それでも、こいつは好奇心の強い目をしている。


 知らないものを見ると、怯えながらも近づく。

 わからないことがあると、黙ったまま考えている。

 言葉にしないだけで、世界を見ている。


 なら、あとは自分で学ぶだろう。


 そう信じることにした。


 リオは、何度もその箇所を読んだ。


 命令されれば従う。

 役に立てば、少し安心した顔をする。


 今の桜夜と、何も変わっていない。


 変わっていないのだ。


 桜夜様は、ずっと。


 誰かの役に立つことで、自分がそこにいてよい理由を探していた。


 リオは唇を結んだ。


 頁をめくる。


 日記は飛び飛びになっていた。


 日々の些細なこと。

 剣の稽古。

 食事。

 発熱。

 眠れない夜。

 病院の記録。

 四方院家の者とのやりとり。


 その中に、如月あずさの名が出てきた。


 桜夜のやつが、ガキのくせに色恋をしているらしい。


 相手は病院で出会った、儚げな少女だという。


 やめておけ、と言いたくなった。


 そういう女に手を出して失敗したやつは、俺の知る限りいくらでもいる。

 あの人を含めて。


 儚いものは、人を狂わせる。


 散る花を美しいと思うのは勝手だ。

 だが、散る花を抱きしめようとすれば、手の中には何も残らない。


 そう言ってやろうかとも思った。


 だが、よくよく話を聞いてみると、その少女は桜夜を叱るらしい。

 ときには引っぱたくこともあるという。


 なるほど。


 ならば、悪くない。


 優しいだけの女では、このガキはだめになる。

 甘やかされれば、役に立とうとして無理をする。

 突き放されれば、勝手に消えようとする。


 叱る女がいい。

 引っぱたける女がいい。


 そういう女なら、このガキにちょうどいい。


 リオは目を閉じた。


 如月あずさ。


 桜夜の過去にいる少女。


 桜夜が忘れず、忘れられず、それでも今日を生きようとしている相手。


 リオは彼女を知らない。


 けれど、日記の中の明人は、その少女を認めていた。


 桜夜には、叱る人が必要だと。


 逃げようとした時に、腕を掴む人が必要だと。


 勝手に消えようとした時に、引っぱたける人が必要だと。


 リオは小さく息を吐いた。


 わたくしに、それができるでしょうか。


 記録することはできる。


 名前を残すこともできる。


 歴史として整えることもできる。


 けれど、桜夜様を叱れるでしょうか。


 桜夜様が消えようとした時、記録者ではなく、ひとりの女として手を伸ばせるでしょうか。


 リオは答えを出せなかった。


 それでも、頁をめくった。


 日記の終わりに近い頁だった。


 あと一週間。


 俺の肉体は止まる。


 妙な確信がある。


 医者に言われたわけではない。

 術で見たわけでもない。

 ただ、わかる。


 だから今日、桜夜を免許皆伝にした。


 教えきれたとは思わない。

 むしろ、教え残したことばかりだ。


 剣も、心も、世の中の汚さも、人の弱さも、置いていかれる痛みも。


 五年では、何もかも足りない。


 だが、あいつはもう俺の弟子ではない。


 そういうことにした。


 桜夜は、寄りにも寄って桜吹雪を欲しがった。


 正気か、と言いかけた。


 あれは病弱な身体で使いこなせる刀ではない。

 そもそも、使いこなしていい刀でもない。


 斬れるものが多すぎる。

 欲しがるものも多すぎる。


 桜夜のようなガキには、持たせたくない。


 だが、持たせてみると、なぜか様になっていた。


 腹立たしいほどに。


 刀の方が、あいつを見ていた。

 あいつの方も、刀を見ていた。


 俺はそれが気に入らなかった。


 だが、止められなかった。


 あいつには、いずれ自分の剣を選ばせなければならない。


 それが桜吹雪であったことを、俺は喜んでいいのか、悔やめばいいのか、まだ決められない。


 リオの指先が、紙の端を押さえたまま止まった。


 桜吹雪。


 あの刀。


 桜夜とともにあり、桜夜を守り、同時に桜夜を危うくするもの。


 明人は、最初から嫌な予感を抱いていた。


 それでも止めなかった。


 選ばせた。


 あるいは、選ばせるしかなかった。


 リオは次の頁をめくった。


 明日だな、と思った。


 桜夜に、何度目かわからない言葉を告げた。


「執着を捨てろ」


「いのちあるものは、自分で自分を救わなければならない」


 あのガキは、聞き飽きた顔をした。


 そして、少しだけ拗ねたように言った。


「もう弟子じゃないでしょ」


 俺は笑った。


 そうだ。


 もう弟子ではない。


 そういうことにしたのは、俺だ。


 だが、弟子でなくなったからといって、心配しなくなるわけではない。

 免許皆伝にしたからといって、あいつが一人で歩けると信じきれるわけでもない。


 あと一時間だな。


 そう気づいた。


 不思議と恐怖はなかった。


 ただ、少しだけ思った。


 弟子の行く末を見たかった。


 あいつがどんな剣を振るうのか。

 どんな人間に叱られるのか。

 誰を守り、誰に守られるのか。

 どこで笑い、どこで泣くのか。


 見たかった。


 そう思うのは、執着か。

 未練か。


 それとも――


 そこで日記は終わっていた。


 リオは、しばらく動けなかった。


 それとも。


 その先に何を書こうとしたのか。


 明人は書かなかった。


 書けなかったのかもしれない。


 あるいは、書く前に肉体が止まったのかもしれない。


 リオは、静かに日記を閉じた。


「……愛情です」


 小さな声だった。


 誰に聞かせるでもない。


「執着でも、未練でもあるのでしょう」


 リオは閉じた日記に手を置いた。


「けれど、それだけではありません」


 桜夜様。


 あなたは、愛されていた。


 置いていかれた。

 託された。

 傷つけられた。

 未完のまま残された。


 それでも、愛されていた。


 リオは椅子から立ち上がった。


 図書室の窓の外には、夜の庭が広がっていた。


 キイロがどこかで鳴いた気がした。


 遠くの部屋には、サイカがいる。

 その中には、まだ名もない小さな命がいる。


 桜夜は、たぶん今も自分の存在を役目に置き換えようとしている。


 サイカのため。

 子どものため。

 四方院のため。

 あずさのため。

 誰かのため。


 でも、明人の日記は教えていた。


 役目では足りない。


 名前と居場所が必要だ。


 帰る場所が必要だ。


 リオは日記を棚へ戻そうとして、手を止めた。


 これは、桜夜が捨てたかったものかもしれない。


 愛情の記録。

 執着の記録。

 置いていかれた記録。


 けれど、捨てられなかったもの。


「歴史ですので」


 リオは呟いた。


 いつもの言葉だった。


 けれど、その後に、もう一つ言葉が続いた。


「いいえ」


 彼女は、静かに首を横に振る。


「願いですので」


 翌日。


 桜夜は縁側に座っていた。


 サイカは少し休んでいる。


 キイロはその枕元で見張りをしているらしい。


 ホムラは台所で何かを焦がしかけ、屋敷の者に止められていた。


 庭には、まだ春の匂いが残っている。


 桜夜は煙管を持っていたが、火は入っていなかった。


 ただ、手癖のように持っているだけだった。


「桜夜様」


 リオが声をかける。


 桜夜は振り返った。


「うん?」


 リオは隣に座らなかった。


 少し離れた位置に立ったまま、姿勢を正す。


「ご報告があります」


「仕事?」


「いいえ」


「じゃあ、何かな」


「サイカちゃんの懐妊に伴い、屋敷内の生活環境には今後変化が生じるものと思われます」


 桜夜は瞬きした。


「うん」


「特に、サイカちゃんの身体的負担を考慮した場合、桜夜様との夜間接触には一定の制限が必要になる可能性があります」


「リオ」


「はい」


「報告の方向が変じゃないかな」


「続けます」


「続けるんだ」


 リオは真面目な顔のままだった。


「一方で、直近の観察記録において、桜夜様の生命維持行動、すなわち食事、水分摂取、服薬、睡眠に、継続的な身体的接触および情緒的接続が有効であることは明らかです」


「怖いな」


「したがって、サイカちゃんに過度な負担をかけず、桜夜様の精神安定を維持するための代替手段の検討が必要です」


 桜夜は嫌な予感がした。


「リオ、代替手段って何かな」


「わたくしです」


 桜夜は黙った。


 風が吹いた。


 庭の葉が揺れる。


 遠くでホムラが「焦げてねえ!」と叫んでいる声がした。


 桜夜は額に手を当てた。


「リオ」


「はい」


「それは記録のため?」


 リオはすぐには答えなかった。


 その沈黙で、桜夜は少しだけ表情を変えた。


 リオは視線を落とす。


「記録のためでもあります」


「でも、だけじゃない?」


「はい」


 リオは顔を上げた。


「桜夜様の血は、もっと後世に残すべきです」


「うん」


「桜夜様が生きた証は、記録だけでなく、未来にも残るべきです」


「うん」


「しかし」


 リオはそこで言葉を切った。


 指先がわずかに震えていた。


 桜夜は、その震えを見た。


 リオは深く息を吸った。


「それだけではありません」


 彼女は言った。


「わたくしは、記録者として桜夜様のそばにいたいのだと思っていました」


 桜夜は黙って聞いている。


「桜夜様の言葉を残し、行動を残し、歴史を残す。それがわたくしの役目だと」


「うん」


「でも、それだけでは足りません」


 リオの声は、静かだった。


 けれど、逃げていなかった。


「わたくしは、桜夜様の未来を外側から記録したいのではありません」


 桜夜の手が止まる。


「その未来の中に、わたくしもいたいです」


 リオは一歩近づいた。


「わたくしも、桜夜様に触れたいです」


 桜夜は、何も言わなかった。


 驚いているようでもあり、困っているようでもあった。


 少しだけ、怯えているようにも見えた。


 リオはその表情を見て、胸が痛んだ。


 明人の日記の言葉がよみがえる。


 命令されれば従う。

 役に立てば、少し安心した顔をする。


 だから、リオは命令しなかった。


 理由だけを並べて、逃げ場をなくすこともしなかった。


「これは提案ではありません」


 リオは言った。


「命令でもありません」


「じゃあ、何かな」


 桜夜の声は、少し掠れていた。


 リオは答えた。


「お願いです」


 桜夜は、ゆっくり目を伏せた。


「お願い」


「はい」


「リオの?」


「はい」


 リオは微笑んだ。


 いつもの端正な秘書の笑みではなかった。


 少し不器用で、少し怖がっていて、それでもまっすぐな笑みだった。


「わたくしの願いです」


 桜夜はしばらく黙っていた。


 それから、煙管をそっと横に置いた。


「リオ」


「はい」


「僕は、たぶん上手く返せないよ」


「存じております」


「傷つけるかもしれない」


「可能性は記録済みです」


「利用するかもしれない」


「その場合は抗議します」


「逃げるかもしれない」


「追います」


 桜夜は、少しだけ笑った。


「強いね」


「いいえ」


 リオは首を横に振った。


「怖いです」


 その言葉は、リオにしては珍しく、飾りがなかった。


「とても怖いです」


「うん」


「ですが、怖いから記録だけに留まる、という選択は」


 リオは胸に手を当てた。


「今は、したくありません」


 桜夜はリオを見た。


 長い沈黙。


 それから、桜夜は右手を差し出した。


 リオはその手を見つめた。


「まずは、手からでいいかな」


 桜夜が言った。


「はい」


 リオは、その手を取った。


 桜夜の手は、少し冷たかった。


 けれど、生きていた。


 リオはその温度を、記録しなかった。


 ただ、覚えた。


 庭の向こうで、キイロが鳴いた。


「ぴよ」


 まるで、それでよいと言うように。


 サイカの中には、小さな祈りが宿っている。


 明人の日記には、書かれなかった言葉が残っている。


 リオの手には、桜夜の体温がある。


 記録は残すものだ。


 歴史は伝えるものだ。


 けれど、願いは。


 願いは、そこから一歩、未来へ踏み込むものだった。

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